学園と黒の騎士団において向けられた数日間の観察の視線は、正直に言って決して居心地の良いものではなかった。あの視線を向けてくる者がカレン以外ならば耐えられない、と二日目にC.C.に零した所で、外見だけは愛くるしいと言えなくもない魔女は、ほとほと呆れた顔で呟いた。お前はつまり、自分の持つ感情にさえ疎いのか坊やめ、と。その時は反発したものだが、鮮烈な青い瞳に射抜かれるように見つめられている現在、あの言葉の意味を思い知らざるを得ない。
普通ならば何かしらの感情を乗せて向けられるべき視線は、ひどく透明な意思としてルルーシュを見つめていた。そこにあるのが常にあるぼんやりとした警戒や嫌悪感ではなく、崇拝に似たまっすぐな意思と好意である時点で、彼女がなにを確信してしまったのかを告げていた。再びの疑問のきっかけを何処で作ってしまったのかは分からなかったが、学園と黒の騎士団で同一の観察をされていたということはつまりそういうことで、今回は最初から、カレンは見極めようとしていたのだった。
己が敬愛するゼロと、複雑な感情を抱いているルルーシュ。その二人が同一であるのか。イコールで結びつけることが正しいのか否か。そしてカレンは答えを出してしまった。その答えはまだ少女の口から零れない。だからこそルルーシュは否定することが出来ない。早朝の生徒会室には二人の姿しかなかった。当たり前だろう。まだ時計は朝の六時を過ぎたばかりで、ルルーシュは愛する妹との朝食を犠牲にしてまで仮眠をとるべく、一足先に登校したのだから。昨夜の黒の騎士団の活動は、実に日付変更線の数時間後にまで及んだ。事後処理の全てがゼロの手を離れて場を離れることが出来るようになる頃には、すでにうっすらと世界は明るくなっていた。
本当なら休みたいルルーシュが学園に出て来たのは、今日に限ってミレイがどうしても、と出席を望んでいたからだ。またどうせろくでもないことでも考え付いたに違いない。欠席して妙なことを押し付けられるくらいなら、無理にでも出席して己の希望を盛り込ませた方が良い。後の精神的ダメージ、その他諸々のことを鑑みても。だからこそたった一時間前にゼロからルルーシュへと戻り、学生服に袖を通して朝靄の晴れぬ道を辿って生徒会室へ来たというのに。そのたった一時間前、ゼロの仮面越しにおやすみなさいを告げた少女が、ぴんと跳ねた髪を撫でつけた制服姿で生徒会室の扉を背に立っている。
彼女が現れたのは、ルルーシュが生徒会室に辿りついて幾許もない頃だった。座り心地の良いソファに横になるつもりで歩み寄ろうとして、まだそこに辿りついていないうちだから本当に数秒しか違わなかっただろう。すう、と息を吸い込んだのがどちらなのか、ルルーシュには思い出せない。けれども生徒会室の扉を閉め、まっすぐに向けられたカレンの瞳が一時間前と全く変わっていなかったことは、鮮明に覚えていた。二人はぎこちなく向き合ったまま言葉を交わさず、視線を重ね合わせていた。カチ、と時計の針が進む音が聞こえて、ルルーシュはやけに他人事のように、一分が経過したことを知る。一分の沈黙は永遠のように長く、それでいて苦しいものではなかった。
「……おやすみなさいと、言った筈です」
ルルーシュの目の前に立っているのは『カレン・シュタットフェルト』である筈だった。それなのにカレンは紅月としてゼロにかけた言葉を話し、それが通じるのをひたすらに信じた不安顔で、きゅぅと唇を噛み締めている。さて、どうすればいいだろう。長時間酷使し続けた脳はすでに動きを鈍くしていて、イレギュラーなこの事態を上手く切り抜ける言いわけを吐き出させてはくれなかった。カレンは答えが返ってくることなど、期待していなかったのだろう。
きゅぅと無言で眉を寄せた後、ゆっくりとルルーシュに向かって歩み寄ってくる。一歩、二歩、三歩。四歩目を踏み出して、カレンは立ち止まった。ルルーシュの真正面。駆け引きには向かない立ち位置で。困ったように、苦しいように、悲しむように。申し訳なさそうな目で、ルルーシュを見ていた。
「お疲れでしょう、眠ってください。私はこれから学園に行かなくてはいけませんので、再びお会いするのは、きっと、今日の夜か深夜のことになると思いますが、お呼びとあらばすぐお傍に参ります。それでは、おやすみなさい、と。……言ったら、君も無理はするなと、騎士団のエース、君に倒れられては困るのだと。そんなに心配そうな顔をしなくても休むさ、おやすみ、と。言ってくださったのに、どうして……どうして今ここにいらっしゃるのですか」
ゼロ、と。紡がれた決定的な言葉は、しかし声という形を保ち切ることもなく、しんと冷えた朝の空気にかき消えてしまった。申し訳なさそうな顔つきでカレンはそれを告げ、あとはルルーシュの目をじっと見つめて答えを待っている。逃げてもいい、と言っていた。誤魔化しても良い、嘘をついても構わない。けれどもう私は決めてしまった。そうだ、と確信して、貴方が『あなた』であることを決めてしまった。だからどんな答えであっても私の意思決定は覆らないのだけれど、それでも、それに対する対処は別に好きにして良い。貴方の意思に従います。そう告げて、ただ言い渡される時を待っていた。
それが数日間の観察の答えなのだろう。ルルーシュは心底溜息をつきたくなった。これはもう間違いない。カレンは怒っている。欺かれていたことではなく、誤魔化されていたことではなく。ただ、休むと言った口約束を反故にされたことに関して、ひたすらに怒っている。その上で、その怒りを叩きつけることと、この形で正体を暴いたことに対しては罪を問われても構わないと告げている。恋慕われていることを知る。それは通常、男女間に発生する甘やかなものではなく、ひたすらに純粋な愛に近い。
同時に、それは敬意だった。忠誠だった。まことの主を見つけた騎士の顔をして、カレンはそこに立っていた。いや、とルルーシュは思う。己の思考を否定する。騎士とするのはもしかして、彼女に対して侮辱になりはしないだろうかと。それはあくまでブリタニアの文化であり、日本のそれに当てはめるとするなら、カレンのそれは忠誠であり忠義であり、主君の傍にひたすらあろうとする忠臣であり、剣そのものであった。彼女は確かにひとかどの剣であった。それを取りあげ、鋭く砥いだ者があったとしたら、それこそが『ゼロ』に他ならなかった。
己を研ぎ澄ませた者に対する恩としては度が過ぎていたが、それでも決して、恩義だけではないことをルルーシュは知っていた。溜息をつきたくなる。心の底から、全身全霊で息を吐きたくなる。どうして俺なんだ、と問いかけたいが、それはあくまで一番最後だった。思考が定まらない。疲れていてそして、混乱しているからだった。カレンはまだ答えを待っている。諦めることはないのだろう。ただの推測のみで吐きだされた言葉なら、否定するのはあまりに容易だ。話すつもりがなく、明かすつもりもないのだから、否定こそが取るべき正しい手段だった。それなのに、推測だけで告げたのではないのだ。
カレンは本当によく、観察していた。己の感情や情報を出来る限界まで抑え込んで、あたかもカメラのレンズのように冷静で第三者的な視線でルルーシュとゼロをそれぞれに眺め倒して、たとえば言葉の些細な発音の癖や仕草の一つ一つを拾い上げ、ゼロとルルーシュを比較し、見比べて、そして辿りついたのだから、これはすでに推測ではなく結論なのだった。その結論を導き出すきっかけが、己の猜疑心や好奇心を満たす為であったならどれ程良かっただろう。それならば結論でも無理矢理に、ひっくり返して見せたのに。ルルーシュが見出し、ゼロが拾い上げて研ぎあげたひとかどの剣は、たった一人の為のつるぎは、あくまで己が忠誠を捧げる主を守る為だけにそうしたのだ。
二重生活の辛さや負担は、カレン自身が一番よく知っている。黒の騎士団の活動が活発になってきて、未だ成長途中の体に、それも体力のない心身にどれ程負担がかかっているかなど、想像するよりも明確に、カレンは知っていた。だからこそ、かすかな疑惑がもし本当だった時の為に。その為だけにカレンはルルーシュを観察して、ゼロとイコールで結びつけてしまった。溜息をつきたい。どうすればいいのか分からなくて、ルルーシュは額に指先を押し当てる。とんとん、と額を弾いて脳に動けと命令しながら、思い返すのはなぜか幼い頃の記憶だった。
皇族には騎士がつく。己の命運を託すような気持ちで選び出し、命じる専任騎士。選ぶのは確かに皇族だが、けれどルルーシュ、忘れてはいけないよ。幼いルルーシュを膝に抱き上げ、告げたのが誰だったかすら今はもう思い出せない。それでも言葉は鮮明に、不意に、胸の中に落ちてくるのだ。私たちもまた、選ばれるのだ。たった一人の騎士。己が命運を託す者を。ルルーシュは深々と溜息をついて視線を持ち上げ、黙りこんでいるカレンを見つめる。その青い瞳はまっすぐにルルーシュを見つめていて、それは全くゼロに対するものと同じもので。それを、ゼロが仮面越しにそうするように見つめ返して、ルルーシュはゆるく腕組みをして首を傾げた。
「休もうと思ったんだ」
「……今、ここで?」
言葉が返ってくるまでの若干のためらいは、ルルーシュの言葉が肯定か否定か、拒絶か誤魔化しかの判断が付けられなかったからなのだろう。向けられた言葉もどこか怖々としたもので、口調こそ素のそれに近いが、響きはどちらかと言えば黒の騎士団でゼロに向けられるそれだった。くす、と肩を震わせてルルーシュは笑う。
「そう。今、ここで。……だから、君との約束を反故にするつもりはなかったさ、カレン」
はっ、と息を飲んで、カレンがルルーシュを見つめる。信じられないとばかりまるく見開かれた瞳は、言葉そのものではなく、受け入れたことに対するものなのだろう。かなしい決意をしてきたに違いない。ルルーシュも本当ならそうするつもりだった。そうするのが最善だと知っていた。それでも、本当に、本当に受け入れないつもりなら。数日前、観察の視線を向けられ始めた時に、そう言えばすむだけの話だったのだ。ルルーシュはゆるく苦笑を浮かべ、腕組みをといてカレンに手を差し伸べる。
「カレン」
差し出された手を見つめて、カレンはますます信じられないような様子で目を見開いた。そうしながら細く息を吸い込み、カレンはついに、その名を呼ぶ。
「……ゼロ?」
「ああ。お呼びとあらばすぐお傍に参ります、と言ったのは君だろう? カレン」
なら、今来ないのは君の方が約束破りにならないか、と肩を震わせて笑いながらの囁きに、はきとした肯定を含み。告げたルルーシュとの数歩の距離を、カレンは即座にゼロにした。差し出された手に触れず跪かれたのには正直面白くない気もしたが、手を伸ばして頬に触れれば瞬く間に顔が赤らんだので、ルルーシュは寛大な心でそれを許してやった。触れるのも恥ずかしいのだろう、恐らく。指先ですうと頬を撫でてから手を離せば、小動物のようにびくりと体を震わせて視線を重ねてくる。ここまであからさまに、全身全霊で好意を告げられれば、いかに鈍いと呆れられようとルルーシュにも分かる。分かるのだ。分かったか、魔女め。伝わらない無意味な自慢を響かせて、ルルーシュはカレンに苦笑する。
「カレン、立ってくれないか。早朝と言っても、誰か来るかも知れない」
「あ、はい! そうですね。分かりました。……あの」
どうしてそんなに笑ってるんですか、と至極恥ずかしそうな表情を口元に手を当てながら眺め、ルルーシュはゆるりと目を細めた。
「いや、口調がそのままではすぐに怪しまれるだろうな、と。……努力してもらうしかないな。出来るだろう?」
「う……分かりまし、分かったわよ。頑張る。それより、ねえ、眠らないの?」
「眠るさ。眠い。言っただろ? 休もうと思ったんだ」
言われた瞬間、体が眠気を思い出してしまう。ふぁ、と殺しきれなかったあくびがもれるのを見て、カレンはやけに真剣な表情でこくりと頷いた。分かりました、じゃあ、と言って身を翻されるのに手を伸ばし、ルルーシュは溜息をつく。誰が出て行けと言ったんだ。ゼロの時は確かにそうした記憶があるが、それは顔を見られては困るからで、今はその必要などないというのに。手首を掴まれたカレンは、きょとん、とした顔で振り返る。戸惑って首を傾げるのを見る分に、扉の前で番をするつもりだったのだろう。やはり何度かゼロの私室の前で、廊下にしゃがみ込んで警備にあたっていたのを知っているだけに想像は容易かった。ああ、でも彼女は頑固なのだ。とても。どう説得しようと思いながら、ルルーシュはゆるく首を振る。
「見張りはいらない。カレンも休め」
「……でも」
「ここは学園だ。そう警戒しなければいけない場所じゃない。それに、君は病弱設定だから、なにかあったら俺が動くのが妥当だろう。……カレン」
その設定を葬り去る時がやってきたとしか思えない、という悲痛な表情で落ち込んだカレンに手を伸ばし、ルルーシュは少女の髪を撫でてやった。するりと指を逃れて行く髪は心地いい手触りで何時までも触れて居たくなるが、カレンは身をよじって恥ずかしげにルルーシュの手から逃れる。これは後で色々と言い聞かせなければいけないだろう。そう思いながら、ルルーシュは掴んだカレンの手首を引いて、寝るつもりだったソファに歩み寄って行く。気がついたのだろう。無言で腕を引くのを振り返って、ルルーシュはす、と紫の瞳を細めて見せた。
「カレン」
「……う、うぅ。あの、じゃあ保健室に」
「嫌だ、遠い。……なにも一緒に横になろうというんじゃない。抵抗感があるなら、肩を貸してくれればそれでいい」
それ以外の譲歩はしない、ときっぱり言い放ったルルーシュに、カレンはこれ以上の抵抗は睡眠時間を無くすだけだと諦めたのだろう。はあ、と溜息をついて素直に頷き、カレンはソファに腰かけた。どうぞ、とばかり背を伸ばされるのに笑いをこらえながら、ルルーシュはカレンの隣に腰かけ、体を傾けて頭を預けてしまう。緊張しきった気配がするが、かまわず目を閉じる。
「……眠れそう?」
「ああ。……カレン」
「はい?」
呼び声に、そっと手を伸ばす気配があって。少女の指が、怖々とルルーシュの髪に触れてくる。眠りを誘うように、ゆるむ意識をあやすように撫でる手指は、同年代の少女と比べて柔らかなものではないのだろう。カレンはその手で紅蓮を操り、その指で多くの引き金を引く。ぼんやりと目を開けて、ルルーシュはカレンを見た。
「おやすみ」
「……はい。おやすみなさい、ルルーシュ……ふぁっ!」
奇声が上がったのは、片手をルルーシュの手が捕らえて握り締めたからだろう。抜きにくいように指を絡めて繋いだので、これで意識が落ちてもカレンが傍から居なくなることは無い。唇を笑みに緩めてあくびをし、ルルーシュは心地良いまどろみに意識を委ねた。カレンがなにか慌てているのは聞こえていたが、対応するのは起きてからで十分だろう。これからのことを、話しあうのも。ふあ、ともう一度あくびをすれば、優しい手がそっと頭を撫でてくる。きっとその指まで赤いだろう。くすりと笑って、ルルーシュは意識を手放した。