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 青空の果てのはて

 その言葉を告げられた瞬間の心に広がった衝撃は、なにものにも例えられるものではなく、どの感情にあてはまるものでもなかった。信じられなかったし、信じたいことではなかった。イワンは息を吸い込む。清涼な空気は肺の奥までまっすぐに届き、混乱する思考が落ちつく手助けをしてくれた。鼻の奥がつんと痛む。意識がようやくひとつの所に定まって、散り散りになった記憶がおぼろげな輪郭を形づくった。その瞬間、明確な恐怖が目の前をまっくろに塗りつぶし、イワンの全身を一度、大きくぶるりと震わせていく。
「……今、なんて、言いましたか」
 ああ、僕は馬鹿だ、とイワンは思う。なんて恐怖に立ち向かおうとしているのだろう。それは本当に怖いことで、そして恐ろしいことだった。一度聞いたきりでは、とても意味が理解できないくらい。黒くぽかりと空いた底が見えない穴の中へ、突き飛ばされ落ちてしまうくらいに。怖い、怖いことだった。それなのに、どうしてくちびるがそれを尋ねてしまうのか、意味が分からない。キースは、混乱するイワンをじっと見つめていた。青色の瞳。よく晴れた天空の、透き通るばかりの空気がまっすぐにつきぬけた先、音も風もなにもかもが眠りにつくような高い、高い場所にある、青そのものを宿した瞳。恋を宿し、愛を囁きながら、イワンのことを映しだしている瞳。視線を反らさず、重ね合わせて。ゆっくりと、言い聞かせるように。愛を囁くように、あるいは、懺悔するように。罪を告白するよう、キースは言った。
「飛べなくなってしまったんだ……」
 他になにも言葉を見つけられなかったが故に、途切れてしまった不自然な沈黙に語尾が掠れて、消えて行く。ゆらり、ゆらりと惑う風のような言葉が落とされるのに、けれどキースの周囲で空気が揺らめくことはない。不自然なくらい、大気が沈黙している。それは、ぞっとするほどの恐怖だった。風は制御を失っているのではない。制御そのものを拒んでいるかのよう、支配の指先を逃れ、あるがまま、自然のままでそこにあるだけなのだ。
「……キースさん」
 息を吸い込んで。なんとか、呼吸をして。イワンは腕を持ち上げ、指先をキースへ伸ばした。頬に触れ、親しく体温を分け合いながら、再び視線を重ね瞳を覗き込む。柔らかく笑みながら見つめ返す色彩の奥に、隠しきれない怯えの影がこびり付いていた。
「キースさん」
 もう一度、名を呼んでも。ほっと愛おしさに緩む瞳から影が消えることはなく、風が揺れることもない。NEXT能力が消えた訳ではなく、ただ風を動かすことができなくなったのだと、告げられた日。シュテルンビルトから、風が消えた。大気はただ穏やかに震えるばかりで、流れて行くことを忘れ。スカイハイは、ヒーローTVから姿を消した。



 兆候はなかったという。パトロールに出発しようとして能力を発動したら、青白く光るばかりで風が動かず、うんともすんとも言わなかったことでようやく異変に気がついたのだ、とキースは言った。慌てていたのは、周囲の技術者たちだったと告げられて、イワンはそうでしょうともと溜息をついた。ヒーロー事業部に所属する者は、ほぼ例外なく、自社のヒーローをとても愛している。愛し方は様々であるので、イワンのヘリペリデスファイナンスとキースのポセイドンラインではその毛色がやや異なるが、それにしても想像するのは容易いことだった。他のヒーローでも同じく、簡単に思い浮かべることができただろう。彼らはさっと青ざめ、キースの腕をとり、言葉に迷いながらも口を開き、こう告げたに違いない。大丈夫です、なんとかしますから、と。あやふやな言葉に魂すらかけて、己のなにもかもを捧げて構わないという決意すら込めて、その一言を告げたことだろう。
 キースがその後、ヒーローTVを休業してこうしてイワンと休暇を過ごしているのは、彼の所属がポセイドンラインだからで、彼のヒーロー事業部の愛し方が身守りであり、百パーセントに近い完成したものをスカイハイに与えたがるからだ。彼らは実験段階であるとか、試作品であるといったものを、決してヒーローに差し出さない。万にひとつの間違いがあってはならないから、大切に丁寧に慎重に厳選して、美しく強靭に完璧に整えたそれをスカイハイのてのひらに恭しく捧げ渡すのだ。それが完成するまで、彼らは王を遠くから身守り守護するばかりで、その身をどこかへ閉じ込めたりしない。ヘリペリデスファイナンスとは大違いである。もし、もしもイワンの能力が発動できないなんていう事態に襲われたら、未来はひとつだ。元に戻るまで掴まって、外に出してもらえないに違いない。イワンの技術者たちはちょっと過保護で極端で、見守ることを知りながら、傍でつきっきりで守りたがる。それでいて試作品をぽいぽい手渡して具合を確かめてもらいたがるし、実験や検査がとてもとてつもなく大好きで頻繁にやりたがるのだ。数値データはあくまで参考としながらも、チェックして解析して分析して、理解して把握しておかなければ気が済まないのだろう。ヒーロー事業部の性質の違いもあるが、もしかしたら単にヒーロー本人の人柄によるものかもしれないという可能性から目を反らして、イワンはのんびりとソファに腰かけるキースを、落ちついた気持ちで見つめた。
 二人がいるのは、キースの自宅である。窓からはゴールドステージのきらびやかな風景が見え、遠くにはジャスティスタワーの女神像も確認できる。そのまま地図上にまっすぐ線を引いて行けば、ポセイドンラインの社屋に辿りつくという位置にキースの家はあった。一軒家ではない。高層マンションの、最上階の一部屋である。いかにも高そうな作りの、高そうな位置にある立派な建物と部屋に、イワンがキースに似合わないと感想を抱いたのは、そこを購入した理由を聞くまでのことだった。空に近く、風に近く、そしてヒーローの出動コールが鳴ったら、街を見渡しながらまっすぐに会社へ行ける場所。ジョンの為には庭付きの一軒家が良いのは分かっていたんだけれどね、と苦笑するキースがここを購入したのがそう昔のことではないと発言から分かっても、イワンはその理由を聞くことはしなかった。ヒーローは大体の場合、デビューから少し経過した頃、住処を変えている。ひとつの所に留まっているのはバーナビーや、実家暮らしのカリーナのような例外がすることで、イワンにも移動の覚えがあったからだ。そしてそれは、良い想い出ではない。あの頃よりはすこし、NEXTに対する偏見は街から消えている。耐えがたく、悲しい気持ちで立ち去らなければいけないことは、きっと、もう無いだろう。
 ヒーローは確かに市民の希望となり、NEXTの希望となり、彼らをそっと救い上げている。その立場を離れた一市民としての、イワンやキース、名もなきNEXTを精神的に救うヒーローという存在は、偶像めいていて信仰めいていて、それでいて純粋な祈りにすら似ている。イワンはヒーローである。けれどイワンの手を離れたヒーロー、折紙サイクロンは、間接的に己を救う力にもなるのだ。だからこそ、時々イワンは分からなくなる。ヒーローとは、なんなのか。それは確かに己であり、折紙サイクロンという存在なのだけれど、こうしてイワンの手や意識を離れた所でその存在を感じ取るたび、それはなにか独立した生き物のようにも思える。物語や神話によって描かれる、文字や絵の情報的な、人々の想像によって生み出される存在のようにも感じ取ることがあるのだった。そしてそれは、折紙サイクロンより、スカイハイの方が頻度としては高いだろう。彼はKOHであり、かつてその地位は不動であり、誰より相応しく君臨する正義の使者として、長くシュテルンビルトに存在し続けた。誰もが憧れと尊敬を持って、その名を口にした。
 すこしだけ昔のことだ。今のKOHはバーナビーである。彼は名前と顔を公表したヒーローであるからこそ、ヒーローという存在を物語や神話めいた情報の世界から現実へと引き戻し、それでいて憧れやうつくしい想いのなにをも穢すことなく壊すことなく、上手く調和させ馴染ませている。スカイハイが作り上げた人の夢と憧れ、物語を、バーナビーが現実と理想の中へと還したのだ。それはきっと、ヒーローのこれからの為に必要だったことだ。彼らは偶像ではなく、そして神聖なものではない。憧れを背負うひとで、一個人として存在しているものだと、人々がようやく認識してくれたからだ。スカイハイがジェイク・マルチネスに敗北し、吊るされた衝撃は、バーナビーが解き放った物語によってゆるやかに消化された。彼らは神話ではない。叩き壊され、穢され、砕かれたのは彼らの作りあげた空想そのものであって、現実世界のそれではない。終わりのある物語ではないからこそ、停止した希望は何度でも息を吹き返し、甦り、輝き続ける。
 キースがそれを理解したのは、恐らく市民よりずっと後だろう。彼は高潔に、スカイハイであり続けようとした。痛む体を無視してさえ、飛ぼうとしたのがその証拠だ。市民の抱く夢物語、理想のとおりにスカイハイはあろうとして、けれど最近ようやく、その形が今までとはすこし違うことに気がついて。戸惑いながら、ぎこちなく考え込みながらも、今度こそ己のものとして手の中にスカイハイを取り戻し、キースは飛ぼうとしていたのに。
「キースさん」
 深く息を吐き出しながら呼びかけると、キースはゆるく目を細めて愛しげに微笑み、イワンに向かって首を傾げてみせた。ソファに座りこむ膝の上に、ジョンが甘えて頭を乗っけている。その、ジョンの視線も一緒になってイワンを見つめて不思議がったので、なんの為にか苦笑が浮かんでしまった。次の一言が、ためらわれる。
「じつは、自分で飛べない理由、分かってるんでしょう」
 それでも一呼吸、間を置いただけで言い切ったイワンに、キースはうーん、と首を反対方向に傾げた。その仕草は穏やかで、全く、ちっとも、これっぽっちも動揺していない。今朝方、目玉焼きに火が通って半熟じゃなくなっちゃいました、と告げた時の方が、よっぽど慌ただしく分かりやすく心を揺らしてみせたのに。キースは基本的に、ひとを謀らない。その心根はまっすぐで、きよらかで、あけすけなものだ。だからこそイワンはとうとう理解してしまって、思わずその場にしゃがみこむ。今すぐポセイドンラインに電話を入れて、悩む技術者たちに打ち明けてこいと怒鳴りつけたくなるのをぐっと堪え、息も絶え絶えになりながら視線を持ち上げる。キースは困って悲しげな風に、イワンのことを見ていた。雨に打たれた捨て犬のようだ。真剣にやめてほしい。
「怒らないんで」
「うん」
「教えてください。理由。……怒らないんで」
 どちらかといえば己に言い聞かせる為に二回告げた言葉に、キースは不安げにうん、と頷いてみせた。イワンに怒られるかもしれない、という不安ではない。キースはそういう風にひとを疑う性格をしていないからだ。彼の中にある不安は、言葉にすることによって自己認識を深めてしまうことにのみ存在している。不安は、能力によって揺れる風の不在を確認してしまうことに対する恐怖だった。キースは、それを怖がっている。誰より誇り高く美しく風と語り合うひとが、それが出来なくなったことを、悲しむより先に怖がっている。ただびとのように。風を手の中に呼びこみ口付けられなくなったことを、ひたすらに、彼は怖がっている。
「……君が」
「はい。僕が?」
「愛しいから、と言ったら……怒るかい?」
 イワンは、怒らない。ただし、深く静かに絶望はするだろう。それが紛れもない真実で、事実であったのなら。額に指先を添えて息を吸い込み、イワンは気持ちを落ち着かせてそれが理由ですか、と問いかけた。いっさいの誤魔化しも、嘘も、なにもかもを許さない平坦な声で。睨みつける眼差しで向けられた言葉に、キースは苦笑しながら胸に手をあて、宣言するように囁く。
「この心に君への愛が満ちて重たくなったから、きっと飛べなくなったのだと……言ったら、信じる?」
「……そうですね」
 ふと遠い目をして微笑み、イワンはこくりと頷いた。
「愛で天使を地上に落とした責任を取って、切腹したいと思います。先立つ不幸をお許しください」
「せっぷく? ……キス?」
「接吻じゃないです、切腹です。キスじゃないです、キスはしないんです。……もの欲しげな目で見ないでください。僕は今ちょっと落ち込んで反省してるんですから」
 僕の反省が終わるまでキスはおあずけです、と追い払うように手を振りながら溜息をつけば、キースはお預けをくらった犬のように、きゅぅんと喉を鳴らしてさびしげに俯いた。明らかにしょんぼりしている。可愛いから本当に止めて欲しい。反省し終わるまであんまり甘やかしたくないんだけどなぁ、と思いつつ、イワンはキースに歩み寄り、その頭にぽんとてのひらで触れてやった。
「ねえ、キースさん」
「なんだい? キスしてくれる気に?」
「なってません。まだです、まだ。そうじゃなくて……そうじゃなくて、それで本当に僕のせいなんですか?」
 イエスと答えられたなら、とりあえずキッチンに走って包丁を手にしよう。ちょうどいい大きさの包丁か、ナイフあったかなぁ、とのんびり物騒な思考を巡らせるイワンに、『キスがしたいんだけどまだかな? そしてまだかな?』とわくわく待っている視線を向けつつ、キースはゆるく苦笑してみせた。手首を掴まれ、穏やかに引き寄せられる。なんとなく、危ないと思ったらしい。
「イワンくんのせい、ではないよ。私のせいだ」
「……僕が愛しいから、って言ったでしょう?」
「君が愛しいのは私だよ、イワンくん。君を想うのは私だ。キスして欲しくて、触れていたくて、傍にいたくて。君のことを想うとドキドキする。君が好きだと思うだけで、世界の色が鮮やかになる。空の青さが愛おしいと、朝の清涼な風が美しいと思う。見慣れた景色が素晴らしいものに感じて、なにもかもが塗り替えられていく。君という存在が私をすっかり変えてしまった。……キスしてくれる気になった?」
 囁くうち、キッチンに走って行きたがって抵抗していたイワンがぐったりと胸にもたれかかってきたので、キースはもう片方の手で恋人の髪を梳きながら、そっと響く声で尋ねかけてみた。どこか恨めしげな表情で、イワンが視線を持ち上げる。
「キスしたいなら、すればいいじゃないですか」
「うん。したいんだけど、して欲しいんだよ」
「……もー」
 諦め加減に息を吐きだし、イワンのてのひらがキースの頬を包みこむ。そっと啄むように、くちびるは与えられた。口唇に触れ、鼻先に押しあてられ、瞼の上を舐めるように擦り、額に熱を落として行く。くすぐったい愛おしさにキースが笑えば、動かないでください、と甘く咎める囁きが耳に触れて、すぐ離れて行く。
「まったく。……はい、おしまいです」
「ありがとう。……おかえしは?」
「今はいいです、また後で。……で? 結局やっぱり僕のせいなんですか? 僕のせいじゃないんですか?」
 イワンにキスしたがって懐いてくるキースの顔を手で押しやりながら、イワンは溜息をつきつつ問いかけた。幸せが逃げてしまうよ、と怒られたのでキースさんの所に行くのなら別にいいですと言い返し、イワンはするりと恋人の腕の中から抜け出した。くっついていると嬉しいばかりで、会話を進めてくれない相手だと知っている。隣に腰かければ二人分の体重を受けたソファがきしみ、キースはなんとなく嬉しげに笑みを深めた。
「君のせい、ではないよ」
「僕への愛でも?」
「君への愛でも。……いとしい、というのは、こんなに胸に満ちる感覚だったんだね」
 はじめて知ったよ、と楽しげに目を細めるキースの表情を横合いから見つめ、イワンは後悔していますか、と喉元まで出かけた台詞を飲みこんだ。怒られる気がしたからだ。代わりにそっと息を吐き出せば、キースが困ったようにイワンを見てくる。
「溜息ばかりだね。……悩ませているのかな」
「悩み、というか。ただの自己嫌悪です」
「どうして?」
 純粋に、無垢なまでに、キースには自己嫌悪という感情がないのだろう。それは悩みであったり困惑であったりするだけで、己という存在そのものを忌み嫌う感情は、キースには縁遠いものなのだ。微笑みすらして問いかけてくるキースに分かち合えない複雑さで息を吐きながら、イワンはふるりと頭を振った。視線を持ち上げ、キースを伺うようにしながら唇を開く。
「僕の、僕への……気持ちが」
「うん」
「あなたを地上に繋ぎとめたことを、心から……絶望しますが、でも、やっぱり嬉しくて。自己嫌悪、です」
 怖気の走るような恋だと思う。どうしようもなく利己的な感情だと思う。このひとの背から飛び立つ羽根をもいでおいて、そのことを申し訳ないと思うのに、悲しいとも感じているのに、身ぶるいする程の喜びが湧きあがってくる。気持ち悪いくらい、嬉しいことだった。
「飛べなくて、あなたが苦しんでいることも、ちゃんと知ってるのに……嬉しい」
「イワンくん」
「嬉しくて、でも……でも、やっぱり、還してあげたいです。あなたを空に、風の中に……」
 複雑で、ぐちゃぐちゃで、絡み合って、解けもしない感情が自分でも読み解けない。嬉しくて悲しいし、困っているのに落ちついて、自己嫌悪と憐憫がひどく近いところに置かれている。それら全てがイワンの気持ちで、それら全てがまっすぐな想いだった。あなたを、とイワンはキースを見つめながら囁き、そっと手を伸ばして頬に触れる。涙のあとすらない、乾いた肌を指で撫でた。
「飛ばしてあげたいと思う。空から帰ってくる場所になりたいと思う、のが……僕のあなたへの、恋です」
「……うん」
 暗闇にひとつ、灯ったあかりがくゆるように。じわりと広がる喜びのまま、キースはイワンに微笑んだ。溜息が、こぼれていく。あまりに満ち足りた響きの、それ。
「傍にいてくれるのは嬉しいことです。でも……落としたかったわけじゃない」
「うん、そうだね。私が勝手にしたことだ」
「……あなたの愛が」
 ゆっくり、考えながら紡がれるイワンの言葉は、キースに向けたものでありながらも、深く己の内面を探りながら拾い上げてくるものだった。それは誰に向けた言葉でもなく、事実確認であり、無意識の愛の告白だった。ゆらり、焦点を定めないイワンの瞳はそれでもキースに向けられて、湖面のように感情を映しだしながら、ただ、愛しさを反射した。
「僕に向けられている、のは……とても嬉しいです」
「うん」
 イワンくん、とあまり響かない声でそっと名を呼び、キースは頬をなぞるように撫でてくれる恋人の指先に、甘えるように首を傾けた。
「……独占したいわけじゃないんです」
「私を?」
「そう、です。……この街と、人々と。風や光や、希望や、形にできないもの。あなたを支えるヒーロー事業部や、CEO、仲間たちと……会えなかった彼女を、大事に想って、大切に愛してくれているあなたが好きです」
 ゆるく、強く、穏やかに、けれど激しく。風が吹き、流れるとしたらそれはイワンからだった。ようやく答えを導き出し、焦点を結んだ瞳はまっすぐにキースを見つめていて、その瞳の奥、その心の底まで貫くようにして届き、覗き込みながら言葉を届けてくれる。言葉は、想いだった。想いこそが、愛だった。その愛は光に満ちていた。木漏れ日のように。眩く輝きながら、意識を包み込んでくれる温かさに満ちていた。
「どうか、僕だけを大事に想わないでください。……うぬぼれかも知れないけど……キースさん。いいんですよ。大丈夫。愛するものはね、たくさんでいいんです」
 生きることを、楽しくしてくれる。息をすることを、ほんのすこし楽にしてくれる。行きたいと思う方向を、同じように目指しながら歩いてくれる。そうしてくれる相手が、笑いながらキースに言葉をくれた。
「愛してください、キースさん。僕のことを。僕だけじゃなくて、もっともっと、たくさんの……街や、人や、景色や、音や、形のあるものも、形のないものも。希望や、祈りや、願いのように。深く、広く……あいして」
「……イワンくん」
「その中で、僕の手に……戻ってきてくれたら、僕はきっと、世界で一番幸せになれます」
 僕はね、と笑いながらイワンは言った。
「きっと、あなたの愛より……戻る場所に。安らいで、目を閉じて、眠るようなものになりたいんです」
「……困ったな」
 抱き寄せるために伸ばした両腕は拒まれず、キースの腕の中にイワンの体を運び込んだ。ぎゅ、と抱きしめながら目を閉じ、キースは心の底から真剣に言った。
「君を、とても愛している。そう思うよ」
「……困ることですか?」
「愛じゃない方がいいんだろう?」
 やや拗ねた風にも響く言葉に、イワンはくすくすと笑い、羽根のような口付けをくれた。触れて、触れて、離れて行くばかりのくちびる。追いかけて重ねれば、イワンは愛でもいいんですよ、と乱れて行く呼吸の合間に囁いた。愛でもいいんです。あなたの胸に満ちるそれが、僕だけのものでなければ、それでも。全部がイワンに対するものでなければいやだ、と独占欲を見せつけられた方がまだ楽であるような要求に、キースは思わず苦く笑い、君は、とあかく色づく耳に囁く。
「わがままだね、イワンくん」
「すこしは嫌いになりました?」
「まさか。愛おしくなるばかりだよ」
 願わくばもうすこし、恋人の可愛らしいワガママのようなことも、言ってくれると嬉しいのだけれど。どうかな、と笑いながら問いかければイワンはにっこりと笑みを深め、それでいて凪いだ声で諦めてくださいね、と言ったので。キースはふてくされ気味に、イワンの無防備な首筋に唇を落とした。



 ゆるく、ゆるく、朝焼けの世界の空気が動いている。それは風と呼ぶには穏やか過ぎて、雲を運ぶこともせず、梢を揺らしも、花を抱きもしない流れだった。キースが能力を上手く発動できなくなってから、シュテルンビルトにはずっと、風が吹いていない。けれどもそれは、今日で終わりだろう。ひんやりとした朝焼けの空気を全身に受けながら、イワンは危なげのない態度で屋上のへりに立つキースのことを見つめた。何度もそこから飛び立ち、空へと向かったことがあるのだろう。キースの視線はまっすぐに彼方へと向けられていて、目に映らない筈のポセイドンの社屋を、しっかりと捉えているように思わせた。キースさん、とイワンは彼の名を口にする。ん、と返事をして向けられた瞳の位置が、顎をあげて見上げなければいけないくらい、高い所にあった。それはキースがへりの、一段高くなった部分に足を置いているからなのだが、これから距離がぐっと遠くなることを、イワンは信じて疑わない。手を伸ばして、キースを招く。そっと体を傾けてくれたキースに、背伸びをして腕を回して。その背を優しく、撫でてやった。目を閉じる。
「キースさん」
「……うん」
「大丈夫。あなたは飛べますよ。……行ってらっしゃい」
 指先で、ジャケットの上から背をなぞる。肩甲骨。翼のなごり。人の身には無くなってしまった羽根が、確かにそこから生えているのだとするように。ジャケットから指先を離して、そっと、そっと空に線を描く。腕を広げてキースに満面の笑みを送れば、瞳が愛おしげにイワンを見つめ、ほぅ、と息を吐きだした。
「……イワンくん」
「はい、キースさん」
「愛してる」
 とん、と地を離れる足音は軽やかに。キースの全身が青白く発光する。風はすぐキースの意思に応え、彼の体を瞬く間に空へと持ち上げた。風の、キースの愛を伝える大気の流れは歓喜に満ちて、シュテルンビルトに音を響かせる。梢を揺らす風のてのひら。路傍の花をひとひら舞いあげ、祝福のように踊らせて行く。ざぁ、と音を立て、シュテルンビルトに風がよみがえって行く。目を閉じて風を感じ、イワンは嬉しく、息を吐きだした。目を開いて、空を見上げる。眩しい太陽の光に目を細めながら、イワンはまっすぐ、天に向かって手を差し伸べた。その指先が、すぐに繋がれることを。そのことこそを。恋と呼び、愛しいと。イワンは思う。

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