天から見下ろした光景が、目の奥にまだこびり付いている。ビルに爆弾を仕掛けたと声明が出されて一時間もしないうちに、ヒーローたちは全員が現場に集合していた。夕暮れから夜に切り替わる黄昏時。街を一瞬の紅に染め上げる夕陽が細く長く線を引く中で、救出と爆弾の処理は行われた。犯人は複数のグループで半数はすでに逃走しており、半分がビルの中に立て篭もって起爆の瞬間を待つ緊迫を、スカイハイは空から見つめていた。
ヒーローに下された指示は二つ。ビルに取り残された人質の救出と、犯人の確保。最も優先すべき爆弾の処理が命令に加わらなかったのは、ご丁寧に声明と共に出された爆弾の設置場所とその個数があるからだった。八十を数えた所で時間の無駄と切り捨てたアニエスは警察と司法局に連絡を取り、作戦を練った上でビルの持ち主に相談し、ビルのそのものの運命を投げ捨てた。爆発の瞬間と共に崩落するであろうビルを上空から見つめていたのは、天空の近くがスカイハイの待機場所だからであり、どうしようもなく捨てられていく無機物を記憶にとどめ置きたかったからに他ならなかった。
逃走した犯人を追ってロックバイソンがブルーローズとドラゴンキッドを連れて現場から離れて行ったのは、ビルに潜む犯人の命が消えてしまう瞬間から幼い少女らを守ろうとしたのかも知れなかった。どちらにせよ爆発が起こった瞬間、被害を最小限にする為に施行される作戦において、彼らのNEXT能力はさしたる助力になりはしないのだ。スカイハイは風を巻き上げ、ファイヤーエンブレムが引き起こされる爆発に火の能力を同調連鎖させることで、限りなく被害を低くする。
スカイハイは天で、ファイヤーエンブレムは地で、集中力を高め待機しているようにと命じられていた。ワイルドタイガーとバーナビー、そして折紙サイクロンがビルの中に突入し、迫る刻限と戦いながら人質を救出しては外に誘導し、犯人を確保しては窓からぽんぽんと外に放り投げていた。時間短縮の為、犯人は下で待機している警察のトランポリンによって確保されるという寸法だ。時々、風を動かして犯人を優しくトランポリンに着地させては、スカイハイの元にアニエスからの叱責が飛ぶ。集中していなさい、大丈夫だから警察を信頼して、と繰り返される言葉は聞き分けのないこどもを叱りつける姉のような響きで、男の口元を複雑な笑みに緩ませる。
世界の色彩が変わって行く。それを空の近くで一番鮮明に、最も早くスカイハイは感じ取る。暴力的な紅は銅から藍を従え、星明かりを散りばめるように覗かせながら黒の紗幕が引かれて行く。空の彼方から彼方へ。夜が訪れようとしている。カチ、と時計の針の音。表示された時計が爆発の刻限まで五分を切った所で、ワイルドタイガー、バーナビー、折紙サイクロンへ脱出命令が下された。一時間とすこしに及ぶ突入作戦において人質は全て救出され、犯人も全て窓からトランポリンに投げ落とされた。
未だ彼らがビルの中に残っているのは、すこしでも爆発を和らげるため、バーナビーが警察の爆弾処理班と一緒に解体作業にいそしんでいたせいだった。爆弾処理班は一足先に撤収を始めており、今はビルの出口からばらばらと安全区域まで走っている所だ。五分で全員が安全区域まで無事到達できるかは、すこしばかりの祈りが必要かも知れない。スカイハイは通信越しに響いて来たバーナビーの悔しげな舌打ちと、それを宥めるワイルドタイガーの穏やかな声に僅かな日常をかえりみた気持ちで微笑した。
あれで責任感のある彼のことだ。本当なら爆弾を全て処理して待機のかいがありませんでしたね、と言いたい気持ちだったのだろう。あと四分の一だったのに、と悔しげに吐き捨てるバーナビーの言葉が正しければ、一カ所に集められたそれらが起爆したとて当初よりずっと被害は抑えられる。いいから後は任せて帰っておいでなさいな、と誘うようにファイヤーエンブレムが笑った所でデジタル時計が残り一分を告げる。やれやれと吐息のように諦めが告げられ、二人の姿がビルの中ほどから現れる。
ワイルドタイガーとバーナビーはまるで初めからそうすると決めていた仕草で窓枠を蹴り、その身を空へと躍らせた。二人のスーツは能力の発動を示し、夜の中で眩く発光している。二人がほぼ同時に着地し、手招くファイヤーエンブレムの元へ駆け寄ろうとするのを遠目に眺め、ふとスカイハイは胸に巣食う悪寒に気が付き、息を吸い込む。折紙サイクロンの姿が見えない。声も、通信越しには聞こえなかった。たったそれだけの事実。数を減らして行く時計に合わせて冷静に風を圧縮させ巻き上げながら、スカイハイの目は忙しく彼の姿を探した。群衆に紛れているのだろうか。あるいは、なにかに擬態しているのか。見切れのポイントを探して移動しているのであれば良いのだけれど。
残り時間が十秒を切った所で、バーナビーがワイルドタイガーの制止を振り切ってビルへ駆け戻ろうとする。風を天の高く高くへ導きゆるく巻きあげながら、薄暗い世界の中まっすぐに、スカイハイは負傷した爆弾処理班を背負ってかけてくる折紙サイクロンの姿を見つけ出した。ああ、駄目だ。安全圏までは間に合わない。意識が冷静に判断を下した瞬間、ついに爆発の刻限が訪れる。ビルそのものを上下に貫くような震動を肌で感じるより一瞬早く、スカイハイは気合の声と共に風を強く空へと押し上げた。
ファイヤーエンブレムの炎が火薬を巻き込み操り、スカイハイの風に託すようにして沈静化させていく。息も出来ないであろう豪風の中、伸ばされたバーナビーの手に、折紙サイクロンは意識を失った爆弾処理班の青年を突き飛ばすようにして託した。先輩っ、と悲痛に響いた声が聞こえてすぐ、折紙サイクロンの体が風に煽られて宙に浮く。そのちいさな体に、天から見下ろせばあまりにちいさな体に、風から逃れた鉄骨がまっすぐに落ちて行く。その光景がスカイハイの目に焼きつき、記憶を白く侵食した。
折紙サイクロンは間一髪で鉄筋から逃れたらしいと聞いて、キースは労う言葉を受け取るのもそこそこに、ヘリペリデスファイナンスのトランスポーターへ急いだ。ヒーロースーツを脱ぐのももどかしく、姿はヘルメット部分を取っただけである。私服に着替えてから移動すべきだったかと冷静な言葉が頭をかすめたが、周囲一キロは避難勧告が出されていた筈で、事件が一応の終わりを見せたとはいえ安全性が確認されていない今、誰かに顔を見られる心配もなかった。各社のトランスポーターが道々に留まり、サポート部隊の特殊車両がずらりと並ぶ姿は街灯に眩く照らし出された中で壮観の一言に尽きた。
技術者たちが忙しく動き回っているのは、役目を終えたヒーロースーツのメンテナンスの為だろう。普段ならば敬意を持って見つめる白衣の技術者たちを一瞥するだけで慌ただしく通り過ぎ、キースはヘリペリデスファイナンスのトランスポーターの外部扉を拳で叩いた。普段ならスカイハイ、もしくはキースを見ると追い返そうとする役員や技術者たちは忙しいのか場を離れていて、嵐の到着に気が付いた様子もない。
言葉もなく、がつりと拳が三度目の衝撃音を響かせた時、ロックの外れる音がして外部扉が滑るように横に開いた。照明の黄色がかった光に照らされ、すでに私服に着替えたイワンがそこに立っていた。ようこそ、とも、どうぞ、とも言わず、イワンはスーツを脱いでも居ないキースの姿を一瞥すると、深々と溜息をついて腕を伸ばして来る。伸ばされた指先の白さに目を奪われながら、キースはなすがまま、トランスポーターの中へ引っ張り込まれた。青年の大柄な体が扉をくぐってしまうと、イワンはすぐに奥へと身を翻し、歩いて行ってしまう。
その背は話しかけられることを拒絶していたが、さりとて追い払う気もなさそうだった。キースは無言で扉を閉め、ポセイドンラインのそれと大体同じ作りになっているトランスポーターの中を歩んで行く。外部扉から繋がる短い廊下を歩めば、すぐ内扉に辿りつき、そこを開けば解放感溢れる空間に大きなソファと机、テレビモニターが置かれている。小型の冷蔵庫や簡易キッチンも奥に見えるので、やはりほぼ同じ作りであるらしかった。思わず観察の視線を走らせてしまうキースに、部屋の中央に佇んでいたイワンが、出迎えの時よりは幾分か緩んだ視線で訪ねてくる。
「……キースさん?」
やや迷うような呼吸の間があったのは、スカイハイと呼ぶべきか悩んだからだろう。静まった空間に響く声は普段のものより幾分か鋭く、怒りや呆れを滲ませて男の耳を打って行った。なんだい、と尋ねる代わり、キースはまっすぐにイワンの顔を見る。視線を合わせてからゆるりと視線を下げていき、やがてイワンの足元に吸い寄せられるように止まった。タンクトップに藤色のジャケットをはおり、下はトレーニング用の半ズボンを履いている他には普段通りの姿に見えるが、足元が素足のままだった。これから治療の予定があったのかも知れない。
右の脚の甲に一筋、赤い線が痛々しく刻まれていた。かすかに血の匂いが漂う理由を、キースは納得と共に受け止める。逃れた、とは聞いていたが、怪我をしていないと知らされた訳ではない。ふ、と息を吐き出して、キースは無言でイワンに歩み寄った。ぎくりと何事にか緊張する体に声をかけてやることもせず、風の力すら使ってその体を柔らかく抱きあげる。ぼすん、と音を立ててソファに背中から落とせば、さすかに怒りまじりの視線がキースを射抜いた。
「なにするんです!」
「イワンくん」
「どうせ怒りに来たんでしょう。邪魔をしてって、作戦の……! もっと僕が早く逃げられていれば、今回は被害もなかった筈……っ」
後ろ向きな感情の爆発を押し留めたのは、まっすぐに向けられる冷やかな瞳に息を飲まれたからだった。それは氷より、早朝の音ひとつない青空に似ている。きん、と耳鳴りさえ呼び起こしそうな、青い、青いキースの瞳。ソファに沈められたイワンの前にしゃがみこむようにして、視線を下からすくい上げるように、懇願するように覗き込んでくる、浮かぶ感情ばかりが鋭い穏やかな瞳。むき出しの膝に、キースの手が乗せられる。
肌を撫でて脚先へ滑りながら、手のひらは傷がないことを確かめようとしているようだった。視線は重ねられたまま、逃れることを許されないまま。イワンの意識を拘束したまま、キースは静かに唇を開く。
「私が、君に、ほんとうに……そう、思うと?」
「……キースさん」
「君を失うと思った。私の風が……君を守らず、失うかと」
すまなかった、と絞り出された声が震えていれば、イワンは手を伸ばしてキースに触れただろう。けれど声はまっすぐに響き、謝罪よりも温かく、ささくれ立ったイワンの心を宥めて行く。伸ばした指先はキースの髪に触れた。みじかく指から逃れて行く一筋を握り込んで、イワンはキースの顔をあげさせる。ごめんなさい、も。大丈夫です、も告げられない。告げてはいけないし、キースはそれを望んでいない。望めることではない。
キースはヒーローで、イワンもヒーローだ。ヒーローは守るべきそのものの為、危険のただなかに飛び込んで行く。幾度も、幾度も。そこがどんなに怖くても。戻れないことがどんなに、怖くても。それを乗り越えて、立ち上がる。揺れる瞳を上から覗き込むようにして、イワンはキースの名を呼んだ。二度、三度、繰り返して名を唇に乗せ、吐息を微笑むようにくゆらせる。キースさん、と。何度も、何度も、帰りたいと告げる代わりに胸の中で呼んだことを告げはしまい。
「……折紙サイクロンのスーツが、僕をちゃんと守ってくれました」
「ああ。……ああ、そうだね」
「怪我もこれだけ。足の一筋だけ、です。本当に。……本当に、それだけ」
強靭なスーツを引き裂いたのは、イワンに向かってまっすぐに落ちてきた鉄骨を両断した風の刃だった。天の高くから命令が下され、風は地の間際からまっすぐに立ち上ってイワンを守った。足の甲がその軌道にかすってしまったのは、誰が意図したことでもないだろう。熱い痛みを伴って皮膚が引き裂かれた瞬間、絶望と喜びが過ぎ去ったことなど、キースは知らないままでいい。
悄然とするキースの頭を指先でトントン、と撫で、イワンはさあ大丈夫ですから着替えてください、と告げようとした。確かに、そうしようとしたのに。言葉を告げる為の吐息ひとつ、遅れただけで、キースの視線が伏せられてしまう。言葉はなかった。一筋刻まれた血色の傷に、キースが吐き出した吐息が触れる。逃れる足首を捕まえて、キースはイワンの傷口に唇を押しあてた。厳かに。まるで神聖なもののように。押し当てられた唇はイワンの驚愕をものともせずに僅かに微笑み、舌先がゆっくりと伸ばされて行く。
嫌だ、やめて、と言葉はかすれて響きなどしなかった。息を飲む音が、かすかな水音とちりちりとひりつく痛みと混じって意識を脅かして行く。滲んだ血を全て舐め取っても愛おしむように離れなかった舌先が、傷の輪郭をゆるりと辿るように動かされ、イワンの脚がびくりと戦慄いた。
「や……め、て……キース、さ」
じゅ、とぬらぬらと塗り広げられた唾液をすする音で拒絶され、意識が羞恥と罪悪で死にそうに沸騰する。嫌だと無言で暴れ、押しのけようとした手のひらはひとつを肩に残し、一つを指先を絡めるようにして繋がれてしまって離せなくなる。視線はあわない。唇が幾度となく押し付けられ、歯の感触が肌に散って行く。ひ、う、と呼吸より早いリズムで断続的に声をあげながら、イワンはゆらゆらと視線と意識を彷徨わせる。
く、と喉がそって息を吸い込んだ時、キースの視線がイワンの意識を揺り動かした。青い、あおい、耳鳴りさえしそうな早朝の空色。断罪の意思はなく、そこにはただ焦燥を宿した愛しさが揺れていた。情欲でもなく。いとしくて、たまらないと、ただ。愛を告げる瞳。こくん、とイワンは罪悪感を飲みこんだ。指先が解かれ、離れて行こうとする手を、繋ぎとめる。
「……だめ、です、よ」
「……イワンくん?」
ゆるく、ゆるく、甘く。解けて崩れた意識のまま、求める心のまま、言葉を紡げばぐずぐずと意識がさらに溶けていくようだった。罪悪感は飲み込んだ。決して見せない胸の中にひそませて、イワンは柔らかく口元を緩める。そのまま、もう片方の足をキースの肩に乗せてしまう。怪我もない、傷跡もない、まっさらな足。指先をゆるく、動かして誘う。
「なめて……?」
触れて。もっと、もっと触れて。感情の箍が外れてしまうくらい。ただの愛しさより、もっともっと、深く。熱く、凶暴なくらい。あなたは触れていい。イワンはそっと、まどろみながら囁きを落とす。
「じょうずに出来たら……ご褒美、あげますから。……ね?」
かすかに響く硬質な音が、キースが床に片膝をついた響きだと理解して、イワンはゆるく目を細める。視線の先、キースはイワンの足を手で包み込むように持ち、唇を押しあてた所だった。肌を吐息がくすぐって行く。ゆらり、ゆらりと意識をまどろませ、瞬きが繰り返される。肌に歯が食い込む柔らかな痛みと熱に、意識が浮上した。重なり合う視線は、痛みを伴うような。イワンが望んだそれで。くすりと笑む唇を奪うより強く、言葉がひそかに、落とされた。
「――仰せのままに」