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 虎兎がちゅっちゅしてるだけ


 夜半から勢いよく降り始めた雨は、朝になって緩やかなものに変化したらしかった。叩きつけるような震動はすでになく、鼓膜の奥に流れる血液の音のような、微細な響きが寝室の中に届けられている。雨空にしては室内が明るいと思うのは、単に立地条件の差だろう。虎徹の住まうブロンズステージより、バーナビーの家があるゴールドステージの方が遮蔽物が少なく、そしてより空に近いのだ。ほの灯りに似た朝日に目を細めながら寝台の上で体を起こし、虎徹はあくびをしながら腕をぐぅっと持ち上げる。首の後ろを掻きながら視線を室内に巡らせていると、目覚めるのを嫌がるようにもぞりと動く気配があった。そちらを見もせず、もうすこし寝ていろと伝えるために伸ばした手は、ややしっとりとした髪に触れ、形の良い頭を撫でてふにゃふにゃと声にならない笑みを引きだした。思わず笑いながら視線を向ければ、眠りの世界にまどろんだままのバーナビーがあどけなく笑い、撫でる手に猫のように顔を擦りつけている。指の背で額を擦るようにしてやれば、穏やかな接触と体温に安堵が深くなったのだろう。すう、と大きく息を吸い込んだ体から力が抜け、柔らかな枕に頭がもすりと埋まって行く。枕の下に突っ込まれた両手が引き抜かれる気配もないので、また夢に戻ってしまったのだろう。隣の気配が離れることを嫌がって起きようとするのに、体温を触れさせてやるだけで安心して眠るその無意識が、あっけなくて愛おしい。
 先程は触れるだけだった額に手を押し当て、しばし熱を計る。もちろん彼がすぐ体調を崩す相手だとは思っていないが、寝物語に、昔は雨の降る日によく熱を出していたと聞いてからの習慣だった。寝汗でしっとりとした肌はきめ細やかで、熱に浮かされ唇で辿った夜より体温は落ち着いているように思えた。平常だ。よしよし、いいこいいこと満足げに前髪を撫でつけてくすぐってから、虎徹は寝台から床に足を下ろした。専用のスリッパに足を突っ込み、立ち上がりながら丁寧に畳まれた服を持ち上げる。上着だけをとりあえずはおり、そっと寝室を出てキッチンへ向かう。冷蔵庫の扉を開けて中を覗き込み、ペットボトルに詰められたアイスコーヒーと紙パックのミルクを取り出した。定位置に置いてあるマグカップを取り、中身が大体半々になるように注いで、残ったものは冷蔵庫に戻す。雨音のするキッチンで冷えたカフェオレを口にして、さてホットコーヒーの準備をしてから寝室に戻るべきかと考え、ふと意識に引っかかるものがあったのでコーヒー器具がまとめられている棚を覗き込む。ほんのすこし前までコーヒーの淹れかたにバーナビーはこだわっていたので、そこには様々な抽出器具があった。ハンドドリップ用のものですら、形が違うものが三種類もある。結局は一番楽で味が安定しているというので、ゆっくり時間の取れる休日以外はコーヒーメーカーかハンドドリップ以外が活躍することがないのだが、問題はコーヒー豆だった。なにせインスタントコーヒーというものが、この家には置かれていない。虎徹が時間がない時に手軽に飲みたいと言うので、妥協してペットボトルのアイスコーヒーが冷蔵庫に常備されるようになっただけで、基本的にバーナビーはコーヒーは豆から粉を挽いて淹れたものを飲みたがる。
 ざっと棚に視線を走らせたが、そのコーヒー豆の袋がない。視線を自然にゴミ箱に向ければ、まだ良い香りを漂わせている豆と、ぐしゃぐしゃになって叩きこまれた袋があった。そういえば昨日、虎徹がシャワーを浴びている間にキッチンで悲鳴が上がっていた気がする。慌てるかなにかでぶちまけたんだな、と苦笑して、虎徹はキッチンから寝室へ戻ることにした。無いのなら用意のしようがない。もうすこし雨が和らげば朝食の前にテイクアウトで買いに行ってもいいし、気に入りの店が空くのを待って朝食は外で食べることにしてもいい。どちらにしても、相談してからのことなのだが。行きとは逆にぱたばたと足音を立てながら寝室に近寄り、マグカップの残りを飲みほしてから扉を開ける。その直前に、大慌てで寝返りを打ったような音が聞こえたのは聞こえなかったことにしてやり、体を滑り込ませて扉を閉めた。部屋には、すこし甘えた寝息が響いている。口元がむずむずするのを堪えてきゅっと力がこもって閉じられているのを眺め、虎徹は枕元のスペースにマグカップを置いた。足先からスリッパを払い落して、枕元に手をつく。体重をかけられて軋む寝台にそわりと動く閉じたままの瞼を間近で見つめ、虎徹は戯れに舌先を伸ばした。長いまつげを軽く舐めて、肌ぎりぎりにまで唇を寄せて歯を立てる。まつげ噛めるってすげぇなあ、と感動しながらふかふかの枕に肘をついて体勢を整え、唇をそのまま額に移動させた。
 ちゅ、と可愛らしい音を立てて口付けし、すぐに離して今度は髪の生え際にも、祝福めいた厳かさで唇を押し当てる。肌に触れて行く吐息に、くふん、とバーナビーは鼻を鳴らしてあえかに笑った。その鼻先にも唇を押し当てて、両頬にも音を立てて口付ける。くすぐったがって身をよじりながらも、バーナビーはいつものようにまぶたを開かないでいた。くすくす、くすす、と静かに幸福な笑い声でくすぐったがるだけで、枕をぐしゃぐしゃに抱き寄せる腕が虎徹に触れることはない。耳に吐息を押しこむように唇を触れさせると、耐えきれないように唇が綻んで笑い声をあげる。仰け反った喉を逃さず歯を立てて甘噛みすれば、無防備な足がじたばたとシーツを波立たせた。はむはむと喉を噛む歯に危機感を感じた様子もなく、ただくすぐったがって暴れる脚へ、片手を伸ばして撫で宥める。目尻に浮かんだ涙を指で拭ってやってから、未だ笑いを引きずってむずむずしている唇を、ようやく重ねた。すー、と鼻から肺までまっすぐ吸い込まれる息を穏やかに繰り返し、なるべく長く唇を重ねる。薄い皮膚を触れ合わせるだけのキスに、いつの間にか枕の下から抜かれた腕が虎徹の背に回った。ぎゅう、と抱きしめられるのが終わりの合図。額を重ねて唇をすこし離してやれば、深海からのぼって来たような息を吸いこみ、バーナビーがゆるゆると瞼を持ち上げた。すこしだけ眠気を残した翠の瞳が、透明な恋を宿して虎徹を見つめている。
「おはよう、バニーちゃん」
 額を擦り合わせて囁けば、ふにゃりとバーナビーの瞳が笑み崩れる。はい、と囁くように呟き、バーナビーは顎をあげてちゅ、と虎徹の唇に触れていった。
「おはようございます、虎徹さん」
「よく眠れたかー?」
 はい、と素直な返事。それが、以前ならどれ程難しかったかを知っているので、虎徹はよかったなぁ、と目を和ませてバーナビーをぎゅっと抱きしめた。抱き締められた分だけ抱きしめ返しながら、バーナビーは虎徹の肩に頬を擦りつけて笑う。
「虎徹さん、虎徹さん」
「んー?」
「耳貸してください、みみ」
 そういえば思い出したんですが、とっておきの秘密があったんです。くすくす笑いながらねだられたので、虎徹は素直に身を傾けてやった。バーナビーはいかにもナイショ話をするように手で筒を作って口を寄せ、あのですね、と囁いた。
「コーヒー豆が無くなっちゃいました」
「……そりゃあ大変だ。事件だな」
「ええ、とっても悲しい事件でした……」
 数秒後、二人は顔を合わせて思わずふきだした。寝台をばしばし手で叩きながら朝から大笑いして、虎徹はバーナビーの上から退いてやる。腹筋だけで上半身を持ち上げたバーナビーは、手の届く位置に置いておいた服に手を伸ばしながら言う。
「だから、今日は帰りにコーヒーショップに寄りましょうね」
「いつもの店?」
「ええ。……あ、雨やみそうだ」
 窓の外に視線をやってぽつりと、呟かれた言葉に虎徹も目を向ける。雨雲の切れ間から、透明な光が降りてきている。雲は眩いほどに白く染まり、硝子についた水滴が流れ落ちて行く。ぼんやりと外を眺めるバーナビーの、まっすぐに伸びた背筋がたまらなく愛おしく思えた。寝台に乗り上げて後ろから肩に手を置き、身を屈めて薄いシャツごし、背骨に口付ける。びくん、と驚きでなく身をはねさせて、青年の視線が肩越しに虎徹を振り返った。全く、仕方がないなあと言わんばかりに半開きになった唇に口付けを送れば、ちゅう、とやけに可愛い音がする。くすぐったくて思わず笑えば、バーナビーも恥ずかしそうに頬を赤らめ、肩を震わせてくすくすと笑う。虎徹さん、とバーナビーが呼ぶ。ん、と意識を向ければ、そっと唇が寄せられた。耳を澄ませても、雨音はしない。今日も一日晴れるらしい。

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