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 1 夜と魔女

 祈りが砕ける音は、脆弱な呼吸音に似ていた。肺を痛ませ、喉を乾かしながら通って行く風のようだった。全身の痛みに意識を揺らしながら、キースは消灯を終えて暗いばかりの病室で、ひとり上半身を持ち上げる。鍛え上げていた腕は重力に逆らって半身を起こすことに役立ってくれたが、純粋な筋肉痛と疲労が肘を折らせ、不格好な体勢で倒れこむ。床ではなく、清潔なベッドが大柄の体を受け止めたのは幸いか、不幸なことなのか。温かな布団の感触が、逆に瓦礫に叩きつけられた衝撃を思い起こさせた。敗戦のあと、磔刑のように両腕を掲げてつり上げられたせいで、キースの肩は壊れてしまった。肩から先もひどく痛み、骨は折れる寸前で亀裂がいくつも走り、引きちぎられた血管は指先までも腫れあがらせた。今は、人間の指に見える。ほっとした気持ちで息を吸い込み、気合でくず折れた体を起こしながら、キースは爪先が整えられたてのひらをじっと見つめた。入院生活が何日目になるのか実際の所よく分からないでいるのは、回復を早める新薬による、深い眠りのせいだった。
 NEXT能力が強ければ強い程、一般の薬は利きにくくなる。すこしでも強い薬で早い回復を、と望んだのはキースだった。その理由に、名前を付けたくはなかった。感情が胸の中で凝っている。敗戦のせいではない。瓦礫に全身を叩きつけられたからではない。己の力及ばなかったからではない。ただ、胸一杯の勇気が途絶えてしまうよう、あの瞬間、託された祈りは砕けてしまったのだ。それが元の形に戻ることは決してない。新しい祈りは気まぐれな雨粒のよう、ぱたりぱたりと指先を濡らすばかりで、蘇る息を止めていく。それでも、希望は生きなければいけない。キースは枕元に置いておいたペットボトルと薬を手さぐりで引き寄せると、処方に従い二錠を口に含み、室温のミネラルウォーターで飲み込んだ。喉に引っかかる気がするのは、眠りにつく前、昼頃のことだっただろうか、キースのお見舞いに来てくれたイワンにくっついて姿を見せた、とある技術者の言葉を思い出したせいだ。
 キースと同じく入院中であるイワンは、絶対安静を解かれたことが余程嬉しいらしく、暇を見つけてはキースとアントニオと虎徹の眠る部屋を訪れ、ヘリペリデスファイナンスの社員に掴まっては部屋に連れ戻されている。社員曰く、絶対安静が終わりになったのはなにもちょろちょろ動きまわっていい許可ではないのだということで捕まえているとのことなのだが、イワンとしては仲間の顔を見たいし体がなまりそうなので歩きまわりたいしで、議論は常に平行線らしかった。それでも比較的イワンの意思を聞き入れる、というよりも放置して観察しながら適度な所で止めることができるのが、よく姿を現すヒーロー事業部の女性技術者だ。なんでも彼女の言うことを聞かないとヒーロースーツに爆発機能が取りつけられるらしいのだが、イワンを始め、ヒーローたちはその『らしい』が噂でも誇張でも脅しでもなく、そうなった場合の確実な結果になることを知っていた。技術者の名前はキリサトという。
 キースは、あとは性別が女性であることくらいしか知らないし、顔もよく見たことがない。じろじろと見つめることが礼儀に反するという問題ではなく、女性は顔にマスクを付けているからだ。虎徹が正体を隠す時に付けているアイパッチのようなものではなく、もっと洒落っ気のある銀色のマスク。シルバークラウンのベネチアンマスクですよ、とキースの爪を丁寧に整えながら、イワンが教えてくれたそれをつけて、決して素顔を明かそうとしない。ある意味では一般に対するヒーローの素顔よりも厳密に隠されているとキースは思っているのだが、ヘリペリデスファイナンス社内でも、顔を見知っている者は二人だけだという。CEOとイワンがそれに当たる。キースとしてはなぜイワンが知っているのかと思い、訪ねたのだが、答えが色めいたものでもなんでもなかったのを思い出し、妙な笑いで口元を歪めてしまう。ヒーロー就任の社内挨拶の時に、素顔を見せてくれたらひとつだけ、なんでも言うこと聞いてあげます、というこどもの口約束のような軽いノリでお願いしたら本当にマスクを外してくれたそうだ。
 それで、なんでも言うことを聞いてあげたのかい、と問うキースに、イワンは世を儚むことを知った者の微笑で呟いた。僕はあんなに嬉しそうに人体実験を要求してくる女の子を初めて見ました。イワンが、時々自社の技術者に涙声でうそつき呼ばわりされている理由はそんな所だった。ともあれ、彼は所属会社にとても愛されているのだ。未だ腫れものを扱うように遠巻きにされる己とは違って。苦い息を吐きだしそうになるのを堪え、体から痛みが引いたのを確認して、キースはそっとスリッパに足先を忍び込ませた。倒れないように慎重に体重を移動して立ち上がり、ほっと息を吐けばもう一度その言葉を思い出す。キースの爪にやすりを丁寧にかけるイワンに、嫁入りサイクロンにしますかそれとも婿入りサイクロンにしますか、と言って激怒させていた技術者は枕元に置かれたキースの薬をちらりと見やり、呆れ果てた口調でこう言った。あなたの会社はそれを飲んでることを知ってるんですか、と。冷やかな声だった。向けられる視線は怒っているというよりは哀れむようなそれで、キースは訳も分からず早口で一応、と言い返す。
 NEXT用の強い薬を、私の希望で処方して貰ったことは伝えてあるのだと。告げたキースに、技術者は彼には分からぬ母国語でなにかまくしたてた後、これきりにしておきなさい、と言った。薬は甘いラムネじゃありません。日本を愛するイワンは彼女の母国語もなんとなく理解できたらしく、技術者が帰った後にキースが内容を訪ねると、良薬が口に苦いレベルを超越した劇薬は薬とは呼ばないとかなんとか、とあやふやな言葉で首を傾げた。ともあれ、体に良いものではないらしい。自分ひとりでは起き上がることも難しい疲労感と痛みを消す薬が、体に良い訳ではないことはキースも知っていた。けれども回復を早める薬と同じく、それはキースに必要なものだった。ベッドを覆うカーテンの隙間から出て、キースは病室の窓に近づいた。消灯されているとはいえ、真っ暗闇の部屋ではない理由が、窓の外に広がっている。この病院は閑静な場所に建てられているものの、都市の灯りが近いのだ。ぶ厚い窓をガタガタと揺らし、外では強い風が吹いている。心が逸った。理性は分かっている。あの場所は今も、ヒーローが守っている。
 怪我をしなかった女性ヒーローたちは欠席者の空白を埋めるように、日夜奮闘しているのだという。見舞いの回数が減ったのがその証拠だ。TVから流れてくる映像がその証拠だった。あの場所は今も守られている。けれどあの場所では今も、誰かが助けを求めている。市民は警察にすがるより、神に祈るより早く彼らの名を呼ぶのだ。助けてヒーロー。それは途方もない祈りであり、報われることを知った希望だった。キースはスカイハイとして、それに応えたいだけなのだ。KOH、風の魔術師に託された祈りが、粉々に砕けたことを知っていても。動きの鈍い指先が窓の鍵を開ける。重たい窓を押し開けば、誘うように風はキースの全身を取り巻いた。ふと微笑する。全身を発光させて空に滑りだそうとしたその瞬間、背後から伸びてきた足が微塵の容赦もなく膝を蹴る。
「はいそこまで」
 声を上げなかったのは、ただひたすら室内に眠る二人を起こしたくないキースの努力だった。恒常的な痛みは薬で消されているだけで、蹴られた衝撃とそれに揺さぶられた身体の、傷ついた箇所がひきつれる新しい痛みまで無くなる訳ではないのである。床に手をついて倒れこむ被害者をちらりとも見ず、加害者はてきぱきと窓を閉め鍵をかけ、深々と息を吐きだした。
「薄々は分かってたんですけどねー」
 呟きながらも、加害者の視線はキースに向けられない。それはカーテン越し、虎徹が動かないのを確かめ、アントニオも起きてこないのを確かめて、さらには廊下から誰も来そうにないことを確認して、ようやくキースの元へ下ろされた。気まずそうに、もそもそと床の上にしゃがみこむキースを、立ち上がらせる手は差し伸べられなかった。
「馬鹿じゃないんですかー?」
「……君は、どうして」
「質問をする時は目的をはっきりさせてくださいねー! それと、君じゃなくて、私はキリサトですー。キリサトさんとお呼びください。ちゃんは止めてくださいね。まあめんどくさいんで先に言っておきますと、どうしてここに来たのかはちょっと近くに用事があって通りすがったから、どうして分かったのかはあの薬が処方された日付から深夜徘徊するスカイハイの目撃情報が数件あるから、ちなみにポセイドンラインヒーロー事業部に連絡してスーツを貸し出したのかどうかは裏を取ってあるので違うとか言わないでくださいね。どうして止めたのかは……私は人体実験するの好きですけど、ああいう実験の仕方は許せないと思うからですよ! いいですか! 実験って言うのは清く正しく美しく未来の為に生かされるものであって、その過程で個人の好奇心を満たすのは良いですけど個人の好奇心を満たす為の人体実験なんて爆発して滅んでしかるべきなんです! あれは! 痛み止めじゃなくて! ほぼ! ただの! 医療用麻薬です!」
 怒りの感情で苛々しているのだろう。叩きつけるような声に、キースはそーっと片手をあげ、そーっと、虎徹くんとアントニオくんが起きてしまうと思うよ、と進言した。技術者は闇夜に煌くシルバークラウンマスクの奥で目を細めると、自信たっぷりに言い切った。
「大丈夫です。彼らは寝なさい」
「……ね、寝なさい……?」
 寝ているではなく、命令形で寝なさい。思わず問い返したキースに、侵入者は口元だけで笑った。
「深夜徘徊を薄々知っていて止めなかった理由が気持ちが分かるからとか男の友情だとかほざく輩は、首を突っ込まずいいから寝てなさい。そう言っているんです。それとも深夜に冷たい床に正座させられて叱られるのが趣味ですか? ならいいですよ一緒にやってあげますよー? ……まあうちのイワンもイワンですけどね。知ってて黙ってたクチでしょうし。これだから男は……!」
 覚悟しろ、各社のスーツの安全機能を徹底的に強化してやる、と吐き捨て、技術者はキースに問いかけた。
「それで? どうしてこんなことしたんですか」
「……それは」
「ちなみに、今日の夕方にでもポセイドンラインのCEOが貴方を叱りに来る筈ですから、上手い言い訳はその時に試してくださいね」
 処方された薬のふりしたアレなものの成分表と効能を分かりやすくまとめてプレゼントしてきたら、それはそれは素敵な笑顔でうちのヒーローにも困ったものですな、と言ってらしたので。微笑む技術者に、キースはなんてことをしてくれたんだと血の気が引く思いで息を飲む。言葉を告げようとした頬を、伸ばされた女性の指先が軽く、触れるように叩いた。
「……無茶をして! 失敗したからってなんです、だらしのない」
 そのまま忙しく動きまわった指先はキースの荒れた肌をなぞり、目の下のクマを突き、じんわりと発熱を訴える額を、溜息をつくように撫でてから離れる。
「どうして私が良い年した男に、今更こんなことを怒らなければいけないのかがいっそ理解できませんが、あなたはもうすこし自分の体を大事にしなさい。……貴方が一番手に選ばれた時、ポセイドンラインがどれだけ怖く思ったか。技術部がどんなに無事を祈りスーツの整備をして、怪我なく戻ってきて欲しいと……祈って、祈って、祈りが打ち砕かれた時、どんなに自分の無力を嘆いたか、怒ったか。貴方は、もうすこし知るべきです。貴方たちヒーローは市民を守りたかったでしょうとも、力及ばずどれ程悔しかったか、悲しかったか! 分かりますよ! 私たちはね、何度も同じ想いしてるんです! ヒーローが怪我をして帰ってくるたび、整備不良を疑って、スーツの性能を上げられない技術力を悔やんで! それでも諦めたくなくて毎日毎日研究して、実験して、整備してるんです、この……この、馬鹿っ! いいですかよーく聞け! ポセイドンラインがあんまり御見舞いに来ないのは、どこより率先して街の復旧に尽力して企業イメージ上げてるからですよ! 技術部が、病院抜け出してきた貴方に絆されてスーツ貸しちゃったのは、今度こそ、そのスーツが貴方の身を守ってくれるって信じてるからですよ! 生身で飛ぶ危うさを、貴方以上に知ってる人達だからですよ! 飛んで欲しくて、貴方に守って欲しくてスーツ着せたんじゃないんです。それは貴方に対する命綱だ。……いいですか、ヒーロー。守りたいと思うなら、その通りに、どうか守ってあげてください。市民だけじゃなくて、貴方を……スカイハイとキースを繋げて知っている人たちの心を、守ってあげなさい、全く。……あとこれはお説教ではなく、単なる事実として言っておきますけど、キース・グッドマン」
「……なんだい」
「その心根を改善しないかぎり、我が社のCEOは、なにとは申しませんが許しませんし邪魔をしますし、誰とは申しませんが交際を許すとかもってのほかです誰の事は申しませんが。私も同じ気持ちです。私の屍を越えて行けくらいの気持ちで許可しかねます誰となんのこととは申しませんが。薬に頼らず起き上がれるようになったら、折紙でサイクロン的な誰かが御見舞いに来てくれるかも知れませんがそれまでは会わせません」
 罰としてはこれが一番きくでしょうと微笑み、技術者はキースの手を掴んで遠慮なく引っ張り上げ、肩の痛みに呻くのを満足げに見やった。
「痛みを感じるのはいいことですよ。感じなくなったら死にますからね」
「……君は、厳しいね」
「貴方の周りが甘優しいだけですー!」
 にっこり笑って回線越し、聞きなれた口調で告げ、技術者はキースの手を引いてベッドへ戻した。もそもそと横になる様を満足げに見やり、技術者は枕元の薬をひょいと取りあげてしまう。これはもう必要ないですね、と告げられて、キースは苦笑いで頷いた。ふふ、と楽しげに笑われる。白い指先が伸ばされて、キースの額に触れた。
「言うことを、聞いてくれたから」
 す、と体が楽になる。
「……熱は、持って行ってあげます。安静にしていてくださいね。夕方のお叱りに備えて」
 息を吸うのもすこし楽になった気がして、離れていく指先を見送った。
「起きた時には忘れてるでしょうけど」
「君は……魔法使いみたいだ」
 そんなファンシーな存在じゃないですし、むしろ一般人ですし、と言って、少女の手がキースの瞼を下ろさせる。おやすみなさい、と囁かれ、意識が夢に落ちるのを感じた。夕方までゆっくり眠ってしまいそうだと、なぜかそんなことを思った。



 新調されたスーツに身を包み、ジェットパックを起動させながらスカイハイは全身を青く発光させ、空へと浮かび上がった。その姿をCEOを筆頭に、ヒーロー事業部に所属する全社員が固唾を飲んで見守っている。新しいスーツはさらに軽く、薄く、それでいて耐久性をあげた優れ物であるらしい。くるくるとコマのようにその場で回り、風の抵抗も少なくなっていることを口にすれば、技術主任の顔がほころんだ。CEOはどこかいかめしさを感じさせる顔つきのまま、夜の街へ見回りに出発しようとしているスカイハイを見つめる。キースはそれに、無言で敬礼をした。深く頷き、CEOが行って来い、と告げる。高く舞い上がったスカイハイの背を、わぁっとあがった歓声が追いかけていく。行ってらっしゃい、と誰かが叫んだ。帰ってきてくださいね、私たちのヒーロー、と。なぜか、そんな風に聞こえる言葉だった。今度こそ、その気持ちに応えよう。強く思って、スカイハイは見送りの者たちに手を振った。大きく、大きく。何度も、手を振った。

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