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 とある時刻の日常風景

 ヘリペリデスファイナンスヒーロー事業部は、大まかに三つの部署に分けられている。まず一つ目が広報部。折紙サイクロンに対する取材の申し込みを受け付けたり、企業広告の一部に折紙サイクロンの見切れを入れませんかと売り込んだり、各社から提出されていくる公式グッツのチェックやレビューをとり行うのがこの部署だ。社内報の発行も任されている。全部署の中で最も純粋に折紙サイクロンを愛し、彼のファンが多い部署である。二つ目が、経理部。折紙サイクロンにまつわる金銭の一切を取り仕切るのがこの部署である。主な仕事はヒーロースーツの管理維持費用を計算し、予算をぶんどって技術部に回すこと、たまに発生する損害賠償の減額交渉、事業部に所属する社員の給与計算、公式グッツの値段決定など多岐に及び、最も忙しいとされている部署だ。社内ファンの中でも比較的冷静な者が多く、イワン・カレリン本人が通りがかってもそわそわと浮足立つ者はほとんどいない。しかし、イワンの猫背ぎみの姿勢に背を伸ばしなさいと注意したり、長めの前髪をヘアピンで止めたり、薄着を見かねてひざかけを肩からかけたりするのはだいたいがこの部署の人間である。ランキングの万年最下位を一次脱出した時、最も豪華な花束を送ったのもこの部署だ。
 最後に、技術部である。ジェイク・マルチネス潜入事件からこちら、大幅なリストラの嵐が吹き荒れたこの部署は、最も所属する人数がすくなく、二十四時間いつでも動きまわっている。他の部署が九時から十八時までの定時制であるのに対し、技術部は基本的に三交代制である。深夜の十二時から朝の八時、朝の八時から夕方四時まで、夕方四時から日付変更となる十二時までの三種類のローテーションが組まれており、いつでもどこかばたばたと慌ただしい。技術部の仕事は、折紙サイクロンそのものに関わることである。ヒーロースーツの整備や改善、改良や改造や解析。武器の開発や実験などもあるが、イワン・カレリンの健康状態の把握と管理も技術部の大切な仕事のひとつだった。どんな時でも、スーツ着用時を最高の状態として現場に出すのが、彼らの仕事である。人数は少なくなり、休みがとりにくくなったのが現状ではあるが、残された者は最高の精鋭と呼ぶにふさわしい者ばかりである。そもそも、休むくらいなら設計や開発や実験していたい、と口を揃えるような奇人か変人か変態のどれかに属す天才ばかりなので、時々、休日の取得率の悪さに切れた経理部長が、CEO命令をもぎ取って技術部に休暇を回して来るくらいだった。いい迷惑なんだけどなぁ、とぼやいたとある技術者の少女を廊下に正座させ、一時間に及ぶお説教の後に分かりました休みますと言わせた経理部長は、技術部の年間休日百二十日以上の取得を目標としてかかげ、八割以上の技術者にそれを実行させる社内最強のつわものである。
 そういう理由で、技術部と経営部は仲が悪い訳ではないのだが、常に騒音の漏れ聞こえる頑丈な扉に張られたA4サイズの紙には、とある言葉が書き記されていた。『忙しい。つまり、無い袖は振れない』。休む暇がないので休日いりません、という意味なのだろうが、紙の余白にはボールペンで書かれた几帳面な文字が『急がば回れ。いいから休みなさい』と怒っているので、やはり技術部の主張は受け入れられないままらしい。急がば回れの文字の傍には色とりどりの付箋がぺたぺたと付け加えられ、十日の菊になっちゃったらどうするんですかだの、奇貨(きか)おくべしだと思っていいから休みなさいだの、休日と仕事って塞翁が馬だと思うので仕事したいですだの、残り物には福があります休みがそれにあたりますだの、さながらことわざ博覧会のようになっていたが、ざっと読む分に決着は未だついていないらしい。つまり、経理部優勢のままなのだ。優良企業を名乗る為に経理部の優勢は覆されると困るんだけど、あんまり休まれてスーツのメンテナンスが上手く行かなくなっても困るよねぇ、と苦笑したCEOの言葉を思い出し、イワンは扉をノックしようと手を持ち上げたまま、深く息を吐きだした。
 時刻は日付を変更して、十数分が経過した所である。それなのに日中と変わらない作業音が響くこの部署から、呼び出しメールがイワンの元へ届いたのは約四十分前だ。朝になったらでいいのでちょっと顔を出してください、と告げたのは技術部随一の変態にして天才と名高い少女からで、イワンの記憶が正しければ彼女は昨日、今日、明日と三日休暇だった筈である。だから経理部長に廊下に正座させられてみっちり怒られるんだと思いながら、イワンは扉を強くノックした。直後、なにかが倒壊した音が聞こえてくる。ひぎゃああああああっ、と涙交じりに響いた声は、確かにイワンを呼びだした少女のものだった。溜息をつきたい気持ちで待っていると、扉に近づきたくないのか、恐る恐る、遠くから声がかけられた。
「ど、どなたですかー?」
「……イワンです」
「一人ですかっ? だ、誰も一緒じゃないですよねっ?」
 そんなに怯えるくらいなら、素直に休んでいればいいものを。一人ですよ、と言ってやれば、小走りに扉まで駆け寄ってくる足音。安全の為にいくつもかけられている鍵を手慣れた音を奏でさせて外し、キリサトはすこしだけ開けた扉から顔を出すと、きょろきょろとあたりを用心深く伺った。確認して、ようやく安心したのだろう。胸に両手を押し当ててふー、と息を吐き、キリサトはにっこりと笑ってイワンを見上げた。
「こんばんは、イワン君。早かったですねー? 起きてました? 本当に、明日の朝でもよかったんですよー?」
「こんばんは、キリサトさん。……明日の朝だと、様子を見に来た経理部長さんに発見されてたと思いますが」
「ううううぅ! 権力には屈しませんからぁーっ!」
 半泣きでイワンの腕をぐいぐい引っ張って室内に招き入れると、少女はそう叫んで力任せに扉を閉めた。それから扉の内鍵を閉め、独自に取りつけた六個の鍵を締め直して行くのを眺めていると、それが物理的な危険対策ではなく、経理部長の襲来という恐怖に備えたものに思えてくるから不思議だった。あながち間違っているとも判断しにくいのだが。鍵を閉め終え、ふう、と達成感溢れた息を吐き出して、少女は足早にデスクへと戻って行く。足元に散らばった書類をひょいひょいと拾い上げ、その中から二枚だけ取り出すと、無造作にイワンに差し出して来る。思わず受け取って視線を落とす間に、キリサトは倒壊させた書類タワーの復元を試みていた。えいっ、とうっ、と掛け声をあげながらぴょこぴょこ飛びあがってまで書類を積む意味がイワンには分からないのだが、技術者たちにとってはそれなりに意味のあることらしい。それぞれ他の作業をしていた者たちも手を止め、見守る中、最後の一枚がふわりと書類タワーの上にのり、仕上げとばかり重しが乗せられると歓声があがる。よし、と頷いたキリサトはくるりと身を反転させ、なんとも言えない顔つきになっているイワンに、そっと首を傾げた。
「どうしましたー? あ、なにか分からないですか?」
「いえ、いつ来てもこの書類タワー減らないな、と思って」
「仕事が忙しいとアピールする為のダミーですからね!」
 えっへん、と腰に手をあてて胸を張る少女は一応イワンにとっての上司なので、反射的に頭を叩いたりしてはいけないのだが、そうしたとてきっと経理部からは怒られないに違いない。まったく、理解しがたい所にばかり労力をかける少女である。いいから読んでくださいよー、と促されるのに苦笑しながら、イワンは手渡された二枚の紙に目を向けた。折紙サイクロンのヒーロースーツ、耐久性能の四パーセントアップ完了について、と書かれている。綴られた言葉は、専門的すぎてよく分からない。眉を寄せて沈黙するイワンが、理解していないことに気がついたのだろう。二枚の紙をひょいと取りあげ、つまりですねっ、とキリサトは嬉しそうに笑った。
「狙撃銃でも傷つかないってことですよー! それでいて全体の厚さ、重さ、伸縮性に通気性はそのままです、そのまま! なにかあった時の血糊ギミックもそのままなので、これぞまさに機能向上ですよーっ!」
 きゃあきゃあはしゃいだ声をあげてその場で飛び跳ね、くるりくるりと回って喜ぶ理由がヒーロースーツ耐久性能の向上でなければ、街中にいそうなごく普通の少女だった。ただし、顔のほとんどを覆い隠しているシルバークラウンのマスクがなければ。このせいでキリサトの印象は常に道化じみていて、身長の小ささとそればかりが印象に残るのだ。どうして血糊ギミックを取り外さなかったのかと思いながら、イワンはなぜあんなに遅い時間にも関わらず、キリサトがメールを送ってきたかを理解する。折紙サイクロンのスーツが狙撃銃で破損したのは、すこし前、この街が戦車によって取り囲まれた時のことだった。通信が寸断された中で戦いは続き、負傷したブルーローズを狙撃から庇って、折紙サイクロンのスーツは傷ついた。そのことが、この技術者には悔しくてならなかったらしい。銃なんかで、という言葉をイワンは何回も聞いていた。恐らくは狙撃で破損してからずっと、スーツの耐久性能をあげる為に努力していたに違いない。マスクで隠された目元をよく見ると、くっきりとしたクマがある。悟られないよう、イワンは穏やかに微笑んだ。
「ありがとうございました、キリサトさん」
「ふふ、どういたしましてー!」
「……さて」
 がし、とばかりに少女の手首を掴んだイワンを、室内の技術者たちは見ないふりをした。それに気がついた様子もなく、きょとんと首を傾げている少女に、身を屈めて視線をあわす。
「キリサトさん?」
「な、なんでしょう……? というか、あの、なんで手首掴んでるんです……?」
「僕の記憶が正しければ、キリサトさんは、昨日から明日まで休みだった筈ですよね? 三連休」
 ぶんぶん腕を振ってイワンの手を外したがっていたキリサトの肩が、びくぅっ、と震えてそれが正解であることを示す。
「えーっと……」
「はい」
「き、昨日! 昨日は休みました!」
 僕のところにメールが届いたのは、その休んでいた筈の昨日なんですが、という言葉をイワンは忍耐と共に飲み込んでやった。年下の女の子には優しくしてあげなさい、という母の言葉を思い出す。キリサトがイワンより年下だとは、様々な理由から到底思うことはできないのだが、身長のせいで外見だけならそう見えなくもなかった。二十センチ以上低いところに頭があるので、これはもう、うっかり目が年下だと思ってしまうのも仕方がないだろう。うー、うーっ、と困り切った声で掴む手を外してもらいたがる少女に、イワンはためらわず、最終手段を行使した。なにせ、時刻は午前0時すこし過ぎ。イワンも帰って眠りたいのだ。
「今から、明後日の出勤まで、世間一般的な意味で仕事をしないと約束できれば、CEOへの連絡はしないことにします」
「……約束しなかったら?」
「今すぐCEOに電話します」
 社内でキリサトに強制的に言うことを聞かせられる人間は、二人。経理部長と、ヘリペリデスファイナンスCEOその人である。特にCEOは、なぜか少女の休暇スケジュールを完璧に把握しているのが常である。時々なんの前触れもなく技術室に現れては、スケジュール上はいない筈の少女を捕まえて、どこへともなく連れ去るのを何度も目撃していた。キリサト曰く、『CEOに怒られる』らしいが、それがよほど嫌なのだろう。連絡駄目絶対、と青ざめた顔で首を振るのに、もう逃げないと見て手首を離してやりながら、イワンはちいさい子に対するように、根気強い気持ちで語りかけた。
「じゃあ、休むって約束できますね?」
 PDAに指先を近付けながら念押しすると、ようやく観念したのだろう。休みますからやめてくださいとお願いされて、イワンはにこやかに頷いた。
「広報部長と、経理部長に、今日と明日はキリサトさんおやすみですって伝えておきますから」
「……あ! 休むので、蝋人形ビーム開発していいですかー?」
 ついうっかり、本当にうっかり、目の前の少女の頭を平手で叩いたイワンを、それを見ていた技術部の者は誰ひとりとして怒らなかった。あ、じゃない、というのが共通見解である。かくして深夜のヘリペリデスファイナンスの社内に、駄目に決まってるでしょう僕のスーツに変な追加機能付けないでくださいってあれほど言ってるじゃないですかー、と珍しく本気切れしたイワン・カレリンの叫びがほとばしった。なんの変哲もない一日が、はじまったばかりの時刻のことである。

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