ぱたぱたと、落ち着き無く走りこんでくる足音を耳にして、ハーレイは思わずため息をついた。この四年間でぐっと落ち着きを持ったかと思えば、こんな所だけがまだ妙にこどもっぽい。くるりと振り返って視線を向ければ、ジョミーは不思議そうに目を瞬かせて立ち止まり、小鳥のように首を傾げた。ハーレイ先生どうしたの、と全身で問いかけているような仕草に、脱力してしまったキャプテンに罪は無いだろう。
船橋中から密やかな笑いが起き、空気をさざめかせながら広がっていく。船中に暖かな気持ちが満ち、ジョミーはなんだか嬉しくて笑顔を浮かべた。理由は分からないにしろ、仲間が嬉しく和むのは素敵なことだ。うん、よかった、と妙な所だけ長らしくなってきたジョミーを呆れ半分見つめて、ハーレイはまあいいでしょう、と口に出して言った。そして、ジョミーの全身をゆっくりと眺め、柔らかく微笑んで口を開く。
「それで、どうなさいました。ソルジャー・シン。船橋に御用時でも?」
「うん。船橋に用事というか、ハーレイせんせ……あー。キャプテン。に。用事があって」
あなたもう長なのだから先生と呼ばない、と思念波と軽い睨みで注意されて、ジョミーは視線をそらし、口ごもりながらも訂正した。別に気にしなくてもいいじゃないか、と若干拗ねた思考がもれるのに、ハーレイはがくりと肩を落とす。そういうわけには行かないのだと、いったい何度言い聞かせれば分かってもらえるのか。頭を悩ませるハーレイの耳に、船橋の扉が開く音と、思念で伝えられる笑い声が届いた。
『大丈夫ですよ、キャプテン。ジョミーだって、ちゃんと分かっています。使い分けも、そのうち出来るようになりますよ。焦らない、焦らない』
「リオ。お前もだ。ジョミーじゃなくて、ソルジャー。もしくは、ソルジャー・シンとお呼びしろ。そうやってお前が甘やかすから、この方がいつまで経っても学生気分というか、長としての自覚が芽生えてくださらないのだぞっ?」
『空耳ではないでしょうか。私は今きちんと、ソルジャー、とお呼びしましたよ』
しれっと嘘をつき、リオはジョミーに同意を求める笑みを向けた。ジョミーは悪戯が成功したようなご機嫌顔でこくこくと頷き、まあそんなことはいいんだ、と話題をすりかえてしまう。できればよくないです、と追求したい所だったが、予定を考えるとそう時間の余裕があるわけでもなく、ハーレイはごまかされてやることにした。はいなんですか、とげっそりした声で問いかけてやれば、ジョミーは余裕の微笑みを浮かべた。
「原稿なくした」
意味が、よく分からなかった。脳が理解を拒否したのだろう。くらくら揺れる意識を引き締め、ハーレイは長い沈黙の後になんですと、と呟きを落とす。その目の前では、リオとジョミーが額を軽く触れ合わせ、くすくすと笑いを響かせていた。悪戯成功、と喜んでいるようにしか見えなかった。悪戯ですむ問題では、絶対にない筈なのだが。ソルジャー・シン、と呼ぶ声に答え、ジョミーがハーレイに視線を向ける。
英知を兼ね備えた翠の瞳は、予想に反して真剣なものだった。遊びではない。からかっているのでもない。ジョミーはリオと共謀して、明らかに意図的に、原稿を紛失してみせたのだ。今日という日のために用意した、人間たちに呼びかけるための言葉を書き記したものを。なぜです、とうめくハーレイに、ソルジャー・シンはつんっと胸を張って言う。凛々しいというよりは、可愛らしさが見え隠れする仕草だった。
「だって、ぼくは最初から嫌だって言ってたし。覚えるけど読まないよって、ちゃんと言っておいたじゃないか」
『そうですね。ソルジャー・シンは最初からずっとそう仰ってましたものね。実に首尾一貫してらっしゃる』
素晴らしい、とぱちぱち拍手の音を響かせるリオを、殴りたいと思ったのはハーレイだけではないだろう。甘やかすのもいい加減にしておけ、と睨みを向けられても、リオは泰然自若とたたずみ、微笑むだけだった。微風程度も感じていない、普段通りの態度だ。心に持つ強い信念が、リオにその態度を貫かせているのだろう。ソルジャー・シンに従い、その御心を叶えること。それこそがリオの望みで、忠義だ。
悪を悪と知れば強くいさめることもするし、ためにならないことをやりはしないのだが。どうも最近のリオは、ジョミーの信念に基づく行動であれば、完璧に従ってみせるのだった。従者の見本のような態度である。
「だってあれは、長老たちが言いたいことだろう。だったら長老たちが言えばいいんだ。ぼくじゃなくて」
苦々しく思いつつも呆れ果てるハーレイに、ジョミーの声が強く響いていく。大して大きな声でもないのに、船橋にあまねく響いていくそれは、まさしく指導者の言葉だった。思念波もなく、ただ声として紡がれるだけなのに。不思議に誰の心にも深く届く、新しい長の声。ふくれっつらのソルジャー・シンは、けれどその特徴的な瞳だけが痛いくらいに真剣で。ハーレイや長老たちから、反論の言葉を奪い去った。
すぅ、と息が吸い込まれる音が、やけに響いて耳に残る。
「ぼくは、ぼくの言葉で人間たちにミュウの総意を伝える。誰の言葉でもない、ぼくの言葉を、伝えたい」
「ソルジャー・シン。ですが」
「ハーレイ。ぼくをソルジャーと呼び、ミュウの長としたのはきみたちだ。なら、ぼくを、止めるな」
ゆっくり、ゆっくり。言い聞かせ、言い含めるように紡がれた言葉は、抗いがたい力に満ちていた。ごく穏やかに頼み込む、魅惑的な響きに。逆らえるほど、ハーレイはジョミーに反発を抱けない。息を吐き出し、そして吸い込んで、ハーレイは苦い笑いでジョミーを見た。まっすぐに、ジョミーは見返してくる。止めるな、と言っておきながら命令にはしない優しさが、ハーレイには嬉しかった。自然に、畏敬の念がわく。
船内全てのミュウたちが、そっと息を潜めてキャプテンの返事を待っていた。ハーレイはすこし肩をすくめてからゆるく首を振り、ソルジャー・シン、と厳かな響きで名を呼んだ。
「あなたが、そこまで仰るのであれば。私に逆らうことは出来ません。どうぞ、御心のままに」
「……ありがとう、ハーレイ」
不意に。ばさりとマントがひるがえった。視界が、緋色の布で覆われる。朝日を写し取ったかのような色に包まれて、ハーレイはすこし浮かび上がったジョミーに、包み込まれるように腕を回されたのを知る。体重をいっさい感じさせない抱擁に、ハーレイは仕方のない長だ、と苦笑した。妙な気遣いばかりする。手探りで腕を伸ばし、宥めるように背をぽんぽん、と撫でてやればジョミーはぎゅぅっと抱きついて来た。
その接触で初めて、ジョミーの心が大きな不安に揺れていることに気がつき、ハーレイは大きく息を吐き出した。そして、まったく、と呆れたような呟きを落とし、ジョミーの体を抱きしめてやる。わわっ、と慌てた声が響き、ハーレイの体にジョミーの体重が乗せられた。いきなりのことで集中が切れ、浮かんでいることが出来なくなったのだろう。ごめんっ、と大慌てで降りようとするのを止めて、ハーレイは笑った。
「あなたの重みくらい、なんてことはありません。あなたは、もっと頼っていいのです」
『そうですよ、ジョミー。大丈夫。緊張して噛んでしまっても、誰も笑いませんから。気を楽に』
「……リオのいじわる」
あんまり考えないようにしてたのに、と呟いて、ジョミーはハーレイに身を寄せた。リオがいじめる、と拗ねた思念波が船中を飛び交うのに、見守っていたミュウたちからは好意的な笑いが寄せられた。我らの新しい長さまの、なんて可愛らしいことだろう、と。ますますむくれてしまったジョミーは、目を半眼にして沈黙しながら、ハーレイの腕の中から降りようとしなかった。意外と、収まり心地がいいらしい。
ハーレイが時計に目を向け、そろそろ、と声をかけようとした時だった。扉が開いて、硬質な足音が響く。そして涼しげな、なにものにも例えられない優しさと愛おしさを秘めた声が、やんわりと船橋の空気を揺らした。
「ジョミー。そろそろ予定時刻だ」
「ブルーっ」
色とりどりの花が、一気に咲き綻んだような声だった。ぱっとハーレイの腕の中から転移して、ジョミーはブルーの前に姿を現す。キラキラした目を向けられて、ブルーは嬉しそうにジョミーの頭を撫でてやった。よしよし、見ているから頑張るんだよ、と告げられるのに言葉もなく必死に頷き、ジョミーは拳を握ってハーレイたちを振り返る。
「キャプテン、リオ。そして船橋のみんな。今からはじめる。準備を」
『もう出来ております。ソルジャー・シン』
恭しく告げたリオに真剣な表情で頷き、ジョミーはすっと息を吸い込んだ。それだけで、船を包む空気が激変する。色として表すのなら、暖かな淡い赤から、燃やし尽くす炎のような白金へ。変化する。ジョミーはゆっくりと目を閉じ、そしてまぶたを持ち上げた。そしてすこしだけ振り返って、宣言通り、微笑みながら見守ってくれているブルーに、はにかんだ笑みを返して。ソルジャー・シンは、宇宙に力を広げていく。
そして広げられた力が、小型船をいくつか捕捉したのを確認して。ジョミーはゆっくりと、唇を開いた。