ソルジャー、と呼ばれてトォニィが返事できないのは、なにも無視しているわけではなく、それに不満があるわけでもないのだ、と。シャングリラに残った者たちが気がついたのは、地球を離脱して四日が経過して、やっとなにもかもが落ち着きを取り戻した頃だった。誰も彼もが走り回って必死に動かなければ、船を動かすことすらままならなかった大喧騒をやっとのことで終えて、穏やかな時が流れている中で。
それに気がついたのは、ブリッジの定位置で舵にもたれかかり、ぼんやりと考え事をしていたシドだった。すっかり人口密度が低くなってしまったブリッジを、何の気なしにぐるりと見回して。今までそれについて考えていたわけでもないのに、シドは唐突にあ、と言って手を打ち鳴らし、泣きはらした目をしているニナの髪をひっぱった。別にわざといじわるしたわけではなく、手を伸ばしたら髪があったという理由で。
「ニナ、ニナ。今気が付いたんだが、トォニィのこと」
「……まず、レディの髪をひっぱったことに対して謝罪すべきだわ」
丁寧な仕草でシドの手を叩いて落とし、ニナは大きく息を吐き出した。失礼な相手を無視してしまっても良かったのだが、トォニィのこと、と言われてしまえば気になるので仕方がない。なによ、と体を向けて対応してやれば、シドの口元がほんの僅か笑みに緩む。すると、手を止めずに船内の異変をチェックしていたルリもヤエも、気になったのだろう。視線を向けてくるのに、シドは自分の唇に指を当てながら告げた。
「ソルジャーって呼んでも、五回くらい言わないと反応しないだろう、アイツ。その理由が分かったってこと」
「え。なになに教えてっ?」
先日、三回目で無視するなと切れてトォニィを後ろから殴ったニナは、それなりに反省しているのだろう。一々殴るのも可哀想じゃない、とにっこり笑顔で問いかけてくるのに、シドはニナへの呆れとトォニィへの同情を等分にした視線を向けながら、ため息混じりの言葉を告げる。
「だから、『ソルジャー』だと思ってないんだよ」
「自覚がない、ということですか?」
確かに指名されたばかりで慣れないのも、戸惑うのも分かるのですが、と困った風に口ごもるニナに、シドは苦笑して首を振った。その時点で、ヤエはシドと同じ真相まで辿りついたのだろう。なんともいえない表情で苦笑されるのに、シドはそういうことだよ、と天井を仰いで。数秒間だけ過去に思いをめぐらせ、それから決意をこめた口調でいいや、とルリの意見を改めて否定する。
「トォニィにとっての『ソルジャー』は、自分じゃなくてジョミーだってこと。だから、自分が呼ばれてる気がしないんだろ……反応できないのも、無理はないさ」
息を飲んで。ニナは、ジョミーと『ソルジャー』と呼ばれたトォニィのことを思い出す。いきなり後ろから頭を殴られて、呼んでいたのに、と怒られたトォニィはとても驚いた表情をしていた。呆けたようにニナを見返して、それから実際の年齢に見合わない苦い笑みを浮かべて、ごめん、と言ったのだ。その表情の変化が持つ意味に、ニナは今まで気がつくことが出来なかったけれど。どれほどの思い、だったのだろうか。
涙ぐんでしまったニナの手を、ルリがそっと握り締める。仕方なかった、とは思えない。けれど気がついたのだから、これから絶対に怒らなければいいだけだ。ジョミー、と悲しく呼びかけられた声に、応えるものはどこにもいなくて。ルリに抱きついたニナを、シドは辛い表情で眺めていた。そしてつい、視線を己の背中側、ブリッジの後方へ流してしまう。居ないと分かっていて。もしかしたら、と思ってしまって。けれど。
赤いマントをひるがえし、いつからか明るく笑わなくなった指導者の姿や、船を導いてくれたキャプテンの姿は、どこにも無くて。口うるさいと思っていても、全幅の信頼と親愛を感じていた長老たちは、ただの一人も存在していなくて。思わず唇を強く噛めば、ふんわりと、たしなめるように肩に置かれる手があった。白く細く、美しい女性の手。ハッとして視線を向けると、そこに立っていたのはフィシスだった。
「シド」
絹糸を紡いだようななめらかな声で名を呼ばれて、はじめてシドは己を取り戻す。なぜこんな所に、と悲鳴のように問いかけて、シドはそういえば地球から離脱してからというものの、フィシスがよく船内を歩き回っているという事実を思い出した。そしてその傍らには、それまで犬猿の仲としか思われていなかった新しいソルジャー、トォニィの姿があったことも。そっとフィシスの後方に視線を向けると、果たしてそこに。
くるくるの赤毛を不満げに指でいじくりながら、立っている長身の男の姿があって。思わず視線をさ迷わせれば、トォニィは眉を芸術的に吊り上げてつかつかと足音高くシドに近づいてくる。そしてトォニィは、思わず身を硬くするシドの肩から、ためらいのない仕草でフィシスの手を引き剥がした。え、と思わず目を瞬かせるブリッジメンバーの視線の先で、トォニィはむっとした表情で黙り込み、フィシスを睨んでいる。
フィシスは首を傾げて数秒間困った空気を漂わせたあと、気がついたのだろう。くすくすと笑みで肩を震わせながら、トォニィのふわふわの赤毛に手を伸ばし、よしよし、と撫でてやった。いえあの女神それは違うのではないでしょうか、とシドは突っ込みかけたのだが、すぐにトォニィが満足そうに頷いているので、フィシスこそが正解なのだろう。思わず口を開けてしまうシドに、フィシスの思念波が笑いながら告げる。
『可愛らしいでしょう? 地球を出てからというものの、ナスカのコたちはずっとこうなのです』
『こ、こう、とは?』
『甘えんぼさん』
さらりと流れるような口調で言い放たれた内容に、シドは思わず吹き出してしまった。げほげほと体を折って咳き込む姿に、トォニィからはいぶかしげな視線が向けられる。なんだこれ、とでも言いたげなトォニィから手を引いて、フィシスはそ知らぬ顔で唇に手を押し当てた。そして、唖然と見守るブリッジメンバーに意識を向けつつ、トォニィ、と声をかける。言いたいことがあったのでしょう、と促され、トォニィは頷いた。
「頼みたいこと、あるんだけど」
ぴきっ、と音を立ててブリッジの空気が凍りついた。視覚でさえ確認できそうな変化に、トォニィは起こるより早く足を引いてしまう。なに、なに、と混乱した思考がもれて響くが、それはこっちの台詞だ、と誰もが叫びだしたい気分だった。あの、トォニィが。あの、ナスカのこどもが。誰かにものを頼むなど。それも、一応伺うように聞いてくるなど、今まで一度も無かったことだった。くすくす、とフィシスの笑い声だけが響く。
「ほら、トォニィ。言った通りではありませんか。皆さま驚かれますよ、と」
「……ぼくだって頼みごとくらいするさ」
むーっとふてくされた表情で腕組みをするトォニィを、フィシスはぽんぽん、と撫でることで宥めている。それも、今までなら決して見られなかった光景だった。驚きながらなぜ、と問いかけてくるニナに、フィシスは唇にそっと指を押し当てているような思念波で囁きかける。
『『カナリア』のこどもたちが、私の元へよく来てくれるのは知っているでしょう?』
フィシスと共に、地球の深くからシャングリラへ転移させられた者たち。地球の浄化がどの程度進んでいるかを知る為に、育てられた希望と実験の為のこどもたちだ。ミュウと人類の確執を知ることもなく、だからこそ誰にでも懐くこどもたちは、中でもフィシスを姉や母のように慕っていた。共に地底から救われたことを知らないまでも、なにか感じるものがあるからだろう。頷くニナに、フィシスは笑いながら告げた。
『それを見たトォニィたちが、『可愛がるならぼくらが先の筈だろう、分かってないな』と』
『……はぃ?』
『ええ。どうもジョミーが、最後の最後にトォニィに、ずっと隠していた想いを伝えたようなのです。抱きしめて、撫でて、大切なのだと。愛していると、伝えてくれたのではないでしょうか……それでどうも、安心して、甘えたがりさんになったようで。このコたちより、ぼくたちの方が先にフィシスの傍にいたのだから、優先順位が間違っている。このコたちを可愛がるなら、ぼくたちをまず可愛がれ! と言い出しまして』
その理論展開はよく分からないが、事と次第はよく理解できたニナだった。つまりジョミーがトォニィを大切だったと告げて行ったおかげで、思念波によって記憶を共有しあったナスカのこどもたちは、自分が本当に愛されていたと安心することが出来たのだろう。強がって大人だと背伸びしていた部分が消えて、本来の歳相応に、誰か大人に甘えたい気持ちが出てきたらしい。その相手がフィシスだったというだけだ。
今も、ニナの反応にくすくす笑っているフィシスを、トォニィは面白くなさそうな目で見つめている。しかしその感情は、かつてあったような悪意まじりの『気に入らない』ではなく、自分に意識が向いていないが故の、拗ねまじりの『気に入らない』で。可愛くなっちゃってまあ、と肩を震わせるニナに、トォニィは微妙そうな視線を向けてきた。なに、と問われるのになんでもないわよ、と言い返して、ニナは首を傾げる。
「それで、頼みごとってなに? ソルジャー」
「それだよ」
「どれよ」
しまったこのコ会話通じない、と思わず半眼になったニナは、そこで改めて気がついた。誰かに通じなければ困るような距離感で、今まで誰も会話しようとしなかったのだ、と。かろうじて通じ合う努力をしようと、話をしていたのが長老たちであり、ジョミーやリオや、フィシスだったのだろう。ナスカのこどもたちなら、ささいな仕草や言葉だけで通じてしまうから、相手に説明するということに慣れていないのだ。
ため息をついたニナが、一から説明して、と求める前に。あ、と気がついたトォニィが、気まずそうな表情で口を開く。本当に頭の良いコなのだ。だからこそ気をつけて見守ってあげなければ、と気持ちを新たにするニナに、トォニィは視線をうろつかせながら告げる。
「その、『ソルジャー』のこと。やめてくれないかな、って。反応できないし、グランパの呼び名だろ」
「ジョミーだけの呼び名、ってわけでもないんだけど……ね」
かつてはソルジャー・ブルーもそう呼ばれていたのだから。複雑な表情が意味するところを、トォニィはきちんと読み取ったのだろう。分かってるけどさ、と眉をよせ、唇を尖らせて言い募る。
「トォニィ、でいいよ。トォニィでいいから、ソルジャーは呼ばないで欲しい。頼みごとって、それ」
「呼ばないでって……ちょっとそういえば補聴器はっ?」
どうしてつけてないの、と怒り口調で問われたトォニィは、むっとした表情で部屋、と言った。部屋に置いてある、ということだろう。つけてなさいよっ、とニナに叫ばれて、トォニィは即答でヤだっ、と叫ぶ。
「首が凝るっ! あれ重いっ!」
「……そうなのか」
「そうなんだよ」
それはつけたくないな、と納得してしまったシドに、トォニィは味方を得た表情で深々と頷いた。首は凝るし、すぐ外れそうになるし、大変なんだよ、としみじみ告げてくるトォニィは、それでも昨日まではつけていたから三日は我慢したのだろう。四日目になって、とうとう嫌になったに違いない。大丈夫、グランパからの預かりものだからちゃんと綺麗に磨いておくし、と言うトォニィに、ニナは額に手を押し当てた。
「あれは置物じゃなくて、使うものよ?」
「分かってるよ。分かってるけど……だってもう、ソルジャーはいらないじゃないか」
別にソルジャーとしての役目を否定してるわけじゃなくて、と。誰かが何かを言う前に告げて、トォニィは大きく息を吐き出した。
「だって誰かと戦う必要、ないし。地球に導いていく必要も、ないし。これからどうするか、とか。どこに行くか、とか、ぼくだけで決めるわけじゃないだろ? 人類の代表と、ぼくらミュウ、皆で話し合って決めるんだ。……ほら、ソルジャーってなにすればいいのさ。全体の代表者くらいなら、ジョミーから後を託されたのはぼくだから、ぼくがやるけど。それだって別に、『ソルジャー』じゃなきゃできないことでもないだろ?」
それも、そうなのだが。上手い反論が思いつかないでいるブリッジメンバーに、トォニィはたたみかけるようにね、と首を傾げてにっこり笑った。ありし日のジョミーのように、見ているものの気持ちをふんわり明るくさせる笑みだった。
「決まり。トォニィ、でよろしく。大丈夫だよ、ちゃんとやることはやるからさ」
「よかったですね、トォニィ」
微笑ましく告げるフィシスの言葉で、ブリッジメンバーはとうとう言いくるめられてしまった。これでいいのか、と誰もが思うが、悪い理由も見当たらないのが困るところだ。ではお散歩に戻りましょう、とブリッジを出て行くフィシスの手を引くでもなく、すこし先を歩いて時折振り返りながら見守るトォニィは、廊下に続く扉を開けたとたんに動きを止めた。なにか、と首を傾げるフィシスを後に、トォニィは中へと戻ってくる。
そしてニナの前まで来ると、ずいっと顔を近くして手を伸ばしてきた。混乱するニナの頬に手をあてて、トォニィは拗ねているような、悲しんでいるような顔つきで口をつぐんで。泣きはらした目の辺りに、そっと唇を落とした。
「あんまり泣いちゃダメだよ。グランパが心配するからね」
「あら。夜になると泣いてしまうのは誰でした?」
「フィシスうるさいっ! バラすなよっ!」
硬直するニナからすぐに離れ、トォニィは笑うフィシスの元に飛んでかえる。言うなよそういうのっ、と噛み付くトォニィに肩を震わせて笑って、フィシスは穏やかな足取りでブリッジを出て行った。文句を言いながら、トォニィも後に続く。残されたニナに、シドが大丈夫か、とでも言いたげな視線を向けてきた。ニナはそれに頷いて、それから唇を落とされた辺りに指先を押し当てて。ぎゅっと目を閉じ、涙をこらえた。
「ジョミー」
あなたの選んだコの成長を、見せてあげたかった、と。悲しみではなく、もっと温かな気持ちで願うように想うニナの周りで、ふわりと空気が揺れ動く。すい、と指先で涙を拭うような感触があって。見ているよ、泣かないで、ありがとう、と。囁いた優しい声は、確かに覚えのあるもので。もう一度同じ名を唇に乗せれば、笑いさざめくように風が揺れ、そして瞬く間に消えていった。