一瞬、誰もが死を覚悟した。アタラクシア空軍が苦し紛れに発射したミサイルは、それが精密に計算されたものでなかったからこそミュウたちの防衛の手をすり抜け、まっすぐに機関部へ向いてしまったのだ。危ない、と叫んだ意思は一体誰のものだったのか。恐ろしいほどの静寂が船を包み込んだ。誰も、なにも考えられず、動くこともできないが故の絶対的な静寂。呼吸をしていることも、意識できないほどの。
十秒が過ぎ、二十秒が過ぎた。はじめに息を吹き返したのは、ハーレイだったのだろう。生きていること。まばたきや呼吸を繰り返していることに気がついたハーレイは、船の動力部が暴れ馬のように猛々しく、今も動き続けていることを知った。同時に敵の攻撃により、今も船が揺れ続けていることにも気がついて。ハーレイは大声を上げて船橋の意識全てを現実へと引き戻し、即時雲の中へ撤退する指示を出した。
なにが起きたのか、誰も分からなかった。ミサイルが動力部へ向かっていたことが、白昼に見た悪夢のようにも思えた。船全体を守護のバリアが包み込み、ゆっくりと雲の中へ沈んでいく。優美な船体が雲に抱きしめられたのを確認し、ハーレイは一足先に安堵の息を吐き出した。最近、重ねられていく戦闘の中でも、今日はひときわ激しかった。死をあんなにも身近に感じてしまったのは、久しぶりすぎたことで。
まだ、生きている実感が戻ってこない。空軍が諦めて帰っていったとの報告を受け、ハーレイはなんの気なしに背後を振り返った。それは、船橋で指揮系統の勉強をする為に連れて来ていた、ジョミーの姿を確認する為だったのだが。振り返った先に、ジョミーの姿はなかった。不審に思って視線を伸ばすが、廊下へと続く扉に開かれた形跡はない。思い返してみるも、扉が開かれた音など、一度も響かなかった。
ではどこに、と考えて。ハーレイは冷水を叩きつけられた気分で絶句する。冷え切った頭の中で、二つの情報が混ざり合っていく。向かっていたミサイル。最近、ある程度は自由に空間の転移や攻撃、防衛など、力を使えるようになって来たジョミー。突然消えたミサイル。ジョミーの姿は見えない。扉は一度も開かれなかった。乾ききった口内に、広がっていくのは恐怖だ。そして、ハーレイは船橋を飛び出した。
向かった先がターミナルであったのは、ほとんど無意識だった。過去に一度だけ、成層圏まで登ったジョミーが、その腕にしっかりとブルーを抱きしめて戻ってきたのがそこだったからかも知れない。指示もなくいなくなったハーレイに、船橋の者たちからは驚きと非難の意思が向けられる。その全てを甘んじて受けて、ハーレイは恐ろしい予感を必死に否定し続けた。そして、辿りついたターミナルの扉を開け放つ。
直接空と繋がっている唯一の出入り口の空気は、恐ろしく冷えていて、そして清涼だった。戦闘機や偵察機の出入り口だから、機械や油の匂いもあるものの、たった今まで開け放たれていた場所だからほとんど気にもならない。行き交うミュウたちの数は、そこまで居なかった。その間を縫うように、ハーレイは焦って視線をさ迷わせる。ジョミーの名を呼ぶことも忘れていた。気配を辿ることは、怖くて出来なかった。
視界の端を、花びらが掠めて落ちた。赤い、赤い花だった。思わず振り向いたハーレイは、ターミナルの白亜の床の上、赤い雫が一滴落ちているのを見て。花ではないと、知って、ぞっとして視線を上に持ち上げた。その瞬間を、まるで待ち望んでいたかのように。ばさりと音を立てて、意識のないジョミーの体が降りて来る。新調したばかりの赤いマントは擦り切れていて、服はほとんどが焼け焦げて原型もない。
トン、と。まるで花瓶を机に置くような軽い音を立てて、ジョミーが床の上に横たわる。全身からはとめどなく血が流れ出していて、抉られ、引き裂かれた傷は深く、全身に及んでいた。体が人の形を保っていることこそが、奇跡のように思われた。
「ジョミー……まさ、か」
守ったのだ。恐らく、迫るミサイルを真正面から受け止めるように、爆発させて船から逸らして。船に傷ひとつ付かないようにと、そればかりに必死で、己の体になど意識を向けることもしないで。できないで、ジョミーは。守って、そして戻ってきたのだ。力なく膝からくず折れ、ジョミーを呆然と見つめたまま動けないハーレイの周りでは、いくつもの悲鳴があがる。ソルジャー・シン、と誰かが悲鳴混じりに名を呼んだ。
視界がにじむのは涙のせいだ。泣いている場合ではないと思うのに、弱いミュウの心には衝撃が強すぎて、ハーレイは涙を流すことでしか感情を処理できない。なぜ、気がつかなかったのだろう。なぜ、止めることができなかったのだろう。あの時、あの場面。混乱する船橋の中で、ジョミーはじっと、ハーレイと同じ戦場をモニター越しに見つめていたのだから。飛び出していくことなど、あまりに予想できたのに。
浅い呼吸が、ジョミーの口から漏れていた。痙攣(けいれん) のように指先が震え、まぶたがゆっくりと持ち上げられていく。壊れた操り人形のようにいびつに、ジョミーは体を起こして視線をめぐらせた。ぼんやりとしたその視線が、捉えたものはなんだったのだろう。ただ、堪えきれずに流れてしまったような、ジョミーの頬をつたう大粒の涙を記憶の最後に。吹き飛ばされたハーレイの意識は、闇に沈んだ。
ごめんなさい、と。伝えようとしたのかも、知れなかった。
荒れ狂うジョミーの力が、アタラクシア空軍の攻撃をも上回る勢いで船を破壊していく。時折聞こえる爆発音や衝撃によるゆれは、ミュウたちの必死の防衛をも上回ってしまった大きすぎる能力のせいだった。体は、ミュウたちの能力を留めておく入れ物だという説もある。だからこそ、体にいっさいの欠陥のないジョミーの力は大きく、そして破損してしまえば己では到底制御できない勢いであふれ出すのだ。
ジョミーが船に戻り、意識を覚醒させ、力を暴走させはじめてから二分。そのたった二分で、船の機能の二割が停止した。幸い、死者さえ出ていないものの、怪我人の数は一秒ごとに増えるばかりで、船の損傷はなお激しくなっていく。医務室に運び込まれ、応急手当を受けながらも、ハーレイは船橋と動力炉の死守をミュウたちに命じた。最悪、そこだけ残っていれば船は耐えられる。空から地に沈むことはない。
まるで地震によって揺さぶり続けられているかのように、大きく、鈍い揺れは一時も止むことがなかった。医療班の静止を振り切って船橋へ戻ったハーレイに、言葉が口々に向けられる。混乱した心配と指示待ちの声を頷きだけで沈めさせ、リオとソルジャー・ブルーに連絡は付いたかを問いかけた。そもそも今回の戦闘は、アタラクシア深くに潜入した二人から意識をそらせる為のものだったのである。
外部との連絡師が困惑した様子で口を開き、未だなにも、と告げるのと変化は同時だった。廊下と船橋を繋ぐ扉を、邪魔だと壊すような勢いで開いたリオが、壮絶な瞳でハーレイを睨みつける。リオの肩は大きく上下し、力の使いすぎで顔色は青白くなっていた。恐らく、アタラクシアから直に船に転移してきたのだろう。船橋に直接飛ばなかったのは、船の状態が安定していないが故の誤差に違いなかった。
どういうことですか、とリオは叫ばなかった。ミュウたちに備わっているテレパシーが、言葉で問うよりも早く現状と、その理由をリオの心に告げたからだ。誰の言葉をも拒絶した態度で、リオはなんの感情にか燃える瞳を船橋にめぐらせ、ソルジャー・ブルーのご指示を伝えます、としなやかに響く思念波で語る。
『全員、このまま船橋と動力炉を死守。余裕があれば医務室とこどもたちの居る場所にも人を向かわせるように。五分で静める、と。キャプテンに対しては、無理をしないで休んでいろ、とも仰られていました。部下を信頼して場を託すのも、上に立つ者には必要だ、と。ソルジャー・ブルーからのお言葉は以上です』
では、と言い残して走り去ろうとするリオの腕を慌てて掴み、ハーレイはどこへ行くつもりだと問いかけた。瞬間、リオの唇が挑戦的な笑みを形作る。聞かずとも、言わずとも分かっているでしょう、と流れ込んでくる強い気持ちに、ハーレイはしかし首を振る。
「やめるんだ。この付近こそ、守られているからまだ安定しているが、このセクションを抜ければ暴風雨よりなお激しく荒れている。立つことさえ叶わない。なにより、ジョミーに近づこうとする者は皆、無差別に」
『ソルジャーは行きました。だから私も行きます』
最後まで言わせずに手を振り払って、リオはモニターに映し出されているステーションの様子、荒れ狂う嵐の中心で苦痛に身をよじるジョミーを見つめた。手当てすることさえ叶わない状態だから怪我はどんどん酷くなっていて、出血量も考えると生きていることが不思議だ。暴走する力にもてあそばれて、それでもジョミーは歯を食いしばり、悲鳴だけは抑えていた。そして強い意志を灯した瞳が、前を向いている。
瞬間、誰もが気がついた。ジョミーは、待っているのだと。意識を失いかねない激痛と、力が体を食い破って荒れる苦痛にひたすら耐えながら。ジョミーはソルジャー・ブルーと、そしてリオを待っているのだ。行きます、と短く言い残し、すこし走り出してからリオはハーレイを振り向いた。そして場違いなほどに穏やかな笑みを浮かべ、リオは怒らないであげてくださいね、と言った。誰のことであるかは、明白だった。
口を閉ざすハーレイにさらに笑いかけて、リオはそれと、と付け加える。
『ソルジャーと自分を同列扱いするのは気が引けますが、ぼくたちにしかできないことです。今後、もし同じようなことがあっても、絶対に真似なさらないでください』
なんのことかはモニターを見ていれば分かると思いますが、と微笑んで。リオは揺れる船の床を蹴り、振り返らずにターミナルへと走り出して行った。ハーレイの言うとおり、ブリッジに通じる廊下を曲がった瞬間から、体感する揺れと圧迫感の度合いが違う。軽やかに階段を飛び上がったかのように、走ることさえ難しくなってくる。しかしリオは、一歩も足を止めなかった。ただひたすら、ステーションを目指す。
そしてステーションの入り口から中に飛び込んで、リオは思わず息を飲み込んだ。入ってすぐ見えたジョミーの、あまりの怪我の酷さにだった。そして、新調された服がボロボロになってしまっているのを見て、なにより先にそのことをリオは可哀想に、と思った。ソルジャー候補生として新しい服を受け取った時の、ジョミーの喜びようを知っていたからだ。後で慰めなければと思いながら、リオは荒れ狂う空気の中を、泳ぐように移動していく。ターミナルはそこかしこに穴が開いていたり、壊れていたが、破棄しなければいけないほどのものではなかった。
『大丈夫ですよ、ジョミー』
これなら数日で直るだろうと考えながら、リオはひたむきに向けられるジョミーの視線に気がつき、ごく自然に目を合わせて笑う。大丈夫、大丈夫、といつものように囁きかけてやると、ジョミーの顔が泣き出しそうに歪んだ。己の成してしまったことの重大さに気が付き、怯える幼子の表情だった。リオは大丈夫ですから、誰も怒っていませんから、と丁寧に語り聞かせながら、ゆっくり、ゆっくりと距離をつめていく。
不意に、肌を切り裂く強さで風が揺れ動いた。気密空間で発生するかまいたちのような鋭い不可視の刃は、しかしリオに届く前にやんわりとしたそよ風に変化し、そのまま消え去ってしまう。状況を見ているであろう船橋のどよめきが、張り詰めたリオの意識をかすかに動かした。ジョミーは必死に歯を食いしばり、涙を浮かべた目でリオを見つめながら嫌々、と駄々をこねるように首を振っていた。
それが、力の消失の理由だ。今のジョミーの力は暴走していて、とても制御しきれるものではない。しかし、それでもジョミー自身の力なのである。全てを従えることは出来ずとも、ほんの一部であるのなら操ることもできる、ということなのだろう。リオ、怪我は、とほとんど泣いているのと変わらない声で向けられる思念波を受け取って、リオは静かに微笑んだ。大丈夫です、とあやすように繰り返してやる。
そして一歩を踏み出して、リオはようやくジョミーの元へとたどり着いた。その頃には、リオを襲う圧迫感や息苦しさは全て消えていて、いかにジョミーが必死に力の制御をしようとしているかが伺える。涙の向こう側にある翠の瞳は、ただリオを傷つけたくないのだと語っていた。大丈夫、大丈夫、と歌うように繰り返し、リオは血で汚れるのも構わずにジョミーの体を抱き寄せた。傷に痛みを与えない、優しい仕草で。
船を揺らしていた重圧が、ふっと消えうせる。けれどジョミーの表情は傷のせいだけではなく苦しげで、力の暴走がまったく収まっていないことを示していた。顔色は悪く、青白さを通り越して土気色にもなりかけている。約束の五分までは、あとすこし。リオは役目が終ったことを悟り、全幅の信頼を預けた表情で顔をあげた。カツン、と硬質な靴音が響く。舞い降りるように姿を現したブルーは、笑っているようだった。
リオとブルーは顔を合わせ、それぞれに苦いものを含ませた笑みを交し合う。リオは、ジョミーの力が船に与える影響を食い止めることができる。それは、ジョミーがリオだけは傷つけたくないから、と心から願っているからだ。誓いにも等しい深さで、そう思っているのをリオは知っていた。だからこそ暴風雨の最中、姿を現すことができたのである。対してブルーには、それが出来ない。向けられる想いが違うからだ。
ジョミーは、ブルーも傷つけたくないと思っている。傷つけることなどあってはならないと、そう思っている。けれどそれ以上に、ジョミーはブルーになにもかもを捧げているから。傷つけたくはないけれど、傷つけられてもいいのだと。そう、思ってしまっているからこそ、ブルーにはリオのような役回りは出来ないのだった。リオは、ブルーと同じことなどできはしないのだけれど。だからこその笑みと、苦い想いだった。
ほんのひととき想いを共有しあって、ブルーは視線をジョミーへと向けた。そして気負うわけでもなく手を伸ばすと、リオの腕の中からジョミーを抱き上げてしまう。ぎゅっとしがみついてくるジョミーの頭をぽんぽん、と撫でながら、ブルーは慌てることはないよ、と囁いた。
「いいかい、ジョミー。怖がることも、恐れることも、慌てることもなにもない。もうジョミーは抑え込むことは出来ている。だから後は、落ち着かせてあげるだけでいい。……そう、良い子だ。イメージを追いなさい」
暗闇の長いトンネルに、光を灯して。出口に向かって手を引き、走り出していくように。すこしだけ強引に、それでいて怖がらせないように、ブルーはジョミーを導いていく。穏やかに、それでいて駆け足で。これ以上はもう、ジョミーの意識や集中力が持たないだろうから。ジョミーだけに制御をまかせるのではなく、寄り添いあい、溶け込むようにブルーの力も注ぎ込んで。水面に顔を出して、安堵に呼吸するように。
ごく自然に、ブルーはジョミーの力の暴走を治めてしまった。はぁ、とぐったりと脱力して、ジョミーはブルーにもたれかかった。肩に頬を寄せて、甘えるように目を閉じてしまう。ごめんなさい、とちいさな呟きが空気を揺らした。わざと怒った風に微笑んで、ブルーはそうだね、とジョミーの罪悪感を肯定してやる。
「船を守ろうとして、壊してしまっては元も子も無い」
「うん……はい。ごめんなさい、ソルジャー・ブルー」
「怪我した者もたくさん居る。守るというのは、傷一つ付けないということではない。己を含めて大切にする、ということだ。……顔をあげなさい。ソルジャー・シン」
厳しい声に逆らわず、ジョミーは顔をあげてブルーを見た。かすかに怯える瞳に、ブルーはやんわりと微笑みかける。そして血や煤(すす) で汚れてしまったジョミーの額にそっと唇を押し当てて、その体をゆるく抱きしめた。
「だが、よく頑張った。……頑張ったね、ジョミー。船を守ろうとしてくれて、ありがとう」
だから、怒ってはいないよ、と。暖かな声で囁かれて、ジョミーの目に涙が浮かぶ。ごめんなさい、と耐え切れない言葉が壊れ果てたターミナルに響き渡った。ごめんなさい、ごめんなさい、と何度も何度も繰り返される謝罪は、ジョミーの体が意識を強制的に断ち切るまで続いていて。その一つ一つをしっかりと受け止め、ブルーはうん、と。ちいさく頷いて、その言葉だけを返してやっていた。それで十分だった。
両手に大量の医療品と食料品を抱え、着替えの入った紙袋まで下げて、リオは極上の笑顔で面会謝絶に決まっているじゃないですか、と言い放った。それにハーレイはすこしだけ言葉に詰まりながらも、そんなに容態が悪いのか、と問いかける。そんな筈はないだろう、と言いたげだった。ある程度の確信もあるのだろう。船を穏やかに包み込む、ソルジャー・ブルーの気配がこの上なく安らいでいるからだ。
一目会うだけでもいいんだ、とブルーの寝室へ続く扉を睨むハーレイに、リオはすげなく駄目です、と言った。
『減ります』
「……ナキネズミは、いいのか?」
なにが、どう、どうして減るのかを、問いかけるのさえ疲れる気がしたので、ハーレイはあえてそこを聞いてみた。ちょうど、足元を散歩から帰ってきたナキネズミが走り抜けていったからだ。手馴れた仕草で腕を差し出して肩までのぼらせ、リオはにっこりと笑みを浮かべる。
『いえ、ですから三等分なんです。これ以上は、ちょっと』
「……そう、か」
『ええ、そうです。ではキャプテン。失礼します』
もう、同意するほか、ハーレイにどんな言葉があっただろうか。額に手を押し当てながら言うハーレイに軽く頭を下げて、リオは大量の荷物を器用に抱えながら扉を開け、室内へと足を踏み入れる。軽い音を立てて閉まる扉をしばし見つめて、ハーレイは船橋へと戻って行った。船のクルーたちの前に、ジョミーが元気な姿を見せるまでは、もうしばらくかかりそうだった。全快するまで、面会謝絶は続くことだろう。
別に、意識が戻らないほど容態が悪いわけでは、まったくないのだけれど。僅かに苦笑して薄暗い部屋の中、リオは戻りました、と奥に向かって声をかけた。そして荷物を扱いやすい位置に置き、リオはナキネズミを連れてベットへと近づいていく。待っていたジョミーとブルーに微笑みかけて、リオはもう一度戻りました、と告げる。ジョミーはおかえりなさい、と言って抱かれているナキネズミに手を伸ばした。
ぴょん、と飛びついてくるナキネズミを嬉しそうに抱きとめて、ジョミーはリオに視線を向ける。起き上がるとリオとブルーに怒られるので、ジョミーは広いベットの上に座り込むようにしていた。すこし前まではブルーの膝枕で甘えていたのだが、リオが来たので離れたのである。誰か来ていた、と首を傾げて思念波を飛ばしてくるジョミーに、リオは素直に頷いた。
『キャプテンが、すこし。お大事に、とのことでした』
「大事にしているよ、と伝えておいてくれないか。今度」
にっこり笑いながら告げたのは、ジョミーではなくブルーだった。背中から腕を回して抱き寄せてくるブルーに顔を真っ赤にしながら、ジョミーは大事の意味が絶対違うっ、と大騒ぎだ。視線でリオに助けを求めるも、青年は微笑んで間違っていません、と告げるばかりで救いにはならない。恥ずかしまぎれにナキネズミを抱きしめれば、二人の意思がより鮮明に伝わってしまって、逆効果にしかならなかった。
数日後。リオに付き添われて船橋にひょっこり顔を出したジョミーは、向けられる長老たちの視線に恥ずかしそうに笑い、それからぺこりと頭を下げた。
「心配かけちゃってごめんなさい。でも、もう元気になったから、また今日からよろしくお願いしますっ」
「よかったねぇ、怪我も治って」
おいでおいで、と笑顔で手招くブラウ航海長の元へ、ジョミーはぱたぱたと走っていく。ブラウは笑いながらジョミーを出迎え、やや乱暴に頭をなでながら顔を覗き込んだ。そして額をぴったりくっつけて、ナイショ話を囁くように告げる。
「お願いだから、もうあんなことするんじゃないよ。確かに危ない状況だった。アンタの一瞬の判断が、船を救ったのは事実だけどねぇ……アンタを失いたくないのさ。ソルジャーだってそういう筈だよ。分かったかい? 分かったら、返事」
「……はぁい」
「コラ。不満そうにするんじゃないよ。シャングリラはね、壊れたら直せば良い。けど、命は直せないんだ」
分かったね、と真剣に言ってくるブラウの目を、ジョミーはしばらく見つめていた。そして素直にこくん、と頷いたので、ブラウはジョミーを膝の上に抱き上げて、人形に対するように抱きしめてしまう。真っ赤になって硬直するジョミーを愛でながら、ブラウは物言いたげな目を向けてくる他の長老たちとリオに向かって、しみじみと言った。
「ソルジャーが可愛がる気持ちが分かるねぇ。なんだい、この可愛いコ。エラ女史も抱いてみるかい?」
「遠慮します」
「そう。意外と軽くて柔らかいよ……ジョミー、アンタちゃんと食事食べてるんだろうね。成長期なんだから、変な遠慮なんかしたら承知しないよ」
冷たく切り捨てるエラの言葉に全く動じず、ブラウは真っ赤な顔で口をぱくぱくさせているジョミーに、叱り付けるように言った。めっ、と遊び心たっぷりに注意されて、ジョミーは大丈夫、と必死に頷く。そして膝の上から退こうとするのを引き止めずに解放して、ブラウはいかにも楽しそうに、肩を震わせて笑った。ハーレイが思い切りため息をつく。そして、リオの背中に隠れてしまったジョミーを見ながら注意した。
「ブラウ。若者をからかうな。可哀想だろう」
「おや、なんだいハーレイ。抱っこして欲しいのかい? いいよ。おいでおいで」
「どうしてそうなるんだっ!」
ひらひらと手を泳がせて誘うブラウに、ハーレイは頬を赤く染めて怒鳴り返す。予想通りの反応だったのだろう。ブラウは椅子から床に落ちそうな勢いで笑い出し、エラが冷たい視線を送ってため息をついた。長老たちの大騒ぎに船橋には諦めたような、心地よく脱力したような気配が漂っていた。