もうあなた会議に参加するつもりとかないのでしょう、と睨みつければ、ソルジャー・ブルーは無駄なまでに綺麗な笑みを浮かべてそんなことはないよ、とうそぶいた。参加する気がないのなら部屋に帰るに決まっているだろう、と続けられればハーレイには二の句が告げないが、他の長老たちからはどうしてそこで諦める、と無言で睨みが向けられる。だったらご自分でおっしゃればいい、とハーレイは胃を痛めた。
昼下がりの会議場。無言で繰り広げられている攻防は、まるきり日常のものだった。アタラクシアで新しいミュウの仲間が見つかった、との報告がない限り、議場が真剣な空気を帯びることなど滅多にない。あるとすれば機関室の調子が悪くてその原因が見つからなかったり、ソルジャー・ブルーが食事を面倒くさいと言い放ってあまり取らなかったり、ソルジャー・ブルーが愛しい太陽にうっとりしている時くらいだ。
もっとも前者二つはともかくとして、後者で議場が緊張するのは、いつハーレイが胃痛に耐えかねて血を吐き出すか、という心配であって、危機感ではないのだが。平和って素敵なことだと思いますよ、と思念波で囁きながらハーレイの肩を叩き、リオは緊張感を解きほぐす微笑みで紅茶を差し出した。白地に金のラインが入った、会議室専用のティーカップだ。薄紅の水色ではなく、乳白色の液体が入っている。
多少は胃に優しいかと思いまして、と笑いながらハーレイの分だけをミルクティーにしたリオは、他の長老たちにも次々とお茶を配っていく。そして最後にうっとりと目を細めるブルーに、リオは火傷しないでくださいね、と注意をした上で紅茶を置いた。ブルーはうん、と頷いたものの、どこか上の空である。その原因を熟知しているリオはくすくすと笑って、今日はもうダメだと思いますよ、と議場全員の意思を代弁した。
『夕方くらいまでは使い物にならないんじゃないでしょうか。なにかあれば呼ぶ、と言われましたけれど、ジョミーが素直に呼んでくれるとも思いませんし。帰ってくるのを待つしかないのでは?』
「ああ、そうだろうね。ジョミー、今とても頑張っているから」
困っちゃって、可愛い、とくすくす笑いながら言うブルーに、ハーレイはやっぱり、と議場の広い机に突っ伏した。ずっと覗き見てらしたのですね、と睨んでも、ブルーはごく温和な微笑を向けてくるだけで、効果は見られない。それでいて、その微笑みは表面的な反射のようなもので、意識などハーレイの方には向いても居ないのだ。それが分かるから、ハーレイはもう諦めることにした。お開きですね、と呟きを落とす。
長老たちも呆れ果てながら同意して、各々の持ち部屋へと戻って行った。残されたティーカップを片付けながら、リオは静かに目を閉じて意識を集中させ、アタラクシアへ気持ちを飛ばす。すると、聞こえてきたのは歌声だった。明るく弾む、元気いっぱいの。それでいて悲しい、ジョミーの声。思わず微笑むリオに、ブルーはにっこり笑いかける。可愛いよねぇ、と言いたげだった。そうですね、とリオは頷く。
『ご友人の……誕生日を、祝いたいからアタラクシアへ行く、だなんて。その発想が私たちにはないものです』
「ぼくらは愛されなかったか、その記憶を失ってしまっているからね」
暖かな愛が還って行く場所。大きな安らぎに巡り合える場所。ミュウたちに取ってのそれは、唯一地球のみであり、アタラクシアは恐怖と嫌悪の対象でしかない。迫害の始まりの場所。記憶を奪われた場所。冷たい憎しみがひっそりと横たわり、そこには愛も安らぎもない。ジョミーだけが帰りたがる、と甘い微笑みで囁いたブルーに、リオは苦笑しながら頷いた。
『それも、恐らくは今日までなのでしょうけれど』
ジョミーの心が還って行くのは、そこに愛された記憶があり、親しい人が居るからだった。しかしジョミーの両親はすでに居場所が分からなくなっており、共に過ごした友人たちも成人検査を経て、どんどん数を減らしている。たとえ挨拶を交わすだけの仲だったとしても、見知った者たちが居なくなっていくのは耐え難い悲しみだろう。そのたびに気分を落ち込ませるジョミーを、慰める言葉を持つミュウは居ない。
愛されていたこそ生まれる悲しみは、その経験を持たなかった者たちに癒せるものではないのだ。そっと寄り添うことは、できたとしても。物憂げなため息をついてブルーの隣の席に座り、リオはすっかり冷めてしまった紅茶を一口だけ飲み込んだ。広がっていく芳醇(ほうじゅん) な香りも、心を落ち着かせてはくれない。アタラクシアから響く歌声に意識を傾けて、リオは静かに目を伏せて時を過ごしていた。
手伝えることなどなにもない。送り出す言葉さえ、持っていない。今日はアタラクシアで、一件の成人検査が行われるのだという。ジョミーが親しい友人として付き合っていた少年、サムの誕生日だからだ。十四歳になったと同時に記憶は消され、こどもたちはアタラクシアから消えていく。晴れの門出とされる日を嘆いて、ジョミーは歌を紡ぎ上げていた。サムが好きで、良くせがまれたのだ、と。ジョミーは言った。
初めは、直接家に訪ねるつもりだったのだ。しかしジョミーは今やミュウなのである。サム自身が気にしないにしても、監視に引っかかればその時点で警備部隊が差し向けられることになるだろう。第一、接触したというだけで、サムに危険が及びかねない。だったらサムが行きそうな所をぶらついてみるのはどうだろう、と思ったのだが。偶然会う確立など低すぎるし、これも監視に引っかかりやす過ぎる。
考えて考えて、ジョミーが訪れたのはアタラクシアの中央にある広大な自然公園だった。キャンプやバーベキューも出来るし、アスレチックも併設されているから休日ともなれば人にあふれる公園は、しかし今日に限ってとてもがらんとしていた。平日の昼間であることと、アタラクシアの制度を考えれば人気(ひとけ) のなさにはすぐ理由が見つかる。こどもたちは学校の時間で、外を出歩いていないのだった。
また、学校に行かない幼子は母親と一緒に家にいるだろうし、アスレチックは未就学児にはすこし厳しいものなのだ。こどもたちは基本的に過保護に育てられるので、父親か母親と一緒に、が常識なのだった。それでもジョミーは、サムと一緒によくこの自然公園に来た。二人だけで遊びに来ることこそなかったが、どちらかの母親に二人で連れられて、日暮れまで泥だらけになって遊んだこともあったくらいだ。
家と学校を除けば、一番思い出が染み付いている場所かも知れない。思い出を辿りながら公園を歩いて、ジョミーは公園の森深く、いよいよ人が来ないような場所にある大きな木の上にのぼって、思い出しながらはじめはたどたどしく、しだいに滑らかに歌を紡ぎあげて行った。集中力が持続しないせいで、ジョミーは実技も筆記も苦手で成績が悪い。怒られてばかりだったのだが、唯一褒められたのが音楽だ。
伸びやかで自由な魂を、そのまま歌声に表したような。意識を奪いつくす程に上手いものではないが、聞いている者の心をほっと落ち着かせてしまう稀有な歌声だった。いつか気まぐれにサムの前で歌ってやってから、ことあるごとにせがまれたのをジョミーは思い出す。熱を出して寝込んだサムが、唯一せがんだのが甘い果物や玩具ではなく、ジョミーの安らかな子守唄だったこともある。笑い話なのだけれど。
いつもそのことをからかっては、ジョミーはサムにじゃれついていたのだけれど。今はもう、面白くもなんともない記憶で。胸が熱くなる代わりに、涙がこみ上げてくる。会いたい。会って本当は、最後だからと思い切り気持ちをこめて歌ってあげたかったのだ。その記憶が消えてしまっても。もしかしたら、大切な歌があったと、それくらいは残るかも知れないと。期待していたくて。さようならを、きちんと告げたかった。
ふと、歌が途切れる。とめどなく流れていく涙に邪魔されて、声さえ上手く出せなくなってしまった。こんな所で歌っていても、サムに届くわけなどないとジョミーは誰より知っていた。それでも、かすかな可能性にすがって。風が気まぐれに音を運んでくれないかと、それにサムが気がついてはくれないだろうか、と。木漏れ日を浴びながら見る太陽は、ずいぶんと西に傾いてしまっていた。一時間もすれば、日が沈む。
成人検査が行われる詳しい時間帯のことなど、ジョミーは知らない。己のものは思い出そうとしてもよく分からなかったし、ミュウたちに聞いても明確な答えは返ってこなかった。ただ、大多数は午前中から午後をまたいで行われるとのことだから、サムもきっとそうだったのだろう。ならば日が翳(かげ) ってきたアタラクシアに、ジョミーの知るサムはもういないのだ。サムも、ジョミーのことを忘れてしまっている。
記憶がどの程度消えてしまうのか、上書きされてしまうのか。そんなことをジョミーは知らない。親の記憶さえ奪われてしまうなら、友人のことは忘れてしまうだろうと思うくらいだ。目をごしごしとこすって、ジョミーは大きく息を吐き出した。届かないと分かっていて歌を紡ぐことは自己満足にしかならなかったけれど、それでもずいぶんと気持ちが楽にはなった。笑ってジョミーは立ち上がり、木から飛び降りる。
硬い土の感触が足に広がるかと思いきや、ジョミーを包み込んだのは柔らかな腕だった。大地に足をつける前、空中でぎゅぅっと抱きしめられて、ジョミーは顔を真っ赤にして脱力する。ブルー、と軽く拗ねたジョミーの声に、ミュウの長は優しい表情で微笑むだけだった。ふわりと重力を無視した動きで浮かび上がりながら、ブルーの手がジョミーの髪を撫でてくる。ほっと息を吐いて、ジョミーは肩に額を押し当てた。
「迎えに来なくていいって……言ったじゃないか」
「ああ、そうだね。ジョミー。はい、口を開けて」
実はソルジャーは笑顔で人の話を聞いてくれないことがありますから、とジョミーに教えてくれたのはリオだっただろうか。聞いてくれてないっ、と内心盛大に騒ぎながら口を開けたジョミーに、ブルーは飴を指先で弾いて食べさせてしまう。ずっと歌っていたから喉が痛いだろう、と笑うブルーになんだか悔しい思いを感じながら、ジョミーはちいさく頷き、飴を舌で転がした。甘さは喉に優しく、心にまで広がっていく。
ゆっくりと浮かび上がり、ブルーはアタラクシアの全てが見渡せるほどの高度で動きを止めた。夕暮れの光に照らし出されて、街は一面の紅に染め上げられている。目を細めてみても、動き回る人の姿すら判別できない。眼下には、人が息づく街があるばかりだった。もうそのどこにも、サムはいない。ジョミーの父も母も、どこかへ行ってしまった。こみあげてくるものを堪えるジョミーを、ブルーはそっと抱きしめる。
「……すまない」
ジョミーはブルーに抱きつきながら、そんな言葉は聞きたくないと激しく首を振った。どんな謝罪も、必要ないのだ。成人検査の日、ブルーが介入して来なかったとしても、ジョミーはいずれミュウとして覚醒していただろう。それだけが真実だ。だからジョミーは、迎えに来てくれたブルーの手を取る。振り払わず甘える。船に帰りたかったからだ。アタラクシアではなく、シャングリラこそ、ジョミーが帰る場所なのだから。
眠るのは生まれ育った家の部屋ではなく、シャングリラの中にあるジョミーの部屋だ。食事をするのはマムの笑う居間ではなく、ミュウたちが笑う食堂で。学ぶのは学校の教室ではなく、ハーレイの居る船橋や勉強部屋だと素直に思える。そしてなにより、還りたいと思うのは。アタラクシアではなく、シャングリラ。ブルーの、ジョミーの為だけに広げられた腕の中だ。謝らないで、とジョミーは言ってすこし笑う。
そしてアタラクシアの街をしっかりと見下ろして、ジョミーは慈愛を感じさせる微笑を浮かべた。
「さよなら」
息を飲んだブルーが言葉を告げる前に、ジョミーは視線を地上から引き剥がす。そして、船がある方向を眺めた。視線の先に、まだ船影は見えないけれど。確かに帰って行く場所が、その先にあるのだというように。ねえブルー、とジョミーは言った。
「喉渇いた。リオ、飲み物用意してくれてるかな」
「ああ。きっと」
「うん。じゃあ、帰る」
早く帰る、と言ってジョミーはブルーにぎゅっと抱きついた。胸に押し付けられた顔は、甘く微笑んでいる。よしよし、と頭を撫でてやると、嬉しさが弾ける思念波がブルーの心を満たしていった。