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はちみつ

 音にもならない空気の振るえと同時に、唇に赤い痛みが走った。思わず手で唇を覆ったジョミーに、おままごとに参加していたこどもたちがいっせいに目を向けてくる。それに大丈夫だよ、と返したいのに上手く思念を紡げずにいると、こどもたちの中からカリナが進み出てきた。きょとん、と目を瞬かせたカリナはジョミーの前まで来て目を覗き込み、そしてすこし驚いたように、楽しそうにまぁ、と言った。
「唇が切れてしまったのね? 大丈夫? 痛いでしょう」
 今日は乾燥しているかしら、と大人びた声で呟きながら、カリナは淡い黄色のポシェットを探った。そしてはい、と笑顔で差し出されたものに、ジョミーはやっと手を外しながら首を傾げる。なにそれ、と言いかけた瞬間、また唇に赤い痛みが走って、ジョミーは思わず眉を寄せた。反射的に押し当てた指には血がついていて、すこしだけ気持ち悪くなる。話したらダメ、とカリナは笑ってジョミーの手を取った。
 そしてリップクリームをジョミーに手渡すと、塗れば治るわ、と訳知り顔で言う。
「リップクリーム、知らない? ……まあ、ジョミーったら、今まで唇が切れたことなかったのね? うらやましい。……ああ、ええ、そうよ。それ、女の子たちが使っていた、それよ」
 人間でもミュウでも、一緒の物を使っているのね、とすこしばかり不思議そうに言葉をつなげて、カリナはジョミーの思い浮かべている記憶を読むのをやめた。不快感ではないのだが、すこしばかり不安がる心の動きを感じ取ったからだ。説明するのに足りる知識は受け取ったし、納得してもらったようだから、これ以上は踏み込んではいけない。ミュウたちはとにかく、不用意に相手に踏み込みすぎるのだった。
 それをカリナは親に注意されていたし、ジョミーと出会って経験としてもう学んでいたので、適度なところで切り上げることができていた。もう読まないわ、大丈夫、とあやされるように笑われて、ジョミーは恥ずかしさに視線をうろつかせる。女の子は男の子より精神的な成長が早いとはいうが、カリナはジョミーよりずいぶんと年下なのだ。さすがに情けなく思いながら、ジョミーは持たされたリップクリームを見る。
 人差し指と同じくらいの長さの、細くて白い筒だった。先端にあるふたを取れば、ふんわりと甘い香りが広がっていく。はちみつリップクリーム、と書かれているので、匂いの正体はそれらしい。なるほど、と思いながらネジを回してクリームを出して、ジョミーはそこで動きを止めてしまった。学校で少女たちが唇に塗っているのを見たことはあっても、やったことはないので戸惑ってしまったのである。
 うー、と軽くうめくジョミーに楽しげに笑って、カリナはやってあげるわ、とお姉さんぶった言葉でリップクリームを取り上げた。ずるい私もやりたいっ、と見ていた少女たちから好奇心いっぱいの叫びが向けられるも、カリナに取り合うつもりはないらしい。また今度やらせてもらって、と言い返して、ジョミーの唇にクリームを乗せた。す、っとなめらかな仕草でクリームが引かれる。とても慣れた仕草だった。
 終わったわよ、と告げられていつのまにか閉じてしまっていた目を開け、ジョミーは赤くほてってしまった頬に両手を押し当てた。幼いながらも少女であるカリナとの接近に、弾んでしまった鼓動が恥ずかしくて仕方がない。そういう対象として、意識しているわけではないのだけれど。ぱたぱたと手を動かして顔を仰ぎながら、ジョミーは唇に上乗せされたクリームに軽く眉を寄せる。そして、不満げに呟いた。
「……カリナ。ぺたぺたする」
「がまんしなさい、ジョミー。唇切れて、痛いのイヤでしょう? それに、甘い匂いもするんだからいいじゃない」
「女の子って、偉い。こんなのがまんできるんだ」
 心もち、唇が重たくなった感じさえして、どうもジョミーは落ち着かなかった。これがカリナがやってくれたものでなければ、すぐにでもこぶしで拭ってしまうのだが、精一杯いかめしい顔つきでダメよ、と睨まれているのだからなお出来なかった。こどもたちの中で一番ジョミーに懐いてくれていて、ジョミーも可愛がっているのがカリナなのである。向けられる好意を邪険(じゃけん) にすることは出来なかった。
 それでも、どうしても気になってしまって視線をうろつかせるジョミーに、カリナは微笑ましげに笑ってリップクリームを再度手渡してくる。ジョミーにあげる、つかってね、と言われれば断ることも出来ずに。なぜか大いなる敗北感に打ちひしがれて頷いたジョミーに、笑いを堪えている声でハーレイが思念を飛ばしてくる。そろそろ会議だから、ソルジャーを起こして会議室に来てくれないか、とのことだった。
 素直に了解の異を返し、ジョミーはこどもたちに遊びの中座を告げると、立ち上がって広い公園をぐるりと見回した。そして、街路樹の下でいつの間にか眠ってしまっているブルーを発見すると小走りに、それでいて足音が立たないように近づいていく。いつの間にか寝てしまうブルーの眠りが、深くないことを知っていたからだ。うつら、うつらとまどろむように眠ることの方が、夢を見ないそれよりよりずっと多い。
 それだけ疲れている、ということなのかも知れなかった。だからこそハーレイも直接起こすことが忍びなく、ジョミーに頼んできたのだろう。慣れた仕草でブルーの傍らにしゃがみこみ、寝顔をそっと覗き込んで、ジョミーは静かに息を吐く。改めて、なんて綺麗なひとだろう、と思ったのだ。ソルジャー・ブルーは綺麗で涼しげで、男なのに美しい、という言葉がしっくり似合ってしまう不思議なミュウだった。
 女性的な美ではないのだ。どちらかと言えば中性的な、線の細い美しさだった。目を開いていれば儚い印象もあるが、眠っている今は逆に凛とした強ささえ感じさせるから不思議だった。うすく開かれた桜色の唇からは、規則正しく安らいだ呼吸が聞こえていて、その眠りが珍しく深いものであると分かる。ハーレイがそうであるように、起こすのが忍びないのはジョミーも同じことだった。しかし、会議なのである。
 内容が分かりきった定例会議であっても、それはそれ、ミュウたちの大切な場なのである。そしてソルジャー・ブルーは長なのだ。気持ちよく眠っていたので欠席しました、で済まされないこともある。起こすのイヤだなぁ、と思いながらもブルーの肩に手を置いて、ジョミーはまず軽く揺さぶってみた。しかし頭がふらりと揺れるだけで、意識が浮上してくる気配は感じ取れない。安らいだ寝息が、うっとりと漏れている。
 困りながらジョミーは口を開き、今度はブルーの名を呼びかけた。起きて起きて、と繰り返せば、それが大きな声でなくとも意識に引っかかるものがあったのだろう。ほんのわずか眉が寄せられ、それだけでなぜか壮絶な色香を感じさせる仕草でまぶたが持ち上げられた。かすれた声が、ちいさくもれて行く。ジョミー、と普段より幾分低い声で、普段と同じ甘さで囁かれた。それだけでジョミーは、息が苦しくなる。
 カリナに感じたものとは違う感情が心を動かして、ジョミーの頬を赤く染めた。思わず視線をそらして会議、とぶっきらぼうに言葉を落とせば、ブルーはなんだかとても嬉しそうにうん、と呟いて。そして急に伸びてきた腕がジョミーの首に回され、強い力で引き寄せられる。驚く間も、なかった。重ねただけの唇を離して、ブルーはジョミーに柔らかく微笑む。
「甘い」
「……なっ。え、えっ?」
 くすくす、と笑うブルーはとても機嫌が良さそうに見えた。なぜかとてもいたたまれない気持ちになりながら脱力して、ジョミーはブルーの胸に顔を寄せる。耳を澄ませば落ち着きある鼓動が聞こえて、それがジョミーにはすこし悔しかった。カリナに、とだけ返せば記憶を見たのだろう。ブルーはああ、と納得したように頷いて、己の唇に指を押し当てる。指をすっ、と横に動かす仕草がなまめかしい。
 直視できずに胸に顔を押し付けるジョミーに、ブルーはそれで、と微笑んだ。
「いつもより、甘い」
 言葉を返すより早くあごをすくわれて、呼吸がさらわれる。何度も、何度も慈しむように口付けを落とされて、意識が熱に犯されていく。やっとのことで息を吸い込めば、その瞬間に視界がぐるりと回ったのを感じた。赤い瞳を見上げて、ジョミーはぼんやりとブルーの名を呼ぶ。頬がそぅっと撫でられて、いつものキスが降りてきた。頬に、目尻に、額に。唇に。優しく、ついばむように。
 そして最後にぎゅぅっと、幸せいっぱいの表情で抱きしめられて、ジョミーは目を閉じて息を吐き出した。幸せなのはジョミーの方だった。こんなに優しく愛されて、嬉しくて仕方がない。恥ずかしい気持ちも、たくさん感じるのだけれど。腕を上げて肩にうずめられたブルーの頭を抱き寄せると、すりっと甘えるように寄ってきて。可愛いなぁ、と思って、そして、はっとジョミーは気がついた。思い出したのである。
 現在位置の人目の多さと、そして会議前でハーレイに呼ばれている事実を。今すぐ穴を掘って立てこもりたい気分になりながらも、ジョミーはブルーの髪を軽く引っ張って会議っ、と訴えたのだが。機嫌よく笑った最長老は、うん、とだけ言って。そしてそのまま、安らかな眠りへと戻って行ってしまった。思ってもみない行動に硬直してしばらく考え、ジョミーはまさか、とひとつの結論にたどり着く。そうとしか思えない。
 やけに機嫌よく笑っていたことも、普段と比べてすこし強引だったのも、甘えていたのも。すべて、寝ぼけていたのだとしたら。説明がつく。意識を失いたい気持ちになりながら、船の中に人工的に映し出された青空を眺め、ジョミーは深呼吸をして。そして助けてリオ、と弱々しい思念を飛ばした。忍び笑いと共に、すぐに、と言葉が返ってくる。ジョミーはそれに安堵の息を吐きながら、弾む鼓動をもてあまして。
 仕返し、とばかりに、ブルーの額に口付けを送る。ふわりとはちみつの香りが漂い、すぐに消えた。

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