想いを告げる言葉を知らなかったのは、こどもだったからだとばかり思っていたのは、もう遠い日々だ。ジョミーはぼんやり揺れていた意識を引き上げて、ベットの上でゆっくり体を起こす。深夜でもないのにしん、と静まり返った部屋は広く、照明は明るいのに物寂しい。慣れてしまったのだ、とジョミーはクスリと微笑んだ。そう、慣れてしまった。暖かく優しい人たちに騒がしく囲まれる、という至上の幸福に。
眠気を払うために頭を振って立ち上がり、ジョミーはベットわきの棚に置いておいた補聴器を手に取った。熱を持たないものである筈なのに、指先がほんのり温かさを伝えるのは、思い出のせいなのだろうか。切なく目を細めて、ジョミーはそれを耳につける。かしゃん、とかすかな音が響くことこそ、幻なのだろう。この道具の元の持ち主の印象が透き通る硝子細工のようだったから、心が思い出を辿るのだ。
一時も、忘れたことなどないのだけれど。ジョミーはブルーを思い出さない。その代わり、忘れない。思い出として記憶は過去にあっても、想いは昔に置き去りにされない。今も、繰り返される呼吸のように、あるいは過ぎていく時のように自然に、そこにある。いとしい、いとしい、と今も心が叫んでいる。膨大な想いを告げる言葉を、見つけられないままに。愛しい、そして、悲しいと。何度も何度も、繰り返している。
ゆるく微笑みを浮かべて思考を断ち切り、ジョミーは思念でリオを呼んだ。今も昔も変わらぬ忠実さで、リオはすぐに返事を返してくる。起きたのですか、と柔らかく微笑まれて、ジョミーの胸が甘く痛んだ。別に、リオとブルーを重ねてみているわけではないのだけれど。向けられる優しさが、あまりに似ているから。すこしだけ言葉に詰まって、ジョミーは息を吸い込んだ。きちんと、笑えているだろうか。
『ああ、おはよう。リオ。船内の様子は? 変化とか』
『ありませんよ、ソルジャー。ですので、もうすこしお眠りでもよろしかったのに』
疲れは取れましたか、と続けられる言葉に頷きながら、ジョミーはなんの気なしに時計を見て沈黙する。起床予定時刻より、一時間も遅かった。ジョミーの身の回りの世話やスケジュール管理は、リオがしてくれている。そうである以上、ただ寝過ごしたということはありえなかった。リオ、と頭の痛い声で呼びかけると、忠実な側近たる青年は微笑むばかりで言葉を返そうとはしない。リオはいつも、そうだ。
いつも、いつも。リオはそうして、ジョミーを暖かく甘やかしてくれる。連日の会議と戦闘で神経が張り詰め、疲れがたまり、ゆっくり休めていないことを見抜かれていたのだろう。複雑なものを感じながらありがとう、と囁くと、リオは嬉しそうに笑ってさて、と言った。
『予定を変更しましたから、二時間後に会議です。それまでは、どうぞごゆっくり。一時間程度しましたら、私も手が空きます。そうしたら、お茶のお誘いに行っても?』
『かまわないよ。嬉しいな、待ってる』
『はい。ではソルジャー、一時間後に。……ジョミー』
交信を終える直前に、名は労わる風に呼ばれた。思わず震えてしまったのは、その声があまりに優しく、そしてあまりに久しぶりだったからだろう。ソルジャー、と呼ばれるたった一人になって幾年。その役目の大きさを背負いきる為に、ジョミーは親しい相手にもなるべく『ソルジャー』と呼ぶようにと頼んでいた。一番それを寂しがったのは、リオだった。けれど一番はじめに、呼んでくれたのもリオだった。
『ソルジャー』という呼称に、ジョミーが向ける想いの大きさを知っていたからこそ。深い傷を労わり、思いやるように、リオはずっとソルジャー、とジョミーを呼んでいた。とっさにジョミー、と呼ばれることならあったのだけれど、お互いに深く意識するものではなかったため、記憶もされずに消え去っていた。動揺しながらなに、と言うジョミーに、リオはお休みしましょう、と笑う。
『たまには、ソルジャーをお休みしましょう。ね、ジョミー。二時間だけ。二時間だけ、ですから』
『リオ?』
『ジョミー。あなたは、疲れすぎている』
ソルジャーと呼ばれたいのなら休むのも仕事ですよ、ときつく言われて、ジョミーは苦い笑みを浮かべた。どうやら思っていたよりずっと、リオには心配をかけてしまっていたらしい。分かったよ、と比較的素直に返してやると、リオは喜色に輝く声ではいっ、と叫ぶ。では一時間後に、という言葉で交信を終えられて、ジョミーはたった今立ち上がったベットに腰かけた。そして、ころんと軽やかに倒れて横になる。
意識せぬ疲れが、長い息を吐き出させた。眠気まで襲ってくるので、リオの言うとおり、ジョミーはどうやら疲れすぎているらしい。まいったなぁ、と思いながらあくびをして、ジョミーは久しぶりに安らいだ気持ちで目を閉じる。けれど、眠りには入らない。意識してしまえば不思議なもので、体はもう疲れて動かせないのだけれど。起きたばかりの頭はやけに元気で覚めていて、疲れを知らず、眠れないのだった。
ふぅ、とため息がもれる。でも寝ないと疲れ取れないよな、とジョミーはころんと寝返りを打った。ぎっ、とごく軽くベットがきしむ。その音が体の下からではなく、どこか別方向から聞こえてきたような、とジョミーの意識が首を傾げた。けれど、まぶたが持ち上がらない。むぅ、と不満げにうなったジョミーのまぶたを、上から覆うように。すこし冷えて心地いい手が、眠りを誘うように触れてきた。
「仕方ない、コだ」
くすくす、と声の主は笑う。それに。本当に、ほんとうに切ないくらい悲しいくらい痛いくらい、泣き出したくて叫びだしたくてどうしようもなくなるくらい、覚えがあるのに。まぶたは持ち上がらなかった。体が動かなかった。声も、出なかった。心だけが焦る。名前など知っているはずなのに、どうしても思い出せない。心に、それはもう浮かんでいるのに。囁けない。呟けない。告げられない。呼べ、ない。
喉が悲しみに引きつる。流れていく涙は、けれど頬を伝う前に唇で拭われた。優しい仕草。愛しい熱。ああ、あなただ、とジョミーは心で囁いた。まぶたを覆う手とは逆の手が、ジョミーの髪を撫でていく。そして頬に唇が押し当てられ、耳にかすかな吐息がかかった。
「眠りなさい。良いコだね……おやすみ、ジョミー」
この世のなにより愛しいのだと、告げてやまない声の響きで。どれほど名を呼ばれたかったことか。それは言葉にさえ出来ない、途方もない想い。急速に眠りに落ちていく意識の中で、ジョミーはやっと思い出したその名を呼ぼうと無理やりに唇を開いた。けれど言葉が声として放たれるよりも早く、唇は柔らかな感触に塞がれてしまう。一度目は、触れ合うだけで。二度目は、唇を舌で舐められて。
三度目からを、ジョミーは覚えていない。眠ってしまったのかも、知れなかった。もう一度出会って眠るなら共に、と。本当はずっと、願っていたはずなのに。
ひどく慌てた様子で揺り起こされて、ジョミーはぼーっと体を起こした。大きくあくびをしながら体を伸ばして、ほっと安堵に脱力しているリオを眺める。どうかしたのか、と問いかければ、リオはこちらの台詞ですよ、と額に手を押し当てて呟く。
『何度呼んでも起きませんでしたし、ぴくりとも動かないで……心配したんですからね』
「あー。うん。それは、ええと……ごめん?」
『いえ、休んで欲しいと言ったのは私ですから。矛盾しますが、よく眠れたようでよかった』
スッキリした顔してますよ、と言われてジョミーは思わず微笑みを浮かべた。気分は晴々としていて、なんだかとても心地よい。ずっと感じていた緊張がほぐれて、肩の力が抜けた気分だった。疲れてたんだなぁ、と思いながらジョミーはベットから立ち上がって。その瞬間、鼻先をかすめた残り香に。涙が、あふれた。慌ててリオが何事かと尋ねて来るが、ジョミーは首を横に振るだけで答えない。
切なくて、息を吸い込むだけで胸が張り裂けそうだった。もう消えてしまった金木犀の香りを追いかけて、意識が記憶へともぐっていく。そしてやっとジョミーはその名を思い出し、その名を呼んだ。
「ブルー。ソルジャー・ブルー……ぼくは。ぼくはっ」
こぼれる涙を拭う、唇の感触がよみがえる。嬉しくて悲しくて、あとはもう声が出なかった。盛大に泣き出したジョミーを、リオがそっと抱き寄せる。よしよし、と慰めるように背を撫でられて、ジョミーはリオに強い力ですがりついた。涙を止めることや、悲しみを収めることなど、考え付きもしなかった。思うままに泣いて、涙を流して悲しみたかった。ソルジャー・ブルー。なぜ、もう、いないのか。なぜ、こんなにも早く。
伝えたい言葉ならたくさんあった。伝えられない言葉も、たくさんあった。船に来たばかりのジョミーはまだ幼くて、心に根ざす感情を言葉に表す術を持たなかったし、当てはまる言葉を見つけることができなかった。それをずっとジョミーは、幼いからだと、思い込んでいたのだけれど。そうではないのだと、失ってから初めて知った。想いは大きすぎて、今も過去にはならなくて。鮮明で。強くて。強すぎて。今も。
愛しくて、愛しくて、愛しくて。恋しくて、会いたくて。言葉にできないものだったのだと。ジョミーは失ってやっと、それに気がついた。