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おやすみ。おはよう

 眠れないなら手を繋いであげようか、と。いたずらっぽく微笑む珍しい表情で、ブルーはジョミーに囁いた。時刻はすでに深夜の二時を回っている。体調の関係もあり、一日のほとんどを寝て過ごすブルーとは違い、ソルジャー候補生として忙しく動き回るジョミーにしてみれば、もう絶対眠らなければいけない時間だった。それなのに、分かっているのに、ジョミーはなぜか眠れずにベットの上でごろごろしている。
 心配して来てくれるのは嬉しいのだが、安静にしていなければいけないのではないだろうか。そんな想いで沈黙するジョミーに、ブルーは優雅な仕草でベットに腰を下ろし、透き通るような笑みを浮かべて大丈夫だよ、と告げた。仕草のひとつ、ひとつ。告げられる言葉の発音さえ、ブルーは綺麗で優雅で覇気に満ちている。夜という静かな時間が、ブルーに対しては特別に味方しているのかも知れなかった。
 日が落ちた方が体調がいいんだ、と続けられるので、ジョミーの予想もあながち間違ってはいないらしい。上手く返事を返せずにころ、と寝返りを打って背を向けたジョミーの手を、ブルーは大切なものを包み込むようにして取った。強くもなく、弱くもない力で手が繋がれる。やんわりと眠りを誘う熱が、限りない安心と共にしみこんでくるようだった。ジョミーは、ふと気持ちを和ませる。意識がゆるりと解けて行った。
 んん、と無意識にぐずるような声を上げるジョミーの、木漏れ日を写し取った金色の髪を指先で整えるように撫でながら、ブルーは枕ではなく己の膝の上に頭を抱え込んでしまう。反射的に抵抗しかかったジョミーだが、ブルーの着る服の肌触りの良さと撫でる手の心地よさに、堪えられなくなったのだろう。自主的に寝心地のいい場所を探して身動きをし、腕をブルーの腰に回す。そして、甘えて抱きついて来た。
 さあお眠り、と甘く微笑みながら告げるブルーは、その瞬間にふとあることを思い出して。繋いでいた手に軽く力をこめ、己こそ安堵したように息を吐き出した。気配の変化に、気がついたのだろう。夢の世界に半分迷い込んだ声で、ジョミーがどうしたの、と問いかけてくる。それになんでもないよ、と返しながら、ブルーは消えかかった思い出を楽しむまなざしで囁いた。
「思い出しただけだ。昔のこと。ぼくも一度だけ、やってもらったことがある」
「な……にを?」
「『眠れるまで、ずっと傍に居る。この手はずっと、離さないから』と。本当に、嬉しかった」
 ふぅん、とすこし気に入らない様子でジョミーが呟きを返す。そしてふてくされた様子で目を完全に閉じてしまうのに、喉の奥で笑って。眠り込んでしまった愛しい太陽を撫で、ブルーは暖かな感情で目を伏せる。思い出した記憶はかすれていて、輪郭がぼんやりとしていて、よく分からない。けれど暖かな想いだけは、思い出すことができた。ジョミー、と静かに囁いて、ブルーは告げる。
 悪夢を見ない優しい眠りと、安らぎの夜を祈りながら。かつて、それをブルーに与えてくれた存在のことを思い出して。きみは知らないだろうけど、と笑って。
「全部。全部、きみだった。……君だったんだよ、ジョミー」
 ありがとう、と感謝の気持ちを込めて落とした口付けに、眠るジョミーはくすぐったそうに微笑んだ。



 カツン、とブーツの音を廊下に響かせて、ジョミーはあれっと首を傾げた。確かに眠っていた筈なのに、どうして廊下になど立っているのだろう。不思議に思って己の姿を見下ろすと、全体的に半透明になっている。寝ぼけた意識が思念波を飛ばして、体は寝ているのに意識だけが分離した状態になってしまったのかも知れなかった。もっと簡単に、夢なのかも知れなかったが。ジョミーに、それは分からない。
 どちらにしろ、己の意思ではどうにもならないことである。まいいや、と早々に諦めて辺りを見回し、ジョミーは違和感を持って眉を寄せた。見えている廊下は、確かにシャングリラのものである。そうと分かるのに、記憶のそれと完全に一致しないのだ。煌々と明かりが灯されているのにも関わらず、薄暗くて息苦しい。活気がなく、閉鎖感が空気に重く織り込まれていて、窓を開けても払えそうになかった。
 心に忍び込むぞっとした不安に耐え切れず、ジョミーは走り出していた。誰の気配もない廊下を通り過ぎて、まっすぐにブルーの寝室へ向かう。ブルーならこの意味の分からない恐怖を、取り除いてくれる気がして。幸いなことに、ブルーの部屋がある位置に大きな変わりはないようだった。しかし道行きで船の大きさや形状が違うことは明白で、ジョミーはいよいよ混乱して部屋に飛び込む。怖くて仕方がなかった。
 部屋に足を踏み入れて、ジョミーは大きく息を吸い込んだ。そこは、ソルジャー・ブルーの部屋だった。覚えがあるそれと比べて半分くらいの広さだが、それでもがらんとしている。置かれた物の少なさが原因ではなく、誰かの気配の温かみのない、寒々しい空間のせいだった。間接照明に照らされて、部屋の中央にブルーのベットは置いてある。ブルーは苦しげで、歯を食いしばりながらなにかに耐えていた。
 とっさに走り寄ったジョミーに視線を向けて、ブルーの瞳が困惑と警戒に揺れ動く。まったく知らない相手を目にした時の、ごく普通の反応だった。誰だ、と厳しく誰何(すいか) する思念波に縫いとめられて、ジョミーはベットから数歩離れた位置で足を止める。その言葉で、向けられたことのない表情で、ジョミーはなにもかもが理解できた。これは、夢ではない。そして『現在』でもない。これは。これは、過去だ。
「ソルジャー・ブルー……ええと」
 どうして、と混乱した呟きをこぼして、ジョミーは頭を強く振った。しかし目の前の現実はなにも変わらずに、すこし幼いブルーからは疑わしげな目が向けられている。それだけは記憶のものと変わらない紅の瞳が、ジョミーの心の奥底までもを貫くように向けられていた。まあ読まれてもいいや、ブルーだし、とごく楽な気持ちで相手の出方をうかがうジョミーの考えに対して、ブルーの反応は思わぬものだった。
 ふぅ、と疲れきった息が吐き出される。直後にぐらりと体が揺れて、ブルーはベットに仰向けに倒れこんでしまった。今度こそ慌てて近寄ったジョミーが見たのは、発熱で赤く染まったブルーの顔で。熱に意識を乱されながら、ブルーは己を覗き込んでくるジョミーを見上げ、くすっと笑った。
「きみは、どうやら迷子らしいね。今のぼくには、それくらいしか分からないけれど……きみから見えた船は、シャングリラは、とても大きかった。暖かな空気で、穏やかで、広い船だ。あれは、今のシャングリラでは、ない」
 きみはだれ、とごく穏やかな声でブルーは尋ねた。すこしだけ痛む心を隠しながら、ジョミーは無意識に手を伸ばし、ブルーの頬に触れながら答える。熱さを感じる体温が、痛々しかった。
「ジョミー。ぼくは、ジョミー・マーキス・シン。……ねえ、ブルー。熱、辛くない?」
「もう、慣れたよ」
 後遺症だ、となんでもない風にすこし笑って、ブルーは触れられている手に心地よく目を閉じた。大きく息を吸って、それから吐き出して、ブルーは目を細めてジョミーを見つめる。すこし先のシャングリラからの迷い子は、後遺症、という言葉にショックを受けてしまったらしい。青ざめた顔でかすかに震えているのが、可哀想でならなかった。けれどそのことが、ブルーには嬉しい。もう、繰り返されはしないのだと。
 ミュウたちに行われた実験という名の虐待と暴力。苦痛しか与えなかった日々。一日は灰色の絶望で始まり、闇深く沈む悲しみで終って行った。たくさんの犠牲を払ってやっと逃げ出して、空の中に作り上げた安住の地が、シャングリラだ。そこで、ミュウたちは心地よく過ごすのだろう。そのためにきっと、ブルーやハーレイはとてつもない努力をしなければならないのだろうけれど。悪夢は、終っていたのだ。
 すくなくともブルーが受けたような痛みを、ジョミーは知らないのだろう。だからショックを受ける。だから、悲しんでくれる。ブルーはふわりと微笑んで、未来の同胞に手を伸ばした。熱で上手く動かない指が、触れた腕は暖かい。気持ちよくて、嬉しくて、ブルーはうっとりと笑った。
「泣かないでくれ、ジョミー。やさしい、ぼくの仲間。悲しまないでくれ。きみという存在が、とても嬉しい。ぼくたちの努力は報われる。ぼくたちの悲しみは、いつか癒される。憎しみが消えなくとも、ぼくたちは、暖かな空気の中で、ひとときの安らぎの中で、いつか、暮らせる。だから、どうか、泣かないでくれ。きみという光を目指して、ぼくは頑張っていける。ああ……きみに、いつ、出会えるんだろう。楽しみだ」
 ゆっくり、ゆっくり、おとぎばなしを語り聞かせるように。ブルーは優しく、柔らかい声で囁いた。熱のせいで上手く言葉が紡げないのを、もどかしく思いながら。腕に触れて、肩に触れて。涙で濡れる頬に触れて。目尻に触れ、髪を耳にかけて頭を撫でて、ブルーはぱたりとベットに手を落とす。もっと触れていたかった。けれど体力はもう限界で、腕を上げることすら苦痛でしかない。意識を保つことさえ、辛い。
 目を閉じて機械的に呼吸を繰り返すブルーに、ジョミーは流れる涙をこすってから手を伸ばした。そして壊れ物を扱うようにブルーの上半身を抱きしめて、大丈夫、と必死の気持ちで言い聞かせる。大丈夫。怖いものも、痛いものも、苦しいものもここには来ない。おやすみ、おやすみ愛おしい人。今は眠りに休み、夢で遊んで。おやすみ、と。思念波で歌うように言葉を紡いでくるジョミーに、ブルーは微笑んで。
 そして不思議な安らぎに包まれて、すぅと楽な気持ちで息を吸い込んだ。体が軋むほど熱が出ていて、痛くて辛くて仕方がないけれど。これなら、眠れそうだった。急に呼吸が安定してきたブルーの体から腕を離し、ジョミーはベットの横に座り込む。そしてブルーの手を両手でぎゅっと握り、祈るように目を閉じた。
「眠れるまで、ずっと傍に居る。この手はずっと、離さないから……だから、おやすみなさい。ブルー」
 船に来たばかりのジョミーの眠りを、未来のブルーがそうして守ってくれたのを思い出しながら。ジョミーは目の前にいるブルーの手を握って、大丈夫、と優しい言葉を囁き続けた。



 目を開けたとたん、にこにこと上機嫌に笑いながら顔を覗き込んでいたブルーと目が合って、ジョミーは恥ずかしくて脱力してしまった。今まで見ていたのがもし夢だったのだとしたら、至近距離にいたブルーには当然筒抜けだっただろう。ダメだ、恥ずかしい、顔合わせられない、とぶつぶつ呟きながら枕で顔を隠そうとするジョミーの行動を、にっこり笑って制止させて。ブルーは、ジョミーに向かって身をかがめた。
 儀式めいた厳かさで口付けは交わされる。視線をうろうろさせながら動けないジョミーの頬をそっと撫でて、ブルーは肩口に顔を埋めた。そのまま、ひどくこもった声がなにごとかを告げる。言葉としては聞き取れなかったものの、思念波として読み取って、ジョミーは不思議さに目を瞬かせた。ありがとう、と言われても意味がよく分からない。ねえなにが、とジョミーはブルーの背を軽く叩き、問いかける。
 ブルーは顔をあげてなんでもないよ、と笑い、それからジョミーの頬におはようのキスをした。離れていく時にこっそりと、ブルーはジョミーの耳元に囁く。
「やっと、きみに、もう一度会えた。……おはよう、ジョミー」
 さあ朝食だ、と笑いながら手を差し出してくるブルーに、ごく自然に手を重ねて。ジョミーは繋いだ手をじっと見つめて、首を傾げる。すこし前まで鮮明に覚えていた夢の残滓(ざんし) は消えてしまっていて、胸には不思議な暖かさだけが残っている。だから、分からないのだけれど。それでも。手を繋ぐことは、とても大切な約束に思えて。着替えの入った戸棚にてくてく二人で歩きながら、ジョミーはねえ、と言う。
「手を、さ。なんか、たくさん、繋ぎたいんだけど」
「いいよ」
 君が望むなら、いつでも手を繋ごう、と。余裕の表情で笑うブルーが、なぜかジョミーにはとても悔しくて。思わずぎゅぅっと抱きついて、ジョミーはため息をついた。

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