悲鳴だけはと、殺したのだろう。声にならない響きが船内を貫き、ブルーは思わずベットから起き上がった。心臓が早鐘を打つのは、今の思念波が愛し子が発したものだからだろう。ジョミー、と呼びかけても強すぎる感情と力が探知も受信も拒み、全てを跳ね除けてブルーに様子を伝えてこなかった。冷たい汗が背を撫でる。思わずジョミーの名を絶叫しかかれば、なめらかに響くリオの思念がブルーを呼んだ。
こちらへ、と導かれるままに跳躍し、ブルーは己の寝室から広く明るい公園へと姿を移動させる。風を孕んだマントが広がり、ブルーは硬質な音を立てて地に降り立った。そして視線をすこしあげ、ブルーは言葉を発さずにまなじりを鋭いものにした。すこしだけ残った普段通りの心が、こどもたちが見慣れないソルジャーの様子に怯えていることを伝えてきたが、気配を柔らかにできなかった。
「リオ。ジョミーは、どうしたんだ」
まるで感情の見えない冷たい声に、こどもたちだけでなくジョミーの気配までもが怯えたそれになる。またジョミーに直接ではなく、抱き起こしているリオに質問が飛んだことも不安をあおったのだろう。不安に塗りつぶされた視線ですがるように見られるのを感じながら、ブルーはジョミーに目を合わせようとはしなかった。ただ一瞬だけちらりと目を向けただけで、あとは厳しい表情でリオの回答を待っている。
リオは深く、息を吐き出した。そしてソルジャーのスーツが切れ、右の足首から膝辺りまでにナナメの切り傷を負ったジョミーを変わらぬ態度で抱き起こしながら、申し訳ありません、と守れなかったことへ謝罪を述べた。
『木に登ったこどもを助けようとして、足場にした枝が折れました。その枝で傷ついてしまったようです。落下の衝撃はありません。木の損害は軽度。公園管理部に後ほど私から報告しておきます』
「こどもに怪我は」
『ありません、ソルジャー。ご安心を』
深く頭をたれながら淡々と報告を終えたリオに頷いて、ブルーは怯えた様子で見守るこどもたちに目を向けた。そしていつも通りの柔らかな笑みを浮かべると、その中でもひときわ泣きそうな表情で震える少年の前にしゃがみ込む。そっと手を伸ばして頬についた汚れをぬぐってやりながら、ブルーは一応医務室へ行きなさい、と言った。木登りには十分注意するようにとも告げると、こどもたちはいっせいに頷く。
そして我先にと公園を走って出て行くのは、言いつけられた通り医務室へ行くのもあるだろうが、場に居ることに耐え切れなかったからだろう。柔らかく笑っていても、穏やかな気配をまとっていても、今のソルジャー・ブルーは抜き身の刃そのものだ。こどもたちは敏感にそれを察して、逃げてしまったのだろう。ふぅ、と息を吐いてちいさな気配を見送って、ブルーは沈黙するジョミーとリオに向き直った。
カツ、と靴音が響き、ジョミーとブルーの距離が縮まる。ジョミーはぎゅっと目を閉じて怒られるのを怖がったままで、ブルーの方を向けないようだった。ひどく冷えた空気をまとうブルーに、リオはごく控え目に名を呼びかける。落ち着いてください、との意が含まれた声に、ブルーはふっと微笑むだけでなにも応えない。リオは眉を寄せて思念を閉ざし、けれど諦めたようだった。軽いため息が、公園の空気を揺らす。
それを合図にしたかのように、ブルーはジョミーに腕を伸ばし、リオは受け渡すように体勢をすこし変えた。ぐいと乱暴に腕を引かれて抱き寄せられ、足に痛みが走ったのだろう。押し殺した苦痛の声を耳元で聞きながら、ブルーはジョミーを横抱きにすると立ち上がり、指示待ちの表情で控えるリオに短く告げた。
「戦闘があれば、呼べ」
それはつまり、戦いにでもならないかぎりは近寄るな、ということである。長に優雅な礼を返して命令を受け、リオは助けを求める目のジョミーにすこしだけ苦笑を向けた。思念ではなく、唇がゆっくりと言葉をつづる。『ま・た・あ・と』までは読み取れたのだが、恐らくは『で』を目にする前にジョミーは強制的に場所を移動させられた。ジョミーはてっきり医務室へ連れて行かれると思ったのだが、感じたのは薄暗さだ。
違和を感じる前にベットの上に下ろされ、至近距離で赤い瞳に見つめられて、ジョミーはなぜか声を出すことができない。それでも背筋を駆け上がる薄ら寒い恐怖を逃がそうと、ジョミーはブルーの名を呼ぼうとしたのだが。唇が、痙攣(けいれん) に似た動きで動いたのすら気に入らないというように、ブルーはジョミーに口付けてしまう。それでも一度目はそっと、触れるだけの優しいキス。普段通りに、優しい。
だからジョミーは思わず体の力を抜いて、ゆるい安堵に身を任せかけたのだが。肩が押されて、ジョミーの体がベットに貼り付けられる。柔らかい布に抱きとめられたのを感じる間もなく、今度は噛み付くようなキスが来た。触れ合うだけの唇から、舌が入ってくる。怯えるジョミーの舌を絡め、思うままに味わってから唇を離して、ブルーは大きく息を吸い込んだ。ジョミーに向けられる目は、まだすこし厳しい。
「……いけない子だ」
指先でくすぐるように頬を撫でられて、ジョミーは反射的に息を吸い込んだ。その時に混ざり合った唾液を飲んでしまい、ジョミーはすこしむせながらも頬を染める。すこし前まで行われていた行為を身の内に受け入れてしまったようで、ひどく居たたまれない気持ちだった。そんなジョミーに柔らかく笑いながら、ブルーは指先で愛し子をそっと撫でていく。ブルーが身を屈めると、目を硬く閉じてしまうのが面白かった。
笑いながら頬に口付けて、ブルーは不意打ちに目を瞬かせるジョミーと視線を重ねる。そして指でジョミーの唇をなぞりながら、思念で期待したのかと問いかけると、その顔がみるみる赤くなっていくのが愛らしい。腕で顔を隠し、声も出せない様子で脱力してしまったジョミーからすこし身を離して起き上がり、ブルーはまったく、と呆れ果てた息を吐き出した。
「ジョミー。どうしてきみは、いつも自分を大事にしてくれないんだ」
してるよ、と反射的にでも言い返せる空気ではなく、ジョミーは言い訳がましい呟きを口の中で響かせた。だってあのままじゃ大怪我してしまうかも知れなかったし、と伝わってくる思念波の気遣いが向けられる相手は、木に登っていたこどもなのだろう。大怪我ではないにしろ、軽症とはいえない怪我を負った己の身ではなく。収まりかけていた怒りが再燃するのを感じ、ブルーは額に手を強く押し当てた。
そのまま目を閉じて深呼吸してみるも、どうも気持ちが落ち着かない。普段がずっと、凪いだ穏やかな感情を保っている弊害(へいがい) だろう。一度荒れてしまった心は、中々落ち着くということを思い出さないのだった。ブルー、と心配そうに呼びかけてくるジョミーの声も、今は苛立ちをふくれさせる原因にしかならない。怒られるのが嫌なのなら、不安になるくらいなら、どうしてもっと注意して行動しないのか。
元気いっぱいに動き回るのがジョミーの性だと分かっていても、ブルーの心はざわめいた。そしてざわめいたままで、一つの答えをはじき出す。自嘲するような笑みをすこしだけ浮かべて、ブルーは不安そうなジョミーに手を伸ばす。頬を撫でて頭を撫でて、それから両手で肩を強く押した。あっけなくジョミーは倒れる。その足元に移動して座り込みながら、ブルーはかすかな怯えに起き上がれないジョミーを見た。
そして露出して血が滲んでいる脚に手を置いて、ブルーはひどくゆっくりとした動きで傷口にキスをした。見せ付ける動きだった。びくっと脚を震わせたジョミーは、反射的な動きで口を手で塞ぎ、目をいっぱいに見開いている。ひどく混乱した思念が、嫌だと叫んでいた。未知への恐怖と常にないブルーの態度が、ジョミーには怖くて仕方がないらしい。やれやれ、と苦笑しながら身を起こして、ブルーは目を細める。
やんわりと愛しく微笑みながら、ブルーはジョミーの名を呼んだ。恐々とした動きで、ジョミーはブルーと視線を合わせる。それに笑い返して安心させてやりながら、ブルーは確認する響きで口を開いた。
「ジョミーは、ぼくのことは大切にできるのに、自分のことはしないんだね?」
「う……あの、ブルー。ごめんなさい。ぼく、もっと気をつけ」
ます、と続く筈だった言葉は、ブルーの笑顔付きの言葉で消し去られた。告げられた言葉がよく分からず目を瞬かせるジョミーに、ブルーはすいと体の位置を移動させ、顔を覗き込みながらもう一度繰り返す。
「できないのなら、それでもいいよ。ジョミー。……ねえ、ジョミー。きみは、ぼくなら、大切にできる。そうだね?」
「は、い。ブルー。ごめんなさい……あの」
「そうか」
ベットが軋んだ音を立てて揺れたのは、ジョミーの顔の横にブルーが手をついたからだ。閉じ込められるように見下ろされて、ジョミーはブルーに見惚れてしまう。ブルーは本当に優しく、愛しげな笑みをジョミーに向けていたから、目がそらせるわけもなく。うっとりと意識をまどろませるジョミーの頬をなで、ブルーは楽しげに笑った。
「では、ぼくのものにしてしまおうか。ジョミー。それなら大切にできるね?」
岩に染み込む水のように。ジョミーの心はブルーの言葉を受け入れ、理解しようとする。けれど十四年間で与えられた知識では、どうも理解しきることが出来ずに。ジョミーはすこし首を傾げて、たどたどしく問い返した。
「ぼく、が。ブルーの?」
ブルーは笑うだけで、質問に応えはしなかった。ただ言葉を促すように唇で頬や目尻をついばみ、肩に頭をうめてひどく幸せそうに笑っている。その頭をそぅっと抱きしめて、ジョミーはすこしだけ、考えて。それがひどく甘美なことであると、どうしてだか、分かって。息を吸い込むごとに、体が甘くしびれていく錯覚に囚われながらジョミーはブルーの名を呼んで。大切に、と呟いた。
「それなら大切に、できると……思います。ブルー」
「……良い子だ」
そして、すぐに与えられた唇を受け止めて。ジョミーは陽だまりで眠る猫のように、幸福そうに微笑んだ。
さて、と呟いたきりなにも言わず、微笑んだまま腕を組むリオから、ブルーは思い切り視線を逸らしていた。直視したらいけない、とソルジャーとしての本能が警告していたからである。またそうでなくても、とてつもなく怖かったからだ。ジョミーが絡んだリオは、ブルーでさえうっかり手が出せないほど怖くなることがある、と忘れていたわけではないのだが、それを覚えていた上で行動したわけでもなかった。
これ以上リオを刺激しないようにと、ブルーは意識を失って眠り込むジョミーの肩より上、首まですっぽりと包むようにシーツをかけなおした。ベットの中のジョミーは衣服を一切まとっていなかったから、薄いシーツでは体の線がくっきり出てしまい、かえってリオの怒りが増す。ため息と共にソルジャー、と呼ばれて、ブルーは思わず背筋を正してしまった。そして、恐る恐る視線をリオに合わせて、口を開く。
「なんだい、リオ」
『普通泣いたら止めますよね』
差し出した手を渾身の力で払いのけたかのような、音さえ聞こえそうな切り替えしだった。思わず言葉を失ってしまうブルーに、リオはにこにこと笑いながらも目に極寒を宿している。答えられないブルーを追い詰めるように、リオはベットへゆっくりと歩み寄ってきながら、もう一度、今度は問いの形に語尾を上げて言った。
『普通、泣いたら、止めます、よね?』
「だから……最後まではしなかっただろう」
全身くまなくキスをして。そこは汚いから嫌だ、と泣いて首を振った箇所にも唇を押し当てて、ブルーはジョミーの体を、『とりあえずブルーのもの』にしたのだった。ブルーにしてみればそれは十分『泣いたから止めた』に含まれるのだが、リオは受け止め方が違うらしい。にこっと笑みを深めて泣いたらやめますよね、普通、と繰り返す。リオにとっては最後まで行く行かないかではなく、泣かせたことが問題なのだ。
観念してため息をついて、ブルーはそうだな、と認めてしまった。そして目尻が赤くなっているジョミーに唇を寄せて、ちゅ、と音を立ててキスを落とす。
「まあ。これでジョミーは、自分の体を大事にしてくれるだろう。ぼくのもの、だからね」
『そうですね。まあ、それはそれとして』
言いながらリオは、眠るジョミーに手を伸ばしてシーツごと抱き上げてしまった。ジョミーは僅かに身じろぐが、疲れていて眠りが深いのだろう。すぐに安定した寝息が響き始めて、リオは穏やかに笑った。そして視線を向けてくるブルーに、ごく自然に告げる。
『ジョミーは連れて行きます。お風呂にいれてあげたほうが良いでしょうし、清潔な服を着せてゆっくり眠らせたいので。ソルジャーも、シャワーを浴びたら安静に眠ってくださいね? さもないと、キャプテンが怒鳴り込んできますよ』
あなたは私の胃を壊したいのですかっ、と二月に一度くらい、ハーレイが泣きながらブルーに叫んでいるのを知っているからこその発言だった。ブルーはそれを悪いと思っていないわけではなく、またハーレイにはすこし甘えることもあるので、どうも強い対応にできれない所がある。しかもこの場合は罪悪感もあるので、怒鳴られたら怒鳴られっぱなしで、反論などまずできないだろう。それは御免こうむりたかった。
仕方なく安静にすると約束をして、ブルーは健やかに眠るジョミーを名残惜しげに見つめる。そしてため息をつきながら、気まずく頭をかく。
「泣かせたいわけじゃなかったんだ。泣かせるつもりも、なかった」
『知ってますよ』
ジョミーもきっと知っています、と告げるリオに、ブルーはそうかな、と不安そうな目を向ける。リオは肩を震わせて笑いながらもちろん、と頷き、それ以上の会話をよしとしないように部屋の出口へと向かった。その背に、なるべく人の目につかないように移動してくれ、とリオも承知しているであろうことを告げて、ブルーはぱたりと寝台に仰向けになった。シーツにはまだジョミーのぬくもりと、匂いが残っていて。
思わず口元を緩めながら、ブルーはジョミーの泣き顔を思い出していた。泣いて、怯えて、嫌だと首を振っていたのに。愛しさと征服欲に突き動かされて、やめてあげることができなかった。真綿に包むように大切に、傷一つつけないで可愛がりたい気持ちがあるのも本当なのに。苦い笑みを浮かべて、ブルーは大きく息を吐く。
「まったく、どうかしてる」
それでも。意識を失ってしまう寸前に、ジョミーはブルーを呼んで腕を伸ばし、やんわりと抱きしめてあなたが好き、と告げてくれたから。それだけで全てを許された気持ちにもなって、ブルーは微笑みを浮かべた。