そもそもの発端は、老朽化してきた空調施設の改造作業中に起こった。新しい部品と古い部品の接続が上手く行かず、一部が機能を停止してしまったのだ。そこまでならまだ取り返しがつく失敗だったのだが、慌てた整備士の何人かが、焦って普段なら絶対起こさないようなミスを連発してしまい、結果としてシャングリラの空調は、今現在完全停止状態にあるのだった。幸いは、機関部に影響がないことだ。
船の走行については普段通りである為、船内に緊迫した空気は流れていない。空調が止まってしまっただけであり、現在必死に復旧作業が成されているので、不安に想うことなどないのだった。また、全館放送で流された整備士たちの謝罪と、真摯に仕事に取り組む気持ちが普段から評価されていた為、非難の思念が飛び交うことも少なかった。気持ちを共有できるからこそ、穏やかな慰めさえ漂っている。
そんな中で、リオは今大変困っていた。気温の調節なら、周囲の空気を多少変化させてしまえば良い問題なので、困っているのは暑さや寒さのことではない。リオに腕を回し、べたりと引っ付いて離れようとしないジョミーと、もの言いたげな目を向けてくるブルーと、一刻も早く空調設備が動き出し、事態が終結することを願って胃を痛めるハーレイに困っているのである。ねえジョミー、とため息まじりの思念が響く。
『体の回りに空気を密閉して、すこし冷やすだけです。簡単ですから、ね?』
「やだ。暑い。暑くて上手くコントロール出来ないんだって、言ってるじゃないか」
やだやだ、と普段の三割り増し幼い仕草で首を振り、ジョミーはリオにさらにぺたりと引っ付いた。そのまま腕を伸ばし、親交のある整備士の青年から差し入れられた、アイスを手に持って食べ始める。冷たくて美味しいのだろう。うきうきと弾む思念がもれ出ていて、リオは微笑ましさに表情を和ませたのだが。片眉を吊り上げたブルーに睨まれ、リオは深く息を吐き出した。視線に質量がなくて、本当に良かった。
もし質量があったとしたら、今頃リオにざくざくと刺さっていただろう。ご機嫌で抱きついているジョミーの腕に軽く触れ、リオは再度説得を試みた。涼を求める気持ちは分かるのだが、それならもっと適役が居る。
『では、ソルジャーに抱きついて差し上げてください。お喜びになりますよ』
「……絶対やだ。だったらハーレイ先生にする」
ブルーの夕日色の瞳が、すぅと細められた。視線がリオからハーレイへと動き、そのままぴたりと固定する。言葉も、思念も欠片さえ漏れていないのが怖かった。意識を飛ばしたくなるハーレイは、仕方なくリオに助けを求める。どうにかしろ、と。そんなこと言われても、と珍しく心底困りながら、リオはジョミー、とすこし叱るような思念で問いかける。抱きいて甘えてくるのは嬉しいが、真剣にハーレイの危機だった。
『どうして、ソルジャーは嫌なんです? ソルジャーの方が力の扱いが上手いんですから、きっと涼しいですよ』
涼しい。なにより魅惑的な言葉に、ジョミーの目がブルーへと向く。思念体ではなく生身で起きてきたソルジャーは、愛しい太陽の視線に極上の微笑みを浮かべ、そっと腕を開いておいで、と囁いた。言葉になりきらない呟きが、ジョミーからかすかに響く。恥ずかしいひと、と思念が響いて、けれどジョミーはふいとブルーから視線を外してしまった。そしてリオでいい、と呟いて顔を伏せ、ぎゅっと唇を閉ざしてしまう。
接触しているからこそ微弱に伝わる、迷子のこどものように泣き出しそうな気持ちを受けて、リオはジョミーをそっと撫でながら思念を飛ばした。慎重に、ごくひそめた力で。正確に、ジョミーにだけ聞こえないように調節して。
『……ソルジャー・ブルー』
『言っておくが、リオ。ぼくは、なにもしてない。疑うならハーレイに聞くが良い。ぼくは、なにも、してない』
『キャプテン?』
にっこり、輝く笑顔つきで。すこしの間もおかず問いかけたことから、リオはブルーがなにかやらかしたせいで、ジョミーが接触を拒否したと思い込んでいるようだった。疑う余地さえないような即時の問いには、嘘は容赦しませんよ、という意思が見え隠れしている。ハーレイは大きく息を吐き出して額に手を押し当て、ソルジャーの仰るとおりだ、と思い出しただけで記憶を消去したくなってくる光景を、リオに送った。
『いつも通りに、朝の挨拶を。それからすぐ空調が停止して、今に至る』
ハーレイから送られてきた光景は、リオもなんどか見たことのあるものだった。薄ぼんやりと明るいソルジャーの寝室。奥まった場所にひっそりと置かれたベットの傍に、顔を真っ赤にしたジョミーが立っている。マントが揺れて、ジョミーの体がゆっくりと傾き、眠るブルーに覆いかぶさるようになった。ジョミーがおはようのキスで起こしてくれれば、一日元気に過ごせるよ、と言い張った最長老のワガママ故の行動だ。
ハーレイや、時々はリオも場に控えているのは、なにも好きこのんで見ているわけではない。目覚めたブルーに、もしものことがあった時の為だ。ジョミー一人では慌ててしまい、適切な判断が取れないから、なのだが。真っ赤な顔で体を起こすジョミーの背に、ゆるりとブルーの腕が回る。そのまま、ぎゅっと抱きしめられたのだろう。バランスを崩した体はベットに倒れこみ、赤いマントがばさりと派手な音を立てた。
ブルーっ、と恥ずかしさに大慌てなジョミーの思念は、響き渡ったとほぼ同時に拡散してしまい、ハーレイの元にしか届かなかった。数秒の沈黙の後、ベットの上でブルーだけが体を起こす。そしてシーツをぎゅっと握り、耳まで真っ赤にして動けないジョミーを愛しげに眺めて撫でながら、ブルーはそこでやっとハーレイに目を向け、おはよう、と穏やかな声を響かせる。リオにも見覚えのある、いつも通りの朝だ。
なんとも言いがたい沈黙をはさみ、リオはホントにいつも通りですね、と呟いた。ハーレイはげっそりとした顔つきになりながらも同意し、さらに記憶を見ていくように、と告げる。正直終わりにしたいリオなのだが、もしも原因がつかめるようであれば、と心を遮蔽(しゃへい) せず、映像を受け続けた。空調が止まる。異変を問う言葉、返答の言葉が船内を風のように吹き抜けていった。ジョミーにも、伝わったのだろう。
勢いよくベットから体を起こして、不安そうな目をブルーへと向けた。それを微笑みで出迎えて、ブルーは恐らく、大丈夫だと囁いてやったのだろう。ほんわりと幸せそうな笑みを浮かべたジョミーの表情が、なによりの安堵を物語っていた。くるくると映像が変わっていく。時間が流れて、空調が止まったが故に、空気がよどんで来た。暑くなって来たのだろう。ジョミーは眉を寄せ、ソルジャー服の襟(えり) を開ける。
気配で、ハーレイが周囲の空気を操り、冷たいそれをまとったことが分かった。ジョミーから問いかけの目が向けられ、ハーレイがなにをしたか答える。ジョミーはふぅん、と呟いて自分でもやろうとするのだが、上手く行かない。風が逆巻くだけで、体の周囲で固定させることが出来ないのだ。訓練を見守っていたブルーが、くすくす笑いながら冷えた空気を作り出し、ジョミーの名を呼ぶ。おいで、と囁く優しい声が響く。
またそうやって甘やかしてっ、と叱責が飛ぶが、ハーレイの声はすでに半分ほど諦めていた。ジョミーはハーレイとブルーを、せわしなく見比べている。すぐに飛んでこないジョミーに向かって、ブルーが不思議そうな顔つきになった。ジョミー、と名が呼ばれる。それに、ジョミーは。悲しそうな悔しそうな、どこか怒った表情を向けて。急に、走り出す。そしてリオの元まで飛んで来て抱きついて、そのまま今に至るのだ。
早回しの映像で流れる記憶を見終わって、リオは大きく息を吐き出した。そして未だにリオに抱きついたまま、動かないジョミーの頭をぽんぽん、と撫でる。すり寄ってくるジョミーを慰めながら、リオはブルーに微笑んだ。
『よく、分かりました。悪いのはソルジャーです』
それに対して、反論の声があがるより早く。リオの肩から顔をあげたジョミーが、きっとブルーを睨みつける。
「ブルーのばか。ブルーのばか。ばかばかばかっ」
「……ジョミー」
ハーレイとブルーの、意図せず重なった二重奏の呟きは、けれど決定的に色が違うものだった。呆れ混じりに、それでは逆効果だと天を仰ぎながら呼んだのはハーレイ。ものすごく可愛らしく感じ、愛おしさを抑えきれずに呟いたのがブルーだ。ぼくのなにがばかなの、と問い返す声は甘く緩んでいて、反省などまったく感じられない。伝わる愛おしさに頬を赤く染めながら、ジョミーはそれでもブルーを睨んでいた。
「そうやって、すぐ力を使うんだから、あなたって人はっ。ぼくの為、なんかに」
『ジョミーはあなたの身を案じて怒っているんですよ、ソルジャー。力を使うことで、体調が悪くならないかと』
こくこく頷いて同意を示すジョミーを、うっとり見つめて可愛がっている最長老に、話が通じているかは定かではない。うん、ぼくが悪かった、と素直に謝罪が告げられても、ハーレイの胃の痛みは治まらなかった。いいですかソルジャー、謝罪は心がこもらなければ意味がないんですよ、と苦言を呈(てい) すハーレイにきょと、と目を向けて。ブルーはサラリと髪を揺らし、首を傾げる。
『力を使ったから怒られたのだろう?』
『……ええまあ、そうです。間違ってはおりませんが、しかし』
『しかし、ではない。うん。だから、ぼくは使わないことにする。さあ、キャプテン。頑張ってくれたまえ』
にっこり笑われ、ぽん、と肩に手を置かれて、ハーレイに拒否することなど出来るわけが無い。そして、早々に冷えた空気を消し去ってしまった最長老の体調維持の為にも、やらなければならない。大きく息を吐き出してから気合を入れなおし、ハーレイは室内の空気全てを心地よいものへと調整した。苦笑しながらリオも協力し、すくなくともこの一室だけは、空調が効いているのと変わらない状態になった。
もぞっと身動きをしながらリオから離れ、ジョミーは脱力気味に息を吐き出した。そういう意味でもないんだけどなぁ、との呟きは、もちろんブルーの耳にも届いていただろう。しかしブルーは聞こえなかったふりをして微笑み、ジョミーを見つめてすこしだけ首を傾げた。そして、そぅっと腕が開かれる。
「さあ、ジョミー? おいで」
「……あのですね、ブルー」
「きみが暑いというのなら、ぼくも我慢するけれど。ぼくはきみに触れたいんだ。だから、おいで」
空気が冷えて心地良い以上、ジョミーはそれ以上の抵抗が出来ない。ああもう、と唇を尖らせながらもブルーの元へ行き、広げられた腕の中に体を滑り込ませる。そしてマントで包むように抱きしめられて、ジョミーは最後の抵抗のようにあついよ、と呟いた。