休憩も必要だろう、と。微笑みとその言葉だけで長老たちを黙らせてしまったのは、さすがにソルジャーだからだろうか。最長老の貫禄たっぷりに、悠然とした佇まいで告げられて、反論の声をあげられる者などシャングリラには存在しない。唯一、声をあげられそうな者と言ったらジョミーくらいだが、その言葉も、放たれる前にあわせられた視線と甘やかな微笑みで封じられ、消し去られてしまった。
重ねられることを疑わない仕草で差し出された手は、手袋越しでも綺麗な形で。おずおずと触れ合わせれば、思うより強い力で引かれてジョミーは歩き出す。扉を出る前に振り返れば、長老たちは苦笑いで二人を静かに見送っていた。ソルジャーにもお考えがあるだろうから、今日はもう訓練は良い、と控え目に背を押す思念はハーレイのものだ。また甘やかして、とブラウに睨まれても、ハーレイは動じない。
さあ行きなさいと見送られ、ジョミーは小走りにブルーの後をついていく。手を繋いでいるから、はじめは引かれるように。すこしして歩調を合わせ、隣に並んでくれたブルーを見上げて、ジョミーは軽く眉を寄せた。手袋越しであっても触れ合っているのに、こんなに近くに居るのに、遮蔽しているのか、ジョミーが下手なのか、ブルーの心が読めないのである。涼しく麗しい横顔からも、内心は読めない。
それが、なんだか急に怖いことのように思えて、ジョミーは繋いだ手をぐいと引っ張った。衝撃に、藤色のマントがふうわりと揺れる。白と銀、藤色で構成されたブルーのソルジャー服は、素材はジョミーのものと同じ筈なのに、ささいな動きでさえ優雅に見せた。
「ジョミー?」
ほんのすこし、首を傾げて。うっとりと細められた目に、なにを言えばいいのだろうか。恥ずかしくて首を振り、ジョミーはなんでもない、と視線をそらした。勝手に不安がってしまったことが、たまらなく悪いことのように思えた。こんなに、眼差しひとつ、呼びかけひとつですぐ分かってしまうほど大切にされているのに。不安がることなど、何一つ無いはずなのに。なんでもない、ごめんなさい、と呟くジョミーに影が差す。
額にそっと口付けられてクスリと笑いを奏でられ、ジョミーは眩暈を起こしながら間近になった紅玉を見返した。
「連れ出してきて、よかった。やはりすこし、休まなければ」
不安になるのは疲れの証拠だ、と乱れた髪を指先で撫でつけ、ブルーはおいで、と囁いてジョミーの手を引いた。体の位置が変わって、さえぎられていた照明が光を取り戻す。それに眩しく目を細めながら、ジョミーはなんとも言えない気持ちでブルーの後を追った。本当にこの人は、と甘い痛みが胸に走る。すぐ頬や額に口付けてくるブルーにしてみれば、軽い挨拶や慰めにしか過ぎないのかも知れないけれど。
どうすれば分かってくれるのだろう。ジョミーに取ってその触れあいは、もっと別の感情を呼び起こすのだと。心などすぐに把握してしまう距離にいても、ブルーは涼しげな顔で微笑むだけで、ジョミーの問いに答えようとはしない。大人の余裕で軽く交わされてる気がして、ジョミーはぷぅっと頬を膨らませた。ブルーが大人らしく受け流して取り合ってくれないのであれば、ジョミーはこどもっぽく振舞ってみせるだけだ。
だから、繋いだ手は離さない。ぎゅぅ、と力をこめてくるのにすこし笑って、ブルーはジョミーをある一室へと誘った。扉を開いた瞬間、廊下にまで広がる緑の香り。緑深い、初夏の庭園だった。日差しがやや強めに調節されていて、木の葉が反射する輝きはすこしだけ目に痛い。冷やりと肌を撫でる空気は水をたっぷり含んでいて、髪や服がしっとりと濡れてしまいそうだった。けれど、足元の道は乾いている。
銅色と黄土色、二色のレンガが組み合わされて出来た、可愛らしい散歩道が奥へと続いていた。一歩踏み込んですぐに扉を閉め、ブルーはジョミーにやんわりと笑みを向ける。
「ちょっと変わった部屋だろう? いつもジョミーが行く公園や、庭園とは雰囲気も違う筈だ」
「うん。なんか、涼しいのに暖かい感じ。落ち着きます」
「それは、よかった」
ごく近くで囁かれた言葉が、聞いたこともないくらい嬉しさの滲むものだったから。驚いて顔をあげたジョミーに、ブルーはたまらない愛しさが透ける笑みを浮かべていた。思わず見惚れるジョミーを、ブルーはごく自然な動作で抱き寄せる。ここはね、と耳元を言葉が掠めていく。吐息がくすぐったくて、恥ずかしくて、ジョミーはぎゅっと目を閉じた。するとますます奥まで忍び込んでくる声が、深い感謝を伝えてくる。
「きみを想って、ぼくが作った部屋なんだ。いつか、連れてこようと思っていた。気に入ってくれて嬉しいよ」
「ぼ……ぼくの、ことを?」
「そう。君が生まれて、すこししてね。きみの姿や魂の輝き。美しい力の波動や、笑い声。きみから受ける、キラキラした綺麗な尊いもののイメージを全部集めて、この部屋を作ったんだ。きみを迎えに行く日を夢に見ながら。すこしでもきみを、傍に感じていたくて」
この部屋に来るたび、きみを想って、きみに包まれているような安堵を感じたよ、と微笑まれて。ジョミーは上手く返す言葉を持たずに、仕方なく恥ずかしいひと、といつものように呟いた。別にそれでも構わないさ、と抱きしめていた腕を離し、ブルーは静かな仕草で手袋を外してしまう。そして無造作に足元に落とすと、ブルーは生身の手で直にジョミーの頬に触れてきた。それだけで、ジョミーの鼓動は跳ね上がる。
ただ触れられることが、こんなに甘くて苦しいだなんて。ジョミーは、ブルーに出会うまで知らなかった。知る必要もなかった。恋をしたいとも、思ったことがなかったから。かすかな動きであごを上に向けられて、ジョミーはブルーの顔を見上げた。麗しいミュウたちの指導者は、ジョミーの頬に指先を滑らせて撫でながら、戸惑いに揺れる翠の瞳を愛おしむ。
「訓練は、順調? 怪我をして、いけないね」
「こ、これはっ。ぼくが、その、悪いから」
右頬の中央よりやや下に張られたガーゼが、ブルーには気になって仕方がないらしい。何度も指でその箇所を撫でられて、ジョミーはちりちりとした痛みと、呼吸がつまる甘い苦しみを感じた。愛おしさが過ぎる、そんな目で見ないで欲しかった。なにもかもが優しいひとだから、乱暴に手を払うことさえ出来なくなる。これ以上、触れないで欲しいのに。そっと見上げれば、唇の距離が近いことに気がついて慌てる。
けれど、目が離せない。好き、と心が囁き続けていたからだ。好きで、好きで、苦しいくらい好きで、悲しいくらい好きで。どうしたらいいのか、すぐに分からなくなる。好きという気持ちで、窒息してしまいそうになる。薄く唇を開いて息を吸い込めば、さらに苦しくなって涙が浮かんだ。触れたくて、ジョミーはブルーの胸に手を添えた。手袋と服越しでは鼓動はおろか、体温さえ伝わってこないけれど。すこし、安心して。
「ソルジャー・ブルー」
「うん? なに、ジョミー」
「……好き」
なにを言っているのか、よく分からないまま。ジョミーは浮かんだ言葉を、素直に繰り返して告げた。
「あなたが、好き」
「……きみは、本当に、もう」
自分でなにを言っているのか分かっていないね、と肩を震わせて笑いながら、ブルーはとろんとした目で見上げてくるジョミーの頬を飽きることなく撫でた。ほぅっと心地よい息を吐き出して、ジョミーはその手にすりっと頬をこすりつける。気持ち良い、と心が囁いた。触れられるのはすこし怖くて恥ずかしくて、苦しいくらいに幸せで、そしてすごく気持ちよかった。手でも、唇でも、腕の中でも、それは同じことだ。
うっとり微笑むジョミーの頬を手で包んで上向かせ、ブルーは唇を重ね合わせた。軽く開いた隙間から舌をいれ、かすかな抵抗をものともせずに絡み合わせる。丁寧に愛して思考も体も溶かしたころ、やっと唇を離す。ブルーはくたっと座り込んでしまいそうなジョミーの体を横抱きにして、場に腰を下ろした。胸にもたれてくるジョミーの頭を撫でながら、ブルーは言い聞かせるように囁く。
「挨拶や慰めで、こんなキスはしないよ。分かるね?」
「……ん、はい。ブルー」
服を軽く握り締め、夢見心地でもたれているジョミーは、反射で返事をしているだけなのだろう。ハッキリとした形を成さない思念が証拠だ。まったく、と苦笑しながら、ブルーはうとうとし始めたジョミーを抱きしめなおす。
「すこし眠りなさい。ここはぼく以外、誰も入らない」
「……うん。ブルー、起きてもいる?」
「もちろん。だから安心してお休み、愛しいぼくの太陽。……大丈夫。ぼくもきみが好きだよ、ジョミー」
だからね、お休み、と。繋がらない言葉で眠りに誘われ、ジョミーはこくりと頷いた。そして無意識に暖を求め、ブルーのマントを手繰り寄せてから目を閉じる。それからすぐに、ジョミーの体から力が抜けた。安堵しきった寝息が響く。安らかに眠るジョミーの額に、おやすみのキスをそっと落として。ブルーは庭園の中で、至上の幸福に笑みを浮かべた。