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祈りに近い場所で

 にこにこ笑いながら見つめてくる栗色の瞳は、光の加減によって琥珀のようにも透き通る。綺麗な瞳だった。長いまつげがそっと影を落としている様は、息を止めて見つめたくなる種類の美しさを秘めている。今でも綺麗で可愛いのだから、成長したらカリナってホントすごい気がする、と思いながらジョミーは大きく息を吸い込んで。至近距離から覗き込んでくるこどもに、意味が理解できない、と笑みを浮かべた。
「ごめんね、カリナ。もう一回言ってくれる?」
「いいわよ。あのね、ジョミー」
 手で筒を作って耳に唇が近寄れば、吐息が肌をなぞって当然のごとくこそばゆい。軽く肩をすくめて言葉を待つジョミーに、カリナはくすくす笑いながら、あのね、と優しく声を響かせた。
「ジョミーは、ソルジャーのどこが好きなの?」
 聞き違いじゃなかったよどうしよう、と凍りついた思考回路で思いながら、ジョミーはぼんやりと昼下がりの公園を見回した。飴玉が溶けているようななめらかに甘い陽光が、空気を明るく輝かせている。窓から見上げる空は気持ち良い晴れ模様で、天高く吹き抜ける風も満足そうだった。いつも通りの午後である。公園は奇妙に平和な静寂に包まれていて、こどもたちの寝息だけが空気を柔らかに揺らしていた。
 ジョミーはてんで勝手に寝転ぶこどもたちを見守るように、大きな木のふもとに腰を落として、しおりを挟んだ本を膝に置いていた。その膝に乗り上げるように身を寄せて、眠気など全くない瞳でカリナが答えを迫ってくる。どうしてこんなことになってるんだろう、と思うが、答えが見つからない。大きくため息をついてから、ジョミーはカリナの頭に手を伸ばし、濃いミルクティー色の髪を慣れた手つきでなでた。
「カリナ、寝ようよ。お昼寝しないと大きくなれないよ?」
「ジョミーが教えてくれたら」
 撫でられる心地よさに目を和らげながら、カリナは言葉の通り、眠るつもりなどないようだった。ね、どこが好きなの、と純粋な好奇心のみで構成された声が、そっとジョミーに囁きかける。静寂を邪魔しない、誰の眠りも暴かない、密やかに響く綺麗な声。たいがいカリナに甘いと自覚しているジョミーは、本当に困りきった顔つきで天井を仰いだ。小鳥の鳴き声が響く。暖められた空気に、ため息が落とされた。
「いきなり。なんで?」
「聞きたくなったの。いけない?」
「いけなくはないよ。けど……どこが、って言われても、そうだなぁ」
 差し込む光の眩しさに目を細めて、ジョミーは言葉を続けられない。カリナは笑いながら続きを待っていて、沈黙するジョミーの顔をじっと見つめていた。他の大人なら、なにをませたことを、と言うだろう。カリナにはまだ早いよ、と苦笑して教えてくれないだろう。けれどジョミーは、ジョミーだけは、どんな時でもどんなことでも、決してそういう風に終わらせはしないのだ。いつも真剣に、きちんと考えて言葉をくれる。
 だからカリナはジョミーが大好きで、そんな所が『好き』なひとつだった。そうだなぁ、と考える合間に呟かれる声が、不意に甘くほどけていく。ふっと息が吐かれて、新緑の瞳がカリナへ降りてきた。大切な秘密を共有するような、悪戯めいた微笑みが、ひとつ。そっと生まれて、言葉に乗せられる。
「考えてくるから、待っててくれる? 明日までの、宿題」
 それは明日も、お昼寝の時間にジョミーが公園を訪れてくれるという約束だ。今すぐに、などカリナが言う筈もない。もちろん、と言って我慢できなくなったようにあくびをするカリナに、ジョミーは慈愛を感じさせる笑みを浮かべ、額にキスを送った。おやすみ、と囁かれるのにちいさく頷いて、カリナはジョミーの膝をまくらに体を丸めてしまう。苦笑の気配が響くが、ジョミーはなにも言わずにカリナの頭を撫でてやった。
 うとうとと心地よく夢の中へと誘われながら、カリナは明日ね、とひとつの約束を楽しみにして。今日は聞けなかったわ、と後でブルーに言わなければと思いつつ、意識を眠りへと送った。


 思ってもみなかった衝撃発言に、リオは飲んでいた紅茶を吹きだすことはなんとかこらえたのだが。その代わり、手に持っていたカップから、中身を真正面に座っていたハーレイに向かってぶちまけるという行動に出た。よほど混乱していたらしい。自分の行動の意味が分からないのですが、と呆然と視線を向けてくるリオに、ハーレイは顔にかかった紅茶を手で拭いながらせめて謝れ、とひきつった表情で言う。
 リオはあー、と間の抜けた声を響かせながら手元にあったタオルを渡し、紅茶まみれになったハーレイを恐る恐る伺う。
『火傷はありませんか? キャプテン』
「していない。が、すみません、の一言がないのはなんらかの意地なのか?」
『いえ別に、そういうわけでは』
 わずかな言葉を発する間に、精神を立て直したのだろう。すっかりいつも通りの笑みを浮かべたリオは、さらりと流れていく清涼な風のようにすみません、と言った。謝罪の誠意と、ありがたみが全く感じられない。思いっきりため息をついてハーレイは視線を動かし、困ったように立っているジョミーを見上げた。来てリオに質問するなり、目の前の惨状である。混乱して二の句が継げない気持ちは、よく分かった。
 しかし同時に、リオがあれほどまで盛大に混乱する理由も理解していたので、ハーレイは軽く眉を寄せる。そして聞き間違いか、あるいはわずかな間に自己解決してくれた可能性にすがりながら、今なんと、と問いかけた。
「なんと言ったんだ? ジョミー」
「……ぼくって、ブルーのどこが好きなのかな、って」
 そんなに変な質問しちゃったかな、と不安げなジョミーに、ハーレイは思わず頭を抱えた。聞き間違いでなかったことが、純粋に悲しい。そしてわざわざ問い返してしまったことを、後悔した。どこでもいいでしょう、と投げた発言で返すハーレイに、ジョミーの頬がぷぅっと膨らむ。外見が十四から成長し始めた体で、その仕草はやけに幼く映る。困ってるのに、と拗ねた声に、リオはジョミーに椅子を進めながら口を開く。
『突然、どうしました。喧嘩でもしましたか?』
 船を包むブルーの気配は、大変面白がっているのでそんなことはないと思いますが、という言葉を胸の中だけで響かせて、リオは素直に座ったジョミーに新たに淹れた紅茶を差し出した。メイプルクッキーも同時に進めてやれば、ジョミーはすこし気分が浮上した表情でお菓子を口に運び、広がる甘さにご機嫌の笑みを浮かべる。
「そういうことじゃないよ。カリナのね、宿題。聞かれたから」
 明日までだからあんまり猶予がないんだよね、とジョミーが目を向けた時計の針は、三時ちょうどを示していた。明日、とは『明日のお昼寝の時間までに』ということだから、十二時間以上はあるが、もう二十四時間は切っている。ジョミーもそう暇なわけではないので、考えられる時間はごく僅かだろう。あいまいな答えにしたくないからさ、とふてくされた声で告げるジョミーに、リオは若干困惑した笑みを向けた。
『どこが好きなのか、分からないわけでもないでしょうに』
「うん、まあ。ブルーがそこにいるだけで好きなんだけど、改めてどこって聞かれると困るというか。全部ってなっちゃうと、なんか負けた気にならない?」
 なにに負けるのですか、という問いを、懸命にもハーレイは口にしなかった。ブルーに負けるに決まってるじゃないか、という答えが予測できてしまったからだ。似た者同士すぎる、と額に手を押し当てれば、ジョミーからは心配そうな目が向けられる。本当に体調を心配してくださるのであれば、あなたはいっそ私に注意を向けないで下さい、と思いつつ、ハーレイは視線をあげた。
「全部であっても、ソルジャーは喜ぶと思いますが」
 喜ぶというか、実際は大喜びするだろう。はしゃぐソルジャーの姿を思い浮かべ、ハーレイは本当に頭が痛くなった。静かにしていて欲しいものである。うぅ、と呻くハーレイに不思議そうな目を向けて、ジョミーはうーん、と首を傾げた。
「難しいなぁ」
『そんなに、ですか?』
「うん。だって基本的に、好きじゃないトコなんて、ないし」
 のろけるでもなく、甘く表情や声が緩むでもなく、ただ淡々と告げられた言葉だった。心底愛されてますよねぇ、と半ば呆れさえ感じながら、リオは頷いて言葉を促してやった。考えて言葉を発しながら、ジョミーは気持ちをまとめようとしている。ならば必要なのは助言ではなく、聞いてやる態度と時間だ。碧玉の瞳が、くるりと円を描く。そして、本日二度目の衝撃発言が、ごく当たり前のように空気を揺らした。
「大体さ。ぼく、なんであの人が好き……恋してるのか分からないし」
 休憩室と廊下を繋ぐ扉から、頭を打ち付けたような鈍い音が響く。リオもハーレイも僅かに顔を向けるが、ジョミーは分かっている表情でそれを無視した。まあ倒れれば誰かが青の間まで運ぶかドクター呼ぶ筈ですよね、と意識を切り替えて、リオはそうなんですか、と言葉を促す。そうなんだよと頷き、ジョミーは柔らかく苦笑した。
「別になにか、事件とか事故があって恋に落ちたとか、そういうのじゃないから」
 成人試験に乱入されてさらわれた件については、ジョミーの中で『事件』でも『事故』でもなかったらしい。どうも、人生における通過点のひとつくらいになっているようだ。今日は衝撃発言が多いですね、と苦笑しながらはいはいと頷いて、リオはジョミーを穏やかに見つめた。綺麗になった、と思う。船に着た頃と比べて、ジョミーはずっと大人になって、そして綺麗になった。成長している、ということでもあるのだろう。
 力のコントロールは船に来た頃とは比べ物にもならないし、精神的にも大分落ち着いている。十四のこどもだった外見は、背が伸び始め、顔立ちが大人びて来るにつれて印象が大分変わった。くるくるよく動く小動物のような印象は薄れて、凛とした、張りのある綺麗さを纏うようになった。良いことなのか、悪いことなのか、リオには分からない。けれどジョミーが望んでそうなったと知っているから、言葉はなくていい。
 見つめる視線に笑い返して、ジョミーは好きなんだよね、と呟く。
「ずぅっと、好きで。今も、好きで。好きが積み重なって、いつの間にか恋してたから……どこって言われると、ホント困る。恋してる理由だって分からないもん。なんか、すごい自然だったからさ。好きがたくさんあって、どんどん増えていって、恋をして、好きで好きで好きで、好きで、今はこんなに愛してる。ぼくはブルーの全部、全部が大好きで仕方がなくて、それがなんでとか、どことか、言われると……うーん」
 恋は盲目ってこういうことなのかなぁ、としょんぼりしてしまうジョミーに、リオはすこし違うと思いますけどね、と言った。悪い所が見えていないのではなく、見えていて分かっていて、それでも好きだと思ってしまうのならば、仕方がないだろう。ここまで愛されておいてなにが不満なのだか、と扉に視線を向け、リオは首を傾げた。
『でも、ひとつくらいはきっと、思い浮かぶと思いますよ』
「そう? そうかな。そうかな……そうかなぁ」
『ええ。分からないなら、本人に相談するのが、きっと一番手っ取り早いですし』
 ね、と笑うリオに苦笑しながら立ち上がって、ジョミーはお茶をごちそうさま、と言った。いいえ、と呟いて送り出してくれるリオに感謝しながら、ジョミーは扉へと向かっていく。内開きの扉を驚かせないようにそっと開いて、ジョミーは視線を下へと向けた。くせのない銀色の髪の中に、くるりと巻いたつむじを見付けるだけで、なんとなく嬉しい。ぼくこの人好きすぎる、と自分に呆れながら、ジョミーは口を開いて。
「ブルー」
 廊下に、拗ねてしゃがみ込んでいる恋人の名前を、呼んだ。のろのろと頭が動いて、赤い瞳と正面から出会う。聞きたかったのに、知りたかったのに、と無言で文句をぶつけてくる表情に、ジョミーはしょうがないなぁ、としゃがみこんで目の高さを合わせた。
「好き、なんですよ?」
「知っているよ、ぼくの愛しいジョミー。でもぼくが聞きたくて知りたいのは、具体的なことなんだよ」
「もー」
 誰だよこの人が理知的だとか言ったのー、と数年前に施された『先代ソルジャーについての知識』を思い出しながら文句を言うジョミーに、ブルーはにっこりと笑ってみせた。可愛らしい笑顔のままで、ジョミーの関わること以外ならわりとそうだと自負しているよ、と言われても、喜んでいいのか悲しんでいいのかすらよく分からない。とりあえず立って、と自らも立ち上がりながら言い放ち、ジョミーはやや脱力した。
「恥ずかしいから言いたくないです。諦めてください」
「どうして? ぼくはジョミーのどこが好きかなんて、言えるのが嬉しくてたまらないのに」
 並んでブリッジへ向かいながらの言葉に、ジョミーは果てしなく嫌な予感を覚えた。このまま全力ダッシュで置いていってしまおうかとも思うが、その後が怖くてどうしても出来ない。一度似たようなことをやった日の夜のブルーは、とても笑顔がキラキラしていた。怒ってないよ、でもオシオキ、と朗らかに弾む声で成されたことを思えば、反射的に走ろうとした足も意志の力で止められるというものだ。二度と嫌だ。
 嬉しくても言わなくていいですからね、と視線でストップをかけるジョミーに、柔らかく笑って。ブルーはたとえばね、と声を響かせる。全無視だ。
「そういう風に、最近すこしだけ反抗期なのも、ものすごく可愛らしいと思うよ。数年前までは味わえなかった嬉しさだね。素直すぎるジョミーは本当に可愛かったけれど、今のちょっとひねくれながらでも素直、もたまらない愛おしさを感じる……ぼくのことが好きで好きでしょうがないって顔してるのが、嬉しくて」
「あ、あなただってぼくのこと好きなくせにっ」
「うん。もちろんだ。好きだよ、ジョミー。大好きだ。愛してる」
 恥ずかしさを紛らわす為に叫んだ言葉は、それごと包み込んでしまうような笑みで封じ込められてしまった。胸の中でぐるぐると恥ずかしさがうずを巻いて、呼吸すらおぼつかない。ああもう、と呟いて顔を赤くしたジョミーに、ブルーはうっとりと微笑んだ。なぜか満足げなブルーを軽くにらみながら、ジョミーは口を開く。
「あなたのそういうトコ、ホントどうしようもないと思います」
「……ジョミーの、そういう所が好きだよ」
 文句を言おうとする唇に、指で触れることで言葉を停止させて。真っ赤になるジョミーに、ブルーは嬉しく微笑んだ。
「どうしようもなく、好きだと思っていてくれる。嫌いだなんて、絶対に思わないし感じないくらい……ぼくを好きでいてくれる、ジョミーのそういう所が、本当に好きだよ」
「心を読まないで下さい」
「顔に書いてあるんだよ」
 軽く触れ合わせるだけのキスをして、ブルーは踊るように足を踏み出した。ブリッジへ行かないといけないんだろう、と告げる背をゆっくり追いかけながら、ジョミーは赤い顔を隠すように手を押し当てて。
「……仕方がないでしょう」
「なにが?」
 足を止めて振り返って。ブルーはきょとん、とジョミーを見返してくる。まっすぐに見返せなくて視線をさ迷わせながら、ジョミーはだから、と響かない声で呟く。
「ぼくはあなたの、そういう、どうしようもないところが……完璧じゃなくて、冷静じゃなくて、長らしくもなんともなくて。この人本当に最長老? 三百年生きてたとか信じられないんだけど、って言いたくなるようなところが……ところも、好きなんですから」
 ため息をつくために薄く開かれていた唇が、奪われる。軽い触れあいの範囲を超えたキスに、ジョミーはここ廊下っ、と目で訴えるが、ブルーは柔らかく笑うだけで取り合ってくれない。吐息の合間に知ってるけどキスしたい、とだけ告げられてしまえば、ジョミーはそれ以上抵抗できない。ブルーが満足するまで何度も唇を重ねて、力を失った体をくたりと腕の中に預けて。ジョミーはああもー、とブルーの耳元で囁いた。
「本当に……しかたのないひと」
 カリナにどう言えばいいんだろう、と無意識に呟くジョミーを抱きしめながら、ブルーは好きなように教えていいよ、と言って。ぼくもカリナにお礼を言いに行かなければ、と笑った。その言葉の意味をジョミーが理解して、そして烈火のごとく起こって痴話喧嘩に発展するまで、残りあと五秒。平和なシャングリラの、いつも通りの昼過ぎのことだった。

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