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 その血の匂いに誘われ、惹かれるように、聡は繭に手を伸ばした。ちからの入っていない、あどけない体を背に手を回して抱き寄せれば、他愛もなく腕の中に倒れ込んでくる。唐突な動きに体がついて行かなかったのだろう。悲鳴を噛み殺した唇が、力を込められて白く震えている。ただ混乱する視線が聡の顔を見上げ、さっと色を失って怯えを浮かび上がらせた。ああ、そうだろうな、とごく冷静に聡は考え、ゆるりと唇を微笑ませ、息を吸い込んだ。繭ちゃん、と声にならない囁きに、少女の身があえかに震える。
 とっさに聡の胸元の合わせを掴んだ白い手、とうめいな爪の乗る指先が、無垢な少女から流れ落ちた初花にあかく染まっていた。下手な爪化粧のようなそれを、指先を絡めて繋ぎとめながら、口元まで引き寄せる。
「……聡兄さん?」
 指先に触れた吐息に、なにをされるか察したのだろう。信じられないと目を見開きながら手を引き抜こうとするのを許さず、力を込めて手首を掴み、聡は幼いやわらかな指先に歯を立てた。甘く食んで、舌先で血を舐め取る。鈍い血の味の染み込む唾液を飲み下し、視線を向ければ、繭は強く瞼を閉じて唇を閉ざし、声もあげずにちいさく震えていた。その顔色が蒼白であれば、浮かび、読みとれる感情が嫌悪であれば、聡にも止めてやることはできたのだが。熱を宿す頬と、羞恥に戸惑うその様に、握ってしまった手首をあやすように指先でさすった。やわやわとした肌を指先で愛でながら、聡は膝の上に乗せた少女の耳に唇を寄せる。
「……怖い?」
 けなげな様子で、一心に、首が横に振られる。そろそろと持ち上げられた瞼の奥で、黒檀のような瞳が聡を見つめていた。気の強い印象の眦に、うっすらと涙が浮かんでいる。そのさまにはじめて、少女に対する欲の形をはきと自覚した。堪え切れない。押し殺した息を吐き出して、聡は無抵抗の繭の体をさらに抱きよせ、己の体に体重を預けさせた。強張っている少女の体は、ゆったりとした手つきで背を撫でているうちに解れてくる。じわじわとひとつになって行く体温が、どちらのものかも分からなくなる頃には、繭は聡の胸元に頬をくっつけ、目を伏せてじっと息をひそめていた。
 一度だけ、背の骨をなぞるように指で愛でてから、跳ね上がった顔を覗きこみ視線を重ねて。聡はただてのひらで、ぽんぽん、と繭の背をたたいた。
「なにもしないよ」
「……いま」
「もう、なにもしない。……痛みは落ち着いた?」
 己の所業をなにも問わせるつもりはないという笑顔で、聡は穏やかに問いを向けた。揺れる少女の瞳は向けられる視線に耐えきれず、目を閉じ、無言で頷きが返される。切り揃えられた黒髪の先が、少女の首元、肌を擦って揺れるのが見えた。
「聡、兄、さん」
 脈打つ心臓の鼓動と同じ区切りで名が囁かれ、繭の手が聡の目元へ伸びてくる。視界を閉ざすように目を覆われれば、殊更、あまやかに震える声が耳に忍び込んだ。
「怖い、目を……されないで……」
「怖くない、と言わなかった?」
 言葉では告げられず、仕草でだけの意思だけれど。笑い声で尋ねれば、繭の指先に力が込められるのを感じた。そうではなくて、と常にない早口で囁かれる言葉。
「聡兄さんは怖くありません。でも、目が……繭を見る、目が」
 言ったきり、それきり、ぶつんと言葉が途切れてしまった。待てど暮らせど聞こえてこない応えに、聡は少女の柔肌を傷つけないようにそっと手を退けさせ、目を開いて繭を見つめる。聡の視界を閉ざしておきながら、繭は息をつめて青年のことを見上げていた。熾火のようなじりじりとした熱が、繭の目の奥に広がっている。うん、と相槌を打って言葉を促せば、繭の手がきゅぅと衣の端を握り締めた。
「……おとこのひとの、目をしないで」
「うん。……うん、うん。分かってるよ、ごめんね」
「もうすこしだけ、待って、くださいますか……?」
 体は今日、大人になりました。だから、あと、もうすこしだけ。たどたどしく言葉を繋げて行く繭に、うん、と頷いて。最後に一度だけ強く抱き締め、聡は深く息を吸い込んだ。
「いいよ。……急がなくて、いいよ。焦らないでいい。ごめんね、繭ちゃん」
「聡兄さん」
「ゆっくり、大人におなり」
 さあ、お湯で体を清めておいで、と繭を立ち上がらせ、背を脱衣所の奥へ押しやる。先程、準備が整ったことを気配で察していた。戸を隔てて流れてくる空気も十分に暖まっているので、不用意に繭の痛みを誘うことはないだろう。行っておいで、と見送る聡から離れ、数歩足を進めてから繭は振り返った。
「聡兄さんも……お体、清めてくださいませね」
「ああ、もちろん」
「はい。それでは……また、後ほど。もし、すぐに御帰りになられるのであれば、樹兄様にだけはご挨拶をお願い致します」
 その服では帰れないので、どのみち樹兄様にはお会いすることになるでしょうけれども、と己の血で汚した慕い人の服を申し訳なく見つめてから、繭は常にないよろけた足取りで、湯気の立つ戸の向こうへ姿を消した。その姿を見送ってから立ち上がった聡は、血に染まった衣をまじまじと見下ろし、足早に脱衣所の出口へと向かう。とりあえず、血の匂いのない空気の元で、どうするか考えよう、と思った。この空間は駄目だ。甘く鉄錆びた少女の匂いは、あまりに聡を惑わせた。戸に手をかけ、一息に開いてまず顔を出す。息を吸い込みながら足を廊下に出せば、床板が重みでぎしりと音を立てる。
 その音を待ちわびていた仕草で。横合いから伸びてきた手が、聡の腕を掴んで引いた。
「さて、それでは」
 低く、しっとりと響く、青年の声。軋んだ床板より鈍い響きがしそうな動きで、聡が怖々と、声をした方を向いて行く。当然のように、そこには樹が立っていた。浮かんでいたのが常になく、あでやかな笑みであったので、聡は死を覚悟しながらも問いかける。なにか言葉を続けようとしている樹を遮って告げることこそ、自死を招くに等しいと分かっていながらも、どうしても、聞かずにはいられなかった。
「樹。いつから、ここに」
「お前たちは気がつかなかったようだが」
 ぐ、と聡の腕を引き、歩きだしながら樹は言う。
「一度、扉を開けて、閉めた」
 その時、聡が繭になにをしていたか、と問いを重ねる勇気は、なかった。大人しく腕を引かれてついて歩きながら、聡は力なく頷く。
「……そうか」
「そうだ。……ああ、この辺りでいいか」
 腕を離し、背を突き飛ばされた先は、冬の区画の庭だった。高坂本家の庭は、春夏秋冬、季節ごとの花が咲き誇るよう、一つの季節に対してひとつ、方角を与えられて趣きを変えている。樹が聡を連れてきたのは、その冬の庭だった。夏の季節では強い日差しがあってもどこか寒々しく、荒れた印象の残る、白い石が敷き詰められているだけの庭である。そこへ立たされた聡が振り返り、樹へ口を開こうとした途端だった。冷たい水が、顔を狙ってかけられる。ひややかな眼差しが、怒りを持って聡を見つめていた。
「聡」
 手桶と柄杓を足元に置き、樹が、髪から水を滴らせる聡に告げた。
「俺がなにを言いたいのかは、分かるな?」
「……頭を冷やせ、かな」
「俺は、今はまだ、あれをお前の性欲の対象にするな、と。そう言ったつもりなのだが?」
 待て、とそう告げたのも分からぬのならば仕方がない。聡を置き去りに身を翻し、歩き去ろうとしながら樹は言う。
「以後」
 振り返らない背筋が、まっすぐに伸びている。
「俺の許可があるまで、本家に近寄るな。繭に会うな。それと、言い訳と弁解は聞かぬから口を開くな」
 床板を軋ませて、落ち着いた仕草で樹は歩いて行く。廊下の端で立ち止まり、一度だけ、聡を振り返った。
「着替えを持ってきてやる。そこで待て。……返事は?」
「……分かった」
「よし。……お前のそういう、俺に従順な所は好ましい。最も、長続きをしないのが難点だが」
 勝手に帰ったら分家まで追うから動くなよ、とこころもち機嫌が好さそうに言い残し、樹は己の部屋がある方角へ消えて行く。残された聡は深く息を吸い込み、その場にしゃがみ込んだ。血の匂いがする。衣に染み込んだ、血の匂い。赤い、花だと。なぜか、そう思った。



 一日ぶりに帰宅した聡は、玄関先で久方ぶりに己の兄と顔を合わせた。扉を開ければこちらに視線を向けながら立っていたので、聡が帰ってくるのを待っていたのかも知れない。特に仲の良い兄弟という訳ではないので、一瞬混乱したのち、ぎこちない響きでただいま戻りました、と聡は告げた。そっけない声でおかえり、と告げた聡の兄は、居心地が悪そうに戸を閉める弟の姿を、静かな目で見つめている。その視線を感じながら、聡は息苦しい気持ちで眉を寄せた。樹に感じる緊張とは全く別のものが、重たく肺の奥で主張する。この兄が、いつからか聡は苦手だった。嫌いではない。ただ、苦手だ。どうしていいのか分からなくなる。
 年の離れた聡の兄は、長男であるというのに、分家においてもその存在を軽視されていた。冷遇されている訳ではないが、大事にされている訳でもない。ただ大切に放置されている。兄は、聡になにかあった時の代わりだからだ。本来は聡がその役目を担う筈であるのに、樹が、たまたま同い年の分家の次男を気に行って傍に置くようになった時から、逆転してしまった。それに対しての恨み事を告げられたことは、ない。けれども時折感じる凪いだ兄からの視線は、血縁の情愛の気配すらなく、そこに何らかの意思が存在しているかも分からない乾いた印象のものだった。なんとも思っていないに違いない。己のことも、そして、弟である聡のことも。
 だからこそ、分からない。待たれていたとして、理由などなにひとつないのだ。軽視されているとはいえ、男は高坂分家筆頭の長男である。聡の為に使いに走ることは無く、用事を言いつけられることもない。混乱と嫌な予感に、視界が鈍く揺れた。聡は兄の顔を見つめながら、なまぬるい夏の空気を喉へ通す。最後に兄の顔を見たのがいつだったのか、思い出せない。目の前にいない時に、どんな顔をしていたのかすら、思い描くことは叶わないだろう。それなのに顔を合わせた瞬間、間違えようもなく、怖気が走る程の確信がある。
「にい、さん……」
 血が繋がっている。目の前の男と、聡は、同じ腹から生まれた兄弟だ。呪われている。逃げられない、となぜか思った。動けない聡を、くすりと笑った兄が手招く。そうされると突き飛ばされたかのよう、足が前に出て、歩み寄った。
「おかえり」
 もう一度囁く、その瞳は憐れんでいるように見えた。まさか、もう本家の出入りを禁止されたことを知っているのかと思うが、それならば待っているのは兄ではなく、両親であるに違いない。止められたのが分家の者というくくりではなく、聡だけだと知ればすぐに開放されるだろうが、なにか、妙だった。履き物を脱いであがり、聡は兄の前に立つ。視線の高さがちょうど同じだった。兄は、聡より青白い肌をしている。体つきも、聡よりやや細い。外に出ないからだ、と聡は思った。病んだ薬の匂いがする。聡の代わりである兄は、大事な大事な籠の鳥だ。分家という檻に閉じ込められ、弱って、ほの暗い病を身の内に巣食わせている。
「……にいさん。なにか?」
「うん」
 これを、と胸に押し付けられたのは、織布で包まれた上製本だった。ただし、中身となる紙は無いに等しく、二つ折にされただけの表紙と裏表紙の間に、なにかが挟まっている。何度か見たことのあるそれを、渡される意味こそ、分からない。問いかけることも出来ず、強張ったままの聡に兄は言う。
「聡が良いそうだよ」
「……話が掴めません」
「そう? 跡取り様が、好いた相手以外とは営みをしないと言い張ってるの、知ってるだろう?」
 困ったものだね、と言外に含ませる兄に、聡は同意できなかった。言葉を失う弟を、やさしい目で見つめながら男は囁いて行く。憐みの色が、瞳から消えることはなかった。
「もう、じきに御当主となられると言うのに。女性の影もない、噂もない。……つまり、お相手がいない。跡取りが、早急に生まれる可能性はないということだ。そうだね?」
「そう……です、ね」
「だからね、聡。分家としての役目を果たさなければいけないんだよ。……妹君の胎はまだ幼く、次代を産むにも時間は必要だ。なにかあった時の代えがいない。いないなら……作っておかないといけないだろう? そう前々からお願いしているのに、先代は跡取り様と妹君以外の子をとうとう御作りになられなかったから」
 どちらかにお相手ができ、子が成されるまで、こちらでどうにかしておかなければ。紡がれる、兄の言葉の意味を理解したくなくて、聡は口元に手を押し当てた。指先が冷たく震える。聡の兄は、分家という檻の中の鳥だ。けれども聡も、高坂という家に囚われ、逃げることを許されていない。この家の血を確実に絶やさずにいる為に、しなくてはいけないことがある。それを、もう、知っていた。吐き気を堪えながら、視線を床へ落とす。
「女を、抱けと?」
「すこし違うかな。抱いて、孕ませ、産ませておいで。……三人くらいでいいよ」
 数が多い分には構わないけどね、と微笑んで、兄は聡から身を離した。そのまま、屋敷の奥へと歩んで行こうとする。
「っ、にい」
「……聡は」
 とっさに呼びとめた理由など、なかった。それを理解しながらも立ち止まり、振り返った兄の姿に、息を飲む。鏡のようだった。姿も、かたちも、よく似ている。年齢が、ほんのすこし、上なだけの。もう一人の己に、憐れまれ、そして、突き放される。
「聡は、いつも、盗って行くね。役目も、立場も……義務も」
 なまえも。声もなく、唇で綴られて、聡は己の喉元に手を押し当てた。どうしてだろう、思い出せない。分からない。恐らくは一度も、口にしたことがない。目の前の、この兄の名は、なんと言ったろう。
「聡」
 微笑む、この男の名は。
「死にたくなったら、代わってあげる。だからそれまで、励んでおいで」
 気がつけば、聡は廊下にひとりきりで立っていた。病んだ薬の残り香が、夢でなかったことを突き付ける。赤い花、血の匂いが、もう思い出せない。



 それから、七年。聡が本家に赴くことは、なかった。

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