女は、まっすぐに背を伸ばして『夏』の庭に立っていた。ただそれだけのことであるのに、樹は言い知れぬ不愉快さを感じて眉を寄せる。真夏の尖った朝の日差しが、そうして幾分和らいでも、荒れた気持ちが凪ぐことはなかった。足を踏み出せば、床板が軋んで悲鳴じみた音をあげる。それを聞きとめ、驚くでもなく、予定通りと告げる風に静かな笑みを浮かべた女が、樹に向かって恭しく一礼した。
「おはようございます、樹さま。……ご機嫌は麗しくないようで」
「紅葉もみじ、なにをしている」
「なにか殊更珍しいものでも見えましたでしょうか、と不思議に思ったものですから」
笑みを浮かべた女の視線が、青く澄み渡った空へ向けられ、ゆるりと舞い降りながら『夏』の庭を見渡した。盛夏に、もっともうつくしく見えるよう整えられた庭だった。それでいて四季の庭のうち、この場所だけが花のひとつも咲いていない。夏に開く花であるなら、この家の敷地の中にいくつも植えられているというのに。花がなかった。それを失ったような植物の蔓が、庭へ下りる縁側の柱に、からみついているだけだった。白い玉砂利の敷きつめられた、乾いた庭だ。常緑樹が品よく形を整えられて日差しを受け止めているが、瑞々しく艶めいた雰囲気を感じ取ることはできなかった。
赤い、鮮やかな色の着物をまとう女がただ中に立っていて、なお華やいだ雰囲気を漂わせない場所だ。それは白地に落ちた血の赤めいていて、穏やかさとは無縁の、呪いじみた強さがある。女の性質が、そう、だからだろう。女は高坂の家の者でありながら、呪われた二文字を名に持つ者。『禍まが』と呼ばれる、高坂の呪いの体現者。そして、そうであるが故に選ばれた、当主の為の懐刀。毒薬そのもの。玉砂利を踏みならしながら樹の元へ歩み寄る仕草は、楚々として穏やかだった。表情だけが裏切っていた。見下ろす樹の前で立ち止まり、地に直に両膝をつきながら、紅葉は深く頭を下げて囁きかける。
「我が君に申し上げます」
「聞こう。なんだ」
「雫様の件。どうぞお考え直しを」
樹は深く息を吐き出し、紅葉に立ち上がるよう促した。音もなく。す、と背を伸ばす紅葉の眼差しは冷えていた。ふ、と息を吐いて樹は目を細める。
「分家を唆したのはお前か、紅葉。……一度ではなく、二度、三度。雫が燃やしたと公言しているにも関わらず、途切れぬからおかしいとは思っていたが……」
「樹さま。誤解無きように申し上げておきますが、私はなにも雫様を厭わしく思っている訳ではありませんの」
「知っている。……なにせお前、雫が産まれた時に、あら聡さまも稀に褒められることもするではありませんか、と言ったくらいだ。あれはお前の気に入りだろう。……手元から離したくなった理由でも?」
紅葉は眉を歪ませ、我が君は十年以上前のことをいつまでも覚えていらっしゃること、と溜息をついて首を振った。髪を纏め上げたかんざしの、針金で編まれた鬼灯が揺れる。よくよく赤を身に纏う女だった。どこか拗ねたような眼差しさえ、火のような彩を持つ。
「私の記憶が正しければ、私は実さまが御生れになられた時も聡さまのことは褒めた筈ですが?」
「……『あら、繭さまのものになる他にも生きている価値があったのですねあの男。生かしておいて正解でした』というのは、お前の基準では褒めた、になるのか」
「我が君のご命令のひとつも聞けない愚図な駄犬は、わたくし、嫌いですの」
頬に指先をそえ、紅葉は恥じらうように囁き落とした。うんざりとした顔つきで視線を流す樹に、紅葉は何度であっても申し上げますが、と朱を刷いた唇を動かし告げる。
「私は、あれが、樹さまの気に入りでなく、分家の育ちでさえなければ……速やかに去勢して刺してバラして庭に埋めて毎日丁寧に丁寧に踏みにじるくらい、嫌いですの。繭さまの夫君になられましたので? わたくしも、そうそう、手出しなど致しませんけれど? ……月のない夜には背後に気をつけ遊ばせあの男……!」
「紅葉……」
「口が過ぎました」
ひらりてのひらを泳がせ口元にそえながら告げる女の表情は、それなりに反省をしているものだった。ただし、樹さまの耳に触れさせるには相応しい言葉ではありませんでした私としたことが、という類の反省である。幼少時からの付き合いであるので、誰が騙されたとしても樹にはそれが分かる。理解できてしまう。誤魔化したかったことですら。紅葉、と静かに名を繰り返され、女は僅かに眉を寄せてから吐息してみせた。ほんとうに、と火のように響く、肌を炙る熱のような痛みを宿す、苛立ちとも嫉妬ともとれぬ声で女は囁いた。
「雫様は貴方の気に入りですこと」
主君の口唇がなにか言葉を吐き出すよりはやく。感情めいたものを消した女の瞳が、高坂の主君へ捧げられた。
「……理由など」
ふわり、と。場違いなまでに穏やかな笑みで。
「薄々、分かっておられますでしょう……」
女は囁き、頭を垂れた。
「雫様は……あれは本来、高坂の跡を継ぐ者に現れる『歪いびつ』を受け継いでしまわれた方。今のうちに『外』へ、それが叶わないのなら久野木くのぎへ行かせて差しあげなければ……あまりに」
「……繭の時もそうだった。だがあれも落ち着いたろう」
「その、繭様の要素を受け継いでしまったからこそ、ですわ、樹さま。……やはり殺しておくべきでしたかしらあの男」
至極冷静に、頭痛を感じているかのような仕草で額に手を押し当て、女は吐き捨てた。地に伏せられた瞳の奥には、燃え盛る憎悪がこびりついている。紅葉、とたしなめるように樹は女の名を呼んだ。
「聡が、例えどうあれど。……あれの兄は、あれ以上は生きられなかっただろうよ」
「……役目を終えたと、満足して微笑んで逝かれるくらいなら」
女は強く目を閉じ、夏の強い光を締め出すように、瞼を震わせて。
「その、前の苦しみを飲み込ませてしまうくらいなら……その前に、わたくしが殺してあげたかった……!」
「……俺が女に触れもせぬことで、あれにかかる負担は増したろう」
「樹さま。彼は樹さまを一言も責めませんでした。最後まで。……それが彼のお役目だからです。けれど、わたくしも同じ気持ちでおります。ですから、どうか、そのようには思われないで。……まあ、樹さまは浪漫を求める方だから仕方がないねふふふ、とは時折笑っておりましたけれども」
なんとも表現できぬ気持ちで、樹は目を細めて天を仰いだ。
「そういう理由ではないだろうが……」
「存じておりましたとも」
「……聡は知らないままであろうな?」
役目が交代していた数年は、樹の最大の誤算だった。聡も分家であるからその役割を担える。けれども理由を知らず、知らされないままで。血の続きを強要されるのは、樹の誤算だった。女は主君ではなく、聡を小馬鹿にする微笑みを唇に浮かべて囁く。
「知らされると御思いで? あれは代役の代役ですわ、樹さま」
「お前……そこまで嫌いぬいておいて、よく……よくもその代役を許したとも思うが……それでよく、雫を気にいれるものだ」
「わたくしだけでなく、彼が生きていたらやはり、同じであったでしょう、樹さま」
雫様は特別な方。柔らかく。それを心から尊ぶように、女は囁いた。
「それを知るなら、すぐに分かりますわ。……雫様は特別な方。恐らくは、樹さまが待ち焦がれた……惜しむらくは血が濃すぎ、そして、そうであるが故に……あまりに『歪』が出すぎてしまっている」
ですから、と微笑み、紅葉は差し出されるものを求めるよう、ひらりと樹の前に手を泳がせた。
「一時的に家を出してしまえばいいのです。……数年したら夫君を不慮の事故に見せかけますので、そうしたら樹さまが呼びもどせばよろしいかと」
「お前は本当にろくな策をたてぬな紅葉……」
「それが御嫌なら久野木に。形式上であっても婚姻を許せぬというのであれば、養子にして頂くことで手を打つと致しましょう。幸い、今代の久野木は異形の力つよくとも御す者ばかりであると聞きます。朱に交われば赤くなるとも申しますし、雫様も落ち着かれますわ」
久野木でしたら闇打ちなど画策しませんでも、落ち着いた頃合いで樹さまがそれこそ見合いの打診でもして雫様を娶ってしまえば済むだけの話。知っての通りに雫様は私の気に入りでもありますから手を出す者もおりませんでしょう、と勝ち誇った微笑みの紅葉に、樹は呻くように、本人が納得したらお前の好きにするがいいだろう、と言った。
高坂家には古い呪いが漂っていて、それは誰もが知る単なる事実のひとつであった。特にその呪いが濃いのが高坂本家、次いで分家、親戚、親類筋、と枝分かれしていく。先細りすればするほど呪いは薄くなり、その影響もまた受けにくくなる。呪いを。最も濃く古い歪みを直に受ける定めに生まれた者が高坂の当主だ。今代は樹。そして次代は雫の兄、実がその役目を受け継ぐ、とされている。実は樹の子ではないが、その妹の血を継ぐ直系であるから、役目は十分に果たせるもの、とされていた。そうであるからこそ、雫と実は高坂において明確に区別されていた。
たとえば、一月に一度。実は樹に呼び出されて言葉を交わすが、その内容は雫がいくら懇願しても教えてもらえることはなかった。繭も、聡も、なにを話しているのかは知らないのだと言う。それは当主と、その『次』になる者だけに繰り返された約束であり。同じ両親から生まれた存在であっても、跡継ぎではなく。なにより女の性を持って生まれた雫には、決して明かされぬことのない秘めごとであるのだ。分かってはいる。それは覆せぬ理のひとつで。別に誰かが意地悪をして雫に教えてくれない訳ではないのだ、ということなど。分かってはいる。
分かってはいるのだが。
「……ねえ、兄さん」
「うん?」
その夜も。次代の勤めだとして当主の元を訪れ、一時間もせずに戻ってきた兄を捕まえて、雫は唇を尖らせてみせた。
「今日は、なんの話をされたの? ……私を、久野木へやらない、と樹さんはお約束してくださった?」
「雫」
やわらかく。たしなめるように名を呼びながら、実は風の吹きぬける縁側で立っていた妹の前に立ち、背を流れる黒髪に、さっと手で触れて微笑みを浮かべた。
「いけないよ、こんなに髪を冷やしては。外で待つのはおやめ、と先日も言っただろう」
「ですから、兄さんのお部屋で待っていたのに……この間は怒られたではありませんか」
叱られた幼子そのものの顔をして。すねたように視線を彷徨わせ、目を潤ませる雫が、感情を一番素直に出す相手が他ならぬ己であると、実はいつからか知っていた。樹の前ではすこしだけ大人びたがる。両親の前では、高坂の娘としてふさわしいよう振舞いたがる、雫が。ほんのすこし幼く、甘えを含んで拗ねてみせる相手は、樹ではなく、その兄ただひとりだった。零れる笑みが優越感じみていることを、誰に指摘されずとも、実が一番よく知っている。冷えた髪を一筋摘み、耳にかけてやりながら囁く。
「湯あがりに、男の部屋でひとり待つものではないよ、と言ったんだよ」
「……兄さんは」
つん、と拗ねきった風に唇を尖らせ、雫は首を傾げて問いかけた。
「私の……おとこのひと?」
「ん? うーん……雫はどうしたい?」
「兄さん。私が聞いているのに……」
もう、とくすぐったげに笑う雫を引き寄せ、額にそっと口付けてやりながら、実はそっと目を伏せた。
「……ほら、肌まで冷えている。今日はもうお眠り、雫。話があるならまた明日」
「なら、お湯を使ってくるから……お部屋に行ってもいい?」
「湯あがりに男の部屋を訪れるものではないよ、雫。……ほら、おいで。部屋まで送るから」
指先をそっと絡めて引く実に、雫はと、とん、と戸惑いがちな足音で付き従った。身を寄せ合ってゆっくり、廊下を歩いて行く。昼間に陽が射すことなど忘れてしまいそうな、静けさに満ちた夜が広がっていた。風がそよぎ、背の高い草を鳴らして足元を過ぎていく。目を眇めなくとも分かるくらい、空気はきよらかな光を飲み込んでいた。明るく、穏やかで、優しい、音のある、静かな、静かな夜だった。か細く繋いだ指先に視線を落としながら、雫はねえ、と呼びかける。
「兄さん」
「なに?」
立ち止まって、振り返って、視線を重ねて、微笑んで。それだけを言ってから、また手を引かれて、歩いて行く。なぜか無性に泣きだしたい気持ちで、雫は言った。
「……兄さんといると、夜は明るくてきれいなの。どうしてかしら……」
「雫のせいじゃないよ」
呪いを。この地と血に沈みこんだ呪いを、受け継ぎ知る者は。だからこそ、その勘違いをたしなめるような笑い声で、振り返らずに囁いた。
「それは、雫のせいじゃないよ。……樹さんがなにか言った?」
「ううん。……でも、樹さんが私を……とおくへやろうとするのは、そのせいでしょう?」
きゅ、と。指先が絡んで繋がれる。雫、と振り返って重ねられた視線が、痛いくらい張り詰め、それでいて穏やかに、妹のことを捕らえていた。繋がれぬ手が持ちあがり、雫に触れる。冷えた肌を憐れむように、人差し指が一度だけ、頬を辿った。
「俺も……」
「……なに?」
「俺も、雫がいてくれる夜は、穏やかできれいだよ。あったかい」
頬を緩めて笑む兄に、雫は目を瞬かせ。ふふ、と肩を震わせて笑った。
「……樹さんにもそうならいいのに」
「うん。……うん、俺も。それを願っていない訳ではないんだよ、雫」
ふ、と息を吐き、実は雫に微笑みかけた。
「雫」
「はい。……はい、なに? 兄さん」
「雫を余所へやることに関して、御当主さまはなにも仰らなかった……けれど、雫がもし、本当に……ほんとうに、どこへも行きたくないのなら。しばらくは俺の傍においで」
樹さんの傍ではなくて。俺の近くに、おいで。ゆっくり、言い聞かせるような言葉に、雫が理解できない不安に瞳を曇らせたからだろう。安心させるように笑みを深め、どこか茶化すような響きで、実は言い添える。
「まったく、最近の雫と来たら御当主さまばかりで。俺にはちっとも構ってくれない」
「……もしかして兄さま、さびしかったの?」
「そうだよ」
さ、もう行くよ。ほんとうに冷えてしまう。繋いだ手を引いて歩き出す実を、控えめな足音が追いかけてくる。くすくす、くす。悪戯っぽい笑い声が、背に熱を灯すように響く。
「それなら、兄さんの言う通りにします。……ねえ、ねえ、兄さん。さびしかったの?」
「そうだよ、雫」
さびしくなってしまう、ところだったよ。俺も。夜も。声に出さず囁き、実はとうめいな声で笑う雫の声に、そっと目を細めて息を吐きだした。