青年は、まぶたの裏に星をみた。
先ほどまで“死”を強く覚悟し、それを受け入れたはずだった。だって、もう自分にやれることは残っていない。全力を尽くした。自分を含め、みんなぼろぼろだ。これ以上は立ち上がれない。悔しいが、現実を事実として受け入れるしかなかった。――そう思って目を閉じたのに、そんな彼を引き戻す強い光が、煌きが、青年の意識を呼び戻した。
しり、うす。
声にならない意識が、言葉を紡ぐ。
それが届いたのか、星は応えるように光を強くし、周囲の星に己の灯を与えた。その光は次々と星に光を伝え、やがて漆黒の闇の中で星座を成す。
おりおん。
ちいさな、ちいさな、意識だった。けれど、それが引き金となったのか、輝きを強くした星座は青年に語りかける。
詠うように、星の光を“希望”に変えて、
『これが、最後の言葉になるだろう』
星座は、ことさら寂しく光り輝き、愛しい青年に“夢の欠片”を告げた。
「――ッ!!」
誰に言われるまでもなく目を開けた瞬間、己にすべてが“返って”きたのを感じる。死に囚われていたはずの身体に、僅かだけれど力が入った。そして同時に知る。虫の息だった自分が、なぜ息を吹き返したのかを。
「……よか、た……」
ぶわりとルビーの瞳に涙が溢れる。青年の額に自分のそれを押し当てるようにして、愛しい彼女がそこにはいた。身体を折り曲げて、青年を膝枕した彼女は、生きている右手を大事に握り締めながら幸せそうに微笑んだ。その手から、徐々に体温がなくなっていくのを感じた青年は、彼女が渾身の魔力で自分の命を繋いでくれたことを理解する。
どうして逃げなかった。
そう、言いたかったけれど、自分が逆の立場だったならば同じことをしていただろうことに気づき、口をつぐむ。
「私は……、しあわせ、よ」
ゆっくりと、吐き出された声が青年の心をふるわせた。
「でも」
ぎゅっと握り締められた手の力に、応えるように青年も力を入れる。
「…………あなたと、かぞくに、……なれなかった、のが……こころのこり、……かな」
以前“子どもが欲しい”と言った青年の言葉を覚えていたのだろうか。目にためた涙が彼女の頬をすべり、それが青年の頬へ落ちる。ゆっくりと閉じていく彼女のまぶたを見つめ、青年は彼女の名前を唇にのせた。名前を呼ばれた彼女が嬉しい、と微笑む。
「また、……あえる、よ、ね……?」
かすかな懇願に応えるように、青年は愛しい彼女にくちづける。
彼女が冷たくなるまで、何度も、何度も、何度も、青年はくちづけた。
*★*―――――*★*―――――*★*
天体観測が無事に終わり、これからパーティーの準備が始まろうとしている時期――、学園にきて何度目かの満月の晩がやってきた。
深夜、頭からローブをかぶって寮を抜け出したメーシャは、月光に照らされる道を足早に歩く。自分でも怪しいと思う格好をして、さらに夜中に歩いているのだから、誰かに見つかったら不審者扱いされるだろう。そうならないためにも、メーシャは周囲に気を配りつつ、駆け込むように図書館の裏に回りこんだ。
「確か……、このあたりだった気が……」
自分の記憶を辿りながら、出入り口であろう壁を見つける。ほのかに伝わる魔力に向かって思いきり飛び込むと、身体がするりと壁を通り抜け、美しい庭へとメーシャを誘った。
目の前に広がる不思議な光景を前に、ほっと胸を撫で下ろす。きたかった場所に到着できたことへの安堵だった。
ともするとすずらんにも似た花が、そこかしこで淡い光を放っている。それはここでしか見たことのない珍しい植物で、夜来光(やらいこう)といった。夜が来たりて光りを放つ。その名のとおり、夜になると花弁の中が光る植物だった。
夜来光のあかりに照らされた小さな道を歩いたメーシャは、清浄な白銀の月光が照らす腰掛に座る。そして自分のローブをすぺり落とした。黒いローブの下から現れたのは、しなやかな体躯だった。そして月光を受けたメーシャの髪が、青銀に輝きはじめた。噴水の水はずっと噴き上げられたままなのか、跳ねる水しぶきが月光を受けて虹色にキラキラと輝いていた。
――ひかりさす庭。
ここは恩師が作り、先輩の少女が名づけた秘密の庭。
不思議なことに、昼間はどの時間でも太陽が、夜は同様に月が、この腰掛を照らしていた。
月の光を浴びながら、メーシャはぼんやり夜空を見上げる。満月の晩はどれだけ星が輝こうが、月には勝てない。けれど、その中でひと際輝く星座を見つけた。
「……今夜は、いやにオリオン座が綺麗だな」
この季節にはふさわしくない星座を頭上に仰ぎ、メーシャは変だなと思いながらも月に負けじとその存在を主張するように煌くオリオンを見つめる。そのうちのひとつ、シリウスがひと際輝いてこちらに向かってくる。一瞬、驚きに目を見開いたが、メーシャが何かを受け入れるように目を閉じると――まぶたの裏に、星が落ちてきた。
瞼にまぶしい光を見たような気はするが、何も変わらない。
変わらないことを不思議に思ったメーシャは、ゆっくりと瞼を押し上げる。そこには変わらぬ庭があった。ただし、――噴水は水を噴出したまま停まっている状態にあったが。
「……」
見た目は何も変わっていないが、何かがおかしい。時間が停められているのなら、メーシャの身体だって動かないはずだ。けれど、身体は動くし、この状況に恐怖も感じない。それもまた“おかしい”に拍車をかけていた。
腰掛から立ち上がったメーシャは、ゆっくりと時の停まった噴水へ歩き出す。水滴が宙に浮いたまま月の光りを受けて輝く様はとても幻想的な空間をさらにそうさせた。ふと、何かに縋りつかれたようなあたたかさを背中に感じて――。
『振り向いちゃ、だめ』
何かを堪えるような透明な女の声が、振り返ろうとしたメーシャの後ろでそう告げる。
中途半端な体勢で逡巡したのち、声の言うとおり前に向き直った。時間が止まった庭で背中にすがり付く相手は、震える声で言う。
『……ありがとう』
鼻にかかるその声に、メーシャの心が切なく疼いた。
彼女はメーシャの背中にぴったりと震える身体を押し付け、――泣いていた。
それも、まるで夜露に濡れる花のように、ひとり声を押し殺して。
「……」
困ったな。と、メーシャは思った。
こんなふうに泣かれるなら、いっそのこと抱きしめてやりたい。誰かの体温を感じながら泣くと落ち着くことを、メーシャはルノンから教えてもらったからだ。できることならそうしたい。が、本人が振り返ってはダメだというのだから、何もできない。他に自分にできることはあるだろうかと考えたメーシャは、思いきって口を開いた。
「あの」
『……』
「…………俺でよければ、はなし……、聞きましょうか?」
本来ならば、この不思議な現象に関して考えをめぐらせるべきなのだろうが、そんなことよりも彼女のほうが気になった。それを言葉に出したメーシャに対し、彼女はひくっとしゃくりあげる。
『あの』
「はい」
『……普通、この状況に疑問を持つものじゃないの?』
「あー、俺も最初はそう思ったんですけど、それよりも……その、女性の涙ってあんまり得意じゃなくて……」
ははは、と苦笑を漏らすメーシャに、彼女は小さく噴き出した。
「あれ? 俺、おかしなこと言いました?」
『ううん。……やっぱりあなたはどこにいても変わらないんだって思うと、安心して』
ほんの少し、彼女の声から悲壮感が消えたような気がする。ほっとすると同時に、その言葉に違和感を覚えた。
「ということは、あなたは俺のことを知っているんですね」
彼女の動きが止まったのを触れているところから感じ、メーシャは続ける。
「離れないでください」
我に返って離れようとする彼女に聞こえる声で、それを押し留めた。
「……誰だって泣きたい夜もあります。ひとりで超えられない夜もあります。……だからって、自分から孤独を選ばないでください」
『っ!』
「あなたのことを俺は知りませんが、……嬉しいことに、あなたは俺のことを知っている。だったら、俺にできることをさせてください」
悲しみに震える身体を抱きしめることができない代わりに、どうか頼ってほしい。
そう、祈りをこめて静かに伝える。その思いが通じたのだろうか、彼女はひっと小さくしゃくりあげた直後、今度は思いきりメーシャの腰に腕を巻きつけて、縋りつくように泣いた。――初めて、声を出して。
何か、いや、誰かを求めるような彼女の悲痛な声がしばらく続く。できることなら、しっかりと頭を撫でて大丈夫だと言ってやりたかった。が、メーシャにそれはできない。しかも、腹部にまわされた彼女の青白く発光する腕を見て、自分の予想がほぼあたっていることを理解した。どういう理論でこういうことが起きたのかはわからないが、これは。
(別次元か、もしくは別時間軸からの干渉)
予知魔術師と占星術師は似通った存在だと思われがちだが、全然違う。占星術師は、星の動きから一番可能性の高い未来を視ることができるが、そのとおりになるかどうかは占星術師である自分たちでさえもわからない。
授業で教えられたことを頭の中で並べながらも、メーシャは今自分の身に起こっていることを冷静に判断し、彼女の存在を結論づけた。
どうしてそうなったのか、どうやって干渉できるのかは知らないが、彼女の存在がそれを証明している。即ち“彼女が知っているメーシャと、ここにいるメーシャは同一人物だが時間軸が違う”ということ。それを、先ほどの彼女の言葉から理解した。
すべて推論によるもので決定的な証拠はないし、彼女もまた本当のことはしゃべらないだろう。時間を曲げてしまえば歴史が変わる。その恐ろしさを魔術師ならば知っているはずだから。
見下ろした彼女の手にはめられたルビーの指輪をかたちどった魔術具を、指先でそっと撫でる。そして、ゆっくりとそのぬくもりを全体に広げた。彼女の手を、自分の手で包み込むように重ねる。
『……っ』
「抱きしめて頭を撫でることができない代わりに、これぐらいは許してください」
『で、も』
「触れ合うぐらいじゃ時間は曲がらない」
ぽんぽん、とあやすように重ねていた手を叩くメーシャに、彼女は小さくこくりと頷いた。いつの間にか泣き声が聞こえなくなり、ふたりを静寂が包み込む。やがて、彼女は歌うように言った。
『恋、……を、したの』
聞いたことはあるが経験したことのないメーシャは、何も言わず彼女の声を聞いていた。
『あまい、……あまい恋だった』
「……だった?」
『うん』
それ以上、彼女は言わない。だからメーシャも続きを促すようなことを言わなかった。ただ彼女の心が穏やかになりますようにと、このあたたかな静寂に祈る。
「……きっと、幸せだったんでしょうね」
『え?』
「こんなに愛しい手つきで、あなたに触れてもらえる、彼が」
何かを察した彼女が、メーシャの背中から離れようと動く。ぴったりと触れていたぬくもりが離れゆく感覚に、メーシャの心が切なさに染まる。思わず、彼女の手を掴んでしまった。
『はな、して……』
「ごめん。それはできない」
『どうして?』
今にも泣き出しそうな声に、心が今度はきゅぅっと締め付けられる。しかし、理由を考えても答えは出なかった。
「……さぁ、どうしてだろう」
それ以上続けることができないメーシャに、ほんの少し戸惑っているような雰囲気をかもしだした彼女がゆっくりと動く。背後から、再びぎゅっと抱きしめられて安堵する。先ほどの縋りつくような抱擁と違い、メーシャを包むように抱きしめてくるその抱擁に、僅かな既視感を覚えた。
『お願い。私のことは夢だと思って。……少しもあなたの記憶にとどめないで』
メーシャは何も答えず彼女の手をそっと持ち上げ、女性特有の綺麗な指先に唇で触れた。背中からぬくもりは伝わるのに、不思議と体温も、何も感じない指先から、なぜか彼女の愛しさだけは伝わってくる。
『な、な、ななな何、を……!!』
「とても綺麗な指をしていると思ったので、つい」
『無意識だっていうの……!?』
「はい。何か問題でも?」
特に問題だと思わないとメーシャが伝えると、相手はそうではなかったらしく絶句した。あぅあぅと困る息遣いが聞こえてきて、思わず口元を綻ばせる。
「……嫌、ですか?」
『だったら、逃げてる』
彼女のむくれた声に、今度は笑みが浮かんだ。
「すみません。ちょっと意地悪だったでしょうか?」
『そうやってわかってて訊くところも、あなたらしくてちょっといろんな意味でばかって言いたい気分なんだけど?』
彼女の様子が、初めて会ったときよりも元気になった気がして嬉しくなる。メーシャは「ごめんごめん」と笑いながら、今度は彼女の手の甲に唇を落とした。
「――ハリアス」
何も、考えず、ただ、ふと、こぼれた名前だった。
落ちた名前に驚いたのは、紡いだ張本人で、その後ろで、ふっとやわらかく空気が揺らいだ。
『それは、あなたの好きな子?』
「え、あ……、いや、ごめんなさい。他の女性に向かって、違う子の名前を言うなんて」
どうかしてる。本当に、どうかしている。
慌てて謝罪をしても、彼女はくすくすと笑うばかりだ。
「ほんと、……ごめん」
『いいのよ。そんなに謝らなくても。で、好きなの?』
「え?」
『その、ハリアスって子のこと』
すぐに「すき」だと返答すればいいのだが、どういうわけか声が出ない。なんだか、気恥ずかしくて声に出して言葉にするのがもったいないというか、むずがゆい気持ちになった。
「……まだ、わかりません」
『そっか』
「ただ」
『ただ?』
「失礼かもしれないけれど、……愛しく俺に触れるあなたが、彼女であったらいいと思いました」
願いをこめて、この間ハリアスにしたように、今度は手のひらにくちづける。一瞬、言葉を詰まらせた彼女は、覚悟を固めてメーシャの名を呼んだ。
『――メーシャ、私……っ』
しかし、そこから先は時間に拒絶されたのか、残念ながら聞けなかった。
ぬくもりすら残してくれない彼女に、なんとなく切なさが募る。――こんな気持ちは、初めてだった。
翌日、メーシャはいろんな意味でぼろぼろだった。
「……はぁ」
昨夜のことを思い出したら、心臓が切なさで悲鳴をあげる。
彼女が消えたあと、うっかり居眠りこいちゃったぜ! と言わんばかりに時計は時を刻み、空白の時間をなかったことにされた。残されたメーシャは夢と現実の狭間で、それでも浄化を終え、寮に帰ったのだが……、なかなか寝付けなかった。おかげで授業は上の空で、ストルに厳しい言葉を言わせてしまった。
「メーシャ」
「……はい」
夜の課外授業が終わったあと、小高い丘でストルを見送ったはずなのだが、何か気にして戻ってきたのだろうか。担当教員に肩を叩かれて顔を向けた。
「…………大丈夫か?」
「え?」
「落ち込むのは結構だが、今後に響いてもおまえのためにもならないからな」
それで心配してきてくれたというのか。ありがたいが、それ以上に自分が情けなかった。こんな感情に振り回される自分は初めてで、どうしたらいいのかわからない。それからもうひとつ。
「先生に厳しい言葉を言わせてしまった自分が不甲斐なくて……。すみません」
素直に心のうちを吐露したメーシャに、ストルは苦笑を浮かべた。
「そういう反省の仕方もまた斬新だな」
「……すいません」
「いい。原因はわかってる。だから、このままここにいろ」
「え?」
「さっき勉強したろ? 星から宣託を受けた。まぁ、俺の場合は直感にも近いんだがな」
わけもわからずぽかんとしているメーシャの肩を叩いて「それだけだ」と爽やかに微笑んだストルは、困惑顔でその場に佇む生徒を置いて学園へ戻っていった。その後ろ姿を見送ったメーシャは、とにかくストルの言葉を信じることにする。
天体観測をした小高い丘の上に腰を下ろし、通り過ぎていく風を感じたメーシャは、ふと他の新入生のことを思った。
ソキは転んでないかな、ロゼアは面倒ごとに巻き込まれてないかな、ナリアンは寮長にかまわれてないかな。
浮かび上がる友人たちの顔にふふふと口元を緩ませると、次にルビーの瞳が現れた。――ハリアスだ。
「……あれ?」
ほんの少し、友人たちへ向けるものと違う感情に違和感を覚える。それは、あの日いきなり自分を拒絶したハリアスを思い出したからだろうか。珍しくカチンときたのだからしょうがない。けれど、考えてみればなぜカチンとなったのか、に明確な理由はなかったような気がする。
このまま考えこむと、ストルの言っていた宣託のときを見失ってしまうと気持ちを切り替えたメーシャは、夜空に浮かぶ星々を見上げ、そこにない星座を思い浮かべる。そしておもむろに腕を上げ、宙を指先で触れた。
「ベテルギウス」
星の位置に指先を当て、次の星に向かってすっと宙をなぞっていく。
「リゲル、ベラトリックス、ミンタカ、アルニタム、アルニタク……サイフ、ヘカー、タビト……」
星の名前を紡ぎながら、オリオン座を人差し指でなぞっていく。最後まで星座をなぞり終えたメーシャは、感じた視線に動きを止めた。振り返った視線の先を辿ると、そこには――はしばみいろの髪を揺らしたハリアスが、ルビーの瞳を驚きに瞠っていた。
「……っ!!」
その場から逃げようと踵を返したハリアスに向かって、立ち上がったメーシャは反射的に追いかける。彼女の足と、メーシャの足とでは物理的な長さもさることながら、体力的にも違う。当然、メーシャのほうが優勢だった。
逃げるハリアスを追い越したメーシャが、両腕を広げる。
「え、ちょ、ど、ど、退いてどいてどいてくださいぃいいいいっ!」
方向を変えることもせず、まじめにもそのままメーシャの腕の中につっこんでくる小さな身体を受け止めるように抱きしめた。ふわりとお菓子のような甘い香りが鼻先をくすぐる。
「つかまえた」
抱きしめたハリアスの耳に囁くと、彼女の耳がぼっと音をたてるように赤くなる。ふと、このまま腕の中に閉じ込めてしまいたいという気持ちに駆られた。
「メーシャ、さ……ん?」
どくん。抱きしめる腕の中で、ハリアスの心臓が跳ねる音が聞こえる。なぜだろう。このまま、彼女を放してはいけないと思った。
「力を入れたら……、折れちゃいそうだ……」
「え、あの」
「ハリアスって、こんなにあったかくてやわらかくて、いいにおいがするんだね」
首筋に顔を埋めてすぅっと彼女の甘い香りを吸い込む。胸の中に広がった甘い気持ちに、抱きしめる腕の力が強くなった。
「ひゃ、あ、やぁ、……メーシャさん……っ」
暴れようとしているのか、もがいているのかわからないが、身じろぐハリアスを腕の中に閉じ込める。耳からは彼女のあまい声が聞こえた。その声に、彼女が腕の中にいることを理解して、すっぽりとハリアスを包み込めることが、心のどこかでうれしいと思った。この感情の名前がわからない。けれど、とてもくすぐったくて、あまくて、あたたかいものだ。
「メーシャ、さん……? あのですね、はなして……、も、もらえません、か……?」
「もうちょっと」
「え?」
「もうちょっと、このままでいて。ハリアスを抱きしめると、とても気持ちいいんだ」
心から湧き上がる感情にどうしたらいいのかわからなくて、気づけばハリアスの首筋に唇が触れていた。
「ひゃんっ」
肩を震わせて声をあげるハリアスに、言葉にできない衝動がわきあがる。唇にあたる滑らかな肌に、気づいたらちゅぅと吸い付いていた。びくびくとさっきよりも震える肩に、周囲を包むあまい空気に、あてられそうだ。彼女の香りにおかしくなりそうだ。
それでも唇で肌をなぞるのはやめられない。
舌先で肌をくすぐると、ハリアスはさらに声を押し殺して身体を震わせた。
「…………めーしゃ、さん?」
「いや?」
「え?」
「……俺に、こうされるの……」
彼女は息を呑んであぅあぁと困ったように口を開閉させた。返答に困っているようだ。その様子もまたかわいくて、思わず意地悪なことを訊いてしまう。
「嫌だったら……、逃げてるよね?」
かっと身体がまた熱くなった。
「か、かかかかからかうなら放してください!!」
じたばたともがくハリアスを腕の中で感じて、まるで猫のようだと思う。
「からかってない。……だから、教えて。君は、どう思ったの?」
彼女の耳元で囁いたメーシャは腕の力を緩めた。すると、彼女は目に涙を浮かべて頬を薔薇色に染めて、困ったようにメーシャを見る。
「い」
「い?」
「い、い、いいいいい嫌じゃないけど嫌じゃないから困って戸惑ってわけがわからなくなって、そんな縋るように抱きしめたりなんかしないでくれますか逃げられないじゃないですかちょっといろんな意味でばかって言いたい気分なんですけどばかぁあああああ!!」
彼女は“嘘をつく”という選択肢があるはずなのにもかかわらず、まじめにもちゃんと本音を言って駆け出していった。
「もうばかって言ってるけどね」
その背中を見送りながら、メーシャはくすりと笑い、ふと、腕の中に残ったぬくもりに、あれ? と首をかしげ、そしてうんと頷いた。
「もしかして、そういうこと?」
何かがメーシャの中で繋がったのか、もう彼の中に“彼女を探す”という選択肢はなかった。
*★*―――――*★*―――――*★*
かすかに微笑んだ彼女の口元を最後に指の腹でなぞり、青年は泣き笑いを浮かべた。
今度は青年が彼女を腕に抱き、先ほどの彼女のように額を合わせる。
「……きっとまた、俺は君を愛すよ」
青年の想いに応えるように、彼女のまなじりから流れた涙に唇で触れた。冷たくなった彼女の亡骸からの、最期の、最期のぬくもりを唇に感じ、青年は天を仰ぐ。いつだって、オリオンをなぞった先にいた愛しい彼女を片腕でひとしきり抱きしめた青年は、彼女の指にはめられた魔術具の指輪を抜き取り、胸に抱いた。
「ありがとう」
せめてもの救いは、永遠の眠りについた彼女の表情だった。穏やかに、ただ眠るように、苦しみや痛み、悲しみからも解き放たれた彼女がそこにいること。
「また、会えるよ」
それが、彼女の最期の願い。
そして、青年から贈る最期の約束。
あいしてる。
言葉にして伝えることができなかったけれど、唇を静かに動かした青年は、仲間たちの亡骸に背を向け約束する。
「また、会おう」
オリオンが示す先に“希望”があった。
何を犠牲にしても、きっとみんなでまた笑いあえる。
青年は血塗られた玉座で最期の力を振り絞って、己の存在を差し出した。
オリオンをなぞった先に“彼のはじまり”が待っていることを信じて。
戻る / ** 作品更新終了のお知らせ **