天体観測、と呼ばれる授業があるらしい。実技の授業でロリエスがなんとはなしに口を開いた。ナリアンの実技の授業は、彼の教官であるロリエスが用意したプリントをひたすら解いていくだけであるので、主にロリエスに割り当てられている教官室で行われる。ロリエスの執務机の向かいにポンと置かれたそれなりの大きさの机。参考書を机の両端に置いたとしても、インク瓶をひっくり返さなくても良いぐらいにはスペースがあった。与えられた教科書を持ち込んで、ロリエスから渡された参考書を積んで、広げた羊皮紙には一行の問題。何枚かのそれらに目を通し、一番上で差し出された問題にナリアンは意識を落としていく。そんなナリアンをしばし見つめたロリエスは、自身の仕事である王宮魔術師の書類を片付けるのが普段の光景であった。それが、この日、ロリエスはぼんやりと空を見つめ心ここにあらず、という言葉を如実に表していた。そして、プリントに没頭するナリアンに、ロリエスは自分の喋りたいように口を開いていた。
「一種のお祭りだ。で、うちの元気いっぱいな魔術師たちが盛りあがっていてな。その日の夜にしか咲かない花を陛下に献上するんだなどと息巻いているが、その花は医学的にも実は重要な花だから、持って帰ってこいとは言うが、ああなんだ。お前のことを優先に出来ないんだ」
つまり、ほとんど毎日のように入っている実技の授業が減るということで。時間割をロリエスと話し合って決めたナリアンだったが、ロリエスの実技以外の時間はすべて座学が入っていた。一緒に入った同期の中で最年長だから、というわけではないがどこか俺がしっかりしなければ、という思いもあったのだろう。残りの三人に迷惑はかけられない。ただでさえも、体の調子が狂っているのだ。しっかり治せ、と言われたがこの身が元のように戻るのかも怪しい。実技で足を引っ張っているのだから、座学ぐらいはと思っていた。それに、この学園の蔵書量は、息をするのも忘れるほどの量だった。天井から床までの本棚。びっしりと詰められた本。インクと、紙の臭い。恐る恐る手を伸ばして引き抜いた一冊に目を通す。知らない単語に溢れていたそれに、焦った。読むことはできるが、理解はできない。理解していないものを使うな。知るために知ることから始めなければならない。唇を噛んで、ナリアンは本を書棚に戻した。ロリエスに、ありのままを伝えた。ロリエスは、笑いもせず、否定もせず、そうか、と頷いた。できるだけ、多くを万遍なく、段階的に学べるように、ロリエスが尽力してくれた。何せ卒業生なのだ。ナリアンが学ぶべき授業はすべて履修している。内容を知り、わかりやすいように、一つ一つが繋がっていくように授業の組み方をアドバイスしてくれた。おかげで、びっちりと埋まった時間割にナリアンは、多少、頬をひきつらせながらも、見つめてくるロリエスに頷いた。やり遂げます、と頷いた。
「最短での卒業は四年くらいかな。能力の制御、卒業試験に合格すること、十五歳以上で、お前は十八だったな。それから就職先が決まっていること。ああ、大事なことがひとつ。これをクリアしなければ、絶対に、卒業できない」
ビシリ、と眠たげな眼差しはなりを潜め、痛いまでにナリアンを射抜く。ロリエスを凝視したまま固まるナリアンに、ロリエスは真一文字に結んでいた口角をゆっくりと持ち上げた。
「絶対に必要な条件はな」
こくり。
「それはな」
重々しく頷く。
「知りたいか」
コクコク。
「それは……」
真剣な眼差しを向けるナリアンに、ずいと身を乗り出しながら、ロリエスの黒い瞳が輝く。楽しそうにキラキラと輝いていたのにも関わらず、泡が弾けるように眠たげな表情が戻った。呆気にとられるナリアンに、乗り出していた身をロリエスは椅子に沈めた。
「……言えない」
その言葉に目に見えて落胆したナリアンを横目に見ながら、ロリエスは己の恩師を思い出していた。今のナリアンと同じように、恩師から教えを請うていた自分。当然、卒業条件を教えてもらうときがあった。ただし彼は、緊張した面持ちで回答を待つロリエスに、ひ、み、つ、とウインクをしながら言って、怒らせた。そんな思い出と、嬉しそうに笑う恩師の顔をロリエスは頭の中で叩き伏せた。可及的速やかに忘れよう。気持ちの整理をつけたロリエスは、難しそうな顔をしたナリアンを見やる。生き急いでいるような彼を見て、思わず飛び出しかけた言葉をロリエスは飲み込んだ。
急がなくてもいいからな。ああ、ナリアンは別に急いでなどいない。ただ、己に課すハードルが高いだけだ。魔術師の学園とは別の、普通の子たちが受ける普通の教育は、みな同じように進んでいく。人より先に何かを会得せずとも、均一に平等に学ぶ機会は与えられる。ナリアンの過去をロリエスは知っていた。ざっくりと、その愛ゆえに、人と混ざることが出来なかったことを。知っているからこそ、おそらく知っていなくとも、ロリエスはナリアンに対して、咎めるような、頑張らなくてもいいというような、急がなくても、一人でやりきらなくてもいい、とは言えなかっただろう。
愛ゆえに、それを課せられているのか、はたまた性分なのか。こいつが、誰かに助けを求められるようになればいい、とロリエスは思った。
入学してからすぐに行われた実技授業では、ナリアンはヘロヘロになった。決められた時間内の中で、何をつかませるか。つかみかけるか。手を変え、品を変え、ロリエスはナリアンに問う。見えるもの、聞こえるもの、感じるものは何か。はたまた、匂いか、感覚か、直感か。幾度も問われ、返答する。それだけのことなのに。ナリアンは授業が終わるたび、重い体を引きずるようにして次の授業へ向かう。ナリアンの体調を考慮して早めに切り上げられるはずだが、ナリアンが次の授業に赴くのはいつもギリギリ。それを知りながらもロリエスは手を緩めなかった。
思いを胸に秘めながら、世間話をするようにロリエスは口を開く。
「星が、降ってくるんだ」
ロリエスは教員に宛がわれた部屋の椅子に深く腰掛け、背もたれに体を預け天井をぼんやりと眺めていた。独り言であるのだろうけど、ナリアンはロリエスを窺った。
「一年に一度、ただでさえも満天の星空がやたら明るくなるんだ」
ロリエスの左手がすい、っと天井に伸ばされる。その手は宙を撫でるように踊る。
「その日は、希望の日なんだ。絶え間なく降る星は、吉凶を占ったりもするんだが、その日に流れていく星は、可能性のかけらを秘めている、らしい」
ロリエスにしては珍しく、言葉を濁した。
『らしい?』
「聞いた話さ」
ロリエスの課題を解く手を休め、ナリアンはじっと見つめる。宙に文字を書きつけるロリエスの指先を。呪文か数式か、それとも詩の一説か。見極めようとするナリアンにロリエスは笑みをこぼす。きゅっ、と左手を握りこんで机の向こうの膝の上に隠しながら、ロリエスは笑う。
「実技の授業がない時は、自由時間で構わない。そろそろわかることも増えてきた、だろう?」
思いのほか、多くの表情を見せるロリエスにナリアンは最初驚いた。初対面が、仏頂面のまま死にそうな顔をしていたから。感情を出さない人、なのかと思っていた。それはただ、仮面の向こうにしまってあるだけで、ロリエスはよく笑うし、微笑む。それでも、他の人よりそういった面は少ないのだろうけども。
『まだ、わからないこと、だらけですよ』
「見る本を間違えなければ、大丈夫さ」
いつもの感情を映さない能面のような表情に戻り、唇を尖らせるナリアンに手を伸ばした。ナリアンはその手に書きかけの紙を乗せた。足りないところは口頭で説明をして、ロリエスから授業の終わりが告げられる。礼を言って、ナリアンはロリエスの部屋から出た。もう、この後に授業は入っていない。揺れる木の葉を見つめて、ナリアンは図書館へ足を延ばした。
その日は、新入生だけが一室に集められ、説明を受けた。星座版と、スケッチブックは後ほど渡すよ、と言われ首を傾げている頃に迎えが来た。あれよ、あれよという間に、星降の国のバルコニーに立っていた。大勢が、バルコニーを見上げ歓喜の声を上げる。
「魔術師、夜を降ろせ!」
ばくり、ばくりと、鼓動が大きくなる。心音が耳に、脳裏に響く。たくさんの人に見つめられている。魔術師、という言葉に驚く。学園では、たまご、と呼ばれているから。ああそうか、この人たちから見れば俺たちは、魔術師、なんだ。唐突に息が苦しくなる。夜を降ろすことを望まれている。どうすればいいのかもわからない。それでも星降の国王陛下は大丈夫だと笑う。同期が夜を降ろし始める。次第に、明るくなっていく空。きらり、きらり。弾けるように、瞬いていく。薄闇が暗闇に、黒くなっていくキャンバスを埋め尽くさんばかりに白が溢れていく。
「ナリアン」
名前を呼ばれ、一歩、体が前に出た。途端に大きくなる群衆の声。唇が、のどが、手が、足が、震える。言葉が浮かばない。焦りにも似た、それを踏ん張ることでしか、耐えられない。ぎゅっと手を握り締め、両手を少し広げ前へ突き出した。
「……いで」
するりと、手を風が撫でていく。唇を噛みしめて、もう一度、同じ言葉を繰り返した。強く、歎願するように。
「おいで」
群衆の頭上を風が駆けて行く。バルコニーの年若い、青年に向かって。突風にざわめき立つ。木々が揺れ、人々の持ち物が風に巻き上げられる。風がナリアンのもとに走り、空へ還った。藍色の空に、一つ、また一つと灯りがともり始める。堪えきれなかったように、星が流れていく。尾を引きながら、生まれたばかりの魔術師達に思いを寄せるように、君に会いに来たと。
「魔術師、夜を降ろせ!」
一瞬の間をおいて、再びざわめきを取り戻した人々。メーシャに腰の辺りを叩かれ、腰が砕けそうになるのを押しとどめて、一歩、下がった。大きく脈打つ心臓が苦しい。降ろした手はまだ震えている。期待に応えられただろうか。不安に泣きそうになりながら両手を握り締める。儀式は終わりを告げ、扉をくぐり学園へと戻る。渡された道具を一式持ち、新入生は各々が思う位置に座り、課せられている観測を始めた。ナリアンも柔らかな芝の上に腰を下ろし、夜空を見つめる。
思えば、こんな風に星を見たことがなかったように思う。夜は、怖いものだったから。目が覚めたら、両親はいなかった。見知らぬ部屋、布団手触り、嗅ぎ慣れないご飯の匂い。一夜にして生活が一変した。暖かな、手に抱かれることはもうない。ひんやりとした手に、唇に愛をもらうことはない。夜が来るのが怖くて、オリーヴィアも、いつの間にかいなくなってしまうんじゃないかって。眠るのが怖かった。幾度もオリーヴィアの布団にもぐりこみ、彼女の服をつかんで眠った。いなくなるということが、当たり前であるかのように思いたくはなかった。歳を重ね、昼夜を問わず手を動かすこともあった。本当は、夜は怖いものではなかったかもしれない、夜は人を奪わないとわかり始めたのかもしれない。
幾本の線を引いて星が流れていく。あちら、こちらに雨のように。
祈れば届くだろうか。何の可能性か、とまではロリエスに問えなかったけれど。あの授業後に寄った図書館で星に関する本を読み漁ってはみたけれど。占星術師の本も歴史も読んではみたけれど、やっぱり言葉がわからなくて。もらっている教科書をめくり、ロリエスに聞き、それでもやっぱりつかめなくて。見上げた夜空の、一際輝く星の隣にある小さな星についてナリアンはレポートをまとめた。大きく輝く何かを横目に、突き進めば、迷うことはない。主役でなくていい、望まれるようには生きられないから。
流れていく星に、一つの思いを寄せる。どうか、どうか。幸せでありますように。俺の大好きな人たちが。
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