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 はじめてのじゅぎょう。

「っはっ……!!!!」
 呼吸を荒げながら、ロゼアはその場に膝を突いた。身体のいたるところから汗が吹き出し、玉の滴となって肌を滑り落ちる。砂の上に点々と穿たれた染みの、その深淵のように暗い色を、ロゼアは息を切らしながら見つめた。
 ひ、ひ、と喘鳴を上げるロゼアの横では、チェチェリアが涼しい顔で、砂の上に新しく付けた線を眺めている。それは、最初に付けた二本の線の丁度中間を走っていた。
 チェチェリアがロゼアに要求したことは、温度上昇魔法の効果範囲を狭めることだった。まずは何も考えずにただ視界の温度を上げていく。次に、その範囲を二本目の線まで近づけろ、とチェチェリアは言った。彼女が口にしたものをそっくりそのまま詠唱する。属性が違うので、チェチェリアが唱えたとしても術は発動しない。ロゼアが口にしたものだけが、力を持つ。
 他にもチェチェリアはこまごまと要求した。視線を動かさぬこと。これは、目の動きで何を対象としているのか悟られぬための措置だ。無論、顔も動かしてはならない。
 そのまま魔力が注ぎ込まれる範囲を故意に狭めていく。
 二回目の詠唱で、ごそりと身体の中の何かが外に流れた。あるべきものの欠乏に身体が悲鳴を上げ、チェチェリアの指示がうまく頭に留まらない。魔力を意識しろ、感じろ、といわれても、見える景色はぐにゃぐにゃに歪み、思考は融けていくばかりだった。
 内側の線、内側の。ロゼアが必死に胸中で唱えているさなか、チェチェリアが背後から氷を投げ入れる。透明な青の塊は、二本の線の中間で蒸発した。その位置に鞭で引いた線を、ロゼアの呼吸が落ち着くまで、チェチェリアは眺め続けていた。
「一回目にしては上出来か」
 満足げに呟いた担当教官はロゼアに真鍮製の水筒を差し出しながら告げた。
「水を飲みながら座っていろ。今日はもう魔術は使わない。これから、講義に入る」
「ここ、で?」
「魔術とは。属性とは。適性とは。……おそらく、今朝も講義を受けたとは思うが、体感しながらだとまた違うはずだ。ここでは教科書から知れる物事を、体験しながら復習し、体得していってもらう。今日はその手始めだ。……ロゼア」
 耳を傾けるロゼアを見下ろすチェチェリアの顔がいっそう厳しいものとなる。彼女は傷ましげとすら思しき表情に眉根を寄せると低く囁いた。
「私は、お前に辛くあたる。授業も試験も、おそらくお前の同輩たちに比べて、かなり厳しい。理由は、私の方針ととってくれて構わない。それでも私はお前を見捨てたりはしない」
 だから、腐るな。
「わかりました」
 チェチェリアの前置きへの了承にロゼアは深く頷いた。
 厳しくされることはかまわない。訓練と学業はロゼアの友だ。
 昔から、そうだった。
 物心ついたときから、そうだった。
 ソキの傍にいるために、ずっとずっと、そうだった。
 よろしい、と、雪解けのような微笑を見せたかと思うもつかの間、チェチェリアはさっそくロゼアに問いを投げかけた。
「水を飲み終えてからでいい。ロゼア、答えろ。魔力とはなんだ?」
 水筒の蓋に酌んだ水に口を付けながら黙考する。
「……力。……身体の中に、ある、魔術師にしかない力です」
「その量はどうやって表現する?」
「『手に持つ器』。……魔術師しかもたない、魔力で満たされた器の大きさで。その器の大きさは生まれながらのもので、変わることはない。そしてその大きさは、他人と比べることでしか測れない」
 チェチェリアは合格だ、と頷いた。
「次だ。魔力はどうやって効果を世界に現出している?」
「現出?」
「魔力があると、どうして、私は氷を出現させられる? お前は温度を上げることができる? それを魔力はどのような形でしている? ……魔力と世界の繋がり方を、お前は理解しているか?」
 魔術師たちの魔力が、世界の則を一部改変する。
 ではどのようにしてそれは行われているのか。
 今朝の座学でも学びはしたがいまひとつわからない部分だった。言葉に詰まるロゼアにチェチェリアは言葉を続ける。
「こういったことを理解しなくても魔術は使える。けれど理解しておいたほうがなにかと役に立つ。……いまから説明することは、頭で覚えて帰れ。書きつけるなら寮に帰ってからにしろ。わからなかったりあやふやだったりするなら、何度でも訊いてかまわないから」
 チェチェリアはロゼアが運んだ荷物の中からバケツとコップ、水袋を取り出した。砂漠でもよくみられるそれに、五リットルほどの水を詰めてきてあった。
「魔術師によって説明の仕方は違う」
 バケツとコップの中に水を流し入れながら、チェチェリアは言った。
「これはあくまで私の解釈だ。人によって説明の仕方が違う。だが訓練が私の解釈で進む以上、お前もこの形で理解するように」
「はい」
「よろしい」
 チェチェリアは微笑んで、バケツとコップを指差した。
「……この二つが、魔力の量。『手に持つ器』だ。中に入っている水が、魔力。魔術師はこの水を使って、術者の望んだなにがしかを世界に現出させる」
 次にチェチェリアはぼろぼろの枕二つを取り出した。廃品として焼却処分寸前のそれらもまた、ここにくるまえチェチェリアに言われてロゼアが調達してきたものである。
「魔力はどうやって世界を変えているか。その答えが……これだ」
 チェチェリアはおもむろにコップを取り上げると、中の水を勢いよく、枕の一つにぶちまけた。黄ばんだ布地に水の染みができる。
「器を傾けると中の水がこぼれて布地が濡れる。これと同じ現象を、魔術師は魔力を使って起こす。魔力を身体の外に出して、世界を濡らしている。濡れた、という現象が、私たちでいう、氷を生んだり、温度を上げたりといったことがらに相当する。……では、より大きな魔力を世界に浴びせると、どうなるか」
 チェチェリアはバケツを既に濡れた枕の上にひっくりかえした。枕は一瞬でずぶ濡れになった。
「これが、大きな魔力を用いた魔術の成果。時に魔法と呼ばれるものだ」
 チェチェリアは再びバケツを水で満たすと、コップで水を掬い取った。続けて、道具袋から小瓶を取り出す。赤色のインク。それをコップの中に落とす。
「次は属性について説明する」
 水が、綺麗な緋色に染まった。
「『濡らすことができるもの』が魔力だとする。属性は、『どんな色に濡らすか』だと思えばいい。大体一般的に言って、単一属性……地だの水だの、火風光闇、が、魔術師の中でも数が多い。たとえば火属性の魔力が赤だとするな。さて、この水を振りかけてみよう」
 チェチェリアはコップの中身を枕に落とした。枕に、赤色の染みがじわりと広がった。
「魔術師が自分の属性と異なる魔術を使えないのは、こういう理由だ。赤い水を持つ者が水を零したところで、青い染みにはならんだろう。同じように、火属性のものに水属性のものは使えない」
「俺とかはどうなるんですか? ……俺の魔術は、熱以外に光とかも使えるっていいますが。先生もそうですよね? 水と、冷気と……」
「複合属性の場合だな」
 炎、氷、自然、星、夢、月に、太陽が、複合だ。複合属性の魔術師は、数種類の属性を使いこなす。
「色水で説明するなら……そうだな。お前は太陽だから、橙色にするか」
 チェチェリアは黄と赤、二種類のインクを取り出した。コップに新しく組み直した水に、インクを順番に垂らす。
 二種類のインクは、水面で渦を巻いている。
「黄色が光、赤が熱、と思えばいい。このコップをひっくり返したとき、水は橙色になっている。つまり二種類の色――属性が、混ざり合った形、これが太陽の属性だ。黄色が強く出た橙色のときは光の魔術を行使している。赤の時は熱を行使している。どちらが得意かは、もともとの素養……インクの量が黄に偏っているか赤に偏っているか、はたまた均等なのかによる。あぁ、これはたとえ話だぞ。太陽の属性が二つの属性がより合わさってできている、という話ではない」
 わかっている意思をロゼアが首肯で示すとチェチェリアは微笑んだ。
「次は適性についてだ。これは色の付け方、だと思ってもらえばいい」
「色の付け方?」
「そう。魔術師は誰しも開眼したばかりの時は、制御がきかない。器を一気にひっくり返して、水を零しているに過ぎないからだ。だが力が安定してくるとその方法も変わってくる。この枕を赤色に染めたい、と思ったとき、魔術師は無意識に色の付け方を決定してしまっている。器を傾けて色を注ぐか、霧吹くか、はたまた道具を用いるか、『どういったやり方で世界を染めているのか』、が、適性だ」
 黒魔術師はもっとも属性色が出る。インクをそのまま零し、世界に染みを作るかのように。黒魔術師の魔術は鮮烈なのだ。属性の象徴となるもの――火や水、光、闇、を生み出す。直接的な魔術。故に、攻撃力が高い。
 霧吹く、とは、白魔術師だ。インクを霧吹けば、布地に乗る色は幾何か柔らかいものとなる。同様に、白魔術師が魔術を行使すれば、世界に優しい、守りや癒しといった現出の仕方をする。
 道具を通じて魔力を発揮する術者が錬金術師。画家が絵筆にのせて色づけるような、繊細な術が可能となる。
「……じゃぁソキは……予知魔術師はどうなんですか?」
 今年ロゼアと共に魔術師となった少女は稀有な適性の術者であるという。
 予知魔術師。
 魔力を載せて口にした物事がことごとく実現されていくという。大概の希望は叶えられてしまうらしい、奇跡の術者だ。
 むずかしいな、と呻いたチェチェリアは、数種類のインクの瓶をロゼアの前に並べて見せた。
「……空間魔術師や召喚術師といった系統は説明しにくいところがある。特殊だからだ。だが私の見解で言わせてもらえれば、予知魔術師はこのインクすべてを持つものだ。無論、自属性のものが一番分量多いだろうがね。そして自分の望む通りに色を調合し、好きなやり方で世界を染め上げる。改変する。これが……予知魔術師だ」
 チェチェリアは中身をかなり減らしたバケツを、ロゼアの前に押しやった。
「予知魔術師とは総じて、魔力が少ない。何故なのか考えてみたことがある。」
 そういって、彼女はバケツの中にぽちゃぽちゃと霧吹きやコップ、蓋をしっかりと詰めたインクの小瓶を落とした。体積が増え、水かさが一気に増す。
「ここからは私の憶測だがな、ロゼア。予知魔とは、器だけならもともと大きいのではないか、と思う。中の水だけが少ない。何でもできるように、器の中にありとあらゆる色、魔力を外に放出するために用いる、道具全てが詰まっている状態なんじゃないか、と思ったことがある」
 これは、予知魔術師に限ったことではない、とチェチェリアは言った。
「予知だけじゃない。特殊系は魔力が少ないことが多い。だが実際に特殊系の魔術師の前に立つと、予想よりも器が大きいように思える。……魔力の器とは、中の水、そしてそれを放出するために無意識に用いている道具と一組で、『手に持つ器』なのかもしれない。道具があると中の水……魔力は少なくするより他ない。溢れてしまうからだ。黒魔術師が強力なのは、器を傾け、魔力をそのまま世界に注ぎ込む、という形態をとっているからなのでは。器一杯に魔力を満たす余裕があるからなのでは。そんな風に、思う」
 無駄話をした、とチェチェリアは笑い、表情を引き締めた。
「とにかく、先も説明したように、黒魔術師は攻撃力が高い。だが馬鹿の一つ覚えのように器をひっくりかえしてばかりでは、すぐに魔力など空になる。だから、効果範囲を広げ、持続時間を延ばすために、注ぐ魔力の量をどう調節するか、が重要となる」
 チェチェリアは濡れていない枕に筆記具で小さくバツを書いた。その印の上で、水で満たされたコップをゆっくり傾ける。
「今、お前はただこのコップをひっくり返しているだけの状態だ」
 細く線を引いた水が、印を滲ませた瞬間、チェチェリアはコップを縦に戻した。
「私がお前に要求することは、こんな風に、狙った場所に、狙った量だけの魔力を落とす。針に糸を通すような正確さで、魔術を扱えるようになることだよ、ロゼア」




 本来ならば、黒魔術師にそこまでの精密さは必要とされない。圧倒的な魔力で広範囲を制圧することこそが黒魔術の真骨頂だからだ。しかしチェチェリアはロゼアに一度毎、一ミリ毎、一秒毎の調節を要求するつもりでいた。
 それを卒業試験として課すのなら、訓練はかなり厳しく、負担を強いるものとなる。それを承知の上で。
「初めての授業はどうだった?」
 授業が終わり、引き上げている最中に声が掛かった。
「パルウェ」
 廊下の先で壁に背を預けながらチェチェリアを待ち伏せしていた魔術師は、この学園の職員である。ふっくらとした面差しに、とろんとしたトパーズ色の目。夜色の肌。ふわふわとした銀の髪を三つ編みにして肩に垂らした、同年代の女だ。パルウェ。学園時代のチェチェリアの同窓生である。
「チェチェが臨時講師として来るだなんて。うれしいなぁ。たまにはこっちに顔見せてくれないと。この前、顔見せにきたエノーラちゃんが、『先輩の姿を全く拝見してないんですけど今度ちょっとパンツの色を伺いに参りますってお伝えくださいぐへへ』って言って、寂しがってたわよ?」
「それは寂しがっているといわない断じて」
 げんなりとチェチェリアは溜息を吐いた。あの変態の後輩と、この悪友はどうして今でも仲がいいのだ。
「で、チェチェ、はいこれ」
「なんだ?」
「こんどの飲み会のお誘い」
 チェチェリアは友人から受け取った紙片を開いた。並ぶ名前は座学含め、新入生を担当することになる講師陣。顔なじみもあれば、卒業してから久しく会っていない者の名もある。
「ちょっとした同窓会みたいだな」
 チェチェリアは紙を畳んで、懐にしまい、歩みを再開した。
「ねぇ、ロゼア君はどう?」
「将来は有望だが、わからんな」
「チェチェが教官だなんてかわいそう。駄目よ、あんまりいじめちゃ」
「厳しくはするよ。ロゼアにもそう宣言した」
「厳しくするの?」
「あれは予知魔の守役候補だから」
 ソキ。ロゼアと共にこの学園に入った、予知魔術師。
 大戦中を含めて確認された数は片手の指で余るほど。それだけ稀有な存在ながら、危険度はこの世のどんな魔術師にも勝る。世界の則を覆す力を持った術者が、予知魔術師だ。
 予知魔術師がある程度の自由を得るためには、二つの条件がある。一つ、絶対に自分を守り切れる者を見つけだすこと。一つ、確実に自分を殺せる存在を見つけだすこと。その前者の候補が、あのロゼアだった。
 ソキは砂漠の国の高貴なる家の者で、ロゼアは元々彼女の世話役だったのだという。互いに信頼し合っているし、ロゼア自身の適性も、黒魔術師、複合属性、近接戦型、と申し分ない。問題は、ロゼアがあまりにも魔術を持て余している点だった――圧倒的すぎるのだ。その力が。
 目に入ったものすべてを灼熱に叩き込み、瞬時に滅殺する力を太陽属性の黒魔術師は有する。誰も逃げられない。
 ロゼアはいわば無差別に全てを切り裂く抜き身の剣のようなものだ。鞘に納める術を学んでもらわなければならない。
 普通ならば鞘に納める術を学んだ時点で卒業だろう。だが、チェチェリアはロゼアにそれ以上を要求するつもりだった。
「あと、もう一つ気になることがあるんだが……」
「気になること?」
「ロゼアから、妙な魔力の気配がするんだ」
「妙な魔力?」
「呪いの名残、みたいな……」
 パルウェが目を瞠った。
「まさか。そんなことあるはずがないわ」
「あっていいはずがない。……けれどソキについて話すとき、少し、嫌な感触がするんだ」
 以前、精神操作を受けた魔術師と仕事で関わったことがある。その時と似た感触――波長のようなものを、本当の本当に、微かだが、ロゼアから感じた。
「いやだわぁ。そういう物騒なの」
「私だって、気のせいであってほしいと思っているよ」
 厳しく扱うつもりとはいえ、これからチェチェリアが教えていく生徒で、かわいい後輩である。その彼に悪戯した誰かがいるのだとしたら今すぐつるし上げたい。
 暗くなりがちな雰囲気を払しょくするようにパルウェが朗らかに笑った。
「今度の飲み会は盛り上がりそうねぇ。楽しみ」
「そうだな」
 チェチェリアは素直に同意した。手紙のやり取りばかりだった間柄数名にも、久方ぶりに顔を合わせることになる。あまり国から出ることのなかったチェチェリアとしては、皆がどんなふうになっているのか楽しみでならなかった。
 パルウェが朗らかに言った。
「あ、エノーラちゃんもくるって」
 気分が、一気に急降下した。
「……私、欠席していいか? パルウェ」

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