曇り空を背景にして、一人の女性が佇んでいた。どこかへ行くか、あるいは帰る途中なのだろう。質の良い、それでいて簡素な旅装に身を包み、女性は和やかな微笑みを浮かべ、街を見ているようだった。その姿になぜか目を奪われ、ソキは馬車の窓からすこしだけ身を乗り出した。ソキの体調と体力に合わせて、のろのろとしか進まない馬車だ。ようやく暖かくなってきた冬国の風が、ゆるく、ソキの頬を撫ぜていく。
女性は月明かりや、静かな場所に響く歌声のようなひとだった。風になびく青銀の髪は冷えた月光をそのまま宿しているようで、まっすぐに伸ばされ、切り揃えられている。街を眺める瞳は、宝石のような紫だった。紫水晶の瞳。ふと、視線に気がついたように、ソキの方を振り向く。目が合った、と思った時だった。
「……いけません」
深く思考に沈むソキが馬車からころりと転がり落ちるとでも思ったのか、世話役の老女が窓を閉めてしまう。不満を乗せて向けた視線に、老女はしかし、ソキを案じる声で低く囁いた。
「お体に障ります」
「ソキは、そんなにすぐ、風邪を引きませんよ」
はい、はい、と返事をされただけで、ソキの望みは叶えられそうにない。ソキはふぅ、と息を吐くと、目を閉じてふかふかのクッションに身を沈めてしまった。腕を伸ばして、持ってきたぬいぐるみをぎゅぅと抱きしめる。ぬいぐるみからは暖かなおひさまの匂いがした。ほっと落ち着いて、ソキは目をとじる。狭い馬車の中は布が幾重にもひかれ、クッションが山と積まれ、硬い場所や鋭い棘に、万に一つもソキが触れ、怪我をしないようにされている。
ゴトリ、ゴトリとゆっくり進んで行く車輪の音が眠気を誘う。意識をまどろませながら、ソキはふと、きよらかな歌声のような女性のことを思い起こした。凛とした雰囲気を持つひとだった。研がれた剣の輝きのようであり、月明かりや、物語に出てくる森の泉の精のようにも思われた。あれは、誰だったのだろう。考えながらも、ソキは疲労感に負け、意識をそっと手放した。
国境に向けて飛ぶ鳥の影を追うように、一人の青年が足早に行く。窓に張り付いてそれを眺めながら、ソキは静かに息を吐きだした。あんな風にソキがどこかへ歩いて行くことは、もう叶わない夢だった。元からソキは自力で上手く歩けるように育てられていないが、それでも、もう、己の意志でどこかへ行くということは叶わないだろう。ソキがこの白雪の国に連れてこられた理由は、ひとつだ。将来の結婚リストの上位に載っていた相手が、ぜひとも一度お会いしたいとソキの父親に告げた為である。それが可能であれば貿易に対してかなりの融通を利かせようという申し出は遠回しの脅しであり、そこにソキの意思が関わることはついぞなかった。
一年が巡るのに合わせて、今年で十三になったばかりのソキは、結婚が可能となる成人にはまだ二年の月日を残している。だからこそ、今回は顔を見せるだけ、ほんのすこし話をしたら家へ帰れると旅の途中に老女に言い聞かせられた言葉は、結婚相手となる男の、その父親がソキを見た瞬間の目の輝きで、嘘になることを運命付けられた。まだソキと年齢が近い息子を宛がおうとするだけで、実際にソキを欲したのはその父親の方である。この都市の前領主であるという男は引退してなお大きな権力を持ち、その発言にこそ人々は動く。
初老の男はソキに対して、すくなくとも他の人の目がある間は礼儀正しく、婚約者候補の父親らしくふるまった。ソキの世話や屋敷との連絡役としてついて来た者たちにも、言葉巧みに話しかけ、警戒心を消し去ってしまった。滞在は数日の筈だった。すくなくともソキはそのつもりで、家を出てきた。けれど、男はソキは帰る前日になって息子との縁談を結ばせて頂きたい、と告げたのだ。婚約などという、堅苦しい関係にもまだ早いだろう。すこしの間、遊びに来たのだと。単に滞在するだけだと思ってくれて構わない、と告げられて、ソキは大きな屋敷の、陽あたりの最も良い部屋を与えられた。いやです、いや、かえりたい、と泣き叫ぶソキの言葉は、誰も聞き入れることはなかった。
ソキは、諸国の富豪や貴族の元に嫁ぐことを前提として育てられた、『砂漠の花嫁』と呼ばれるひとりである。女は『花嫁』、男は『花婿』として育てられるうつくしく、脆いつくりの、砂漠の至宝たち。嫁ぐことによって砂漠に莫大な金銭をもたらし、その恵みによって国と人々は生き永らえている。ソキは、いつか嫁いで行く為に育てられた。白雪の大都市の領主は、嫁ぎ先としてはかなり条件がいいのだろう。だからこそ世話役たちは泣き叫ぶソキを宥め、薬で眠らせてまでこの屋敷に留め置いたのだ。目覚めた時にはがらんとした部屋には誰もおらず、ソキの私物はなにひとつとして残されていなかった。眠っている間、ずっと己の髪ごと握り締めて離さなかった、鮮やかな赤いリボンひとつ除いて。
嫁ぐ時には、なにひとつ、己のものを持っていけないのが、決まりだ。腕に抱き締めていなければ安心できない、ソキの大切なぬいぐるみもとりあげられてしまった。きっと今頃、砂漠についた頃だろう。ソキの、特に近くで世話をしていた者たちは、主のない馬車を出迎えてどう思うだろうか。恐らくはぬいぐるみだけがころりと転がっている馬車をみて。結婚が決まったことを喜ぶのだろうか。それとも、ソキが望まぬ婚約だと察して、連れ帰りに来てくれはしないだろうか。
「……ア、ちゃん」
くちびるが、ふるえて、ひとつの名を囁き落とす。しんと静まり返った部屋に、響く返事などある筈もなかった。俯き、座り込んでしまいそうになるソキの意識が、ふと、火のような熱さに触れる。それは錯覚だったのかも知れない。けれどもハッとして視線を向けた先、窓ごしの遠く、道の先に、鳥の影を追いかけるよう歩いていた青年が立ち止まり、こちらを遠く眺めているのが見えた。視線が重なった。そんな気がした。訝しむような、それでいてなぜか、慈しむような眼差しだと、思った。まるで久しぶりに会う友を、紡いだ想い出を、懐かしんでいるような。不思議な感覚は、けれど一瞬のこと。ふいと道の先へ歩き去って行く青年は、一度もソキを振り返ることがなかった。
その背を追うように、出来たての金貨のように輝くまあるい光が、ふわりと動く風をなぞるように、現れた。時期外れの蛍のような光を、いつだったか、すこし前にも目にしたことを思い出す。白雪の首都で見たうつくしい女性の傍にも、ふわりと輝く金色の光があった。あれはなんだろう。あの光。うつくしさに、胸の中の一番きれいな思い出がよみがえっていくような。心をそっと温めてくれる、あのひかりは。
『……ちょっと! いい加減、アタシに気が付いたらどうなの! このうすのろ! おおぼけっ! おおまぬけー!』
風の強い夜に小枝が窓を叩くような音と共に聞こえた、ひどく愛らしくも口汚い怒りが、びくりとソキの体を震わせた。きょろきょろと室内を見回すも、やはり、誰の姿もない。ある筈がない。この部屋には鍵がかけられていて、誰も入って来ない代わり、ソキも外には出られないのだから。鍵は、確か、この屋敷の主が持っている筈だった。ソキを留め置いた前領主では、なく。婚約者たる青年が。
『こっちよ! こっちこっち! アンタ、魔術師にくっついてる契約妖精が見えるくらいなら、ちゃんとアタシのことも見なさいよ! ……っ、アンタよ、アンタ! 名前は、えーっと……ソキ!』
ぱっ、と音を立て、目の前で七色の光が飛び散ったようだった。眩しさに驚いて目を瞬かせ、ソキは息を吸い込んで、そして。目の前に急に現れた十センチ程の妖精に、思わず悲鳴をあげて。
「きゃあぁっ!」
ぱちーん、とばかり。手で挟んで、それをつぶした。手の間から、ちいさな手足と、透明な二枚の羽根が覗いている。
「……え、えっ。ど、どうし」
『どうするもこうするも、手を離しなさい……』
低くうねる怒りが感じられるのに、非常に愛らしく響く声は、怖い以外のなにものでもない。大慌てで手を開くソキの視線の先で、妖精は羽根を手でさすりつつ、なんていうことなの、と溜息をついた。
『案内妖精を、羽虫みたいに潰そうとするだなんて……!』
「……ごめんなさい。ソキ、びっくりしてしまって」
そう言って、告げながら、ソキは驚きに息を吸い込んだ。
「妖精さん、です?」
『そうよ』
他のなにに見えるのか、と大変不機嫌そうに顔を歪めて吐き捨てた存在は、確かに、妖精という種族にしか見えないものだった。体長は十センチ程だろうか。透き通る二枚羽根を持ち、淡い黄金に輝きながら空に浮かび上がるさまは、目を奪われるほど愛らしく、それでいて美しく、神聖な空気を纏っていた。妖精は、その体ひとつで神秘を体現する。人の目に映ることを拒否し、あらゆる国からいなくなってしまった生き物。この大陸でたったひとつの国だけが、彼らに愛され、彼らを守った。
「……ようせいさんです」
『そうよ。……で? アンタはソキね? 間違ってない?』
「はい。ソキは、ソキですよ? ……ソキにご用事ですか?」
不思議がるソキに、妖精は溜息をつきながら、ちょうど絵葉書が入るくらいの大きさの封筒を差し出した。虹色に、ゆらりゆらりと色をたえず変化させる封筒。導かれるように指先を触れさせた瞬間、封筒の表面が溶けるように消え、一枚のカードが現れた。そこに浮かび上がる文字を、信じられない気持ちで、じっと見つめる。
「入学……許可証……ソキの」
『そうよ。アンタは魔術師の卵。アタシは、アンタの案内妖精。アンタはこれから、アタシと一緒に……』
「……っ、ソキの」
ぎょっとしたように言葉を止めた妖精の前で、ソキは一枚のカードを胸に抱きしめ、ころりと頬に涙を滑らせた。
「ソキの、入学許可証……ソキの」
『……ちょっと、アンタどうしたの?』
「これで……これで、ソキ、結婚しなくていい、ですよ……!」
呼びかけに、勢いよく顔をあげて告げたソキの目から、またころりと涙が転がって行く。
「入学許可証を、受け取ったたまごは、絶対、ぜったい、学園に行かなきゃ、いけないです。ねっ?」
『そうね』
「だから、ソキ、結婚……しなくて、いいですよ。ソキは、学園に行きます。行きます……!」
ころころ、涙を零し続ける目元を指先で拭って、ソキは嬉しくてたまらないように微笑んだ。
「このお部屋から出て、ソキは行きます!」
『……というか、アンタ、なんでこんなトコに居たの?』
砂漠の国の自宅にいてくれれば、もっとはやく入学許可証を渡すことができたのに。こんなに遠くまで来ると思わなかった、と不機嫌そうな妖精に、ソキはゆるり、首を傾げて告げた。
「ソキ、結婚するトコだったですよ」
『……アンタ、まだ十三だって聞いたけど?』
「だから、あと、二年、ここで待つことになってたです」
ふぅん、となんの気なしに頷いた妖精は、けれどもじわじわ、その意味を理解したらしい。妖精は、ソキの全身をじろじろと眺め倒して沈黙した。十三にしても、ソキは小柄な少女だった。身長は恐らく百四十センチに届いていないだろう。ほっそりとした、華奢な、どこか脆く甘い印象を与える肢体は、それなのにやわらかな曲線を描いている。長く伸ばされたふわふわの、やわらかい髪は金にも見える砂漠の砂の色をしていた。透明な光をたっぷりと抱く、うつくしく石が砕けた砂漠の、砂色の髪だった。唇は恥じらう花のように、ほんのりと赤い。白い肌は恐ろしい程にきめ細かく整えられていた。うつくしく、あいらしく、やわらかく、可憐で、ひどく脆い印象の少女だった。
恐らく最もひとの印象に残るのが、ソキの瞳の色だろう。長い睫毛が影を落とすソキの瞳は、凍りついた森の色をしていた。冬に抱かれ時を止めた艶めかしい碧の、透き通るきらめきは、陽光に触れるとすぅと純度を増して輝く。藍玉の瞳。磨き上げられた宝石色の。うるわしいトルマリンの色をした目だった。その瞳にうっとりと見つめられれば、好意を抱かずにいるのは難しいだろうと、妖精にすら、思わせる瞳。欲しい、と思う者はいくらでもいるのだろう。二年、手元に留め置くとはそういうことだ。
妖精はひどく澄んだ愛らしい響きの声で、身も蓋もなく吐き捨てた。
『ロリコンと変態は呪われろ! ……アンタ、よかったわね』
「はい。ソキ、とっても嬉しいです」
甘くて幸せなものを口いっぱいに詰め込んだ表情で、ところで、とソキは問うた。
「ロリコンと、変態って、なんですか?」
『……街中でじろじろ見られた時、アンタがぞわってして気持ち悪いって思う相手がいたら、それのことよ』
「分かりました。それで、ソキは、アンタじゃなくて、ソキって言います」
よろしくお願いしますね、と言って、ソキは静かに頭を下げた。両てのひらは体の前で揃えられ、五指はぴんとのびている。ゆるりと持ちあがった頭は、まっすぐに伸ばされた背の先にある。浮かんでいるのは、花が瑞々しく咲く時を想わせる微笑だ。
「お名前は……伺ってはいけない、ですね」
『そうよ』
妖精の名は、親しき契約者にのみ伝えられるものだ。名の交換は、その時にだけ交わされる契約で、儀式である。
『好きに呼んでいいわ』
だからこそ、興味がない、という風に告げた妖精を、ソキはじっと見つめて考えた。ソキの道行きを案内してくれる妖精は、磨き抜かれた銀の色を宿したまっすぐな髪に、雪のような肌に、甘い苺のような瞳をしている。着ているのは一枚布から仕立てた簡素な服だったが、腰をくるりと巻くように、細みの赤いリボンが彩りを添えている。腰の後ろでちょうちょ結びにされ、長く尾を垂らしたそれが、ひどく特徴的に思えた。ソキは、うん、と頷く。
「リボンちゃんです」
『……え』
なにそれ絶対嫌なんだけど、という顔をした妖精に、ソキはふわふわと笑いかけた。
「ソキは、リボンちゃんを、リボンちゃんって呼びます。リボンちゃんは、ソキを、ソキって呼んでくださいです」
『ちょ、え、決定……?』
「リボンちゃん。ソキと一緒に旅をしてくださいね」
こいつもしかしてひとのはなしを聞かない、という絶望的な顔をした妖精に、ソキはうっとりとした声で、歌うように告げる。
「遠く、遠くへ行くのです。この場所を出て、この街を出て……遠く、遠くへ、遠くの国へ」
涙を零す程の歓喜が、ひたすらに、自由を謡った。
「星の降る国へ! ソキは行きます。……リボンちゃん」
『……返事したくない』
「行きましょう、リボンちゃん。ソキ、がんばって、この部屋の鍵、壊すですよ」
ふわふわ、うっとり笑いながら告げるソキに、妖精は、こいつもしかして見かけよりアグレッシブ、という顔をして、深々と息を吐きだした。
ソキの旅日記:一日目
ソキは星降の国へ行くことになりました。ソキ、魔術師になるです!
追記:鍵はリボンちゃんが魔法であけてくれました。リボンちゃん、すごいです。