いいよ、と言った。悲鳴染みた朱色の夕焼けが、砂漠に沈んで行くのを眺めていた。他には誰もいなかった。二人きり、どこかへ歩いて行く途中のことだった。ふと零れた言葉、後から考えれば弱音か、あるいは罪の告白であっただろうそれを拾い上げて、フィオーレはいいよ、と言った。仲が良い方だったとは思う。すくなくとも、会話はしていた。彼が一番多く言葉を交わしたのは、フィオーレである筈だった。学園で生徒として学んでいた時期も、砂漠の王宮魔術師として働くようになってからも。彼は言葉を惜しむように、多く話すことをしなかった。一言か、二言。受け答えはそれくらいで、だからこそ、心許す友などはいなかったように思う。彼はフィオーレを友とは呼ばなかった。フィオーレも、彼を友と呼ぶことはなかった。仲が悪い訳ではなかった。親しくはなかった。けれども、それは、心からの言葉で。フィオーレは彼に、いいよ、と言ったのだ。
無垢な想いで、それを保障した。そうしていいと思うくらいには、同じ時を過ごしていた。
「いいよ。俺がちゃんと、なおすから」
安心してくれていいよ、と。言葉にして告げなかったことを悔いる。言葉を、それが持つ力を、なにより知っていた筈の相手に。言葉を、惜しんでしまったことを悔いる。何度でも、何度でも。思い出し、繰り返し、後悔する。彼が。幼い宝石の姫君と、その傍付きを破滅へ導いたのは。それから数日あとのことだった。
他国がどうなっているのかは知らないが、砂漠の王宮魔術師は、帰ってきたら真っ先に国王陛下の元へ行くのが決まりごとである。うがい手洗い身支度その他諸々しなくていいから、自室へ寄るより先に俺のもとへ帰って来い。眠ってたら起こせ、というのがその命令を発した本人の言であるから、なににも優先して守らなければいけない規約である、と砂漠の王宮魔術師たちは思っている。フィオーレも、もちろんその一人だ。だからこそ、学園から帰った足でそのまま国王の自室を訪れ、帰還の報告をしようと思った訳なのだが。その意志が入室と同時にくじかれたのは、寝室で出迎えた国王その人が夜着に身を包み、椅子に座って本を読む目を、ちらりとも上げずにおかえり、と言ったからである。フィオーレでなくとも、砂漠の国の王宮魔術師であるならば、それだけで悟っただろう。陛下の機嫌が、ものすごく悪いことを。
場の空気を電気的に震わせる威圧感はなく、表情が不愉快に歪んでいる訳でもない。声の響きもごく普通そのもので、遠くから見れば機嫌の良し悪しは決して計れないだろう。けれど、帰ってきた魔術師に対して目も向けず、笑顔を見せなかった。それは不機嫌であるという遠回しな告白であり、それでいて宥めることも、謝罪も受け止める気はないという意志表示だった。つまりは、お前がなにをしてもなにを言っても俺が気がすむまで許さない、ということで、気がすめば許してやるから放っておけ、という王のお達しなのである。うぅ、と困った呻きをもらし、フィオーレは悩んだ末に本を読む国王の足元、手元を照らす明りが零れ落ちるその場所に膝を抱えて座り込んだ。ふ、とかすかに空気を揺らして笑みがこぼれたのを、話しかけても良い、という許可だと受け止め、フィオーレはそっと主の顔を仰ぎ見る。
「陛下。なに読んでんの?」
「本」
見て分かれ、と言いたげな、からかいに柔らかく解けた声だった。視線はやんわりと文面に落とされたまま瞬きを繰り返し、紙がめくられて行く。手持無沙汰に文字を眺めているのではなく、本当に身を入れて読んでいるのだろう。フィオーレのことを煩がりはしなかったが、気を向けてくれるには、いましばらくの時間と文面の区切りが必要なようだった。そっと息を吐き出して素直な返事に対する期待を諦め、フィオーレは首を伸ばして王の持つ本を伺った。表紙を見ると、なぜかなにも書かれていない。文字も、記号もない、ただ丁寧に作られているだけの上製本だった。個人の日記でも読み返しているのかとも思うが、それにしては面差しが真剣で、フィオーレは不思議に訝しむ。陛下、と再度呼びかければ、ようやく金の瞳が魔術師を映しだした。なに、と言葉が落とされる。頷いて、息を吸い、魔法使いは問うた。
「なに読んでんの?」
「歴史書」
「……なんの?」
重ねられたその問いには答えず、男の手がしおりを挟んで本を閉じる。投げ出すでもなく、どこか丁寧な仕草で本を置くのを見る分に貴重な書物ではないか、とフィオーレは思うのだが、手掛かりひとつだけでは内容の推測ができる筈もない。元より、フィオーレの主君は乱読の気がある。少女が好むような甘い恋愛ものを、意外と楽しいぞありえなくて、と黙々と読んでいたこともあるくらいだ。暇さえあれば、とするより書類仕事の合間の休憩時間にさえ本を読みたがるくらいなので、これはもう活字中毒にも等しいのだろう。無言で指先を伸ばし、瞼の上から目に触れる白魔法使いのあたたかな癒しの指先を、主君は微笑ひとつで受け入れてやった。そっと指先が離されるのに合わせて瞼を開き、向けられる視線を覗きこむようにして重ねながら、王はようやく言葉を向けてやる。
「フィオーレ」
「はい、陛下」
「お前、どこ所属の魔術師だか言ってみろ」
瞬間的に、フィオーレは主君の不機嫌の理由を悟った。ゆったり微笑んで待つ主君に、フィオレーはごく申し訳なさそうに告げる。
「砂漠の国の、王宮魔術師です……」
「よし。じゃ、砂漠の国の王宮魔術師が? 誰のもんだか言ってみ?」
「俺の目の前に御座します貴方です」
うん、と一度だけゆったりと頷かれ、国王の笑みが深くなる。
「じゃ、それを踏まえて。フィオーレ、お前は誰のものだ? 言え」
「砂漠の国の王陛下。我が忠誠と親愛を捧げし君。あなたさまの」
「良し。ああ、言い訳とか弁解とか聞く気ないから、俺が許可するまで黙ってろ。許可してもそれ関連の発言はしなくていい」
やさしい笑みを深めて、伸ばされる両のてのひらが頬へ触れるのを、フィオーレはむずがゆい気持ちで受け入れた。じんわりと顔を温めて行く手はそれ以上動かず、上から降る槍のような視線はひたすら強く、まっすぐ咎めるようにフィオーレの目を覗きこんでいる。言葉はなく、また、許されなかった。息を吸い、吐きだして、瞬きだけを繰り返す。思いついて腕を持ち上げ、指先を王の手首辺りに触れさせれば、ふと気配が和んだので正解だったのだろう。心配されていた、とはすこし違う。単に不愉快だったのだろう。裏付けるように、きゅ、と結ばれていた口唇が綻び、ぐちめいた独り言が吐きだされて行く。
「ったく。……お前の他にも、白魔術師なんぞ居るだろうに」
でも、俺が一番なんだよ、と返す声を胸の中だけで響かせたフィオーレの、言いたいことなど分かっているのだろう。笑い飛ばすように表情をゆがめ、王のてのひらが白魔法使いの髪を撫でて行く。
「……様子見に、学園行くくらいなら許すけど。あんまり呼ばれて、出歩くな。返事」
「はい。……はい、陛下。今回は、行かせて下さってありがとうございました。新入生、皆元気で式へ向かいましたよ。ソキと……ロゼアも」
「お前が行ったんだ、心配はしてない。よくやったな。……おかえり」
ぽんぽん、幼子にするように頭を撫でられ、手が離れて行く。立ってもいいぞ、と言われたのだが、フィオーレは首を横に振って座り込んだまま、忠誠を誓った主君を眺める。年齢は、フィオーレよりもひとつ上なだけの王は、年若い表情でどこかくすぐったげに笑う。
「なんだ?」
「……陛下は、もちろん知ってたわけですよね。ロゼアも、ソキも、今年の新入生だって」
「俺の国から出る入学予定者を、俺が知らないでいる訳ないだろう?」
にっこり、あでやかな笑みでからかう青年に、フィオーレはぐったりとした気持ちでそうなんですけれど、と呻いた。
「ソキが来た時だって、分かってたんだから……教えてやればよかったのに。なんで黙ってたんですか?」
「聞かれても言わなかったけど?」
「なんで」
不満そうなフィオーレに、国王はあくびをひとつして、椅子から立ち上がった。そのまま寝台へ向かおうとする腕を捕らえて引きとめれば、国王はややめんどうくさそうに振り向き、決まってんだろうが、と首を傾げる。
「話したらいけないんだよ。そうじゃなくても……言ったら、ソキが自力であの国まで辿りつけたと思うか?」
正直、自力で当日に到着したっていうだけで俺は本気で驚いたんだけどな、と真剣に言う国王から、フィオーレはそーっと視線を外して従順に頷いた。ソキが、本当に自力で辿りつけると、そう思っていた王宮魔術師はいない。ふわふわした他愛ない祈りのように、明日が晴れであればいいと思うくらいの気持ちで、辿りつける、そう考えていた者ならば多いのだが。
「もちろん、ロゼアに会いたい。探したい。そういう気持ちだけで進んで行った訳ではないだろうが……確実に、その日がくれば会えると分かっていれば、あの育ちをしてる『花嫁』が、自力で行ける距離じゃない。決して。……ウィッシュは実際、自力で辿りつけもしなかっただろ? まあ、あれはもうすこし事情が異なるが」
「……よかった。俺、ロゼアにもソキにも、そういえば知ってた筈じゃないのかな、みたいに思われなくて。いや、知らないんだけどね? 俺たちは入学予定者が何人かすら教えてもらえないんだけどね?」
「ああ、そういえば、ロゼアとソキはどんな様子だった?」
傍にいたとかひっついてたとか、そういうのは言われないでも分かるからそれ以外で、と求められて、フィオーレは思わず思案した。ロゼアの魔力暴走については、王宮魔術師にすでに報告書が巡っている。フィオーレは彼の不調を癒す為にも呼ばれたので、恐らくは一段と詳細な文面を目にしている筈だった。けれども、それと同じものは王の手にも渡っているのである。ソキに関しては途中で消息が途絶えたこともあり、未だ旅路に不明点が多く、こちらは案内妖精の詳細な報告を待つしかないだろう。どんな、と問われても、なにを話せば知らない情報を補完できるものだろうか。考えて、考えて、フィオーレは思わず眩暈を起こしかけて目を強く閉じた。嫌過ぎてちょっと記憶から飛ばしていたが、そういえば、無視してもいられない問題がひとつあったのだ。
陛下、と呼びやうその声の色が変わったことに気がついたのだろう。去りかけた椅子に座り直し、聞こう、と告げる魔術師の主に、フィオーレは静かな声でソキに残された痕跡のことを告げた。少女の記憶が途切れていることも合わせて告げ、恐らくは言葉魔術師からの干渉があった筈だと報告する。案内妖精の報告会は、すでに終わっている筈だ。緊急連絡が砂漠の国へ飛んでいない以上、案内妖精の記憶からも、その干渉は抜け落ちているに違いなかった。魔術師の操る、世界に満ちる魔力そのものに、もっとも近しい存在である神秘に、一体どうしてそんな干渉ができたのかは不明だが、ソキに痕跡があった以上はそうとしか考えられない。
難しい顔をしたのちに頭を抱え、上半身を崩して机にもたれかかりながら、砂漠の国の王は、アイツ本当可能なら今すぐにでも殺してやりてぇ、と心から本気の声で吐き捨てた。フィオーレも、まったくの同意である。だからこそ解せぬことがあり、フィオーレは責めるように国王に言った。それは何度か繰り返された問いで、後悔で、怒りだった。
「なんで生かしておくんですか」
「……お前さあ、俺が好きこのんで、あれを生かしてるとか思ってるのか?」
「思ってないんでなお分からないんですよ。理由、教えてくれないし。ラティだってずっと言ってるじゃないですか。俺も、ずっとずっとお願いしてるじゃないですか。殺して下さい。……殺させて、ください。これ以上、なにかをする前に。これ以上……シークが、なにか壊してしまう前に、どうか、俺に、アイツを」
つよく閉じた瞼の裏側に。悲鳴のような、夕焼けの赤がよみがえった。交わした言葉はすくなく、彼が、なんと言ったのかもすでに思い出せない。思い出せる日はきっと来ないのだろう。それなのに、フィオーレはあの日の言葉を、約束だと思っている。一方的でも、なんでも、言葉は告げられた。その事実は、決して消えない。
「……はやく、殺してやればよかった。シークが、あんな……あんな、壊れるより、前に。ソキと、ロゼアを……あんな風にする前に」
「お前の力は救う為のものだろう。白魔法使い」
『駄目だよ、フィオーレ』
伸ばした、手は、その言葉で拒絶された。それをなぜか、ひどく強烈に思い出す。あの日。炎にまかれ、焼けおちる屋敷の中で。異変に気がついて駆け付けた王宮魔術師に取り囲まれ、拘束されながら、シークは穏やかに微笑んでいた。ようやく、欠けたものが満ちたのだと言うように。安堵さえ滲ませる穏やかな表情で、害する為に手を伸ばして来たフィオーレを、拒絶した。
『キミの手は救う為のものだ。……キミにだけは、殺されてはあげられない』
穢れてしまうだろう、と。まるでそのことを厭うように。告げられた言葉を、忘れられない。
「……言葉魔術師を殺してはならない」
悔いて閉じかける意識に触れたのは、青年の静かな声だった。無感動に文面を朗読するような、ひどく凪いだ言葉の響き。
「理由は未だ調査中だ。……でも、手掛かりはいくらか拾えてる」
「手掛かり……?」
「なにぶん、残ってる文献が少なすぎて苦労はするが。……あれを殺さないでいるのはそういう理由だ。不確定すぎて学園では教えられない。口伝みたいなもんだからな。……言葉魔術師は、殺してはならない。いいか? あれは、生かしておかなければいけないんだ。理由は、恐らく本人が一番知っている筈だが、会話をすること自体が危険だから隔離しておく他ない。……正直、お前も危なくない確証がないから、これ以上を話してやることもできない」
接触者全員にその可能性があるからな、と溜息をつき、国王はもうひとつ、混乱する魔術師に手掛かりを与えてやった。
「陛下はある程度ご存知のことと思われますが。今ボクを殺せば、ロゼアクンは死にますよ、と……言われた」
「……は」
「言葉魔術師が、魔力を込めて告げた言葉である上に……それを単なる脅しだと思えないだけの理由が、俺にはある。だから……分かったか? フィオーレ。アイツを殺させてやる訳にはいかない。ロゼアが死ぬし、ソキが……気が狂った予知魔術師を抑え込む方法なんて、殺してやるしかないことを、お前もよく教わっている筈だな? 俺は、俺の大切な魔術師に、これ以上……そんなことをさせたくはないんだ。分かれ」
言うことをきいて、だから静かに我慢していろ、と求める王の言葉に反論しかけて、フィオーレはあることに気が付き、紡ぐ声を呼吸ごと飲みこんだ。フィオーレと、幽閉されている言葉魔術師は、学園入学の同期ではない。しかし、卒業して王宮魔術師として砂漠の国に連れてこられた日は、まったく同じであるのだ。時期が近い、という訳ではなく。まったくに同日。二人一緒に、学園からこの王宮へ招かれた。それをしたのはフィオーレの目の前にいる国王陛下そのひとで、許可を下したのは五カ国の施政者。その総意でしかありえない。王宮魔術師の選定は、その国の王たちが好き勝手に行っているが、その実、彼らの間では常に細かい調整が行われている。力関係が偏り過ぎないように。その地に住まう国民が、不安にならないように。安定を崩してしまわないように。また、あの大戦争を繰り返してしまわないように。
彼らの出身地、魔術師としての適性、属性。得意とする魔術、内包する魔力の総量。学園で過ごした数年分の情報を元に細かく調査され、相談されたのちに、ようやく王宮魔術師の地位が与えられるのだ。なぜ、フィオーレと彼は同じ日に決定がなされたのだろう。それがもしフィオーレとラティであるなら、きっと素直に納得できた。魔力総量の極めて低い、たったひとつの魔術しか行使することのできない、占星術師。魔術師としての適性に許された、未来を読みとる力の他には、ひとを夢見させること、それしかできない『単一の魔術師』。それがラティだ。時々、そういう魔術師が存在する。ひとつしか、世界に許されなかったかのように。ひとつだけ、それができるだけの魔力しか持つことができずに。癒すことも、穢すことも、呪うことも、ラティにはできない。ただ、星の流れから未来を読み、ひとに夢を見させるだけ。