恭しく差し出された報告書に視線を落とし、男は心の底から不愉快そうに眉を寄せた。一行読んだだけで、おおまかな内容を把握してしまったらしい。青碧の瞳には熱のない、無関心めいた拒絶が浮かんでいた。視線は床へと伏せられ、報告書を手で受け取るそぶりすらない。ひらりと指先を振って遠ざけたがる様子からは、本当に、ものすごく、その情報をいらないと嫌がる意志が透けて見えた。
「レロクさま」
いけませんよ、とたしなめる声はこの砂漠の国の王にも、魔術師の卵たる太陽の少年にも似たものだった。彼らよりもうすこし落ち着きを宿し、それでいて奇妙に響かない声だ。ひっそりと、近くに立つ者にだけ響き、届けることを叶える声。つくづく職に似合うものだと思いながら、名を呼ばれた不愉快に、男は舌打ちした。
「誰がお前に名を呼ぶことを許した? 何度も言わせるな」
「いけませんよ、若様」
やんわり微笑み言い直す年上の男は、諦めというものを知らないらしい。穏やかに、それでいて突き付けた報告書を決して引かず、ただレロクが受け取る時を待っている。放っておけば一時間でも、二時間でも、同じ体勢で同じ笑顔で同じ言葉で、待つ、ということができる男だ。過去に五時間粘られて折れざるを得なくなったことを思い出し、レロクは眩暈がするほどうんざりした。それでも、どうしても受け取りたくはない。手をひらひらと振り、レロクは視線を外して二度目の舌打ちをした。
「いらぬ、と言っているのが分からないか」
「若様」
やんわり、男の笑みが深まった。まったく、わがままを言って、と告げんばかりの表情は手のかかる子を見つめる親の表情であったが、レロクは身を駆け抜けて行った寒気に、椅子の背もたれにやや体を押しつける。困ったうめきがレロクの喉から漏れ、ぎこちなく、首が振られた。唇にきゅぅと力が込められ、なにも話さない、とばかり拗ねた、やや怯えた表情で睨まれる。彼の妹も、自分が悪いけれども譲りたくない時に、よくこんな表情をした。ロゼアちゃん、とあまくやわやわと響くしたったらずな声を思いだしていると、それとよく似た印象のレロクの声が空気を震わせる。レロクの声は、その妹のものよりはあまく響かない。
「……お前は知っていたんだろう。どうせ」
「なにがでしょう」
「ロゼアだ! ロゼアが、ソキと同じ場所に行くと……魔術師だと! どうせお前は知っていたんだろう!」
ばーかばぁかっ、と不機嫌一色で染め上げられた声で幼く罵倒されて、男はひらりと報告書をはためかせた。それを猫がじゃれつくようにばしんと指先で叩き落とし、レロクはますます嫌そうに報告書を睨みつける。そこには『ご家族の皆さまへ』と書かれ、『ロゼアとソキが無事に学園に入学しました』と文字が続いている。報告書の制作主は、星降の国王とその王宮魔術師一同。内容は彼らの近況報告を兼ねた、家族への今後のお知らせである。それを、ひっくり返ってじたばたじたばたする亀を見つめるのと同じ、もどかしいような焦っているような、微笑ましいような苛々しているような視線でしばらく睨み、レロクはやはりふるふるふる、と細かい動きで首を振った。
「俺はいらん。お前たちで好きにしろ」
「……若様」
ほとほと困った呟きを落としながら、男はですが、と首を傾げる。
「生徒との連絡の取り方なども書か」
「よこせ」
書かれていますが、と最後まで言わせず、レロクがすわった目でずいと手を差し出してくる。ひったくるようにして数枚の報告書をようやく手にとり、まったく、と憤慨した様子でレロクは紙面に視線を落とした。
「それを先に言わぬか。ソキはなにも持たずに出て行ったからな。色々送ってやらねばと思っていた所だ」
「色々、とは」
「……ひつようそうなもの」
内容をあえて問われると、レロクには上手く答えられなかったらしい。たどたどしい発音でそう答えると、まあ、ロゼアが居るならなんとかするだろう、と極めて大雑把な結論を下してしまう。傍付きだからな、と囁く声はロゼアにではなく、『傍付き』と呼ばれる存在に対してレロクがなんの不安もない、全幅の信頼を預けていることを知らしめていた。
忘れてた、と言いながら寮長が椅子に座るナリアンの両肩にひじをつき、頭の上に顎を乗せて現れたのは、入学二日目の午後のことだった。担当教員との顔合わせを終え、雑談に花を咲かせていた新入生たちの瞳が、それぞれぱちりと瞬きをする。それに微笑みかけながら、寮長はナリアンの頭の上で手を組み、てのひらとあごでもふもふと、不運な新入生の髪を弄んでいた。
「あの……寮長……」
「ん? ああ、俺と俺の天使にして女神にして妖精にして生きる希望であり輝ける光であり恋心であり愛そのものであるロリエスとの関係か? もったいないから、その話はまた今度な?」
「いえ、ナリアンから離れてあげてください……ナリアン」
もうちょっと、あとちょっとだから我慢するんだぞ、と視線で訴えかけてくるメーシャに、ナリアンは正直このひと殴りたい、という意志を瞳によぎらせながらも、疲れ切った仕草でこくりと頷いた。そうしながらもナリアンは己の肘と腕で、のしかかってくる寮長を押しのけようとしているのだが、恐ろしいことにびくともしないのだった。寮長は機嫌良さげにふんふんと鼻歌を歌いながら、ナリアンの髪を好き勝手にもふもふくしゃくしゃふわふわと撫でまわし、指先でぺちぺちと撫でて愛でている。そうしながら、メーシャに視線を向けて、一言。
「やぁだ」
ご機嫌で悪戯な猫のような表情で、そう言ってのけた。ぶつり、どこかで音がする。力任せに寮長を払いのけようとするナリアンを力づくで押さえこみながら、寮長はのほほんと、そういえばさぁ、と会話を続行した。
「俺、お前らに家族との連絡の取り方って言ったっけ? 言ってないよな?」
「寮長。ナリアンから離れてあげてください」
「俺の気がすんだらな、ロゼア。おー、よしよし、そんなに怒るなよー、ナリアン? 体調良い訳じゃないんだから」
全身に怒りを漲らせながらも、ナリアンは寮長と椅子と机の間でぐったりとしている。数秒の攻防戦で、体力が使い果たされたらしい。ぐてっとして動かないナリアンを容赦なく撫でくりまわしながら、寮長は平然と話を続けて行く。
「それで、連絡の取り方なんだが。一度、俺を通してもらう必要がある。例えば手紙を出す場合だが、書いたものを俺の元へ持って来い。それを、俺が星降の陛下へお預けして、そこから各国へ配達される。検閲はしないから安心しろよ?」
「寮長はなんでナリアンくんを構いたがるです?」
「世界が俺にそうしろと囁いてるからに決まっているだろう?」
ソキの、ちょっとなに言ってるか分かんないです、というにっこり笑顔に微笑み返しながら、寮長の手がナリアンの額に押し当てられ、熱を測る。そのまま首筋に滑らせた指先で拍を数えながら、寮長は一人暮らしやそれに近い状態だった場合だが、と言った。
「家に残して来て手元に欲しいものがある場合。手紙でもメモでもなんでもいいから、なんか書いて俺に持って来い」
「そうすると、どうなるですか?」
「各国の王宮魔術師が、手空きの時間に取って来てくれる。まあ、目安としては三日から一週間だな」
ごくちいさく舌打ちをした寮長が、ナリアンに己の魔力を叩きこんだ。流すというよりはそれは勢いがありすぎて、癒しというより折檻めいている。穢される気がするのでやめてください、と寮長の腕をぐいぐい押しのけようとするナリアンに、もうちょっと回復してからほざけと冷たく言い放ち、シルは特に家族との連絡は制限されていないことを告げた。ただし手順に決まりごとがあり、必ず寮長を介さなければならない。各国の王宮を通じて連絡は管理され、個人が直に情報を交わし合うことだけが許されていない。基本的には検閲がある訳じゃないから、手紙になに書くのも自由、ということにはなってるから、と告げ、寮長は顔色に血の気が戻ったナリアンから、そっと手を引いてやった。
大きく肩を上下させるナリアンの額を指先で小突き、寮長はソキの名を呼んだ。きょとん、と見つめられ、首を傾げられるのに微笑む。
「さっそくなんだが」
「……なにがです?」
ソキは別に家族に連絡取る気とか全然ないですよ、ときっぱりとした声で即座に否定されるのに、笑みを深めて。寮長はその逆、と囁き、おいでと告げて手を差し伸べた。
引っ越し、という文字がメーシャの頭にぷかりと浮かび、そのままどこかへと漂って行った。ロゼアは無言で額に手を押し当てて言葉に悩み、ナリアンはひたすら不思議そうに目を瞬かせている。ソキは部屋に立ち入った時からうつむき、ぷるぷると身を震わせてひたすらに無言だった。とりあえずこの部屋にあるもの全部な、と告げた寮長は、じゃあ俺は女神と同じ部屋の空気を吸う大事な仕事に戻るから、と談話室へ戻ってしまった。あのひとちょっとどうかとおもう、と灰色の意志を響かせたナリアンに新入生三人は全面同意したが、後の言葉が続かなかった。あっけにとられていたからである。
寮で割り当てられた個室と同じか、もうすこし広いくらいの空き部屋には、所狭しと家具や雑貨や日用品などが置かれ、積み重ねられていた。家具は本棚や衣装箪笥、机や椅子からはじまり、大小様々な鏡台や物入れといったものがあり、天蓋つきの寝台までもあった。おびただしいまでの服はどれも丁寧に畳まれていたが、積み上げられているに等しい量で、放っておけば倒壊するだろう。服と同じ数だけありそうな靴は箱に入れられ、部屋の壁際に、こちらもぎっしりと詰みあげられていた。本棚には隙間なく本が詰め込まれ、一部は布袋に入れられて床に置かれている。髪飾りが衣装箪笥から零れ、花のように広げられた絨毯を飾っていた。毛足の長い絨毯は一枚が広げられ、あとはぐるぐるとまとめて立てかけられている。それも、何枚あるかは分からない。なにがどれくらいあるのかも分からない、物の洪水。
それらはすべて、ソキを指定して、少女の実家が送ってきたものだという。手紙もついていた、と寮長がそれを渡したのはロゼアにのみだった。ようやっと己の成すべきことを思い出した仕草で、ロゼアが手紙の封を切る。書かれていたのは、僅か二行。
『これでソキの部屋を整えろ。足りなかったら言え』
手紙を読んだ訳でもないのに、ソキにはそれが伝わったのだろう。ぷるぷるしながらも顔をあげ、ソキは一番近くにあったクッションを両手で掴むと、それを力任せに床に叩きつけた。もすん、と可愛い音しかしない。
「も……もお、もおおおおっ!」
もすん、もすん、とどう考えても勢いと力の足りない音を次々と響かせながら、ソキは涙声で絶叫した。
「お兄さまなんてきらいですよおおおおおおっ!」
ソキの一番近くにあったのが、大量のクッションであったことは幸いだろう。もっすもっすと音を立てながら暴れるソキを見守りながら、ナリアンはしゃがみこんでしまったロゼアの肩を、指先でつっつく。
『ロゼアくん……頭、痛いの?』
「……よく分からない。あー……ソキー、腕を痛めるからほどほどで止めろよー?」
「ソキねえ! ちゃんとひとりでできるんですよぉっ! お兄さまは余計な真似ばっかりするですよおおおおっ!」
ロゼアの呼びかけにちっとも気が付いた様子がなく、ソキはクッションを掴んでは投げ、掴んでは投げを繰り返している。それをいっそ興味深げに呟きながら、メーシャが二十五、と指折り数えて溜息をついている。クッションの数を数えているらしい。どっかそのへんに目録があると思うけど、と息を吐き、ロゼアはこれどうしよう、と真剣な目で思考を巡らせた。
「部屋を整えるって言ってもな……ちょっと数が多いし、あの部屋に全部入らないことを考えると厳選しないと」
『……ロゼアくん、なにに悩んでたの?』
「え? ソキのお気に入りを残すか、それとも俺の基準で厳選していいのか、判断つかないからどうしようかなって」
ざっと見た感じ、半々くらいで選別してきてくれてる感じはするんだけど、と告げるロゼアに、ナリアンはなんとも言えない気持ちでこくりと頷いた。なんだかよく分からないが、ナリアンの想定していた悩む箇所とはだいぶずれていて、どう言葉を向ければいいのか考えつかなかった。微妙そうなナリアンに不思議そうに首を傾げ、ロゼアの視線がソキを向く。ぴたっと怒りの声が止んだので、気になったらしい。ソキ、と声をかけるロゼアに、少女は今度こそ反応を返した。
「ロゼアちゃん、ろぜあちゃんっ! みてくださいです!」
きゃあきゃあとはしゃぎながら振り返ったソキの手には、少女のものではない、男物の服があった。
「ロゼアちゃんのもありました!」
「……なんで?」
「きっと、ロゼアちゃんのお父さんとお母さんが入れてくれたですよ!」
他にもロゼアちゃんのあると思うです、ときらきらわくわくした目で室内をきょろきょろと見回すソキに、先程まであった怒りの色はない。クッションをもすもす発掘しながら、ロゼアちゃんのなーにがあるですかー、と歌っているので、すっかり機嫌は回復したらしかった。あとでなにがあるのか、全部確認するから、と溜息をつきながら、ロゼアは肩膝をついで腕を広げ、ソキのことを呼ぶ。
「ソキ」
少女はすぐさま振り返り、ふわり、風を抱く動きでロゼアの腕の中へと戻ってくる。すぐに抱きあげて背をぽん、と撫でながら、ロゼアはとりあえず戻ろうか、と言った。この部屋は話をするにも、考えるにも、物で溢れすぎている。
「……ロゼアは」
部屋を出る間際、不思議そうに、それでいて言葉に迷う風に、メーシャが声をかけてくる。うん、と首を傾げて問うロゼアに、メーシャはしばらく考えたあと、ふるりと首を振って。いいや、なんでもない、と告げた。ぱたり、と音を立てて扉が閉まる。三人分の足音が、ゆるりと、部屋から遠ざかって行った。
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