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 ソキの旅日記 三日目

 空が紫にけぶる早朝、ソキはようやく白雪の国の首都へ到着した。昼間に目覚め、夜は多少眠ったにしても、半日以上の移動である。屋敷を出てから考えれば丸一日にも近い移動で、妖精はソキをいくつか見直していた。大きな屋敷に花嫁として連れてこられるくらいなのだから、さぞお腹が空いただの体が洗いたいだの、歩きたくないだのもう嫌だのと言われるもの、と覚悟していたのだが。ソキは、それらを一度たりとも口にしなかった。泣いてぐずりもしなかった。ただ、転んでは立ち上がり、歩き続けた。
 幸いだったのは、ソキに出身国の加護が正しく働いていたことだろう。魔術師に対する世界の愛とも祝福とも呼ばれるそれは、各国によって全く異なる効果となって現れるが、ソキの生まれ育った砂漠の国、その加護のひとつに『水辺を探知し、飲めるものかどうか判別をつける』というものがある。山の中にひっそりとわく湧水を見つけ、ソキはそれを両手ですくい、喉に通した。
「お水が飲めれば、死なないですよ」
 ちょっとくらい食べなくても死にはしないです、とそっけない響きで告げられた言葉は、やはり砂漠の国に生まれ育った者だった。それでも、道行きは難航した。ソキはまず、平地の歩き方すらよく分からないようだった。聞けば普段は、ひとりで歩くことすらしないのだという。移動は『傍付き』と呼ばれる者に抱きあげられて運ばれるか、さもなければ輿に乗せられるのが普通であるという。ソキねえ、ひとりで歩いちゃいけないんですよ。歩けなくなるのはだめなので、歩くのはちゃんと教わったですが、でもだめなんです、と説明されて、妖精は迫りくる頭痛に遠い目をした。どういう意志のもと教育されていたのかは知らないが、つまりソキは本当に、歩けないのである。慣れていないのだ。
 こんな風に、とじわじわと色を黒から紫へ変えていく空を見上げて、ソキは歌うように言った。こんな風に外を歩けるなんて、思ってみませんでした。リボンちゃん、ありがとう、と言った二秒後にソキはびたんっ、という音を立ててすっころんだので、妖精は常識に則ってごく冷静に、いいから足元を見てあるけこのうすのろっ、と少女を罵倒した。平地でだって砂漠でだって歩き慣れていないソキは、ごく当たり前の想像通り、山道を歩いたことが一度もなかった。木の根に足をひっかけては転び、泥に滑っては転んだ。
 転んだ回数が二十五を超えたあたりで馬鹿馬鹿しくなった妖精は、それでも痛いとも言わないソキに、そっと寄り添って飛んでやった。その頃にはもう、無意識に発動している魔術でも限界を超えていたのだろう。全身が泥と土にまみれ、腕や足には擦り傷と切り傷がいっぱいで、息をするのもやっとの状態で、ソキはのたのたと歩いて行く。びたんっ、と転び、きゅっと唇に力を込めて立ち上がろうとする。けれども疲労にがくがくと震える腕は体重を支えきれず、ソキはまた、べしょりと地面に突っ伏した。
「……リボ、ン……ちゃん」
『なに? ほら、もうちょっとで首都よ。もうすぐそこ』
 もうあと、二百メートルもあるけば首都に入る城門へと辿りつく。まっすぐに伸びた道に人影がないのは、朝も早すぎる時間だからだろう。その道で、まさしく行き倒れながら、ソキは妖精の言葉に頷いた。
「……ソキ、ひとりで立つので、もうすこしだけ、待ってください、です」
『寝ないでよ?』
「ねないです」
 ふにゃふにゃとした説得力の無い声で答えながら、ソキはぐぅっと腕に力を込めた。倒れている体を起こし、脚に力を込めて、立ち上がる。ぐらぁっと後ろに傾いだ体をなんとか引き留めて、ソキはふらふら、歩きだして。数歩も行かないで、また、びたんっと転んだ。
『……ここまで来ると、才能だとしか思わないわ』
 ソキの頭の上を旋回しながら、妖精はしみじみと感心する。すん、と鼻をすすりながら立ち上がって、ソキはその後、四回程転んでから、なんとか城門まで辿りついた。白雪の国の首都は、城壁によってぐるりと取り囲まれた作りになっている。巨大な都市の中心には神域とされる森があり、さらにその中心には王家の住まう城がある。首都に立ちいる、ということは、そのまま城の一部に足を踏み入れることになるから、出入りには寝ずの番に一声、かける必要があるのだった。
 門あけてくださいですー、とほやほやした声で言ったソキは、そのまま見張り番に抱きあげられ、彼らが使う医務室へ叩きこまれた。規則として開門を求める者にしか手を差し伸べてはいけない彼らは、転んでは立ち上がり、歩いてはまた転び、よろよろと歩いてくるソキが到着してくれるのを、今か今かと待っていてくれたらしい。よく頑張ったね、と服を脱がされ体を消毒されながら告げられて、そこで、ソキの意識は途絶えた。



 次に目を覚ましたのは、見知らぬベッドの上だった。ぼんやりとした意識のまま、ソキはもそりと身を起こし、あたりを見回して首を傾げる。
「……ロゼアちゃん?」
 眠たげに目をこすって、あくびをひとつ。まばたきを何度も繰り返し、ソキは不安げに声を震わせた。
「ロゼアちゃん、どこ……?」
 両腕を伸ばして、求めて、ソキは泣きそうな顔で何度も空気を震わせた。ロゼアちゃん、ロゼアちゃん、ねえ、どこいったですか、と泣きじゃくる寸前の声でその存在を求め、ソキは枕元に手を伸ばした。ぬいぐるみを抱きしめて、もう一度眠ってしまおう、と思ったのだが。あるべき場所にそれはなく、ソキはあれ、と目を瞬かせた。改めて部屋の中を見回す。ソキの寝室では、ない。
「……あ! ソキ、旅の途中です!」
『遅い……』
「あ、リボンちゃん。おはようございます」
 見覚えのない場所に、ようやくそれを思い出したらしい。そうでした、と頷くソキの目の高さまでふよふよ降りてきて、妖精は呆れた顔つきでソキを見た。
『アンタ、こんなんで本当に、辿りつけるのかしら……』
「ソキはガッツと根性でがんばりますですよ」
 ぎゅっと手を握ってアグレッシブな宣言をするソキに、妖精は優しい目で頷いてやった。どちらの単語も同じ意味であるような気がしたが、まあいいだろう。コイツたぶん言っても聞かないし、と笑み、妖精はそう言えば、とソキに言った。
『リボン、どうしたの?』
「……え?」
『アンタ、いつも髪につけてたじゃない』
 眠っていた間に緩んで解けてしまったのだろう。砂色の髪を鮮やかに飾る赤いリボンを、見つけることができなかった。妖精の言葉に、さぁっとソキの顔から血の気が引いた。今にも泣きだしそうな表情で、ソキの視線がベッドの上を彷徨う。枕のすぐ傍に解けて落ちていたのを拾い上げ、握り締め、ソキは深く息を吐く。それは、赤い、ややくたびれた風なリボンだった。使い古されたような、くったりとしたリボン。血のように赤く、夕陽のように鮮やかな。
『……そんなに、大事なものなの?』
 無言で、ソキは一度だけ頷いた。震える細い指が、丁寧な仕草で、髪にリボンを結びつける。くちびるがそっと、愛おしげに綴った名は、妖精にまで届かなかった。尊い、祈りのような響きだけが、ふわりと風を揺らして、消えた。



 ソキの旅日記:三日目
 白雪の国の首都に到着しました! 起きたら知らないお部屋でびっくりしたです。
 今日はこのまま泊めてもらえることになったです。
 明日は旅の準備をするですよ。

 ……元気かな。

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