その名前を、どうして人の口から聞かなければいけないのだろう。学園で催された飲み会から帰ってくる同僚たちを出迎えていたリトリアの手から、受け取った外套が床の上へ落ちる。存外大きく響いた衣擦れの音に、誰もがハッとして目を見開き、リトリアを凝視した。なにも考えられず、リトリアは『扉』へ向かって走り出す。半開きになったままの『扉』は、今ならまだ学園へ通じている筈だった。
走ったのは、数歩。辿りつく前に、強く腕が掴まれた。
「リトリア!」
叱責するように名を呼んだのは、チェチェリアだ。その瞳が、冷静になれと告げていた。冷静に。なにを、どうして。かっと頭の中が熱くなって、ぐるりと魔力が渦巻く。やめろ、と制止の声を遠くに聞きながら、リトリアは一言、そう叫ぶだけでよかった。
「『離せ!』」
手が離れる。一瞬の隙をついて、リトリアは『扉』に手をかけ、その中に体を滑り込ませた。
呼びとめる声や親しい友の姿に一切足を止めることなく、リトリアはざわめきを残す夜の学園を走っていた。どくどくと胸が高鳴って、泣きそうになる。ぐしゃぐしゃの感情が熱くて、涙がこぼれそうになった。どうして、どうして、なんで。混乱しながら廊下を走って行くと、一人の女性の背が見えた。
「っ、て……!」
飲み会の帰りであるのに、まっすぐに背を伸ばして歩いて行く姿が、忌々しいくらいに凛々しい。かけてくる足音は聞こえている筈なのに、立ち止まりも、振り返りもしてくれなかった。
「待って、ツフィア! 待ってっ!」
走って、走って。ようやくリトリアが女性の服の端に触れることができたのは、その魔術師が住み家の方角に繋がる『扉』に手をかけてからのことだった。ぜい、ぜい、荒い息を整えながら、リトリアは白い指先で服の端を引っ掛け、カタカタと細かく震わせた。
「……ツフィア」
「出られない筈じゃないの?」
すがるような呼びかけに、返されたのは冷たい声。はっとして顔をあげれば、火のような瞳がリトリアを見下ろしていた。それだけで、ぼろりと、涙が零れ落ちた。しゃくりあげる。
「だ、って……だって、ツフィア、来てたって……!」
「……言ったのは誰? 口止めの意味がないわね」
不愉快だと言わんばかり溜息をつかれる。びくり、震えたリトリアに、女性の手が伸ばされた。冷えた指先が、涙を丁寧な仕草で拭って行く。
「帰りなさい。私も、もう帰る」
「……だ、やだ、やだ!」
「だだをこねない」
ぴしゃりと跳ねのける声の響きに、リトリアはきゅっと唇に力を込めた。伏せた瞼の奥から、新しい涙が零れて行く。拭う手つきだけは、優しかった。
「私が……会いたいって、言っても、来てくれないのに。飲み会だとくるんだ……!」
「……飲んでないわ。顔を見に来ただけだもの」
「誰の? 誰に会いたかったの? ……私より、誰に会いたいの? それ、誰……?」
重なる問いかけに、うっとおしい、とばかり息が吐き出された。震えるリトリアの手首が、女性の手に掴まれる。細い、と吐きだされた声は怒りを感じさせて、リトリアの身が強張った。
「……室内仕事なんでしょう? 食べてないんじゃないでしょうね。それとも、食べさせてもらっていない?」
「食べてる……私がいっぱい食べるの、知ってるでしょ?」
「でも……痩せたじゃない」
どういうことだと睨んでくる女性に、リトリアは目に力を入れて閉じながら、ううぅ、と幼子のようにむずがった。
「ツフィアが! そっ……卒業してから、一回も会ってくれ、ない、し……! 手紙も、返事くれな、し……そ、それなのに、今日、きてるって、ひど……ひどい」
「……リトリア」
「避け、ないで。避けちゃ、いや……」
震える指先から、ひっかけただけの女性の服がすり抜けて行った。追うように伸ばされたリトリアの手を、捕まえて、引き寄せて。女性の唇が少女の手の甲に一瞬だけ触れ、熱を宿すより早く離された。とん、とリトリアの肩が押される。ふらついた体を支えたのは、追いかけてきた少女の同僚だった。
泣き崩れそうになるリトリアを支える同僚たちを、僅かばかり、呪い殺しそうな目で睨んで。その眼差しを少女に気がつかれる前に消し去り、ツフィアは『扉』に手をかけ、なにも言わず、そこへ足を踏み出した。