ふあふあした温かい空気が部屋中に満ちていた。まどろむソキの意識は、衣擦れの音にかすかに震える。寝台が音を立てて軋み、笑みを滲ませた吐息が肌を撫でて行く。ぼんやり、ソキは瞼を持ち上げた。ふぁ、とあわくあくびをしながら、もたもたと瞬きをして目の前を見つめる。
「ろぜあちゃん……」
「うん。おはよう、ソキ。……気分はどうだ?」
「……ふぁ。そき、ねえ……ねむい、ですよぉ……」
そうか、と頷きながら、ロゼアのてのひらがソキの頬に触れた。やさしく、ゆっくりと、決して傷をつけないような慎重な動きで、肌の上を指先が滑っていく。くすぐったいような、甘いような変な気持ちで、ソキは閉じた瞼を震わせた。ろぜあちゃん、と呼ぶ。うん、と返事をしながら、ロゼアは慣れた動きで頬の手をそのまま、眠り横たわるソキの頭の後ろに潜らせ、指に絡めるように髪を梳いて行く。するする、ロゼアの指に触れられる髪に、ソキはくちびるをふわりと和ませた。二度、三度、髪を梳いてからシーツの上へ散らばせて、ロゼアの手はソキの肌に戻ってくる。なめらかな線を描くほっそりとした白い首筋に、やや硬い皮膚が、添うように押し当てられた。鼓動がじわじわ強く、あがっていく。熱が出てしまいそうな気持ちでソキはくちびるにきゅうと力を込め、下ろしていた瞼を持ち上げた。ロゼアの手はまだ、ソキの首筋に押し当てられている。
「……ろぜあちゃん」
「ん?」
伏せられていた視線が、穏やかな色でソキを見つめた。なに、と囁く声で問いかけられる。それに、ソキはうまく言葉を紡げない。体中がずっとざわざわしていて落ち着かない。嬉しくて、しあわせで、それなのに泣きそうになる。ろぜあちゃん、ともう一度ソキは呼んだ。それにまた、うん、とだけ返事をして、ようやくロゼアはソキの首筋からてのひらを離した。ようやく落ち着いたような、さびしいような気持ちでソキは息を吐き出しかけたが、それよりはやく、また頬に触れられる。くっと指先が顎を上向かせるようにして、ソキの顔をあげさせた。ロゼアの前髪が、ソキの額に触れる。すがるように、ソキはロゼアの肩口の服を掴んだ。起きてから時間が経っているのだろう。冷えた布のつめたさが、ソキの指をよわよわしく震わせた。ふ、と吐息が鼻先を掠める。ごく穏やかな仕草で、額が重ねられた。
「ソキ……ソキ」
落ち着かない気分でいることは分かられているのだろう。大丈夫だ、安心していいよ。俺がいるから、と告げるように、何度もロゼアが名前を呼んでくる。くすぐったい、泣きそうな気持ちで名を呼び返しながら、ソキは安堵したように離れて行くロゼアを見つめていた。胸がずっとざわざわしている。
「……ソキ?」
くたりと寝台に体を預けたまま起き上がろうとしないソキを見つめ、ロゼアは訝しく、心配そうに眉を寄せた。
「起きられないか? 熱はなかったけど……気持ち悪い?」
「だいじょうぶです、大丈夫……起きるです」
触れられた場所が、全部、ぜんぶ、ざわざわして甘くしびれていて落ち着いてくれない、だけで。瞬きをして気持ちを落ち着かせ、ソキはロゼアの手を借りながらゆっくり、ゆっくり寝台の上で体を起こした。ロゼアは用意しておいた服に着替えさせるか、このまま寝かせておくべきか悩む表情でソキのことを見ている。ソキは慌てて、ロゼアの服の袖を引いた。
「ロゼアちゃん。ソキ大丈夫なんですよ、ほんとうですよ」
「うん。……朝食が食べられたら、今日は起きていような」
つまりロゼアが安心するくらい食べられなければ、戻って部屋で寝かされる、ということである。今日は授業のない水曜日であるので、ロゼアも一日、部屋でついているつもりなのだろう。やぁんやぁんもう元気なんですよぉ、とくちびるを尖らせるソキにロゼアは微笑みを浮かべ、それだけで、なにも言ってはくれなかった。
果物がたっぷりはいったヨーグルトに、くりかぼちゃのスープ。ソキのにぎりこぶしよりちいさい、ふわふわの白いパンをひとつ。それに、ナリアンからのおすそわけプリンがひとくち。ソキとしてはとてもとても頑張った結果なのだが、ロゼアが自由に動く許可を下すのには十分でなかったらしい。朝食を終えたソキを抱き上げたロゼアは、起きててもいいよ、とは言わなかった。案じる眼差しでソキの目を覗き込みながら、頬を撫でるように触れた手が髪を梳き、首筋にやわらかく押し当てられる。ん、と考え込むロゼアは幸いまだ立ち上がったままで歩もうとはしていなかったので、ソキは慌ててぷーっと頬を膨らませた。ぺちぺちぺちっ、とロゼアの背を叩いて抗議する。
「ろぜあちゃん、ソキごはんたべたです! たべたですぅっ!」
「うん。頑張ったな、ソキ。偉いぞ」
にこっと笑いながらも、ロゼアはソキが望む言葉を告げてはくれなかった。首筋から離れた手が頬に触れ、指先がするすると額を撫で、髪を散らして額が重ねられる。うー、うーっ、と目を閉じながらむずがって、額が離れた所で、ソキはぱっちりと瞼をもちあげた。
「ねつ! ないです! ないですよ!」
「うん。そうだな。今は熱下がってるな」
まるでこれから熱が上がるかのような口ぶりである。これはいけないです、とソキは思った。ロゼアの手は宥めるようにソキの背を撫でている。そのやさしい動きと熱にほにゃほにゃと体から力を抜いて腕の中に甘えながら、ソキはがんばって気を取り直し、ぷーっと頬を膨らませた。
「ろぜあちゃん、いじわるぅ……!」
『談話室にいるくらいならいいんじゃないかな、ロゼア』
くすくす、微笑ましく囁くような意志を響かせたのはナリアンだった。ナリアンは食べ終えた食器を重ねて持ち、立ち上がりながら、しぶい顔をするロゼアと、満面の笑みを浮かべるソキに問いかける。
『ね、ソキちゃん。談話室で大人しくできるもんね? 温かい格好して、長椅子の上でお昼寝したり、ひなたぼっこしたり、お茶飲んだり、したいよね? 一応、お昼寝の準備もしてもらおうね。それで、談話室の中を歩き回ったりはしないで、長椅子の、上で、ゆっくりしていようね?』
「……ソキ、ナリアンの言う通りにできるか? それならいいよ、起きてても」
「わぁい! ソキ、ナリアンくんの言う通りできるですー!」
きゃあぁあっ、ロゼアちゃんだいすきだいすきナリアンくんありがとうですっ、とすりすりと肩口に頬を擦りつけて甘え喜ぶソキを見つめ、メーシャは苦笑しながら問いかけた。
「ロゼア」
「なに?」
「……罪悪感とか」
ロゼアははしゃぐソキの背をやわりと抱き寄せながら、いっそ不思議がる表情できっぱりと言った。
「ないよ。なんで? ソキの希望は聞いただろ、俺」
寝てないで起きていたい、っていう。じゃあお昼寝の用意とか整えて談話室に行くから、と歩き去るロゼアの腕の中から、ソキがまたね、とばかりナリアンとメーシャに手を振った。二人が見守る先、食堂の出入り口付近で、ソキはそれに気がついたのだろう。きゃあぁっ、と慌てた悲鳴がもれ、ぺちぺちとちいさな手がロゼアの背を叩く。
「ロゼアちゃん! ソキあるく、あるくです! あるいてロゼアちゃんのお部屋かえるですっ、やぁんやぁんっ!」
「んー、夕方にソキが起きてたら、手を繋いですこし散歩しような」
「ろぜあちゃんだいすきですー!」
きゃあきゃあはしゃぐソキを抱き上げたまま、ロゼアが自室のある方向へ消えて行く。通りすがりにナリアンの頬を突いて真剣に嫌がられながら、寮長が白い目でぼそりと呟く。
「なんだあのハイパーちょろいの……」
水曜日の夕方、ソキはだいたいの場合昼寝をしていて、健やかに眠っている。茶会部の活動中でもそうであるし、たまに談話室でナリアンと勉強をしていても一度は必ず眠るので、寮生なら誰もがそれを知っていた。三時過ぎから六時くらいまで眠るので、起きるのはおおまかに、夜、と呼ぶような時間のことである。それをまさか、ロゼアが失念している訳がない。ソキは気がつくのかな、と遠い目をするメーシャに、ナリアンはふるふると首を横にふった。寮生たちも、苦笑いをしながら頷く。ソキはたぶん気がつかない。やぁん寝ちゃったです夜になっちゃったですよ、としょんぼりするソキの姿は、あまりに簡単に想像することができた。そうだな夜だな、と微笑みながら慰める、ロゼアの姿も同様に。砂漠を出身国に持つ者たちが、仕方がないよ傍付きだもの、と言いたげに笑みを深める。
砂漠出身者ちょっと意味分からない、という空気が食堂に漂っていた。
ソキが、あれもしかしてお勉強とかもできないのではないですか、ということに気がついたのは、じゃあここから動くなよ、とロゼアに長椅子に下ろされ、お昼寝の準備を整えられ、腕の中にぽんとアスルを渡されてから四時間半後のことである。昼下がりだ。朝から昼過ぎまでなにをしていたのかというと、ソキはひたすらナリアンにじゃれていた。隣に座って勉強をするナリアンの手元を覗き込んだり、服をひっぱってみたり、腕にじゃれてみたり。日差しがあったかいからソキちゃんアスルを抱っこしたまま干してあげようね、と促されるままひかりさす長椅子に寝ころんでみたり。気がつけば一時間程眠ってしまっていたのだが、起きたソキにナリアンは心得た微笑みで、アスルふかふかになったねよかったね、と告げた。その為、それはソキの中で『アスルを抱っこしたまま干してあげた』ことになっている。ロゼアの指示である。ソキはちっとも気がついていない。
一回眠ると体がつかれていると訴えるのか、ソキはふにゃふにゃしながらロゼアが用意していった昼食を口にして、ナリアンが用意してくれたお茶で喉をうるおした。なんといっても水曜日。部活動の日で、茶会部なのである。今日は部活できたですー、とひんやりとした甘さをふわりと漂わせる不思議なお茶を飲みながら、ソキはようやく気がついたのだった。あれおべんきょうできない。ナリアンが言っていたのは、温かい格好をしてお昼寝と、のんびりと、ひなたぼっこである。談話室を歩くのもいけないし、そもそもロゼアは、ソキに動くなよ、と言って狂宴部に参加しに行った。今日は寮と授業棟の一部の床磨きとのことだ。『覚悟しろ全員転ばすくらい磨き上げさせてやる! ぴっかぴかにな! 鏡のようにもしくは氷上のようにつるっつるにな!』と迷惑この上ない題目は、ロゼア他砂漠出身者の猛抗議によって訂正がなされたらしい。
寮長はうんざりしながら、これだから砂漠は、というようなことを言っていたが、通りすがりに儀式準備部の活動へ向かうユーニャが、ひややかな笑顔で。
「寮長、それ、お花さん……ウィッシュも、俺たちと同じ廊下歩くって理解して言ってる?」
そう告げたことで、不満も消えたらしい。近くで寮長を見ていた寮生のひとりが、あっそれは駄目だまじうっかりしてた、と真剣な顔で頷く寮長と、分かればいいんだよ、とばかり笑みを深めて図書館方向へ歩き去って行ったユーニャのことを噂していた。あの二人の力関係、時々よく分からない。それを聞いてソキも、ちょっと首を傾げて考えた。ユーニャはソキが入学した時から、なにかと話しかけてくれる先輩のひとりである。好感を持っている先輩のひとりだが、寮長とどういう関係なのかはソキも知らないままだった。けれども深く考えかけ、ソキはほぼ同時におなじ結論に達したらしきナリアンと、真顔でこくりと頷きあう。なんで知らないのかなど決まっている。寮長に対する理解を深めたくないからだ。積極的に、理解したくない、と思っているからだ。それ以外の理由など存在してたまるものか。
ソキとナリアンがよしなかったことにしよう、と頷きあい、お茶おいしいねー、とほやほやした空気で笑いあっている、さなかのことだった。本日の噂のかたわれであるユーニャが、慌てた様子で談話室へ飛び込んで来た。
「ナリアン! ……あ、いた、ナリアン!」
『え? ……俺が、なにか?』
寮長がらみのことだったら速やかにお引き取りください今日の俺にはソキちゃんの傍にいるという使命があるので、という顔つきで訝しむナリアンの意志をまるっと無視した態度で、走って来たユーニャは、勢いのままに後輩の肩を、がしぃっ、とばかり手で掴んだ。
「お前、確か写本師だったよな! なっ?」
『確かに、そうでしたけど……』
「じゃあ本の修繕作業とかできるよな……っ?」
必死なユーニャ曰く、儀式準備部の活動中、ちょっとした事故で図書館の一角を倒壊させてしまったのだという。一部は保護魔術が間に合ってことなきを得たのだが、間に合わなかった本棚が砕け木片と化し、本は折れまがったり表紙がもげたり散々な状態であるらしい。ナリアンは白い目でユーニャに問いかけた。
『先輩はなんの準備をされていたんですか……?』
「いやちょっとテンションあがって」
『なんの……準備で……?』
そもそも図書館は知の保管庫だ。そこにかけられている保護魔術はちょっとやそっとではびくともしないくらい強いものなのに、なぜそこまで倒壊するというのか。ユーニャはふわりと笑って、ナリアンの肩をぽんぽん、と手で叩いた。
「だから、ちょっとテンションあがっただけなんだって……ともかく、助かった。修繕の仕方、教えてくれるか?」
『いいですけど……』
移動するのはちょっと、とばかりナリアンがソキに目をやってしぶる。ソキ勝手に移動したりしないですよぉー、とぷぷぅっと頬をふくらませて拗ねるソキに、すぐユーニャは事情を理解したらしい。だったら、とユーニャが談話室での本の修繕講座をナリアンに依頼した。だからナリアンくん、今せんせいなんですよー、と不思議そうなメーシャに説明しながらソキが指差した先、ナリアンはユーニャをはじめとした少年少女に取り囲まれている。一冊の本を手元にごく真剣な横顔を披露するその姿は、普段の穏やかな表情とは違い、ソキにもメーシャにも物珍しく感じるものだった。実際の作業に入る前に、ナリアンは紙に図を書き起こして説明しているらしい。さらさらとペンが動かされるたびに歓声が上がったり、しきりと感心されたりするので、ナリアンはやや照れながら視線を彷徨わせていた。が、すぐ、真剣な顔つきで説明が再開される。
ナリアンくんすごいですー、と感心しつつ自慢げに言うソキの隣に、そうだね、と言ってメーシャが腰を下ろした。そこではじめてようやく、ソキはちょこん、と首を傾げ、にこにこ笑っているメーシャを見た。
「メーシャくん?」
「なに、ソキ」
「なにかソキにご用事だったです? それとも、部活動の通りすがりです? 休憩なんです?」
メーシャは委員会部だ。何回聞いてもソキにはいまひとつなにをする部なのか分からないのだが、先日は掲示板に張るお知らせを妖精と一緒に入れ替えた、と言っていたので、なんとなくそういうこともするのだろう、と思っている。今日は部活動は休みなんだ、と告げるメーシャにふぅんと頷き、ソキは幾度か瞬きをした。メーシャが自分からこうしてソキの傍に来ることは、すこしばかり珍しい。ナリアンも、ロゼアも一緒にいない時であるので、さらに稀なことだった。別に苦手にされている訳ではない、ということを知っている。そんな相手ならほぼ毎回食事を一緒にする訳がないし、なにより体調を崩してしまったソキを見るメーシャの瞳には、本気の心配と不安、時折ちらつく悔しさや、怒りの影があった。大事に想ってくれていることを、知っている。けれどもメーシャは入学してからずっと、距離があった。特にソキとは、近く、ではなかったのだ。
それはまっすぐな、二本の平行線にすら似ている。寂しくはなく、遠くはなく、けれど温かくはなく、近くはなく、親しくはなかった。どこかそっと距離を保ったままこちらを見つめてくるメーシャのことを、ソキはずっと見ていた。手を伸ばすことはなく。呼ぶ声はなく。それでも、消えてしまわないかと目を離すことはできないで。見つめていた。きっと、互いに、そういう二人だった。
「ソキは、俺がなんの用事もなく、傍に来るのいやかな」
それなのに。パーティーを境にして、メーシャはすこしだけ変わった。流星の夜を超えてからなにかを考え、悩んでいたことはソキも知っている。それでもメーシャはまだ悩んで、立ち止まっていた筈だった。あの夜を終えるまで。とん、と足を踏み出して、一歩、歩み寄るように。恐れるなにかを克服したのとも違う、それを、もう大丈夫だと包みこみ共に連れて行く。そんな風にして。メーシャは、ソキとの距離をすこしだけ、近くした。
「仲良くしようよ、ソキ。ロゼアと、ナリアンばっかりじゃなくて、俺ともお話してくれる?」
「……メーシャくん、ソキとお話したいです?」
「うん。ソキのこと、知りたいな、と思って」
話そうよ、と楽しげな笑みを零してメーシャは言った。話そう、ソキ。なんでもいい。話をしよう。時間がかかってしまったけれど、でも、まだ、これからがあるから。これからの、たくさんの時間の、ほんのすこしでも。俺と一緒に、話をしよう、と告げるメーシャの目を覗き込みながら、ソキは入学式前のことを思い出していた。ロゼアを待つ部屋の中、ソキはメーシャと話をしていたのだ。あの時、メーシャの瞳には喜びが輝いていた。未来にうつくしいものがあると、そればかりを信じた純粋なきらめきだった。メーシャの瞳は瑠璃の色をしている。夜の、星がまたたく闇空の、ひときわ深い藍の色だとソキは思う。はじめて目にした時の、きれいな印象は損なわれず、そこにあった。ひかりさすのが希望ばかりではないと、もう理解して、それを受け入れて。しっかりと前を向いて。メーシャはきれいに、笑っている。
「メーシャくんは」
その表情をまっすぐに見つめ返して、ソキはそっとくちびるを開いた。
「ちょっと、変わりましたです」
ソキの見ていたメーシャなら。平行線の、距離を保った向こうで。ほんのすこし寂しそうに、けれども、これでいいのだと自分を納得させたように、きれいにきれいに笑うばかりのメーシャなら、それに、そうかな、と言った筈だった。ほんのすこし困ったように。ほんのすこし、寂しそうに。けれどもメーシャは、ソキの問いに、しっかりと頷いた。口元が甘く緩んでいる。幸せにそっと、指先が触れたのだと告げるように。メーシャはふわりと空気を和ませ、やわらかな表情で、笑う。
「そう……かな。変われていたら、いいと、思う。……ソキは、俺を変わったって思う? もしそうなら、嬉しいな……」
「はい。そう思うですよ」
「ありがとう。でも、ソキも変わったよ」
そうでしょうそうでしょう、と誇らしげにソキは頷いた。入学した時よりずっと、ソキは歩くのに慣れたのだ。最近、ちょっとばかり体調不良であまり歩けていないのだが。身長もねえ、ちょっと伸びたんですよ、と笑うソキに、メーシャはそうなんだ、と頷いてくれた。
「ソキ、今身長どれくらいあるの?」
「んとねえ、百四十センチ、くらい、なんですよ」
「……くらい」
思わず、だろう。口元を手で覆って肩を震わせるメーシャに、ソキはぷぷぅっと頬を膨らませた。
「あるんですよ! そき、ひゃくよんじゅっせんち、あるんですよ!」
「う、うん、うん。わかった、わかった……そうだね、あるよ。百四十センチ、あるよ」
「そうなんですよー!」
先日はかった時に、ロゼアがやや遠い目をして、うん四捨五入すれば百四十になるな、と言っていたのは聞かなかったことにした。それでもちょっぴり伸びたのである。
「ロゼアちゃんもねえ、ちょっと身長伸びたんですよ。ナリアンくんも。メーシャくんも伸びたです?」
「うーん……どうかな。でも、まだ止まってないと思うから、伸びたかも」
「メーシャくんは体のつくりもきれいです」
百八十センチを超すロゼアとナリアンと並ぶとやや低いだけで、メーシャの身長は百七十の後半である。すらりとした印象の体には、けれども弱々しい印象はまったくなかった。しなやかな筋肉が体を覆い、時折見せる俊敏な身のこなしが、体の動かし方を知りつくした者なのだと印象付ける。けれども、正式な訓練を受けていた訳ではないのだろう。屋敷で目にする『傍付き』たちや、ロゼアのような印象を受けることは、なかった。ただ、感心するばかりである。メーシャくんは本当にどこもかしこもきれいですねぇ、としみじみするソキに、メーシャは照れながら笑い、ありがとう、と言った。
「でも……うん、なんか、今のでよく分かったかな。やっぱり、っていうか」
「なにがです?」
「ソキは、ロゼア以外は男のひと、じゃないんだなぁと思って。俺も、ナリアンも、ユーニャ先輩とか、寮長とか……ストル先生とか、大人の男の人は、ソキの周りにたくさんいるよね。でも、ソキは全然そういう風には思ってないんだなっていうか……ああ、やっぱりロゼアなんだ、って」
やっぱり、とその言葉を不思議そうに繰り返して、ソキはほんの僅か、眉を寄せた。
「ロゼアちゃんは、ロゼアちゃんです。……おとこのひと、なのは、知ってるですよ?」
「うん? うん、そうなんだけど。なんて言ったらいいのかな……」
たとえばね、とメーシャは穏やかな声で囁いた。
「寮の女の子たちは、俺のことを男だと思ってくれてる。性別もそうだけど、異性としてみてくれてるっていうのかな。……でも、ソキは俺のことを一度もそういうふうに見ないし、これからもそうだろうなって思ったんだよ……まあ、俺のことはいいんだよ。そうじゃなくてさ、俺が言いたいのは」
やや警戒する目を向けてくるソキに、メーシャは、なんだか楽しげに言った。
「ロゼアが本当に好きなんだなってこと」
「……ソキはロゼアちゃん好きですよ? 前から、ずーっと、ずぅっと好きですよ?」
いまさらなにを言っているのだろう。不思議にまばたきを繰り返しながら首を傾げるソキに、メーシャはそうじゃなくて、と苦笑を浮かべた。声が囁くように潜められる。
「そうじゃなくて……ソキの目が、ずっと、ロゼアのこと、好きって言ってる」
「……だから、ソキはロゼアちゃん好きなんですよ?」
「あ、うん。それはわかるんだけど……なんていうんだろう。俺もあんまりよくわかってないんだけど、特別っていうのかな」
とくべつ。言葉を繰り返して首を傾げるソキに、メーシャはちいさく頷いて続けた。
「そう。ソキのロゼアへの視線があまいって言うのかな」
「……あまい?」
どうしよう、と。なぜか、それだけを思った。どうしよう、どうしよう。誰かに。自分以外の他の人に。心がもれて、零れてしまったような、焦りだった。鼓動が跳ねる。胸に。一瞬、熱いものがさした。それは熱のようで、それでいて、言葉にならない感情だった。なぜか涙が出そうな気持ちで、言葉に詰まる。はく、とくちびるを動かし、ソキは己の胸元を手で押さえた。どくどく、鼓動が高く鳴っている。指先が震えた。息を吸い込む。でも、とソキは言った。でも、だって、ソキは、ずっと。
「ずっと……ずっと、ロゼアちゃんは、ソキの特別なんですよ。ソキの『傍付き』だもん。ろぜあちゃんは、そきの……」
「ソキ」
やさしく、やさしく、言い聞かせるように。咎めるのではなく、そっと、諭すように。メーシャは首をふって、しっかりとした声で、ソキに告げた。
「ロゼアは、ロゼアだよ」
しってるです、と響きかけた声は形にならず、喉の奥に沈んでしまった。まっすぐなまなざしが、ソキのことを覗き込んでいる。
「傍付き、だなんて肩書きで呼ばないでほしい」
「……でも、でもろぜあちゃんは、そきの」
ソキの『傍付き』だ。砂漠の国が誇るもう一つの芸術品。『花嫁』の為だけに存在し、整えられるもうひとつの至宝。『花嫁』がたったひとつ、完璧に、己のもの、と思うことのできる存在。ロゼアは、いつからか、ソキのものだった。ソキがロゼアの『花嫁』であるように。ロゼアが、ソキの、『傍付き』だったのだ。肩書き、という言葉に胸がつまる。震えるくちびるは言葉を失い、ソキは、弱々しく息を吸い込んだ。泣きそうに目をうるませるソキに、メーシャは慌てて息を吸う。
「ああ、ソキ、違う。怒ってるわけじゃない。叱っているわけでもない。ただ、俺はソキもロゼアもナリアンも、大事なともだちだと思ってる。大事なひとを、そんなふうに呼ばれるのは、いやだな。だから、俺もソキのことを『花嫁』とは呼ばないだろう? ソキは、入学式の時に、言ってたよね。『花嫁』じゃないって。もう、結婚しなくていいんだ、って」
同じだよ、とメーシャは言った。
「ロゼアは、もう、『傍付き』じゃない。ソキの言いたいことはわかる。……戸惑う気持ちだって、わかる。でも、そろそろ、ソキは『傍付き』ではなくて、『ロゼア』を見てほしいんだ」
いやいや、とぎこちなく首をふるソキの手を包み込み、メーシャは微笑んだ。
「ソキ。……だって俺は、ソキのことを『花嫁』だなんて思ってない」
「……そきが、魔術師のたまご、だからです?」
「うん。それもある。……『花嫁』だから美しい? 『花嫁』だから、『傍付き』がいて当たり前? そんなの、俺からしてみたら関係ない。ソキは、ソキだから。『花嫁』だろうがなんだろうが、ひとりで歩けるようにがんばって前をちゃんと見つめる子だよ。俺の尊敬するともだちのひとりだ。……あ、でも、俺にともだちって言われるのがいやだったら、ごめん、なんだけど」
ともだち、というのがどういうものか、ソキにはまだよく分からない。けれど、それを否定してはいけない気がした。声がまだ戻らない。だから、いやじゃないです、と告げる代わりに首を振れば、メーシャは幸せそうに微笑んだ。闇に射す光のように。きよらかで、きれいで、強い、笑みだった。
「よかった。あのさ、ソキ。俺は、ソキをとてもかわいいと思っているし、がんばってる姿を見ると、俺もがんばらなきゃって思う。ソキの強い姿勢に、いつも助けられたんだ。天体観測の日、儀式に向かうとき、ソキはひとりで歩くって言っただろう? ゆっくりでも、着実に歩こうとするソキを……俺は見守ることしかできなかったけれど、同時にすごく励まされたんだ。そうだ。そのときのお礼も言えてなかったね。遅くなったけれど、ありがとう。俺を、導いてくれて」
「ソキ、そんなこと、してないです……」
「してくれたよ。ソキがそう思わなくても、ソキは俺にそうしてくれたんだ。……だから、さ。だから、『花嫁』であることに囚われなくていい。俺は、『花嫁』だからソキを好きになったんじゃない。ソキがソキだから、好きだと思ったし、ともだちになりたいと思ったんだ」
だめかな、と不安そうにするメーシャに、ソキはふるふると首をふる。好きだと思ってくれることは嬉しい。ともだち、というものに、なりたい、と思ってくれることも。嬉しい。嬉しい、と思うのに。どうしよう、とソキは思った。泣きそうな気持ちがずっと続いていて、ちっとも治まってくれない。胸の奥がずっと痛い。震えながらソキは、ようやく、それを自覚する。囚われていたい。もうすこしだけ、『花嫁』でありたい。そう思う気持ちがあることに、気がついてしまった。どうしよう、どうしよう、と思って、ソキは潤んだ目を伏せ、くちびるに力を込める。胸の中で名を、囁くように呼ぶ。何度も、何度も。どうしても、落ち着けない、ざわついた気持ちのままに呼ぶ。ろぜあちゃん、ロゼアちゃん。ソキは。
もうすこしだけでいい。あなたのものでいたい。