ある日のことである。ソキは談話室の出入り口近くで足を止め、ぱちぱちと瞬きをして首を傾げた。ロゼアもナリアンも授業が連続して入っていて傍にいないから、動向に目を光らせていたのだろう。さほど迷惑そうではなくソキを避けて出入りする人波をするすると避け、走り寄って来た寮長が、ソキの服の襟首あたりをがしりとつかみ、端にずるずると引っ張りながら説教をする。
「そこで立ち止まるんじゃない……!」
「やっ、やあぁああああっ! くび苦しいですううっ!」
「本当に苦しかったら騒げないだろうが……! ああもう、いいか? ソキ。出入り口は通行の邪魔になるし、危ないから、立ち止まるなら端によれ、端に。壁際とかな」
ぱっとばかり離された服の胸元をぎゅぅと握り締め涙目になりながら、ソキはこくこくと頷いて寮長からじりじり離れて行く。たった今危なかったばかりなので、寮長の言葉にはすごく説得力があったのだ。それがたとえ、寮長の手による危険であろうとも。危なかったのは危なかったのである。けふ、けふんっ、と咳き込んでそきりょうちょきぁい、とむずがった声で怒るソキに、寮長はしばしなにごとかを考え、訝しげに眉を寄せながらその場にしゃがみこんだ。
「ソキ」
「……やーぁー。ソキ、りょうちょとー、おはなし、しーなぁーいー」
「お前、腕とか俺に掴んで引っ張られたりとかして、ものすごく怒ったりしないならそうするけど。どっちがいいんだ?」
ソキはぷーっと頬を膨らませ、くてんと首を傾げてみせた。寮長は天井を仰ぎ溜息をつくと、来たばかりのウィッシュが、とソキにそれを説明してくれる。なんでもウィッシュが入学した当時、それはそれは触れられるのに過敏で、例え服の上からでも腕を掴もうものなら、苛烈な拒絶反応と共に魔術的な制裁までしていたとのことだった。以来、寮長を含め、当時いた魔術師のたまごたちはなんとなく、そういう存在にあまり触れないように、はしているらしい。はっその手があったですおにいちゃんあたまいい。とばかり頷くソキの額を指先ではじきながら、寮長はうううぅ、と涙目になるソキを覗き込みながら言った。
「で? 服引っ張られるのと、腕引っ張られるの、どっちがいいんだ?」
「寮長がソキをひっぱるのをやめればいいと思うです」
「……お前が、ロゼアとかナリアンとか、メーシャが傍にいなくても、通行の邪魔にならない場所で大人しくしてたらな?」
そもそもソキを掴んだり摘んでひっぱるだなんて手荒なことは、『お屋敷』の者ならば絶対にしないのである。頭をがしって掴んだりとか。そんなことをソキにしたのは、うまれてこの方寮長がはじめてなのである。ううぅろぜあちゃんがじゅぎょからかえってきたら、りょうちょがくびのとこのおふくつかんでひっぱったですっていっちゃうです、ソキいいつけるです、とけふ、けふんと咳をしながらたくらんで、ソキは離れて行く寮長の背を見つめ、心の底からどこかに足の小指とかをぶつけて痛くなりますように、と願った。
けふ、こふ。けふふ。何度か咳き込んで息をしたのち、ソキは引っ張って来られた談話室の掲示板の前で、ちらりとばかり視線を持ち上げた。そもそも立ち止まったのは、そこに掲示された一枚がソキの興味を引いたからである。それは全体に対しての告知というより、個人の伝言めいたそれだった。どこかかっちりとした印象の読みやすい文字が、藍色のインクでこう告げている。
『ナリアンを怒らせた者は情報を提供するように』
担当教員、ロリエスより。そう署名まで書いてある紙が、掲示板に留められていた。勝手に剥がされないように魔術的な保護がかけられているが、ナリアンが見つけたら、すぐに無言で破いてしまいそうな内容である。過去にも繰り返し提示されたこの紙の寿命は、だいたい平均して20分くらいだから、これは張り出されたばかりだろう。こうした紙はどんな私的な内容であっても、それを役目とした妖精がピンで留めに来る決まりであるので、この要請もそうされた筈だった。ソキは一度でいいから、紙を掲示板にピン留めするその妖精の姿をみたい、と思って毎日わくわくしているのだが。機会に恵まれないのか、今回も姿は見られないままだった。がっかりですぅ、としょんぼりしながら、ソキはお知らせをもう一度じぃっと見た。ナリアンくん、と。おこる、という文字を頭の中で組み合わせて、まばたきをする。
ふむ、とばかり首を傾げ、ソキはてちてちと廊下を歩き出した。講師室が集まる棟を目指し、途中で廊下の端に座りこんで何度も休憩をはさみながら、目的の場所、扉が半開きになっている部屋を覗きこむ。覗き込みながらそこの主人と視線があったので、ソキは大慌てでこちこちと扉を叩き、失礼しますですよ、と言ってから改めて問いかけた。
「ロリ先生、こんにちは。入っていいですか?」
「やめろ。私の外見年齢が著しく若く思われるようなその呼称は即刻やめろ」
入室は許可するとため息まじりに告げられて、ソキはそろりとナリアンの担当教員の講師室に足を踏み入れた。実技の担当教員に与えられる教員室は、どれも同じ広さ、同じ作りである。窓から見える景色や差し込む光の角度がほんのわずか異なるだけで、印象としては寮の一室にすら近い。そこよりは広い、と思わせるくらいの部屋だった。それでも、教員が仕事をこなし、身を休めるにしては十分過ぎるほどのゆったりとした部屋である。掃除が大変だからもうすこし狭くても良い、と言う者もあるほどだという。その部屋にソキが現れたからといって、窮屈な印象は生まれることがない。どこかゆったりとした空気の中、ソキはソファに着席を進められながらもふるりと首を横に振り、用事を問われる前に口を開く。
そろそろロゼアの実技授業が終わる時間なので、お迎えに行きたいソキは、なにかと忙しいのである。座らないのか、と不思議そうなロリエスのこくんと頷き、あのねえロリ先生、とソキはひとのはなしをちっとも聞いていない、かつ反省もしていない声音でのんびりと囁いた。
「ロリ先生。ソキ、こないだナリアンくんに怒られちゃったですよ」
「なん……だと……!」
勢いよくロリエスは立ちあがり、そのままふらりとよろめいた。座っていた椅子がガタリと音を立てて位置からずれ、読んでいたらしき書籍がしおりも挟まず床に落下する。幸いなことにページが折れた様子はないが、どこを読んでいたのか、見つけるのは大変そうな分厚い本だった。恐らくは価値ある古書であるそれを拾い上げも、視線を向けることもせず、女性はソキに詰め寄った。
「なにをしたんだ。話しなさい。いや、教えなさい。さあ、今すぐに。詳しく話しなさい」
目が完全に座っている。がしりと肩を掴んでくるロリエスは若干引くくらいの必死さだか、ソキは気にした様子もなく、えっとですね、とくてんと首を傾げてみせた。この講師室からロゼアちゃんのじゅぎょのお部屋まではどうやって行くんでしたっけ、と思い悩みながら、ふわふわとした声でそれを告げて行く。
「ソキ、このあいだ、クッキーいっぱい食べてしまったですよ」
「クッキー……ナリアンのか?」
「いちごとね、くらんべり、とぉ。くるみと、あもんど! の、クッキー、なんですよ? ソキ、あれが一番好きです」
ところどころ微妙に発音できていないのになぜか自慢げにえへんとふんぞりかえるソキに、ロリエスはそうかと生返事で頷いた。ナリアンとソキは茶会部である。部活動としてお茶会があり、ナリアンはその為に毎週手作りクッキーを製作しているのだ。お前は女子かと突っ込みたくなる気持ちを覚えたことを思い出しつつ、ロリエスは先を促した。ソキはにこにこ笑って言う。
「それで、ナリアンくんのクッキー食べたですので、ソキはもう晩御飯いらなくなったです」
「……ん? 何枚食べたんだ?」
「二枚です。そしたら、ナリアンくんに、めってされたです」
いつもは、大きなそれを半分にして、さらに半分にしたものを食べてあとは持ち帰ってロゼアと一緒にお夜食にするのが常であるらしい。ロリエスも水曜日の夜、談話室でなにかを摘みながらチェスをするナリアンとロゼア、それをきゃっきゃと応援するメーシャとソキの姿を遠目に見たことが幾度もあった。それで最近はナリアンくん、ソキのクッキーはちいちゃくしてまるくしてかぁいくして焼いてくれるようになったんですけど、でもその時はおっきかったんですよナリアンくんさいず、だったです、と。どやぁ、となぜかものすごく勝ち誇った顔でソキは胸をはっている。突っ込みたい所は目眩がする程あるが、それはそれとして、女性は迅速に行動を起こした。
机の上に置いていたバスケットを手にとり、中身を一枚つまみ上げる。ナリアンのクッキーである。それを、ソキの口元に突きつける。
「よし、食べろ」
「……いえ、ソキ、いまお腹すいてないです」
「私には関係ない。食え。そして夕食が食べられなくなり、私のせいだと言ってナリアンを怒らせろ!」
その場合ソキも怒られちゃいますよ、と言う訴えは鮮やかな笑顔で無視された。それは私がナリアンに怒られることを考えれば些細なことだ、と言わんばかりである。ソキはじりじりと後退した。途中、後ろにころんと転がってしまいそうになるのをふらつきながらもなんとか堪え、ソキはいやいやいや、と首をふる。
「……や、やです。やーですよ! ソキはいやって言ってます!」
「そうか。頑張れ。さあ口を開けるんだ」
「やんやん! やんやぁ……! ロリ先生、なんでです? なんでナリアンくん、めってされたいですかぁ……?」
そもそも、そこがもうよく分からない。ソキはロゼアちゃんにめってされるのがきらいきらいですナリアンくんに怒られちゃうのも好きじゃないですぅとぐずりながら、ソキは理解不能の顔でロリエスをじぃと見上げた。やぁ、でぇ、すぅ、とゆっくり、言い聞かせるように告げたソキに、ロリエスはやや視線を反らして黙りこむ。ロリエスは己の口元にクッキーを運び、唇で食んで溜息をついた。
「なんで……なんで、か」
考えられる時点で、なんだかもうすごく嫌な予感しかしない。ろぜあちゃんろぜあちゃん、ソキろぜあちゃんのおむかえいく、とててちてちっ、と慌てた足取りで部屋を出て行こうとするソキの背に、ふ、と遠い目をして吐き出されたような囁きが響く。
「だってナリアンはシルには怒ると聞くだろう……? なんだそれ。不公平じゃないか。そこは私にもなにかと怒ったりすねたりしてくれるのが生徒の勤めというものだろう。シルばっかりずるい……」
もしかして、ナリアンくん被害者、という文字が最高速でソキの頭をちらつき、何処へと消えて行った。シル、と。寮長、という単語を結び付けるのにちょっぴり時間がかかったが、明後日の方向へその認識を投げ捨てたので問題なんてものはない筈である。ソキは講師室の扉をぱたむ、とばかりしめ、ててちてびたんっ、むく、あぁぅう、くしくし、て、てちっ、てっち、と音を響かせながらその場を離れて行く。数時間後。先生いいいいいっ、と声なき意思で絶叫しながら、講師室を蹴り破りかねない勢いでやってくるナリアンが、もういいからはやくあの男とくっついてください俺にいらぬ嫉妬とかしてないでっ、と泣き声交じりで懇願するのだが。
それが実は古参の生徒の総意であることを、新入生たちは未だ知らないままである。