余計なことをされてしまった、とルルクは思った。ざわめく食堂で桃のパフェを口にしながら、ため息とともに眉を寄せる。なんというか、本当に、余計なことをされてしまった。休暇である。休暇のことである。ソキとロゼアに桃レポートの詳細を告げに行ったら、あれよあれよという間に休暇を取らされてしまったのだ。レポートの提出も免除されている。それくらいはさせて欲しかった。というか休暇にしないで欲しかったが、説得しきれなかったので終わった話だった。ルルクはもちろん、そこそこの勢いでごねたのだが。素直に休まないと見るや、ソキが即座にアリシアを呼んでしまったので、そこで全てが終わったのだった。
うーん、と呻きながら丁寧に作られたパフェを口に運ぶ。新鮮な桃が飾られた最上部、その次は生クリームにバニラのアイスクリーム。ひんやりとした香りが漂う桃とミントのゼリーに、角切り桃の紅茶煮。滑らかで甘い桃シャーベットに、ざっくりと砕かれた焼き菓子。最後にまた、最初のものとは品種が違う生の桃。というかこれ、素材ごとに桃の種類が違うな、と思い、ルルクはふかぁく息を吐きだした。おいしい。働きたい。おいしい。なにかしてたい。とてもおいしい。おいしくて元気になったので休暇とかいうのはなんとか、なんとかこう、なかったことにならないものか。
分かっている。ロゼアが不在の折、ルルクが熱を出したのがいけないのである。あれさえなければ、大丈夫時間を見つけて適当に休んでいたから、など言って押し通せたのに。ルルクが熱でソキの傍を離れていたことは、どうしようもない事実だった。こんなことならソキが回復した今日の朝にでも、すぐ、数日の休みを申し出ればよかった、と後悔する。自主的なソキのお世話休みなら、その間になにをしていようとルルクの自由である。そもそも、ソキの世話は義務でもなんでもない、ルルクの余暇の趣味である。『お屋敷』の講習を受けている分、半ば義務的な趣をもって周囲に受け入れられているが、それ以上でも以下でもない。
けれどもその半分くらいの義務感が、ルルクには心地よくてちょうど良かった。魔術師のたまごとして授業を受けて、勉強をして、予習復習をして、ソキの世話に頭を使って体を使ってあちこち走り回って、最近はずっと出てきてくれているアリシアの周りをちょろちょろして時にはその世話をして、狂宴部と夢と浪漫部と説明部の活動をして、儀式準備部にも顔を出して、最近はそこに自治会の活動も加わった。ちょっと組み立てが甘かったな、とルルクは眉を寄せる。睡眠時間の確保が甘くなっていた。ふ、と思わず口を綻ばせて、桃と蜜柑の一口タルトを頬張る。瑞々しくて甘くて、意外とさっぱりとしていてとても美味しい。
「とりあえず、急務が睡眠時間の確保として……どこをどう組み立てれば……? うーん……。一日を三十六時間に延ばすか、さもなくば私が倍速くらいで処理できるようになるか、かなぁ……」
倍速処理ができるようになれば、自然と睡眠時間は戻ってくるのである。寮長が戻ってきたので、自治会の活動がこの先どうなっていくかは分からないが、もし増えるとするなら処理速度を速めておくのは良いことに思われた。タルトを飲み込んで、ルルクはよし、と意気込んだ。
「頑張ろう! いけるいける! やればできるー!」
「……ルルク?」
「あっ、違うのアリシア。違うの、違うの……! や、休むから。今日はちゃんと、その、なにもしないで、休むから……」
ロゼアとソキがアリシアと相談したルルクの休暇は、ソキの世話のみに留まらなかった。授業開始までの数日を、どうルルクを休ませるか、という本人を目の前にしたつらい会議は、口を挟む間もなく『とりあえず全部ダメ』という結論で終わってしまった。ソキの世話も、アリシアに構うのも、授業の予習復習も、部活動も自治会も。ありとあらゆる全てである。えぇえええええやだぁああああぁああっ、と叫んだルルクに、アリシアはにこ、と笑った。怒っている時の笑顔だった。ひえ、と背筋を伸ばしたルルクに、アリシアはいい子ね、と穏やかに微笑んだ。ルルクの一切の反論を許さない表情だった。
アリシアはそのまま身を翻すと、自治会と各部活動に、ルルク完全休暇のお知らせに行っていたのだった。食堂に連れてこられたのは、談話室と同じくらい人目があり、食べ物と飲み物があり、仕事が発生しようがない場所だからである。談話室よりも声がかかりにくい、と踏まれたのだった。アリシアの判断がどんどん的確になっていくよぉ、と内心でさめざめと泣きながら、ルルクは両手をそろりと降参の形にあげる。ええと、あのね、と隣に腰かけたアリシアに、そろそろと視線を向けた。
「い、いまのは、その……。私の組み立ての甘さを反省して改善しようとしていたのであって、決して休暇を返上してあれこれしようと思っていた訳ではなくてね……? や、やや、やすむ、休むから!」
「……なにもしないで、ゆっくりお昼寝をしましょうね」
よく眠るように、保健室の白魔術師さんにも言われていた筈でしょう、と囁かれて、ルルクは視線を逸らしながら頷いた。だから、睡眠時間の確保をなんとか頑張っていたのだが。三十分増やしたくらいでは、回復に届かなかった、というだけのことである。えぇんアリシアぁ、と甘えた声で上目遣いに見上げれば、にこ、と笑い返されたのでルルクは悟った。だめだこれまだめちゃくちゃ怒ってる。
「大丈夫よ、ルルク。部活も自治会もなにもかも、ルルクには決して用事を言いつけないようにお願いしてきたし、担当教員の方にも事情をお話ししておきましたからね。まぁ、あなた、宿題は終わっているし、予習も復習も十分しているもの。授業は大丈夫よ」
「あ、アリシア、仕事ができる……。すごいね……」
「ありがとう。だからね、ルルク。安心して、たくさん、休みましょうね」
傍で見ていてあげますからね、と告げられて。にこ、と笑われたので、ルルクは視線を逸らしたまま、か細い声で、はい、と言った。はい、以外の発言は許されない気配がしたからである。アリシアはいい子ね、と囁くと、食べたのなら行きましょうか、と言って椅子から立ち上がる。はぁい、としおしおしながらついていくルルクに、ため息交じりの小さな声が届いた。
「もう……。こんなに勤勉だったかしら……? 働きすぎ、だなんて……」
視線をアリシアの横顔に戻して、ルルクはごめんね、と声に出さずに囁いた。ごめんねアリシア。アリシアには教えてあげられない。アリシアには知られたくないことで、ごめんね。でも。動き回っていたい。そうしていたいという気持ちが、ルルクの中にはずっとある。ルルクは、意識してす、と息を吸い込んだ。わざとらしく、弾んだ声で言ってみる。
「ええと、じゃあ、いっぱいお昼寝しようかな!」
「ふふ。眠る気持ちになってきた?」
「もちろん! アリシア、心配かけてごめんね。ちゃんと眠るから、心配しないでね。……えっと、それで、それでね?」
なぁに、と先に立って歩きながら、やんわりとした視線が振り返る。それに心からの笑みを向けながら、ルルクは一応なんだけどね、とそれを確認しておくことにした。
「アリシアの、いっぱいのお昼寝って、何時間から?」
「……ルルク」
「ひっ! えっ、な、なんで? なんで怒っ……! だって見解の相違があると困るなって! に、二時間くらい? 二時間半? そ、それとももっと……?」
ぷるるる、と震えるルルクに、アリシアはにこ、と笑った。無言で腕をひっつかみ、早足で廊下を歩いていく。あーっ、なんかこれ怒られるやつじゃないのなんでぇえええぇええっ、と悲鳴がだんだんと遠ざかって行くのに、食堂ではいくつもの視線が交わされて。いや今のはルルクが悪いよね、という意見の一致で、つつがなく平和に終了した。
ロゼアが独房にいた間の睡眠時間が初日からの三日間が四時間、残りの七日間は四時間半、戻ってきてからの三週間を五時間で回していたことがアリシアにばれ、ルルクは泣いてもうしませんと魔術的な誓いを立てるまで延々と怒られた。途中で事情を知って顔を出しに来たロゼアが、本当にご迷惑をおかけして、と取り成してくれようとしたのだが。あなたがそうせよと言ったのではないでしょう、と微笑むアリシアに、ロゼアは十分な謝罪を重ねたのち、すっと気配を消して去っていった。それ以上ルルクを助けてはくれなさそうだった。ロゼアくん年上のつよくてこわいお姉さんに対して結構すごくそういうとこある、と天を仰いでさめざめと泣いた。
ソキ本人にアリシアの怒りが向かなかったのは、本人が熱を出して意識も戻さないで寝込んでいるからという事情がある上で、わりと依怙贔屓して可愛がっている後輩だから、という理由に他ならない。差別だ、とめそめそと抗議するルルクに、アリシアはにこにこ笑いながらそんなことはないわ、と言った。言い切った。
「それに、ロゼアくんにも言ったけれど。ソキちゃんがそうして欲しい、と言ったのではないでしょう? あなた、自分で考えて自分で決めて、わたしに相談のひとつもなしに、わたしにバレたら辞めさせられるから、わたしに分からないようにして、やっていたのでしょう? そうでしょう? ルルク」
「……た……大変申し訳ございません……その通りです……」
「あの時、あなたが動いてくれたから、皆が助かったのは事実よ。あなたにたくさん頼ってしまった。頼りすぎてしまったのに、薄々それに気が付きながら、あなたが元気に振る舞うから、あなたがとうとう熱を出して倒れるまで、わたしたちはそれを見ないふりをしていた。……私が怒れることではないわ。私にも責任がある。それは、分かっています。でもね?」
やや冷静さを取り戻した声で。深く息を吸って。アリシアは寝台の上でしおしおとしおれるルルクに、にこ、と笑いかけた。
「私にまで嘘をついて頼らなかったことを怒っているのよ分かって頂戴ね?」
「う、嘘ついたんじゃないもん」
「うまく誤魔化して、勘違いされるような言い回しで乗り切ろうとしたことに怒っているのよ、ルルク。分かりましょうね?」
再び、はい、以外の言葉を許されず、ルルクはぷるぷると震えて頷いた。よろしい、とアリシアは鷹揚な仕草で頷いた。
「さ、お説教はここまでにしましょう。おやすみなさい、ルルク。お昼寝すると言っていたでしょう?」
「えっ。えっと……も、もうそろそろ夕方だし、起きてたらだめ? 今寝ると、その、夜に眠れなくなると思うし……」
「安心しなさいね、ルルク」
カン、と音を立てて、アリシアが寝台側の小机にちいさな瓶を置いた。そろり、とルルクの視線がそれを確認する。睡眠薬である。ひっ、と悲鳴をあげるルルクに、アリシアは重ねて言った。安心しなさいね、ルルク。
「眠れなかったらこれを飲んでもよい、と保険医の先生が仰ってくださったわ。数日続けての服用も可能だそうよ」
「そっ、そんな、そんなにたくさん寝たら体が鈍っちゃう……!」
「体が鈍る前に体を壊してどうするというの今から飲ませても構わないのよ」
ねます、とルルクは震えながら言った。はいよろしい、とアリシアはにこにこしながら睡眠薬を回収し、常に持ち歩いているポシェットへ仕舞い込む。置いておくと、ルルクが回収してどこかへやってしまう、と思っている動きだった。正しい。
「……大丈夫よ、ルルク。横になって。目を閉じて、静かにしていなさいな」
「はぁい……」
もすん、と横になって枕に頭を預ける。ふわふわもちもちで、ハーブのいい匂いがした。アリシアいい枕使ってるねぇ、と目を閉じたまま関心すると、ふふ、とちいさな笑い声が傍でする。寝台の横に椅子を置き、そこへ腰かけたまま、動かないでいるようだった。そろ、と目を開いて様子を見る。膝の上には使い古した手帳を広げ、鉛筆がそこへなにかを描きこんでいた。職人の顔をしていた。うれしくて、うっとり目を細めるルルクに、眠りなさいな、と咎めることはなく。好きにさせてやりながら、アリシアはルルクの体に布団をかけてやる。ぽんぽん、と肩のあたりをたたいて、髪をなでて、椅子に座りなおす。
ぽそ、と声が向けられた。
「おしごと?」
「ええ。……昔なじみの方から、すこしね」
「そっか。……ふふ、うれしいねぇ」
アリシア本人より、よほど嬉しそうな顔をして。うふふ、と笑うルルクに、アリシアはそうね、と微笑んだ。ぽつ、ぽつ、こそり。途切れ途切れ、ゆっくり、言葉が交わされる。しばらくして、アリシアは手元に置いていた灯篭の明かりを、すこし弱く、暗くした。部屋には寝息が響いている。翌朝まで、アリシアはルルクを起こさなかった。
健康にされちゃうよぅ、と食堂で嘆くルルクの正面に腰を下ろし、ロゼアはなによりですと神妙に告げた。すこしばかり早い朝の時間である。これからの混雑を予想させる、息を吹き返していくような朝日とざわめきの中、ロゼアはいただきますと丁寧に告げてパンを手に取った。ううぅ、と意味の分からない焦燥に身を焼かれながら、ルルクはのろのろと視線を持ち上げてロゼアに向け、見慣れないなぁ、と思う。その傍らに、ソキの姿がないからである。ソキちゃんどうしたのと問えば、ロゼアはにっこりと笑い、丁寧な仕草で手のひらを泳がせる。す、と示されたのは、一つ離れた隣の机。
ソキは、なぜかそちらに座っていた。あっルルク先輩おはようございますでしょお休みですからねぇおやすみーですからねぇー、とお姉さんぶって言い聞かせてくる声は、なにやら気合に満ちている。うーんよく分かんないなぁ、と思ったので、ルルクは素直に聞くことにした。
「ロゼアくん。ソキちゃんなにしてるの? ひとりだち?」
「違いますよ。これからアリシアさんと打ち合わせなんだよな、ソキ」
「そうなんですよぉ。ルルク先輩をいっぱいお休みさせちゃう大作戦なんでぇ、ロゼアちゃんはルルク先輩がどっか行かないように捕まえておく役目をお願いしているです。ルルク先輩がお休みを得意じゃないって、アリシア先輩が心配してたですからぁ、ソキも責任を感じているですしぃ、ソキはお休みするの得意なんでぇ。リボンちゃんも、それがいいわそうしなさいって言ってたんでぇ」
なーるほどなぁー、初手から退路断たれてるの容赦とか感じないなー、と思いながら、ルルクは視線を天井付近へ持ち上げた。ソキの花妖精は、どうして、と言いたげなルルクの視線を嫌そうに受け止め、しっし、と手を振ってその意識を振り払った。あぁあ、と呻いていると、朝食を取りに行っていたアリシアが戻ってくる。あら、と不思議そうな呟きからすると、どうも話は通っていないらしかった。おはようございますですぅー、とご機嫌なソキの声が、ほよふよと響いていく。
「アリシアせんぱい。ソキねぇちょっとおはなしと、ご相談があるんでぇ、こっち座ってくださいですよ。ルルク先輩は、逃げないようにロゼアちゃんにお願いしておいたです。ねぇー?」
「うん。……抵抗しないで休まれてください。睡眠時間、五時間は俺だってしませんよ」
「いやそれはそのなんていうかやんごとない理由があってえぇえ……。えぇえ、嘘、アリシアそっち座っちゃうの……? わ、私は今日の朝だってアリシアにいい子判定をもらえたくらい健康的に寝こけていた訳なんだけど……? 打ち合わせとかそういうのいらなくない? あ、アリシア、アリシアぁ……!」
やだぁあ隣に座ってよとなりーっ、と騒ぐルルクに笑顔で頷いて、アリシアは椅子を引いて腰かけた。隣の机に。
「ありがとうね、ソキちゃん。ルルクのことを心配してくれて。お話と、相談? ふふ、なぁに? ……ルルク。ご飯を食べながら騒がないの」
「ううぅうぅ三歳女児みたいな注意をされた……。つらい……」
「……もしかして食欲がないんですか?」
ロゼアの言葉に、ぴた、と机を囲む者たちが動きを止めた。三人にいっせいに見つめられて、ルルクは私は無罪だからぁっ、と声をあげる。
「アリシアが戻ってくるの待ってただけです! いただきます! わー、おなかすいたなー! おいしそー!」
「あやしみ……あやしみを感じるです……。これはなにか、ごまかそうとしているのでは……? もしやお熱があったり、だるかったりするのではないです……? いつもよりちょっとご飯の量がすくない気がするですし……むむむ」
「アリシア先輩。朝の検温はされました?」
なんで本人じゃなくてアリシアに聞くんだろう、と思っていることを全面に表に出す表情をしながら、ルルクはいや熱ないから、と即答した。はい、そうですね、とロゼアが微笑む。全然信じていない時の、はいそうですね、だった。ルルクは再び、今度は真顔で、いや熱ないから、と言い放ち、視線をすっとそらして朝食に手を伸ばした。やましいとかそういうことではなくちょっとした、そうちょっとした気分とかそういうことで視線を合わせておきたくないだけであって、熱がある訳ではないのである。もぐもぐもぐ、と普段と変わらない調子で食事し始めたルルクをじっと見つめ、ロゼアがうぅん、と判断に困っている声で首を傾げた。
「どうなのかな……。アリシア先輩、本当に申し訳ありません……。忙しくされていたのは、もちろん知っていたのですが……」
「いいのよ、ロゼアくんは悪くないでしょう? ソキちゃんも。ルルクがなぜか、用事に用事を詰め込んで、ちゃんと休んでいるふりをしていただけだもの。反省しているし、今後はもうしないのよね? ルルク?」
視線をそらし切ったまま、ルルクは神妙に頷いた。三人分の視線が向けられる。もぐもぐもぐ、とパンを頬張りながら、ルルクは今日もお母さんのパンはおいしいなぁ、と思った。現実逃避である。しかし逃げ切れないことは分かっていた。しぶしぶ、口を開いてちゃんと返事をする。
「はぁい……。しません。……しません。しないったらぁ……!」
「アリシア先輩。解釈の余地がないように整えた文面で、署名させた方が良いと思います。よろしければ、文面の用意は手伝わせてください」
「むむむ? なにか、不自然に、視線をそらされているような? あやしみー、ですぅー。これはもう、早くおやすみなさいをしないといけないでしょ! あのねぇアリシア先輩ソキいっしょけんめ、考えたんですけどねぇ。おやすみのね?」
アリシアは楚々とした笑みでロゼアに文面の用意を頼み、ソキがふわふわ話し出すのに相槌を打った。そのまま、二人がこしょこしょ、ぽそぽそと響かない声で相談しだすのを横目で眺め、ルルクは臓腑の底から息を吐きだした。
「いや本当にそんな深刻にしないで欲しいのだけれど……?」
「……負担をかけすぎてしまっていたことに、申し訳なく思っているので」
「ありがとう気にしないで大丈夫。申し訳なく思われているのは本当だって感じるのに、だから逃げられると思わないでくださいね? って圧をかけられているのはどうしてかな? 気のせいかな? 気のせいじゃないねるっるー! わぁいなんか逆に楽しくなってきちゃったな! 踊っちゃおうかな!」
ルルク、と隣から静かな声で制止される。
「いい子だから、踊るのは食事が終わったらにしましょうね」
「あれなんだろう不思議だな……? 私もしかして三歳女児だったかな……? 急に辛くなってきちゃったな……?」
「情緒が不安定です。ゆゆしきことでは?」
むむむ、と訝しむソキに、ルルクはいつも通りだよー、と両手でピースを作って主張する。それでも視線は逸れていた。視線が合うと負けだとでも思いこんでいるような、頑ななものさえ感じさせる逸らし方だった。正面のロゼアが、いやもうこれ一服盛って鎮静させたり昏睡させた方がいいのではないだろうか、という検討に入った気配を察し、ルルクは朝食を終えてにっこりと笑う。
「ごちそうさまでした。わぁ! おなかいっぱいになったら眠たくなっちゃった! お部屋に帰って眠りたいなー」
「ルルク先輩、もうなにも言わないでいるのが一番だと思います。怪しい」
「怪しまれて悲しい。冤罪ってこうして作られていくんだな、の気持ち」
まあいいでしょう、とロゼアが息を吐く。自主的に休もうとするのなら、それを優先させよう、とする判断だった。やや慌てて朝食を食べ終えたアリシアが、椅子から立ち上がってソキを見る。それじゃあね、ありがとうね、と告げられて、ソキは満面の笑みできゃっきゃと手を振ってお見送りをする。おやすみなさいですぅー、と念押しするような声で見送られて、ルルクはその手にひらりと、指先だけを動かして振り替えした。その背が食堂から出ていき、見えなくなるまで。ずっと、視線は合わないままだった。
すとん、と高所から地に降り立つような、まっすぐな凛々しさでルルクはよく眠った。朝食を食べて宣言通りにすぐ眠り、昼前にぽやぽやと起き、昼食を食べたらまた眠る。次に起きたのは普段なら夕食を食べている時間のこと。ルルクはアリシアに手を引かれて先に湯を済ませ、普段より人気のない食堂で、もくもくと素直にご飯を頬張った。好物ばかりを並べ、にこにこしながらおいしいねぇ、と食べ進める姿に、アリシアはようやくほっとしたようだった。明日もし起きていられたら、すこし一緒に散歩したり、部屋の中で動かないで出来ることをしましょうね、と囁かれて、ルルクは素直にはぁい、と言った。
「でもアリシア、依頼のお仕事あるんでしょう? 邪魔しないでいるから、それ進めてていいよ。……宿題とか終わってる? 授業に出る準備した?」
わーい出来る授業に全部出ちゃうぞぉーっ、という張りきった馬鹿の予定を組んだルルクと違い、アリシアはまず、昨年もあまり授業に参加していない。ソキのような特殊事情があって共通学習を免除されたのではなく、学びそのものを若干拒否して、部屋に引きこもっていた為だ。真剣かつ精力的に学んでいる分、ロゼアやソキの方が先に進んでいる科目もあるだろう。今年はでも、ちゃんとするって言ってたもんね、と嬉しそうにするルルクに、アリシアは苦笑して頷いた。
「ええ、とりあえずは、ね。……先生に相談して、もう一度最初から学びなおさせて頂くことにしたの。全部、基礎から。……この一年で、三年分くらい一気に進めるから、大変だろうけど、頑張ろうねって仰っていただけたわ」
「わぁ……。大丈夫? それ、靴の依頼受ける時間とか、あったの……?」
「魔力制御のなによりの糧になるだろうから、ぜひ、と先生が。……思うほど、無理を重ねられている訳ではないのよ、ルルク。一度は勉強したことですもの」
アリシアが『学園』に迎えられてから、数ヵ月後の夏至で、もう七年になる。同じ年月を重ねた者へ追いつくには、この一年では到底叶わないだろう。私がもし『学園』を卒業することになっても、随分後になると思うわ、と囁いて、アリシアはルルクを見た。
「……分からない所があったら、教えてくれる?」
「もちろん! もちろん、もちろんだよ……! えっ、わくわくしてきちゃった。えへへ、なんでも聞いてね」
「ありがとう。……私は焦らないわ。焦っても追いつけない。そんな気持ちだけでは届かない場所にいるのだもの。だからね、ルルク」
あなたも焦ってはだめよ、とアリシアは言った。んー、と言葉を濁してルルクは水をひとくち飲んだ。たぶん、とルルクは思う。焦る、とはすこし違うことだと分かっていて、アリシアはそう言っている。どうして、とは聞かず。どうして、とも言わせようとしないでいるのは、ルルクが嫌がっていると察しているからだ。その代わり、めちゃくちゃ眠らせて休ませようとしてくるだけで。うー、と唸った後、ルルクはぺしょりと机に身を伏せた。視線だけ持ち上げて、アリシアを見る。ルルクの旦那さまは、その視線を受け止めて、にこ、と笑った。だめだまだめちゃくちゃ怒ってて全然許してくれてないやつだ、と理解する。
「……焦って、うん、物事を進めたりは、うん……。し、しな……しませ、ん……。しない、ように、するね」
「ええ。そうしましょうね。……全部食べられそう? 無理しないのよ。今日は早めに眠りましょうね」
はぁい、とルルクは諦めの濃い返事をした。一日眠っていたせいで、頭の奥の重たい疲労はなくなっている。それでも、ふぁ、とあくびは出た。今日も泊まって行きなさいな、とくすくす笑うアリシアに、ルルクは甘えた気持ちで頷いた。アリシアの部屋は書物と乾いたハーブと、動物の皮とそれを手入れする道具の匂いが漂っている。それはルルクがずっと幼い頃から、傍らにあった。突然奪われてしまうその日まで、ずっと。もぐもぐといつもより多めの夕食を終え、ルルクは満たされた気持ちでアリシアを呼ぶ。なに、とすぐ返される声に、安堵しながら大好き、と告げる。私もよ、とアリシアが囁く。
ん、と頷いて、ルルクはアリシアと手を繋いで立ち上がった。
「明日ね、明日、アリシアのお仕事みながら本を読む……」
「……いいけど、難しい専門書以外にしなさいね」
「ううぅ……。なんかソキちゃんが好きな絵本とか、そういうの貸してもらう……それならいい?」
それなら、と無事に許可が出たので、ルルクはアリシアの肩あたりにうりうりと額を擦り付けた。なぁに、猫みたい、とアリシアが笑う。さらさらと前髪を整える指先は、すこし硬くて荒れていた。目を閉じて、その硬さを記憶する。これを取り戻すのに。この人を、その傍を、取り戻すのに。ルルクは六年以上かかった。ソキちゃんはすごいねぇ、と自嘲気味に呟くルルクに、アリシアはなにも問わず。そうね、とだけ答えて。眠る為にルルクの手を引いて、廊下をゆっくりと歩き出した。
数日を、ルルクは殆ど眠って過ごした。体が鈍らないように間に柔軟と軽い運動をし、作業に没頭してしまうアリシアの手を引いて散歩に連れ出す。アリシアはたまに、どうして私が散歩させられているのかしら、という解せない顔をしていたが、ルルクがにこにこと楽しそうなのでよしとしたのだろう。苦笑ひとつで受け入れて、『学園』を穏やかに散策した。新年度からアリシアが授業に出てくることと、ルルクがなにもしない休暇を過ごしているのは、それなりに流布された情報であるらしく、二人は時折、声をかけられた。無理しないでね、というささやかな祈りの声。あんまり根詰めないようにね、という心配の声。
そのどれにもアリシアはありがとうと微笑み、ルルクはやや拗ねた声ではぁいと返した。ソキはロゼアを連れてちょこちょこと様子を見に来ては、額をごちんと重ねてルルクの熱を測り。なぜか不満そうに平熱ですぅと呟いては、頬をうりうりと擦り付けた。ロゼアは忘れず、あとはルルクの署名だけとなった誓約書をアリシアに差し出した。アリシアは苦笑しながらも受け取り、また次にしたらほんとうにこれですからね、と言って、無記名の誓約書を壁に貼り付けた。ルルクは視線を逸らしながらはぁいと言って、その紙がなんらかの手違いで燃えたり消滅したりしますように、と心で祈って口にも出した。
穏やかに、降り積もるように数日が過ぎる。ルルクがそこから抜け出したのは、『学園』の授業再開を二日後に控えた、なまぬるい午後のことだった。一日の半分以上の睡眠と、たっぷりの食事で、ルルクの体調が改善したと見做された為である。『お屋敷』にも顔を出してくるといいですよ、というロゼアの言葉はなんらかの裏を感じさせたのだが、ルルクもその場所に用事があった。警戒しながらそろそろと顔を出すと、無理をしたと聞きましたよ、と講義の教員がルルクの頬を手で包んで顔を覗き込み、それでいて説教などはせず、頼れる人を頼りなさいね、と言い聞かせた。
悩みがあるなら、とか。困っているのであれば、だとか。そういうことは言われなかった。ルルクが素直に、はい、と返事をしたのはその為だった。アリシアには秘めロゼアには誤魔化しソキには有耶無耶にしたことを、理解されているのなら隠せることでもない。今回の騒動がなくとも、元より分かられていたようだった。ロゼアはソキの世話役的な観点から、逆にそれに気が付きはしなかったようだが。『お屋敷』がルルクに勧めた講習は、どれも中距離、遠距離の武力を底上げするもの。それは防衛より攻撃に偏っていた。至近距離の為の護身術は、制圧ではなく安全に逃げ出す為のもの、として教わった。
何度でも、何度でも。危機から抜け出し、距離を取り、それを保ったままで相手を制圧する。体がそれを覚えるまで。何度でも、何度でも、繰り返し。『お屋敷』がルルクに与えたのは、そういう技術、そういう知識だった。だからルルクは、ロゼアが寮長にしたようなことはできない。これからも、できないでいる。休んだなら安心していきなさいな、と『お屋敷』から帰る前にささやかれ、ルルクは訓練場に顔を出した。ちいさなナイフは数メートル先の的の中心を貫通し、講師はひとしきり爆笑してから、もう一回、とルルクに武器を握らせた。もう一度。投げたナイフは、やはり中心へ突き刺さった。貫通はしなかった。
講師はよろしい、とルルクを褒めた。必要だったら使いなさい、と紹介状めいた書類を一枚、封書にして渡し、お戻り、と背を押した。ルルクはしっかりと頭をさげて『お屋敷』を後にし、砂漠の城へ足を踏み入れた。向かったのは砂漠の筆頭の執務室。ちょっとお時間頂けますか、とあらかじめ申し出ていたからか、筆頭は待ち構えていた穏やかさでルルクを迎え、どうだった、と『お屋敷』の話を聞きたがった。ルルクは無言で渡されたばかりの封書を渡し、席についてお茶を飲む。暖かいミントティーだ。それはいましがた行ってきた場所で口にしたのと、まったく同じ味がした。
ふふ、と堪えきれない笑い声がする。
「すごいね。頑張ってる」
「……ありがとうございます」
「それで? ソキにめっ、てされたと聞いているけど、そういうお話かな?」
話が早くてなによりである。どこから情報得たんですか、という疑問は聞く前に消滅した。楽しそうな筆頭の肩の上で、申し訳なさそうにふしゅりとつぶれる、ましろいひかりがぺかぺかと光っていたからである。どうも『学園』で見る機会はないのだが、そこそこの頻度でソキの様子を見に来ているらしいましろいひかりが、ジェイドの謎の情報網を支えているとして間違いはないだろう。まぁ盗聴ではないし、ぎりぎりそれに当てはまらないし、と思いながら、ルルクは首を横に振った。
「『学園』在学時代、すさまじい忙しさだったと聞いているので。どうやりこなしていたか参考にお聞きしたくて」
「……なるほど」
ぴかかっ、と光ったましろいひかりを指先で撫でながら、ジェイドが面白そうに目を細める。ましろいひかりの感情やら、言いたいことは、ソキなら大体理解できるそうなのだが。あいにくルルクはそこまでではなく、ジェイドも似たようなものであるらしい。よしよし、と撫でる指先に、ふるふるしながらすり寄るましろいひかりは、やんわりとした明滅を繰り返していた。
「やっぱり途中で睡眠時間確保の指導が入ったけど、聞いた分、ルルクの方が上手に取りまわしていると思うよ」
「えぇ……。なんかこう、ないんですか? 体感時間を二倍に引き延ばす集中術とか、情報処理速度を上げる為のコツとか……」
「俺のは成長期と、シュニーへの恋で加速をかけてただけだから。やっても真似できないよ」
ルルクが求めたことに対して、方法がない、とは言わず。ジェイドは苦笑して、やんわりと首を傾げてみせた。困ったな、という柔らかな色香。それはやはり、『花婿』めいている。ルルク、と静かな声が響かずに名を呼ぶ。
「必要なのはでも、そういうことじゃないよね。……自分でも分かってるんだから、聞きたいこと聞いていいよ」
はー、とルルクは深く息を吐きだした。数日、眠りに眠ったせいで冴えた頭が、逆に言葉を中々持って来ない。はく、と言葉なく口が動き、視線が揺れ動く。やがて、ルルクはまっすぐに砂漠の筆頭を見た。視線が重なる。
「だって……だって、もう、出来るって分かっちゃったじゃないですか」
「うん」
「我慢できないとか、したくてたまらない、とかじゃなくて」
うん、とジェイドは柔らかく繰り返した。穏やかに細められた黒色の瞳が、共感をたたえてルルクを見ていた。はく、はく、口を動かして、言葉を探して。とうとう逃げられなくなって。ルルクは顔を手で覆って視線を遮り、その言葉を世界に差し出した。
「復讐できると思った時、しなかったのはなんでですか」
「……例えば?」
「ジェイドさんすごい色々いっぱいあるじゃないですか……」
絞りだされた呻き声に、ジェイドはあはは、と声をあげて笑った。あははではないが、という虚ろな視線が向けられる。それに心からの穏やかさで、ジェイドは柔らかく笑いかけた。
「俺は別に、まだしてないだけだよ?」
「なーるほーどなー……? ……いやどうやって思い留まってるんですか」
「なるべくそのことを考えないようにして、どうしても思い出しちゃった時にだけ、でも罪に問われるんだよな……ずっと隠蔽工作とかするの手間だな……その手間って爽快感に見合うかな……見合っちゃうな……! って思考をずらして我慢する」
いやそれ最後我慢できてないですよねぇ、と悲鳴をあげるルルクに、ジェイドはあはは、とまた笑った。
「まあ、めんどくさいな、と思うのが一番だよ。復讐するの、罪に問われてめんどくさい。めんどくさいけど楽しそう。でもなぁー、めんどくさいなー」
「うふふうふふふふ! めんどくさいって思いきれてないことあるんだな、という不安でいっぱいになってるんですが……! くっ……! そ、そのめんどくささを乗り越えられそうになった時はっ?」
「なにか別の幸せで上書きする」
関係ないことの方がいいよ、とジェイドは言った。書き損じの申請書を折って飛ばしたり、整理整頓された本棚の順番をひとつずつずらしたり、おいしいご飯を食べたり、と指折り数えられて、ルルクは無言で床に視線を落とした。よく飛ぶように折られた紙が、床にぽとぽとと落ちている。今日はあと友達とご飯食べに行くよ、とうきうきした口調で教えられて、ルルクはなるほどな、と頷いた。
「幸せなことが思い浮かばなくなったら?」
「睡眠薬でも飲んで寝るといいよ」
「物理かぁー……。いやでも、なんか寝ると遠ざかるな? というのは、ちょっと……ちょっと感じてはいました……」
あれ不思議だよねぇ、と砂漠の筆頭はしみじみと頷いて、おもむろに紙を一枚手元まで引き寄せた。慣れた仕草はどこか丁寧に、一枚の紙を立体的に追っていく。す、と空を飛ばされた紙はまっすぐに上昇し、すぐに不安定に、ぽとりと床へ落ちてしまった。それをなんとなく眺め、ルルクは考えるともなしに言う。
「だってなんか、のうのうと生きてられると思うと腹が立つじゃないですか」
「うん」
「でもそんなことで機嫌悪くなるのも嫌だし、でもなんか、なんか……。ああ、私もう、やられっぱなしじゃなくて、ロゼアくんが寮長にしたみたいには出来ないだけで、たぶん……殺せるんだな、と思ったらめちゃくちゃ心が軽くなってしまって……多幸感があり……これはヤバいと思うじゃないですか……。とりあえず意識が落ちる限界までなんかやることを詰め込んで意識を逸らすしか踏みとどまれなくて……でもなんか、なんか、ひとには、言えない、し」
うん、と砂漠の筆頭は頷いた。床に視線を落としたまま、ぼぅっとするルルクは、その返事に気が抜けたように笑った。ルルクはかつての長期休暇で、魔力を持たぬ人に重傷、半ば死傷を与えるという事件を起こした。それが重罪にならなかったのは、防衛行為であることがはっきりしていたからだ。ルルクは深夜、実家の工房へ押し入ってきた三人組の男に襲われた。強盗殺人未遂事件、とされている。ルルクは詳細を語らなかった。ただ、男たちに抵抗し、それだけではなく己の中の殺意を認め切った。ルルクを診察、保護した白魔術師は、その身が穢されてはいなかった、と口を揃えて証言した。
相手を殺すつもりでルルクが抵抗したから。騒ぎに気が付いた家族が、王宮魔術師に繋がる緊急連絡を飛ばして、それが間に合ったから。ただ、それらの幸運が重なったからだ、と。白魔術師たちは証言した。そして、その者たちはルルクが魔術師のたまごであったからこそ、大きな罪に問われることはなく。いまも街で暮らしている。はぁあー、と長く息を吐きだして、ルルクは机に身を伏せたまま、じたばたと手足を動かした。
「しんどーい! アリシアには絶対バレる訳にはいかないから相談とかもできないし! そしてソキちゃんにうっかりバレようものなら、なんていうか確定で超絶はりきって応援してくれそうっていうか! ととととんでもないことですうぅうう! ソキがなんとか消してあげる! ってヤバい権力使ってくれちゃいそうな気がしてるし!」
「あはは。そのソキ、ちょっと普段より獰猛じゃない? でも言いそう」
「そして実際消えそうなんですよね。社会的に消えた後に物理的に消えるという二段構えで消えそう。隙のない処理」
やぁってやったですうぅうう、と得意満面、めいっぱいふんぞり返るソキの姿が、ふたりの脳裏に浮かんで消える。うん、と魔術師のたまごと、砂漠の筆頭は頷きあった。やるかやらないかで言うと、絶対にやる。
「困っちゃうよねぇ。そんなに天真爛漫に復讐に加担されたら」
「そう、そうなんですよね……。自分のことだとまだ理性で制御できる分、なんていうか、こっちの内心が万一露見した時に、それが一番困るっていうか……。私じゃ止めきれないし、ロゼアくんちゃんと止めてくれる? ほんとに? その止めるって、ソキちゃんの自主的な加担を止めるというだけのことであって、手配がロゼアくんに代わるだけのことではなく? そうだよね? わぁ、っていう予測が……立てられすぎて……。やばいと思って絶対視線合わせなかったんですけど……ヤバかった……よかったカウンセリングの予定とかねじこまれなくて……」
正確には、そういう系統の医師との面談を組まされる気配があるたび、めちゃくちゃ話題を逸らしたり突然歌ったり踊ったりして誤魔化していただけなのだが。ロゼアはよほど嫌なことだけ察したのか、要経過観察の視線だけで留めてくれたし、アリシアは仕方がないんだからとため息をついていた。なんとかなってよかった、とルルクは思う。全身全霊にして渾身の駄々をこねるところだった。
「まあ、いよいよどうしようもなくなったら相談してね。面談まで持ち込まれても、どうにか誤魔化す受け答えの方法とか教えてあげるからね」
「やったー! よろしくお願いします!」
「新鮮な憎しみの心を持ち続けるのまでは合法だからね。大丈夫だよ、ルルク」
ただしソキとロゼアに対しての懸念はまさしくその通りだと思うから、いつの間にか相手を消されたくなければもうすこし距離を置いておいた方がいいよ、と囁かれて、ルルクはそうしますと頷いた。別に消して欲しい訳ではないのである。消したいだけで。
ふぁ、とあくびをして、ルルクは『扉』から『学園』に降り立った。気分が楽になって、落ち着いているのを感じる。この調子なら落ち着ききるのに、明後日の授業開始には間に合いそうだった。あーよかった、なんとかなった、と思いながら歩いていると、廊下の向こうからロゼアとソキが歩いてくる。手元の紙をのぞき込みながら、なにか相談しているようだった。きゃらきゃらしたソキのはしゃぎ声がふわふわしている。機嫌がいいようだった。ルルクはソキちゃんロゼアくん、と声をかけようとして。ぴゅぅ、と吹いた風に、あっとソキが声をあげる。紙が飛ばされて、ちょうどルルクの方へ流れてくる。
あ、と手を伸ばしたルルクが、それを取ろうとするのと。駆け寄ってきたロゼアが、しゅっとばかりそれを回収するのは、殆ど同時のことだった。しかし、ルルクはその、掴めなかった紙の中身を目にしてしまった。なにかの一覧表ように思えた。住所録が一番近いだろう。名前と、年齢と、住所が記載されていたように思う。三人分書かれていた。その、一番上の名前には覚えがあった。あわ、あわわわわ、ととてちてやってきたソキが、はわわわわっと慌てながらロゼアの手から紙を回収し、ちまこまちまこまと折って。えいっ、と自分の服の中、胸の谷間に挟み込んで絶対取られないようにしまい込んでから、ふー、と息を吐く。
「あぶなかったです……。あっ、ルルク先輩? おかえりなさいでしょ」
「いや、そん……そんな……? そんなことある……? ソキちゃんあの、あのね、あの、お手持ちの謎の紙はなに、なにかなぁっ?」
「ふふん? なにやら、ふとうな疑いを持たれているような気が? するですぅ? ルルク先輩? 大丈夫ですよぉ」
ふんぞり返るソキを、ロゼアがひょいと抱き上げる。その腕の中で、『花嫁』は思う存分自慢げに、ふくふくとした表情で言い放った。
「なにも気にしなくていいですからね。ソキがちょいちょいのちょいで、けちょんけちょんの、くしゃくしゃの、ふにゃんにゃんにしてあげる、というやつです! でも、これはあくまで準備なんでぇ、すぐにどうこう、というものではないんでぇ」
「かつてない恐怖と不安ーっ! ちょっと待って分かった私が悪かった! 私が悪かったからまず話し合おう具体的にはその情報がどこからもたらされたのかなっていうこととかどうしてその情報に行き着いてしまったのかなとかなんていうかそういう所から!」
「安心してください、ルルク先輩。アリシア先輩はご存知ではありませんから」
そういう問題じゃない絶対そういう問題じゃないでももうそういう問題だった気がしてきたからもうそれでいいかなぁいいことにしていいかないやよくないよね思い留まって私頑張って私諦めないで私ーっ、と頭を抱えて絶叫するルルクに、ロゼアは大丈夫ですよ、と微笑みかけた。現状のなにひとつ大丈夫ではないので、ルルクは虚ろな気持ちで首を振った。ロゼアがぽんぽん、とルルクの肩を叩く。慰めないで欲しい、とルルクは思った。というかなんで慰めてもらっているんだろう、意味わからなくなってきた、と鼻をすする。ロゼアはそんなルルクに、大丈夫ですよ、と幾度か囁き、ゆっくり休んでくださいね、と言って身を翻した。
それじゃぁねー、ですぅー、とソキが身を乗り出してぱたぱたと手を振る。それにぼんやりと手を振り返して、ルルクはいやそうじゃないよねぇっ、と叫んで正気を取り戻した。即座に走り出すロゼアは振り返らなかった。ちょっとおおぉ、と叫ぶルルクに、なんだなんだと視線が向けられる。きゃふきゃふ、楽しそうなソキの笑い声が響いていく。
その日。ルルクは全身全霊にして渾身の駄々をこねた。
三月の初旬。そろそろ風の冷たさも和らぎ始めてきた、春の初めの騒動だった。
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