ソキが目を覚ましたのは、運の悪いことに、リトリアが朝食を貰いに食堂に行って帰るまでの、ほんの十分の空白のことだった。眠るソキの顔の近くでふよふよと浮いていた妖精は、閉ざされていた瞼がいつの間にか開いていることにぎょっとしたように体をのけぞらせ、慌てた様子で羽根を動かした。そうしてから、ソキ、と名を呼ぼうとした途端だった。これまで妖精が見てきたソキの動きの中で、もっとも素早く、もっとも荒々しく、もっとも慌てた様子で悲鳴をあげて起き上がった少女は、けれども熱で消耗しきった体を支えきれずに寝台に崩れてしまった。それなのにすぐ立ち上がろうともがき、その腕と足に力を込めている。
なにかから逃げようとするように、なにかを求めているように。この場を離れたい、ここではない何処かへと行きたい。いますぐに、どうしても、耐えきれない。息のつまるような意思を感じさせる姿だった。声もなく見つめてしまう妖精の前で、ソキはううぅ、と泣いているような声で呻き、腕の力だけで上半身を起こした。ぐしゃぐしゃに感情を乱して泣き叫ぶ寸前の、けれども乾いて涙もない瞳が、絶望的な意思で『どこか』を見ている。
「あ、ちゃ……!」
零れる涙の代わりのように。傷つき、したたり落ちる血液の、そのもののように。痛みも、悲しみも、苦しみも、憐憫も愛も、なにもかもが籠った叫びだった。乾いた喉で、ひきつった声で、ソキは何度も何度もその名を呼ぶ。
「ロゼアちゃん……! ロゼアちゃん、ロゼアちゃんっ、ロゼアちゃん! ……ロゼアちゃんろぜあちゃ、ろぜ……ロゼアちゃんっ!」
『……ソキ?』
「ロゼアちゃんっ! ロゼアちゃん……っ!」
ごうっ、と音を立てて室内で風が動いた。窓を叩き、鳴らし、棚の上の小物を床に叩き落とし、本棚から古書を床へ落とし、ばらばらと音を立ててページがめくられて行く。ソキが苦しそうに身をよじり、頭を腕で抱えていやいやとむずがった。叫んだ喉が引きつった音を立てて息を吸い込み、けれども告げられたのはひとつの名だけ。
「……っ、ロゼアちゃん……!」
助けを求めているのではなく、救いを期待しているのでもなく。その声ひとつで、妖精は思い知る。己の異変など、どうでもいいのだ。薄い卵の殻のような『それ』を食い破り、今まさに暴走しようとしている魔力によって、己の身がいくら荒れようとも、そんなことには興味すら向いていないのだ。意識はひとつきりを追いかけ、それだけを求めている。ソキは苦しげに息を吸い込み、何度も咳き込んで、また息を吸い込む。パン、と破裂したような音を立てて本が閉じられた。あ、と怯えるようにソキが目を見開き、妖精が魔力暴走を確信した、その時だった。
勢いよく走ってきた足音が扉の前で止まり、叩き壊すような勢いでそれを押し開く。
『リトリア……!』
「うん。任せて」
動きとは裏腹な、落ち着きはらった言葉と表情で妖精に告げ、ソキに駆け寄ったリトリアは少女に向かって両腕を伸ばした。体中に力の籠った背を抱き寄せると、ぽん、と一度だけてのひらで撫でてから、告げる。
「大丈夫。あなたの不安は、全部消えます」
「……ろぜあちゃんは?」
「ロゼアくんも、大丈夫大丈夫。……ソキちゃん、どうしたの? 怖い夢でも見た?」
悪い夢を見て飛び起きた、幼子を宥める母親のように。リトリアは寝汗で額に張り付いたソキの髪を指先で避け、そこにそぅっと顔を寄せた。額をくっつけて、甘えるように擦りつけながら、淡い花藤色の瞳でソキのことを覗きこむ。その瞳を、ソキは薄暗がりを凝視する猫のように、息をつめてじっと見つめていた。ん、と頷いて柔らかく微笑みながら、リトリアはとんとん、とソキの背を撫でてやる。そして、苦笑いをしているような声で、どこか申し訳なさそうに囁いた。
「……嫌な夢でも、見た?」
その言葉に、濃密な魔力が込められていると気がついたのは、妖精だけだっただろう。ソキの目が何度も瞬きをして、リトリアを見つめる。やがて目が眩んだようにぎゅぅと瞼を閉じたのに、リトリアはそっと息を吐きだした。室内に満ちた、荒れ狂う風の気配が、消え去る。浮かびあがっていた置物が床に落ちて割れた音を聞いて、リトリアはああ、と残念そうな声を出した。
「陶器の破片は掃除するのが大変なのに……」
『そこ? そこなの? アンタががっかりするのってそこでいいの?』
「……この部屋を元通りに掃除するのには二時間くらいかかりそうですね、ということにもガッカリしています」
室内をそろりと見回した視線が、落ち込み切った様子でへなへなと寝台へ落ちて行く。その視線がソキの外傷の有無を確かめ、ようやくほっと和んだものになった。
「……怖い夢を見て、びっくりしちゃったんですよね?」
「ろぜあちゃん、は……?」
「高い熱が出てましたから、さぞ夢見が悪かったことでしょう。体を拭いて、着替えて、朝食にしましょうね。熱はもう引いていると思いますが、頭が痛くはないですか? 喉は? 体が辛かったり、だるかったりしません? 温かい格好で、今日はまだのんびりしましょうね」
違いますですよ、そういうんじゃないですよ、と言いたげな瞳が、ゆるゆると不思議そうな輝きを宿し、やがて幼く首が傾げられる。ごめんね、と声なく動いたリトリアの唇の動きを、妖精はしっかりと見ていた。アンタそれ以上の暗示は許さないわよ、と睨みつけられて、リトリアはにっこりと笑みを深める。私だってこれ以上はやりたくもありませんよ、と吐き捨てるような意思を一瞬で覆い隠し、リトリアはうーん、と眉間にしわを寄せて考え込むソキの顔を、ひょい、と覗きこんだ。
「……やっぱりこれ、早めに解除しないとだめですね。今日、もうやっちゃいましょうね」
「……なにがです?」
「ん? 心身スッキリさせて学園に行こうねっていうお話」
さあ着替えて朝ごはん食べよう、体が動くようならお風呂入ろうか、と笑うリトリアに、ソキは訝しげな顔をしてしばらく沈黙して。なにも分からない様子で不満げな顔つきになりながらも、申し出には素直に、こくん、と頷いた。それから喉に両手を押し当て、乾いた咳を一度してから、声もなく唇を動かす。問いかけの形に囁かれた名は、血を吐くような叫びで世界に叩きつけられたそれと、全く同じものだった。
両手で白パンを持ってもきゅもきゅと食べているソキの、お風呂上がりでしっとりと濡れた髪をタオルで拭って乾かしてやりながら、リトリアは要するに、と妖精に対して解説した。
「この子にかけられている暗示は、暴走のトリガーになりえる非常に悪質なものである、ということが先程のアレで判明したんですね。やっかいなのは、暴走を引き起こす理由そのものではなく、引き金のひとつというか、きっかけを作りだすだけ、みたいな感じなのでものすごく表面的に分かりにくいし、特定されにくいっていうだけで……まあ、あそこまでむき出しの状態で荒れていれば、さすがに私でも分かりますけれど。なんです? ぬるくなった香草茶に頭から突っ込んじゃったみたいな顔してますよ」
『どんな顔よ、どんなっ!』
「ちょっと意味が分からないんだけど、みたいな顔ってことです」
はじめからそう言えばいいのよーっ、と怒って叫ぶ妖精に人生には遊び心が必要なんですよと受け答え、リトリアはもきゅもきゅもきゅ、ごくん、もきゅもきゅ、と音がしそうな仕草で白パンを食べているソキの頭から、タオルを外した。一日寝込んで食事をしていなかったソキが、それでもお腹が空いたと食欲を見せたので、厨房に頼んで作ってもらった焼きたてのパンである。小麦粉をバターとミルク、はちみつで練り上げて焼いただけの、柔らかく甘いパンは、ソキのお気に召したらしい。一心不乱にもぐもぐ頬張っているので、リトリアと妖精の会話が聞こえてもいないようだった。
飲み物もちゃんと飲みましょうね、とソキの手をつついて、マグカップを持たせる。ほんのりと暖かい香草茶は、ソキの喉へ素直に通されて行く。リトリアはそのままソキの髪を乾かしてやり、時折、妖精の質問にいくつかの言葉で答えていく。その声を、ソキは一応は認識していたが、木の葉が擦れる音や雨が落ちる音のように、言葉として認識することはない。意識がぼんやりとしていて、己というものがまだ戻っていなかったからだ。それが戻ったのは、ソキの手がことりとマグカップを机の上に置いてから。その音が響いてからだった。
ぱっと、たった今夢から覚めたような顔をして、まさしくそういう気持ちで、ソキがせわしなく辺りを見回す。
「あ、起きた」
「醒めた、の方が近いんじゃない?」
「リボンちゃん? ……リトリアさん、あの、ソキ……いま、なにしてたですか?」
なにか食べたり飲んだりした記憶はある。とてもおいしかった、と思いつつ妙な顔つきになるソキに、リトリアは記憶そこからかぁ、と苦笑した。その前に服を脱いでお風呂に入って着替えも済ませているのだが、そこは見事に抜け落ちているらしい。リトリアの暗示が体に完全に定着するまで、それくらいの時間が必要だったということだろう。ともあれ、これで暴走は完全に落ち着いたことになる。よかった、と内心胸を撫で下ろしながら、リトリアは熱が出たあとだからぼーっとしてたのかも知れませんね、と言った。
嘘を重ねることに、罪悪感などなかった。
「体調は、どうですか?」
それでも、心配する心は本当だから、言葉はするりと口から零れて行く。ソキは己の内側を探るようにすこしだけ考えたあと、大丈夫ですよ、といつも通りの声で言った。
「ソキ、元気です! ソキは丈夫なんですよ」
『アンタ、そういう戯言は丸一日意識を失って寝込まないようになってから言いなさいよ! 馬鹿っ!』
「……リボンちゃん、なに言ってるですか?」
今は朝ですよ、と訝しむソキに、妖精はじとりとリトリアを睨みつけた。暗示の悪影響が出ているとしたらお前を呪う絶対に呪詛をかけてやる、とかたい決意の籠った視線に、リトリアは背に冷たい汗を伝わせながら一歩遠ざかった。
「ね……眠っていたから、覚えていないだけですよ。きっと」
「ソキ、そんなにたくさん、眠ってたですか?」
「そうよ。熱も高かったから……もう元気だって思うかも知れないけど、もうすこし休んで行かないと」
まだ日数にも余裕があるし、慌てて移動しなくても大丈夫ですよ、と言いながらリトリアは本気で呪うことを検討し出した妖精から視線を外し、慎重にソキの様子を観察した。熱を出してしまう前の、リトリアが無理に意識を遮断させた時のことを思い出して動揺されれば、せっかく落ち着いた状態がまた波打つくらいはするかも知れないからだ。見守るリトリアに気が付く様子もなく、ソキはやや不服そうに、それでいて感情をあまり乗せない声でそっけなく、そうですか、と言って頷いた。
『……アンタが休むことを受け入れるだなんて』
引いた顔と声で言いながらも、リトリアから視線を外した妖精が、ふよふよとソキの傍に移動する。ちいさな手が熱を確かめて頬や額に触れて行くのをくすぐったげに受け入れ、ソキはちいさく息を吐きだした。
「ソキ、なんだかちょっと疲れてるですよ。そういえば」
『なんで疲れてることを思い出すのよ、アンタって子は……! 忘れてたけど、みたいなことにはならないでしょう普通、疲れとかそういうのは! これだから! アンタは! 本当に! ほんとー! にっ!』
「や、やぁ、やー! 叩かないでくださいー!」
妖精の手がぺちぺちとソキを叩くのを微笑ましい目で見つめて、リトリアは空になったマグカップと、白パンの載っていた皿を持ち上げた。
「じゃあ、妖精ちゃんも、ソキちゃんも、仲良くしていてくださいね。私、ご飯を食べて来ます。それが終わったら陛下の所に行かなければいけないので……二時間くらい留守にしますが、なにかあったら大きな声で呼んでください。あと、この部屋からは出ないでくださいね。……ごめんね? ちょっと退屈かもしれないけど、じっとしていて?」
「はーい。分かりましたですよ。ソキ、いいこで待ってます」
『ってゆーか、アンタ、寝れば? 疲れてるなら寝なさいよ。疲れてなくても眠りなさいよ。アンタ、貧弱なんだから』
この隙に体力を根本的に回復させなさい、と言う妖精に、ソキはぷうぅ、と頬を膨らませて不満げだ。膨らんだ頬を妖精がつついて、ソキは嫌そうに頭を動かしている。いじめるです、リボンちゃんすぐいじめるです、と文句をいうソキに妖精の手が伸びて、頬を摘んで引っ張っているのが見えた。あんまり苛めて可愛がらないようにしてくださいね、と言い残して、リトリアは部屋を出た。苦笑しながら廊下を歩み、厨房に食器を返してお礼の言葉を告げ、リトリアは遅い朝食をゆったりと口にした。
ソキが食べたものとは全く違う、具だくさんの野菜スープに黒パンを頬張りながら、リトリアはローブのポケットに手を突っ込み、チェーンに通された二つの指輪を取り出した。ソキがお風呂に入れて貰っている間に借りてきたものだが、無くなっていることに気がつかれなくてよかったと思う。ソキが指に付けている制御装置とは違い、これは純粋な魔力そのものに近い。簡単な言葉ひとつで、世界と世界を繋ぐ壁に穴を開ける代物だ。穀物の味がする硬いパンをゆっくりと噛みながら、リトリアは睨むように指輪に目を細め、それを指先で転がした。
「……本人の意識がない時じゃないと、だめかな」
ちっ、と舌打ちをして、リトリアは握った手の中に指輪を閉じ込める。
「アイツに頼らないといけないなんて……ウィッシュさんも、どうしてあんなヤツ……!」
忌々しい、と心から思い、リトリアは粗雑な仕草で指輪をポケットに突っ込んだ。野菜スープをひとさじすくい、口の中に突っ込む。優しい野菜の甘みに、すこしだけ心が和んだ。
かつて、この世界はもっと広かった。大戦争、と呼ばれる戦乱が終結を迎え、十年が経過したその時までは。人と魔術師たちは互いに距離を測りながらも共存し、葉の影や日溜りの中で妖精たちは歌い踊り、今では神話や物語の中でしか会えない生き物たちはどこにでもいた。世界中が神秘と魔法に満ちていた時代、世界はもっと自由で、もっと広かった。今の世界は、ひどく狭い。滅びと統合を繰り返した国は現在では五つがかろうじて名と存在を残すのみとなり、人は許された都市の中でのみ生きている。
そうなったのは、大戦争終結から十年が経過したある日、この世界が叩き割られたからだ。世界は大きさを均等にすることなく分割され、幻想の生物は『向こう側』の世界へ去って行った。その理由は現在まで伝わっているが、どれが真実とも取れず、様々なものだ。親しい友として意思を通じあわせていた魔術師たちが大戦争で散々に利用され、死んでいったことへの怒りや悲しみだとも、それにより人と同じ世界での存在を拒否したのだとも、夥しい死と血によって穢された大地に、空気に彼らの存在そのものが耐えられなかったのだとも、されている。真実は何者かの手によって幾重にも隠され、改変され、正確な形で今へ伝わることはない。
ただひとつの事実として、ひと繋がりであった広大な世界は今はなく、人が住む『こちら側の世界』があり、魔術師たちの学ぶ学園が存在する『中間区』と呼ばれる世界があり、去った者たちが住む『向こう側の世界』がある。それぞれの世界は完全に断ち切られた別個のものである、とするにはか細く繋がっていて、それでいて安易な移動を可能にはしていない。人が移動できるのは、こちら側の世界のみ。魔術師の卵となって初めて立ち入ることを許されるのでさえ、中間区のみ。その先の向こう側の世界は、そちらの住人に招かれなければ足を踏み入れることさえ許されない。そもそも、行く方法が存在していないのが通常なのだから。
世界と世界の、か細い繋がりが『接続』する唯一の日が、一年に一度存在する『夏至の日』。魔術師の卵が招かれる、入学の日である。接続は、それでもひとを愛することを諦めなかった妖精が唯一留まる星降の国の、王宮の中庭に存在する『門』からのみ行われる。そしてその『門』をくぐった者のみが、こちらの世界と中間区との自由な行き来を可能とするのだ。つまりはこちら側の世界では魔術師のみが移動を可能とするのだが、向こう側の世界の住人に、その法則は適応されない。特に、人型を持って存在する幻獣種は、向こう側の世界に住む者たちの中でも『狂い』に犯されず、どこへでも移動できる特異な存在だ。
通常、向こうの世界に去った住人が、こちらへ来ることはない。その為に世界は断ち切られたのだし、彼らにとって、すでにこちらの世界の空気は毒なのだという。死と、血と、憎しみの呪い。大戦争で死んでいった魔術師と、彼らを愛した幻獣や妖精たちの強い怒りの、それは呪いなのだという。人には聞こえないその怨嗟の唄は今も響いていて、時折、世界の穴から落ちてしまった向こう側の世界の住人の、気を狂わせてしまう。不完全に分割された世界の、不安定に現れる針の穴のようなちいさな綻びは、彼らにとって致死の罠に等しい。
彼らはこちらに、意思をもって存在することすらできない。一時間もすれば自我は失われ、見境なく破壊を続ける化物になり果てるのが結末だ。それを救う為にも、王宮魔術師は存在する。それにより一般人に被害が出る前に殺害するのも役目のうちだが、落ちてきた住人を感知し、発見し、一時間以内に向こう側へと返すのも重要な役目のひとつなのだ。一時間以内にそれを行うことは、非常に難しい。だいたいの場合は手遅れで、魔術師たちには彼らの命を終わらせることで救う手しか、残されてはいない。
幸いなのは、彼らがこちらの世界に落ちて来てしまう頻度が、決して多くはないことだろう。一年に一度、あるいは二年に一度、一体か二体が出現してしまうくらいである。魔術師たちが『仲介者』と呼ぶ、人型で存在する幻獣種を除いて。彼らは一見、ただの人、あるいは魔術師に見える。特徴的なのは総じて、非人間的なまでの美貌を誇っていることと、性格が悪いこと。莫大な魔力を持ち、世界を自由に行き来し、そしてこちらの世界の毒に犯されず、狂うこともなく存在ができること。そして、時折、気に行った魔術師と主従と守護の契約を結び、契約者を向こう側の世界へ招くこと。ウィッシュは稀有なその契約者であり、彼がソキに託した指輪は、彼の主を向こう側の世界から呼びだす為の召喚具である。
契約者が身につければ、自動的に着用者の危険に反応して仲介者を呼び出す機能もついている為、ウィッシュとしては万一のことを思ってのお守りだったのだろうが、その目論見は全く持って成功しなかった、とリトリアは思う。そもそも、最初から成功する筈がなかったのだ。ウィッシュの契約した存在は、仲介者の中でもとびきり独占欲がつよく、わがままで、契約を交わした魔術師以外の存在を心底どうでもいいと思っている、とびきり性格の悪い存在なのだから。ソキの魔力が暴走しかけても、なんの反応もしなかったのがいい例だ。例えなにがあったとしても、指輪が反応することはなかっただろう。
リトリアは眠るソキの傍らに座りこみ、その寝顔を眺めながら指輪を強く握りしめた。時刻はすでに夜も更け、日付も変わろうとしている頃だから、部屋の中も外もしんと静まり返っていた。起きているのはリトリアと、緊張した面持ちで沈黙する案内妖精、そして夜勤の者くらいだろう。月の光が夜に咲く花を開かせる音すら聞こえて来そうな静寂の中で、リトリアがゆるく息を吐き出す。
「妖精ちゃん」
『なぁに?』
「もしうまく行かなかったら、ごめんなさい。学園に辿りついたら、改めてしかるべき処置をしてもらって下さいね」
これから呼ぶ存在は、確実にソキちゃんの暗示を消し去ることができますが、と言葉をきり、リトリアは苦虫をかみつぶした表情をした。
「気が向かないとやってくれないと思うので……」
『……まあ、向こう側世界の仲介者なんて、そんなもんよね』
これから強制的な力によって召喚するのは、召喚者以外の魔術師が死にそうな状態で助けを求めても、きらびやかな笑顔で無視するような存在である。仲介者にとって、契約を結んだ魔術師以外の存在は、雑草や小石以下の価値しか見出されない。それ故に、契約者に託した筈の指輪が他者の手によって使われる状況は、向こうにしてみればかなりの不本意だろう。来はするが、一秒後に帰られかねない。今更ながらそれを不安に思い、リトリアはてのひらで指輪を転がした。それでも、この方法しか、リトリアには思いつかないのだ。
一度、深く溜息をついてから細いチェーンから指輪をひとつ、外しててのひらの上に落とし、リトリアはそれを握りつぶすように持つ。
「……どうか」
指輪に込められた強制召喚の魔術を起動させる言葉は、特に決まっていない。通常の魔術のような詠唱が必要なのではなく、契約を行った者が、それを独自に決めることができるからだ。現在、この世界に存在する、仲介者と契約をした魔術師は二人。リトリアが知っているのは、ウィッシュだけだ。だから、決められた言葉も、ひとつしか知らない。恥ずかしいくらいの、それは、望みの言葉。
「ずっと、愛していて。……会いたい」
どんな想いでその言葉を決めたのか、どんな気持ちでそれを召喚のたびに告げるのか、リトリアは知らない。知っているのは、指輪を送った彼の主だけだ。忌々しい気持ちで手を開くと、指輪の内側に無数の光が走っているのが見えた。光はくるくると舞い踊り、やがて大きな光源となって浮かびあがると、ちょうどリトリアの目の高さで眩く輝き、四散した。目の奥まで貫かれる光に、リトリアは歯を食いしばって耐えた。黒く光に焼かれた視界に、ふと人の形の影が落ちる。とん、と軽やかに、靴が床を打つ音。
ねえ、と不機嫌な少年の声が問いかけた。
「なんで僕、君に愛を告げられなきゃいけないの? 不愉快なんだけど、耳が気持ち悪いんだけど。どうしてくれるの? とりあえず、心の底から誠心誠意謝りなよ」
「……こ、のっ」
未だ回復しない黒い視界の中、手さぐりでリトリアはクッションを掴んだ。そして衝動のまま、『それ』の顔あたりに全力で叩きつける。
「性悪美人があああぁっ!」
『静かにしなさいよ起きるでしょうがーっ!』
なにかがつぶれたような声をあげたまま、動かなくなった『それ』を放置し、リトリアは妖精の叫びにぱちぱちと目を瞬かせた。そうしていると、ようやく視界が戻ってくる。ふう、と息を吐き出して目を擦って、リトリアはすこしだけ冷静になり、『それ』がいた方向を向く。『それ』は、予想に反して帰ってはいなかった。その代わり、とても麗しい笑みを浮かべ、とても不機嫌そうに腕を組み、リトリアのことを睨みつけていた。『それ』は華奢な少年の形をしていた。やや長めの黒髪は毛先が肩についており、身動きをするたびにさらりと動く。簡素なズボンとシャツを着ただけの飾り気のない格好をしている。すこしだけ覗く首元の肌は、なまめかしく、白い。
闇の中で細まる瞳は、リトリアのものより深みのある紫。宝石のような色をしていた。ふん、を鼻を鳴らして少年は言う。
「弁解があるなら聞くから、いいなよ」
「なんの弁解よ」
「僕の顔を狙ったことについてに決まってるでしょ? 馬鹿なの?」
謝れば許してあげるって言ってるんだよ、僕超寛大だよね、とふんぞりかえる少年に、リトリアはふふふふ、とこみあがる笑いを垂れ流して、正直に言った。ついカッとなってやったに決まっているでしょう分からないの馬鹿なの、と。妖精がリトリアの隣で、静かに頭を抱えた。ソキの暗示の解除は難しいと痛感したような、半ば諦めたような仕草だった。