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 ソキの旅日記 三十一日目

 目の前には扉があった。ソキの目にはごく普通の扉にしか見えないのだが、案内妖精には違うものであるらしく、顔を思い切りしかめてリトリアを振り返る。楽音の国の王宮、その一角でのことである。朝起きて、朝食を済ませ、旅支度を整えたソキは、リトリアに手を引かれてこの場所へと連れてこられた。魔術師たちの私室が集まる一角にある、リトリアの部屋の三つ左隣にある部屋の前だ。見た限り、物置きとして使っている部屋の、扉のようである。簡素な木で作られた扉の、まるいドアノブには、『扉』とだけ書かれたプレートがぶら下がっていた。
 妖精が説明を求めるより早く、リトリアはソキの目の前にしゃがみこみ、その目を下から覗きこみながら口を開いた。
「ソキちゃん。……あのね、国内の移動制限が解除されていないの」
「はい、聞きましたですよ。誘拐されて売られちゃうかも知れないから、特にソキみたいな価値のあるのは、出歩いちゃだめなんですよね?」
「……魔術師の移動制限もかかってるの」
 つまり、誰もあなたを守って国境まで旅を続けさせてあげることができないの。溜息をつきながらのリトリアの言葉に、妖精がますます険しい顔つきになった。
『王宮魔術師が入学予定者と一緒に移動するのは、同行にあたるからアタシは許可しないけど? 例え、今の状況がどうあれど。ね!』
「ソキちゃんの魔力が暴走した時に、妖精ちゃんが即座に対応して、なんの被害もなく食い止めることができるのであれば誰もついて行こうなんて思わないと思いますけど。……各国の王宮魔術師が審査を行い、必要であると認めれば、星降の国の『入口』までは同行が許可される。今回のことは、その特例を認めざるを得ない状況に値します」
「ソキ、ずるっこきらいですよ!」
 睨みあう二人の間でぴょこぴょこ飛び跳ね、存在を主張して着地に失敗してぺしゃん、と廊下に転びながら、ソキはそう主張した。妖精の冷やかな眼差しと、リトリアのなんとも言い難いぬるい視線を受けながらよいしょと立ち上がったソキは、よく分からないですけど、と首を傾げながら言った。よく分かんないなら口を挟むな、という妖精の主張は無視である。
「つまり、出発しちゃいけないんです?」
 うーん、とものすごく困った顔でリトリアが眉を寄せる。
「……入学予定者が旅を続ける義務の方が優先順位、高いから、出発はしなくてはいけない、んだけれど……でも、楽音の国内に居る限りは、絶対じゃないけどこっちの決定が優先されるっていうか。……妖精ちゃん」
『アタシに助けを求めないでちょうだい! アタシが陛下からお願いされてるのは、入学予定者を、期限までに、安全に、星降の王宮へ連れていき、定められた場所まで引率すること! アンタたちが勝手に決めてる法律だとか、規則だとか、そんなのはアンタたちが勝手に適応させればいいだけの話で、アタシには関係ないの! いちおう、それなりには守ってやるけどね!』
 感謝しなさいよ、感謝っ、と言って腕を組んでふんぞりかえる案内妖精に、リトリアはそういえば妖精ちゃんってそういう主義主張のこういう性格でしたよね、と諦め気味の仕草で何度か頷いた。
「とりあえず、そういうちょっと矛盾した感じになってて。で、現在、ソキちゃんに旅を続ける意思がある以上、そうし続けることが義務なのね……? だから、これ以上、この王宮に留めてしまうのはいけないことなの。……そこで、この扉の登場、って訳!」
『なにその商品紹介口調。お買い得とでも言うつもり?』
「今なら国境までひとっ飛び! 飛ばないけど」
 てのひらをひらりと泳がせ、扉を指し示したリトリアは、くすくすと笑いながら立ち上がった。
「ずるじゃないのよ?」
「……ソキ、歩いていきたいです。馬車でもいいです。我慢します」
「現状、これ以外の移動方法がないの。徒歩も馬も馬車も、ありとあらゆる普通の移動手段は、まだ許可されていない。ソキちゃんは、この王宮に留まっていなければいけないし、でも……でも、旅は続けなきゃいけない。あと一週間か、二週間もしないうちに、制限は解かれるだろうけど」
 それでも、一週間か二週間は、どうしてもかかる。昨夜、様々な情報を総合して国王が下した結論に、王宮魔術師たちは素直に頷いた。その上での、結論である。旅の続行の為に、普通ではない手段でソキを移動させる方法がある。本人が行使する魔術ではなく、同行にもあたらず、違反ぎりぎりの抜け道に等しい手段ではあるが。許可は取った、とリトリアは言った。ただし、楽音の国の国王が下す許可のみで、入学予定者を招集する星降の国王のものではない。国内での騒ぎで通行止めになっているので、国内で処理するのに、彼の許可が必要だとは思いません、というのがうるわしき楽音の国王陛下の言葉だが、リトリアは知っている。
 単に、魔術師通行止めをするに至った経緯、事件、その他諸々を詳細に説明するのがめんどうくさくて、それが嫌でごねただけなのだと。魔術師たち、特にその卵である入学予定者に関しては過保護で愛情たっぷりに接したがるのが星降の国王の常だ。楽音の国内で起こった一連の事件を聞いただけで、今年の入学予定者の旅は中止になりました、と涙目で言いかねない。中止、つまり、最寄りの王宮からの『扉』を使った学園への移動である。もしも星降の国王がそう言いだせば、入学予定者の旅を続けたがる意思、というものは関係がなくなる。それは決定で、そして強制されるものだからだ。
 めんどうくさい理由が八割、報告すればほぼ確実に中止を言いだすであろう幼馴染の勘が二割で強行された決定に、リトリアは異を唱える立場にない。どのみち、入学式が終わった後に、今年の感じはどうだったかを彼の王に報告する義務が、各国の王と王宮魔術師には存在する。事後報告も報告のうちですから、と笑う国王の背後に、だからバレないうちにとっとと移動させてしまいましょうね、と文字が浮かんでいた気がして、王宮魔術師一同は視線を青空の彼方へと投げかけた。いいなぁ、チェチェリア、出張中で。誰かがぼそりと呟いた、とある同僚を羨んでの言葉に、リトリアも思わず同意しかけたくらいだ。
 王宮魔術師を含んだ移動制限をするに至った事件、その渦中に近い所で今も頭を悩ませているであろうひとを、素直に羨むことも難しかったのだが。
「二週間、王宮に留まればもう普通の旅路では絶対に間に合わない。そうなった場合、ソキちゃんはこの扉を使って学園まで移動することになるわ。……でも、今ならまだ間に合う。私たちはここへ留まらなければいけない、ソキちゃんは、安全に先へ進まなければいけない。魔術師は、王宮から出てはならない。この三つの条件を完璧に満たすのは、もうこれしかないのよ」
「……『扉』です?」
「そう。妖精ちゃんから、聞いたことない? 学園へのもうひとつの道。王宮魔術師に保護された入学予定者が使う、裏ルート。緊急用の手段のこと。……それがね、これ。この『扉』。これを使うの」
 コン、と扉の表面をリトリアの拳が叩く。ごく普通の音がした。
「ずーっと昔、四百年くらい前のことなんだけど、学園に天才とされる空間魔術師と、錬金術師がいたの。この扉は、彼らの残した遺産によって作られている」
「遺産? です?」
「遺産というか、技術というか……暇を持て余した天才の情熱というか、美しい友情の証のひとつっていうか」
 アンタなんの話をしているの、という妖精の視線を笑顔で受け止め、リトリアは軽く首を傾げてみせた。
「なりたちから説明してみようと思って?」
『そんなの良いから要点だけ言いなさいよ!』
「リボンちゃん、おこりんぼさんです。……や、や、やぁーっ! 髪の毛ひっぱっちゃやですーっ!」
 一筋を掴んでぐいぐい引っ張る妖精と、取り返そうとするソキの争いを慈愛溢れた目で見つめながら、リトリアは言う。
「学園まで長い旅をしていくってことは、つまり、長期休暇とかで帰省する時も長旅になるっていうことなんだけど。その距離とか日数のせいで、親の死に目に会えなかったらしいのね、その錬金術師さん。で、その友達だった空間魔術師さんが、他の仲間が二度と同じ想いをしないようにって考えて、作りあげたのがこれ。この『扉』。各国の王宮と国境に設置されていて、学園へ直通で行くこともできる……というか、ルートは三種類だけなんだけどね、王宮と国境、王宮と学園、国境から学園。国境に関しては、その国内のもののみに飛べて、他国へ接続はしてないし、できない仕組みになってるんだけど」
『けど? なによ』
「その仕組みが解明できない所が、作った天才さんたちのやらかした所ですよね……」
 ふ、と遠い目をしてリトリアは言った。設計図が残されていない上に、術式を組みあげる時に使用した理論や道具などの一切が、現在に至るまでに紛失、焼失、消失してしまっているのだという。ごく優秀な錬金術師の一部が、そのまま『複製』することならば可能なので、現在でも出入り口となる『扉』の数は増やせるらしいが、肝心の理論や仕組みが全くの不明なので、解析することができないのだった。錬金術師ができるのは、あくまで完全なる複製。あるものを、あるがまま、もうひとつ組みあげることであって、その中身はちっとも理解できないらしいのだ。
『つまりアンタたちは、なにがどうしてどうなって、どういう仕組みで動いてるのかも分からないものを使い続けてるってことなの?』
 『扉』の存在は知っていても、詳しい事情を知らなかった妖精が白い目で問いかければ、リトリアは素直な頷きで肯定した。
「事故は起きていません。……記録上」
『なんでそんなもん使ってるのよ』
「便利だからですよ?」
 これがあれば五秒で学園ですからね、とあっさり告げ、リトリアはくしゅくしゅに乱れた髪を手で整えているソキを見た。
「ソキちゃんには、これを使って国境まで移動してもらうことになりました」
「……決定なんです?」
「決定なんです。大丈夫、大丈夫。痛くもかゆくも怖くもないし、吠えたり噛んだり引っかいたりしないから」
 ソキの肩をぽんぽん、と叩いて励まし、使い方を説明しますね、とリトリアは言った。
「扉を開けます」
「はい」
「目的地の設定、は今回私がやるから……起動式を言うのも私がするから、ソキちゃんが次にするのは、扉をくぐります。以上。次に足を置くのは、もう国境です。国境の、砦の、一番はしっこ。専用の部屋の中に出るようになってて、お迎えのひとを頼んであるから、その人にあとは案内してもらってね?」
 決してひとりで出歩かないように。リトリアの告げる声は純粋に迷子を心配するものだったが、ソキは真面目な表情でこくりと頷いた。売られちゃいますからね、と呟くのに、妖精は世界中を罵倒したい気持ちで沈黙する。まるで自分を、価値がある売り物かなにかのように見做している。それが分かるソキの物言いが、妖精の意識をひっかいていく。苛々した。気に入らない。衝動のままに髪をひと房掴んで引っ張れば、ぴぴゃっ、とよく分からないひよこのような声をあげて、ソキが妖精を振り仰いだ。
「リボンちゃん? なにするですか……?」
『……別に。アンタの髪が引っ張りやすそうな位置にあっただけよ?』
「リボンちゃん、いじわるぅです……」
 髪を両手で押さえて、ソキは唇を尖らせて拗ねた声を出す。それに、さらに妖精の神経が逆なでされた。苛々としながら目の前へ飛んで行き、怯える表情をびしりと指差す。
『もっとちゃんと抵抗しなさいよ! いい? アンタを狙ってくるようなのがいたら、髪をひっぱるとかじゃすまないんだからねっ?』
「う、ううぅ……? ソキ、なにされるですか?」
『……具体的に狙われた経験はない訳?』
 起動式を思い出してぶつぶつと呟いているリトリアをちらりと見ながら、妖精が問う。ソキはううんと首を傾げ、瞬きをした。
「そういうのは、ロゼアちゃんがやっつけてくれたです」
『つまり?』
「見たことはあるけど、なにかされたことはないですよ。ロゼアちゃん、強いんですよ!」
 えへん、と胸を張って自慢するソキに、妖精は適当に頷いてやった。一瞬、ソキの瞳が強い怒りに暗く沈んだ気がしたが、言葉魔術師の一件があってのことだろう。それ以外は、本当にないに違いない。また、魔術師の被害は、あくまでもソキの中で『例外』なのだろう。具体的に、そのような者たちがなにをするか、について、書面以外の知識がないのが本当のようだった。まあ、と妖精はひっそりと決意を潜める。暴漢に襲われでもしたら、即座に呪って呪って呪い倒せばいいだけだ。案内妖精は、入学予定者を守る為なら、あらゆる魔術を許されている。妖精は、彼らを導き、守るのだ。この世の悪意から。そして、歯止めの利かない彼ら自身の魔力から。
「リボンちゃん」
 物思いにふける妖精を、ソキが呼んだ。顔をあげると、すでに準備を整えられてあとはくぐるのを待つだけの、開放された扉の前で、ソキが不思議そうな顔をして妖精を見ている。そんな所でなにをしているんだろう、と言うような。その表情に、妖精はふと気がついて、息を吸い込んだ。
『……うん』
 ふわり、空をはばたき、ソキの差し出したてのひらの上へ乗る。
『行きましょう』
「はい。……リトリアさん、お世話になりましたです。また、いつか」
 微笑み、手をふるリトリアを僅かばかり振り返り、あとは、妖精はソキのことを見ていた。視線は重ならなかったが、見つめるのに気がついたのだろう。不安がっているとでも思ったのか、ソキの手が、きゅぅ、と大切そうに妖精を抱き寄せる。リボンちゃん、とソキが呼んだ。返事が響くのを、疑ってすらいない声だった。そこに居てくれるのだと、それを、当たり前のことのように。
「大丈夫ですよ。……行きましょう」
『……ええ』
 踏み出したソキの足が、トン、と床を蹴って前へ出る。その姿が、不思議に不透明な、扉の向こう側の空間へ飲みこまれる瞬間。そっと、妖精は呟いた。
『ええ、ソキ。アタシは、どこまでだって一緒に行くわ』
 誓いのように。響く、言葉だった。



 ソキの旅日記 三十一日目
 魔術師の『扉』を使って、王宮から国境まで来ました。
 もう、すぐそこが花舞の国ですよ。
 今日は一日、国境で過ごして、明日、花舞の国へ入ります。

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