体調を崩している時と、元気でいる時のどちらを多く目にしているだろうと考えて、妖精はその馬鹿馬鹿しい比較を意識の彼方へと投げ捨てた。考えてみれば、出会った時から歩いては転び、立ち上がって歩いてはまた転び、を繰り返していた相手である。自力で移動をすることがすでに大変な相手であるので、旅などさせれば体調を崩すのは、よく考えなくとも当たり前のことだった。それに、楽音の国でリトリアは言っていたではないか。現状の移動がそもそも、健康を損なうレベルの負荷なのだと。決定的に壊れずに済んでいるのは、ソキが無意識で発動し続けている恒常魔術、回復の術が補っているからに過ぎない。
旅を続けさせていいのだろうか、と根本的な所から悩みはじめる妖精の視線の先で、ソキはふかふかの寝台の上で横になり、のたくたと瞼が重たそうな仕草で瞬きをしている。眠いのではなく、だるいのである。微熱がずっと出ていて、そのせいで体力を消耗してしまって、動けないのだ。楽音の国境から丸一日をかけた移動を終え、深夜に花舞のこの都市に到着した時は、まだ自力で移動する余裕も残されていたのだが。宿に辿りついて気が緩んだのか、朝起きた時からすでに熱が出ていて、太陽が空の真上に上がった現在でも、そのまま動くことができないでいる。けれども、意識を失って眠りこむ訳ではないから、まだ不調としては軽い方なのかも知れない。
熱が出ていて、眩暈が酷くて、立ち上がって動くことがどうしてもできないだけだ。不可能ではないのだが、可能でもない。それというのも、ソキは起きようとはしたのだった。ソキのガッツと根性はまだやれる気がしますよ、と言ってよろよろふらふら立ち上がり、倒れて、立ち上がり、転んで、それが十回を超した所で悲しげに鼻がすすられた。諦めるまで放置して待っていた妖精は、そこで初めて馬鹿、とだけ言い、ソキを寝台に戻らせたのである。どうしたものか、と首を傾げながら妖精は角砂糖を両手でもってかじり、もぐもぐと口を動かしながらふと眉を寄せた。
『……んん?』
記憶を巡らせながら、妖精はふわりとソキの顔の前へ移動する。ソキが体調を崩したのは昨日の午後五時過ぎであり、けれどもそこから六時間は持ちこたえているのだ。その間も、ソキの体を回復させる恒常魔術は働いていた筈である。そこから急激な移動もしていないのに、動けないくらいに体調を崩すのは、ちょっとおかしい。妖精は、目を細めてソキを見た。正確には、ソキの中にある魔力の総量を計ろうとして。
『な……』
「……な?」
『なんで魔力が枯渇してんのよーっ!』
両腕をいっぱいに伸ばしてぬいぐるみを抱き寄せ、そこに顔を埋めてはふぅ、と息を吐きながらソキはそんなこと言われてもですぅ、と眉をよせた。ぬいぐるみは、ソキが屋敷からとびだしてくる時に己の部屋に立ち寄って持ってきた唯一の私物で、大のお気にいりであるらしい。眠る時はだいたいそれをぎゅうぎゅうに抱き締めているので、妖精には見慣れた光景だった。かわいらしいあひるのぬいぐるみを、腕の中でくたっとさせながら、ソキはぷうぷう頬を膨らませて呟く。
「ソキにも分かりませんですよ」
『嘘おっしゃい! アンタ、今度はなにしたの! なにに使ったの! ああ、もうっ! 体調不良じゃなくて魔力切れじゃないのなんで気がつかなかったアタシーっ!』
「ソキなんにも知らないですよぉ……」
ソキの抱きしめるぬいぐるみの顔を容赦なく踏みにじって怒りを爆発させながら、妖精はあれでもない筈、これでもない筈、と少女の発言の数々を振り返った。ぬいぐるみを踏まれて嫌がるソキが、やぁんやぁんいじめちゃだめですぅっ、と訴えているがそんなことは完全に無視していた。特に魔術が発動する気配は感じ取れなかった筈である。予知魔術師の魔術発動は、目に見える効果を伴うものでなくとも、魔力を持つ者にならすぐに感じ取れるものだ。言葉の響きが違うのである。純粋な魔力そのものが、世界の法則を超え、白い糸を思うまま染め変えて行くような錯覚。恐怖に似た、感動に似た、背をぞわりと撫でて行くそれは、一度も感じられなかった筈なのに。
目を開けているのが辛い眩暈に襲われているのか、ぎゅぅ、と瞼に力を込めて浅い息を繰り返すソキの魔力は、今も回復する傍から消費され続けていた。どうしてもっと早くに気がついてやれなかったのだろう、と妖精は唇に力を込める。なにか、ソキが口に出して願った祈りが、魔術の形を持って世界に解き放たれたのだ。予知魔術師の『希望』は、確実に叶えられたのだろう。叶えられ続ける為に、途方もない魔力が必要なのだろう。発熱は、体が限界を訴えるサインだ。魔術師の魔力は、そのまま生命力にも直結する。枯渇し、消耗し続ければ、結果は言うまでもない。無言で、妖精はソキの額を蹴飛ばした。痛いです、と潤みながら見つめられるのに、妖精は腕組みをして問いかける。
『ほんとー、に、心当たり、ないのね?』
「なにがですかぁ……」
『アンタ、どっかで予知魔術使ったのよ。アタシも気がつかなかったけど』
楽音の王宮からすでに離れ、近くに別の魔術師の気配もないことを、妖精は心から感謝し、安堵した。ソキには言っていないことだ。学園に着けば教わるだろうし、悪戯に己の力に対して恐怖心を与えるのはよくないことだから、今後も告げる気もないことだが、予知魔術は途方もない祈りだって叶えてしまう奇跡だ。それは魔術と呼ぶより魔法とするのに近く、時として呪いや災厄にも近くなる。今回、ソキの願い事は、少女の魔力を枯渇させる程度で済み、その維持も回復する傍から消費していくくらいで、なんとか己一人で継続させることができるので助かったのだが。例えば、己の魔力総量、その回復量で賄えないくらいの願いが予知魔術として告げられた場合、どうなるか。
それこそが、予知魔術師が大戦争の時代に脅威とされ、最も多くの魔術師を殺害する理由となった事柄だ。足りない魔力を、他の者から賄うのである。だからこそ、予知魔術師は知らなければならない。その言葉がなにを引き起こすのか。どれくらいの魔力を必要とするものなのか。世界に存在する、ありとあらゆる魔術、その全てを覚えた上で。己ひとつの身で支払える奇跡なのかどうかを。ソキには、まだ分からないだろう。無意識でもなんでも、自分一人で留めた所は褒めてやらなければいけないかと思い、妖精はそっと、少女の汗ばんだ額を撫でてやった。
『ねえ……アタシの言うこと、聞ける?』
「……リボンちゃん?」
『魔力が、なにかに使われてるのくらいは、分かるわね?』
怒ってないわよ、と言い添えてやると、ソキの体からすこしばかり緊張が抜ける。
「はい……」
目を閉じたまま、吐息に乗せて言葉が告げられた。その間も、ソキの体から魔力が消えるのを妖精は感じ取り、舌打ちしたい気持ちになる。ソキの体を痛めつける原因になっているというのに、そうさせた魔術の名残は、口の中で甘くほどける飴玉のようだ。
『……それを止めないと、体がもたないのも、分かるわね?』
「はい」
従順に繰り返される二度目の返事は、すこしだけ苦しそうなものだった。己の体の弱さを、ふがいなく思っているのだろう。ぎゅう、と唇に力がこもるのを見ながら、これを早く学園に入れてしまいたい、と妖精は思う。もう何年かすれば、普通の育ちさえすれば、この体ももうすこし強くなるだろう。肉体的な、健全な成長が、ソキには全く足りていない。年齢とそれが釣り合ってはじめて、ソキの体は魔術の行使に耐えうるようになる。一年か、二年。経過した、その先の未来を妖精は思う。
学園という優しい魔術師の檻は、それでもソキを助けるだろう。
『もうそれはお終いって、言いなさい。……予知魔術の、はじまりと、おわり。それを、自分で決めて、いつまでもずるずる発動していないようにしなさい。言うだけで良いの。難しいことはないのよ。アンタは、そう願って、言うだけでいい。……きっと、指輪が助けてくれるわ』
ぬいぐるみをぎゅうぎゅうに抱き締めるソキの手には、指輪が二つ、通されている。白雪の国でウィッシュが渡したものではない。砂漠の国で、ある日突然、ソキの指に現れたものだった。ソキの目がぼんやりと、銀色のリングを眺める。息を吸い込んだ唇が、ゆめうつつに、誰かの名を唱えた。声が無くとも。それが誰を求めているのか、妖精はもう知っていた。
『これがあって、なんで、予知魔術が変に発動してしまったのかは分からないけど……アンタが、なにを、そんなに必死になって願ったのか、アタシには分からないけど』
言葉の途中で気がついてしまった妖精の優しい嘘を、ソキは見破ることが出来なかった。体調が安定しないから、思考もまとまらないままで、ひたすらに妖精の言葉を聞くだけだ。普通なら、ソキも気がついただろう。そんなに強く思うのは、ひとつきり。一人にしか、想いは向かない。
『終わりにしなさい。……言える?』
「……おわり」
『そう。そう……いいこね。もう一回、今度は自分の魔力に集中しながら、言える?』
妖精のちいさな手が、ソキの顔に伸ばされる。熱っぽい頬と、閉ざす瞼の上をそっと撫でられて、ソキはおおきく息を吸い込んだ。ころり、ころりと、生まれてはすぐに消えて行く力が、体を発熱させながら、どこかを削って冷やして行くのを感じる。それに、もう駄目だ、と告げるように。ソキは言葉を繰り返した。
「おわり、ですよ。……その、おねがいは、もうおしまい」
『……よし』
「……あ」
ぶつり、張り詰めていた糸を切るように。繋がっていたなにかが途絶えたのが、はっきりと分かったのだろう。怯えた声をあげるソキに、妖精は大丈夫よ、と言ってやった。
『アンタがなにを願ったかは分からないけど、ずっと魔力が消費されてたってことは、ずっと願いがかなえられてたってことだもの』
「そう……なん、です?」
『そうよ。だから、大丈夫。アンタのお願い事は、ちゃんと叶ったのよ』
なんにも怖くなんかないのよ、と囁く妖精に、ソキの呼吸が深くなる。吸い込み、ゆるく吐きだされるその吐息から、熱っぽいだるさが消えるのもすぐのことだろう。眩暈が消えるまでは横になっていなさいね、と告げる妖精に頷き、ソキは目を閉じたままで言った。
「リボンちゃん」
『なに』
「ソキは、これから、どうすればいいですか?」
学園に行くのよ、と反射的に答えかけ、妖精は口を噤んだ。恐らく、ソキが聞きたいのはそれではないのだろう。先へと進んで行く目的が、今のソキには無くなってしまっている。妖精がそれを与えてやるのは簡単なことだった。旅を続けて行くの、学園に行くのよ、と言えばいい。そうすれば、それがソキの目的になるだろう。学園へ行くこと。辿りつくこと。それこそが案内妖精がここにある理由で、この旅の目的そのものだ。けれど、そこから先が無くなってしまう。そこは目的地であって、終焉の場所ではないのだ。
ぬいぐるみを抱くソキの手、力を入れ過ぎて白くなっている指先に、妖精は触れた。貝殻みたいな爪先に、唇を掠めて、額をくっつける。
『アンタは、どうしたいの?』
探しに行きたい、会いに行きたい、と砂漠の国でソキは言った。同じ、意思を問う言葉に、ソキのくちびるが開く。
「ソキは」
『うん』
「ソキはね……」
たどたどしく、何度も、呼吸が繰り返される。うん、と妖精は頷き、言葉を待った。待てばいいのだ。妖精はもう、それを知っていた。急かさなくても、促さなくても、ただ一度問うて、待てばいい。答えは必ずかえってくる。
「ちゃんと……」
『うん』
「……魔術、とかじゃなくて、ソキは、ちゃんと……言葉、だけで、普通に、言うだけの……」
おねがいするだけの、ことばがほしいです。なにも起こさない、ただ、言葉だけの。お願いができるようになりたいです。予知魔術師の望みに、分かった、と妖精は応えた。
『学園に行くわよ、ソキ』
「……はい」
『アンタの望みは、必ず叶うわ。でもそれは、アンタの力じゃない。魔術じゃない。それがアンタの、心からの望みで、アンタが、精一杯頑張るからよ。……馬鹿ねぇ、なんにも怖がらなくていいのよ?』
ぎゅうぅ、と体に力を入れてまんまるくなって、ひどく悔いているようなソキに。妖精はやさしく、語りかけてやった。
『アタシが、アンタのわがまま、まるごとぜーんぶ叶えてやったことなんてないでしょう?』
「……うん」
『今回は、アンタが特別にうっかりぼーっとしてただけ。アタシも、アンタをちゃんと見てなかったことがあるかも知れないわ。アンタの力は、なんでも叶えられる。奇跡みたいな、魔法の力よ。でもね、でも……でも、大丈夫。なんにも……怖いことなんか、ないのよ。怖くないの』
分かったわね、と囁く妖精に、ぬいぐるみに顔を埋めたソキが言う。
「リボンちゃん。……あのね、あのね」
『んー?』
「ごめんなさいするです。ソキね、あのね、ちょっとだけ嘘つきました……」
すん、と鼻をすする音がした。涙声だった。
「ソキはたぶん、なにに魔術を使っちゃったか、心当たりがあります」
正直に吐いたから許してやりはしないが怒鳴るのは先延ばしにしてやろう耐えろ私、耐えろ、と言葉を十回心の中で繰り返して。先を促す妖精に、ソキはひどく頼りない声で言った。
「でも、それでなにが起きて、なにになったのか、ソキには分かりませんですよ……」
『……分かる訳ないじゃないの。アンタ、未熟なんだから。なーんにも知らないくせに』
「リボンちゃん……リボンちゃん、リボンちゃん。ねえねえ、リボンちゃん」
片腕でぬいぐるみを抱きしめながら、手が妖精へ伸びてくる。触れたがるその手の人差し指をぎゅぅと握って、妖精は不機嫌に、ソキを睨みつけた。
『なによ』
眩暈が消えたのだろう。疲れは消えていないのかゆっくりとした動作で、ソキは寝台の上に体を起こす。妖精に握られた指を見て、ソキは幸せそうに笑った。
「リボンちゃん」
『な・あ・にー?』
「今日、一緒に寝てくれますか?」
ソキね、一人で寝るの嫌いなんですよ、と告げられるのに、妖精はほとほと呆れた顔をして。それからぺちん、とちいさな手で、ソキの手の甲を叩いた。
『アンタ、今までそんなこと言わなかったくせに』
「ないしょにしてたです」
『……寝付くまでなら一緒にいてあげるけど、一緒に寝るのは嫌。つぶされそう』
まあアンタ寝がえりしないし、ちっとも動かないから大丈夫だとは思うんだけど、怖いし。アンタが寝たらアタシは好きにするわ、と言った妖精に、ソキはちょっと不満そうな顔をして。それからひっそりと、安堵の息を吐きだしたのを、妖精は見逃さなかった。全く、と苛々した気持ちで妖精は腕組みをする。怖がらなくていい、と言ってやっているのに。
『……ああ、でも、ひとの話を聞かないのなんて、最初からだったわね、アンタ」
「なんのお話です?」
『アンタが出会った時と比べて、なーんにも変わってないってことよ!』
しょうがないこ、と言って額をぺちんと叩いた妖精に、ソキはきょとん、と何度か瞬きをして。リボンちゃんも、会った時からおこりんぼさんですねー、とのんびりとした声で言った。妖精の笑みが、にこり、と深まる。怒らせてんのは誰だと思ってんだよし私はさっきは耐えた。耐えてやったから今回は我慢しない、と、妖精は浮かんで来る笑みにふふふふふ、と肩を震わせて。怯えて逃げようとするソキの髪を掴んでひっぱり、調子に乗るんじゃないわよーっ、と絶叫した。
ソキの旅日記 三十三日目
……ちがうですよ。
リボンちゃんがおこりんぼさんなんですよ。
別にソキが怒らせちゃってる訳ではな(文字の途中で、ペンを横から蹴り飛ばされたかのような、不自然な線が日記帳を横断している)
激しい風が、窓にぶつかって激しい音を立てる。その音に驚いて、ソキは真夜中に目を覚ました。急に嵐でも来たのかと思いきや、窓からは月の光が差し込んでいる。見上げる空も、雲がいくつか浮かんでいるだけで晴れていて、道端に目を落としても、街路樹は枝を揺らしてなどいなかった。寝ぼけたのだろうか。あくびをしながら寝台へ戻ろうとして、その時、ソキはすこしだけ開けていた窓から、ふんわりとしたまあるい光が、室内へ入ってくるのを見た。蜜色の淡い光。妖精のひかりだった。
「……リボンちゃんは、よあそびさんです」
さっきの音も、もしかして、戻ってきた妖精が窓が上手く開けられなくて、かんしゃくを起こして外から蹴ったのかも知れない。ソキの案内妖精は、それくらいのことを普通にやる。眠い目を擦りながら、ソキはふあぁ、とあくびをしてふよふよと戸惑ったように旋回する、淡い光に両腕を伸ばした。
「ソキと一緒に寝るですよ」
『え? ……えっ?』
「……えい!」
すい、と空を泳いで逃げようとした光を、ソキはぺちん、と手で挟んで捕まえた。か弱い悲鳴をあげて静かになったそれを、なんかリボンちゃん可愛くなったですね、と非常に失礼な感想を抱きつつも離そうとせず、ソキはぱたりと寝台へ倒れ込んだ。すぐに、すぅ、と寝息が部屋に響いて行く。ソキの眠る頭の乗る、枕のすぐ横に。リボンちゃん、とソキがそう呼ぶ案内妖精が眠りこんでいたことには、ついぞ気がつかなかった。