壁一面に描かれた文字の羅列は、部屋の外へ不用意に魔力、あるいは魔術の効果が漏れて行かない為の結界であるという。『学園』で検査する時はこういうのいらないんだけど、と言葉を最後に壁から白墨を離し、柘榴色の瞳を笑みに和らげて青年は言った。
「さあ、ソキ。目を閉じて」
促されるまま、寝台の端に腰かけた状態でソキはそっと目を閉じた。くらやみが意識を包む。けれど、傍に親しい気配を感じるから怖くはなかった。息を吸い込むと、穏やかな声が響いて行く。
「まずは魔力が自分の中にあるかどうか、確かめてみて。……って言っても、まだ分かんないよな。うーん……と?」
さて、どう習ったんだっけ。己の記憶を揺り動かすように、言葉はくちびるに乗せられる。
「水、を」
「……おみず?」
「うん、そう。目を閉じて。水の音を聞いて、ソキ。心臓が巡らせる血液の音じゃない。体の中にもうひとつ、巡って行く水の輪がある筈だから。どこかから湧いてくる水。……体の中の、思考する場所じゃなくて、心がある場所。こころの、一番近くに、俺たちの魔力は収まってる筈だよ」
このへんかな、と青年の手が、ソキの心臓の真上に触れる。とん、とん。やわりと拍を刻んだ指先が、ごく少量の魔力を少女へ流し込んだ。くらやみの中、色が付いたひかりが、じわじわと線を引くように。導きの灯りとなったそれに導かれて、ソキは己の魔力、そのありかを自覚した。は、と薄くひらいた唇が息を吸い込む。意味もなく、理由もなく、涙の気配が滲んで、消えた。
それは森に似ていた。新緑のきらめきを宿し、それでいて冬枯れの黒にも近い木の葉の色をしていた。濃淡をゆらゆらとくゆらせる、うっそうと茂る森の木々の、その奥に泉がある。ちいさな泉。清らかな湧水は、旅人の喉を潤すだろう。ひとすじの光が、闇を裂き、森の木々の隙間から泉へ差し込んでいる。金色の帯が、森の中で泉の在り処をソキに教えてくれた。
「分かった?」
こくん、と頷くことでソキはそれに応えた。くすり、甘やかすような笑みがひとつ落ちて、途切れていた言葉が続けられていく。
「その魔力を使って、俺たちは魔術を使う。覚えておいて、ソキ。それが俺たちのちから。それが、俺たちの……」
「……なんですか?」
吐息に乗せて告げられた言葉はかすれて、ソキの耳には届かなかった。聞かせるつもりがなかったものなのかも知れない。なんでもないよ、と青年は笑った。
「魔術師には、その属性を持つ者にしか告げられない言葉と、その適性を持つ者にしか発動できない魔術がある。ソキはたぶん……案内妖精の言う通りに予知魔術師ならば、そういう制限なしにぜんぶ出来るだろうけど」
それでも、一番最初の言葉だけは確かにそれを示している筈だから。目を開けないで、と少女の瞼の上に指先を触れさせながら、青年は落ち着いた響きでそれを求めた。
「言葉があるよ。お前の中に、言葉がある。……聞こえる?」
それを、声に出して告げてごらん。大丈夫。怖いことはなにもないから。詩のようにうつくしく囁かれる言葉に、ソキはきゅぅと唇に力を込めた。意識を己の内側に巡らせる。泉を鎖す森の中に、響いている音があった。それを丹念に拾い上げ、喉の奥まで持ってくる。己という意識が、なんの言葉を形作るのかも、知らぬまま。ソキはくるしく、その言葉を吐きだした。
「祝詞を告げ、呪詛を囁く」
ざわざわ、木々が揺れて行く。囁く声のように、言葉が聞こえた。
「紺碧の夜を縫い合わせ、巡り廻る星のひかり。帳の向こうまで歌を響かせるのは、美しく満ちた月の外枠。それをなぞる透明な、親しき友へ言葉を託す。……どこまでも」
響いて、行きますように。ふ、とごく自然に瞼をもちあげて息を吸い込むソキを、青年は咎めなかった。無言で問う少女の視線を覗きこみ、うん、と青年は頷く。
「案内妖精はさすが、としか言いようがないかな。風属性の予知魔術師であってる……と思うけど」
「けど?」
「一応、体感しておこうか」
たぶん、今のじゃ自分だと全然分からない筈だし、とにっこり笑い、青年は俺のあとに続いて繰り返してね、と言った。こぼれ出すのは全てが魔術を起動させる為の言葉で。ソキは分からないまま、その響きを追いかけ、唇に乗せた。
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