日曜日の午後三時。ロゼアはたまにソキの傍を離れる。それは決まって黒魔術師たちの参加する特別授業に関する話し合いの為であり、三十分で終わることもあれば、一時間、二時間かかってしまうこともあった。今日は一時間以上かかる見込みであるらしい、とソキが知ったのは、寝かしつけるロゼアの顔が物憂げであったからだ。
夕食前までにはなんとか、と零れた声から推測するに、五時か、六時くらいになる可能性すらあるらしい。そんな時、ロゼアはソキを談話室の定位置ではなく、自室まで戻って眠らせるのが決まり事だ。寝台の傍にはお茶と乾燥果物、焼き菓子がいくつか置かれ、ソキの好きな本も何冊か。ソキがはやめに目を覚ましても退屈しない用意を整えてから、ロゼアは魔術師のローブを羽織って部屋を出ていく。
眠るソキに、いいこにしているんだぞ、と言い置いて、ロゼアはため息をついて去って行った。返事をしなかったのはソキが眠っているからで。いつもは立ち去る足音が寂しいばかりなのを、追いかけようと思わなかったのにも理由がある。かしん、と鍵のかかる音。とん、とん、と珍しく足音を立てて去って行くロゼアの気配が感じられなくなると、ソキは寝台の上でむくっと体を起こした。
きょろ、きょろ、そーっと室内を見回して確認する。『お屋敷』ではまずなかったことであるのだが、ロゼアが立ち去った室内にいるのはソキだけで、他に誰の姿もなかった。ふふふふんっ、と満足げな笑みでこっくり頷き、ソキはいたずらっぽい顔で目をきらきら輝かせる。
「ちゃんすですぅ……!」
眠ったふりをしていた目をくしくし擦り、あくびをひとつ。ねむむない、ねむーないです、と自分に言い聞かせてから、ソキはアスルをぎゅむっと抱きしめて寝台からもそもそと降り立った。なぜか履きにくい位置に置かれていた布の靴をうんしょと引き寄せ、よろよろ立ち上がると鏡の前に立つ。
「これはお昼寝の服です……着替え……。うぅん……」
このまま廊下を歩いて行くのには抵抗があった。しかしきょろきょろ部屋を見回しても、なぜか服の替えがないのである。いつもならロゼアが用意していってくれる筈の、寝台の端には置かれていないし、棚には隙間があるばかりだ。もしかして忘れんぼさんをされたのかもです、と頬を膨らませながら、ソキはロゼアの衣装棚に顔を突っ込んだ。
ごそごそ探って、予備のローブを一枚拝借する。だぼだぼのずるずるだったが、ロゼアの良い匂いがした。よし、これでだいじょうぶですぅ、とやや寝ぼけまなこでこっくりと頷き、ソキは相棒たるアスルをぎゅむっと抱きなおした。よいしょ、よいしょ、とローブの裾をずるずる引きずりながら部屋の出口へ向かう。帰ってきたらローブはちゃんと埃をはたいて、ロゼアが帰ってくる前に棚にそーっと戻して置く計画である。かんぺきないんぺいこうさく、というやつです、とソキは自慢げに思っている。
内側から鍵を外して、ソキは扉から顔だけ出して廊下を確認した。あれ、ソキちゃんどうしたの、と通りがかった先輩が声をかけてくるのに、しぃー、しー、ですよっ、とつんとくちびるを尖らせ言い聞かせて、右と左を何度か確認する。ロゼアの姿は影も形もない。黒魔術師会議に出席している真っ最中だからである。ふふふんっ、と胸を張り、ソキはとてちて廊下を歩き出した。
「ああぁあソキちゃんだめだよひとりであるむぐっ」
「きゃん!」
ぴょんっと飛び上がって驚いて、ソキはぱっと廊下を振り返った。ナリアンの声がした気がしたからである。しかし廊下は不自然なまでにしんと静まり返り、誰の姿も見つけられない。ぽてぽて廊下を戻って、廊下の角を覗き込んでみても、ナリアンどころか、先輩の姿さえ見えなかった。ううん、と首を傾げて、ソキはアスルと見つめ合って頷いた。
きのせいである。再び、ぽてぽておぼつかない足取りで歩き出すソキは、通り過ぎた部屋の扉が、やや不自然に開いていることには、ついぞ気が付かないままだった。やがてソキが廊下をひとつ曲がってしまうと、そこからそっと、ふたりの影が忍び出てくる。
「ナリアン、だめだよ……。ロゼアに行き先を特定してって頼まれたでしょう……?」
「ううぅ、ごめん。ありがとうメーシャくん……。先輩方もありがとうございました……」
結果を教えてね、と手を振って見送る先輩たちに感謝をささげ二人はふにゃふにゃした鼻歌の響いてくる方へ、そっと足を進めていく。幸い、寮は入り組んだ作りではないし、ソキの足に追いつけないということは決してない。すぐにぽてぽて進んでいく後ろ姿を見つけ出し、二人はそっと距離を開けたまま、ソキの後ろをついて歩いた。
行き交う先輩が、なにしてんの、とばかりソキとふたりを見比べるが、なにか声を発される前に、メーシャが笑顔で一枚の紙片を差し出していく。ロゼアの頼みにより追跡中です、と書かれた紙に誰もがなまぬるく優しい笑みを浮かべて頷いたが、ソキに告げ口する者はひとりとして現れなかった。ソキがひとりで出歩くのは三歳児から目を離して放置するのと同程度の危険度がある、と誰もが分かっているからである。
尾行されていることに全く気が付かず、ソキはきょうのおんみつこうどうも、かんぺきー、というやつですっ、とふんふん鼻を鳴らして歩いていく。やがて、ソキが辿りついたのは自炊室だった。別名、ロゼアの城、と最近呼ばれ始めた一室である。食堂とは別に生徒たちに開放されている一室には、手作りお菓子の甘い香りが漂っている。
女子生徒たちがきゃあきゃあ声をあげ、ソキちゃんお菓子食べる焼き立てがあるよこっちおいでその恰好なぁにどうしたのロゼアくん知ってるの、と声をかけてくるのに、しーっ、しぃー、なんですよぉっ、と言い聞かせ、ソキはローブをずるずる引きずって部屋の奥、ある棚の前まで歩いていく。ソキの身長より高い棚には硝子の扉がついていて、調理器具や硝子の瓶が収められていた。
棚から器具まで、全てがロゼアの私物である。ソキの為の病人食や非常食、おやつやお弁当を作る為に、ロゼアが特別許可をもぎ取った上、『お屋敷』から運び入れた一式である。ソキはその棚の前に立ち、ふんすと気合の入った表情で手を握る。じぃーっ、と視線が向けられていたのは、棚の一番上。ロゼアの字で、ソキ勝手に開けたらだめだからな、と書かれた札の張ってある箇所である。
ぷぷううううっ、とソキは頬を膨らませてアスルをむぎゅっと抱きつぶした。
「ろぜあちゃんたら! ロゼアちゃんたらぁああっ……! ソキに、いじわるをするです! いくないです!」
んもぉんもおっ、と憤慨しながら、ソキはアスルをぽんと作業台の上に置き、ソキ専用のちんまりした踏み台を持ってきてその上に乗っかった。十センチほど上に伸びあがったのだが、どう頑張っても一番上の棚には手が届かない。うううーんっ、とちたちた腕を伸ばして動かして、ソキはぷうううっとさらに頬を膨らませた。
「とどかないですううう! やぁああああそこにあるのはー! わかってるんですううううっ!」
ソキのなのにっ、ソキのなのにっ、なんてひどいことですっ、と憤慨するソキに、どうしたの、と声をかけたのは製菓部の少女だった。ソキは涙目でぷっと頬を膨れさせながら、あのねあのねっ、と少女に訴える。
「ソキのましゅまろー! ロゼアちゃんが隠しちゃたです! あそこに入ってるです! とってぇとってぇとってぇえええええ!」
つい先日のことである。ウィッシュと出かけた先で、ソキはとてもおいしいマシュマロを買ってきて、食べるのを大事に大事に楽しみにしていたのだが。ロゼアが見つけて、ソキからそれを取り上げて、手の届かない場所に隠してしまったのだった。少女はソキと、棚に張ってある張り紙を幾度か見比べたのち、訝しげに首を傾げて呟いた。
「……ロゼアくん。そういう意地悪するんだ……?」
「いけないことです! ソキ、ソキはとても楽しみに……た、たのしみに……」
ぐずっ、と涙目で鼻をすすり始めたソキに、少女は慌てた様子で取ってあげるからっ、と言った。さっと脚立を立ててのぼり、扉をあけて中を覗き込む。果たしてそこには、ソキの言った通り、マシュマロの入ったちいさな紙袋があった。淡い黄色と緑に染められたマシュマロからは、甘酸っぱい柑橘の香りが漂っている。はい、と少女はソキの手に紙袋を手渡した。
「ロゼアくん。いま会議行ってるもんね。戻ってくる前に食べちゃおう。……これからお茶だけど、来る?」
「ソキ、お呼ばれをするですうううう!」
きゃぁあんきゃぁああんましゅまーろーっ、と大喜びをするソキの全身をまじまじと見て、少女はでも抜け出してきたのがバレる前に戻ろうね、と言った。
もちっとした甘いマシュマロが『お屋敷』で表立って流通せず、『花嫁』『花婿』から取り上げられるのには、理由がある。それを知識として知っている若き当主レロクは、側近の目を盗んで持ち込んだそれを小皿に転がし、指先で突きながらため息をついた。
「……ソキならともかく……」
ぷに、と柔らかな触感を指先に覚えさせたまま、レロクは己の頬に触れた。多少は柔らかであると思うが、食物の触感とは別物である。撫で下ろす肌はきめ細やかに整えられているとは言え、食物のそれとはまた違う、ように、思えるのだが。若き当主は知っている。これが『お屋敷』に流通せず、『花嫁』『花婿』から取り上げられる理由を。
「ともぐい……には……ならぬだろうが……?」
ふにふに、もちもち、やわやわ。甘くてふんにゃりしたそれを『傍付き』が口にするのは、すなわち代償行為である。そうであるから『花嫁』『花婿』からは取り上げられる。それだけのものだ。レロクも実物を目にするのは初めてである。『傍付き』控室に行ったら無防備に置かれていたので、こっそりくすねてきたものだった。
幸い、側近たるラギは用事があるとかで傍を離れたままである。つまりは監視を外したラギが悪い。ふむ、と首を傾げ、レロクは淡い黄色に染められたマシュマロをひとつ、指先で摘み上げた。あ、と口を開く。口唇がそれを食むのと、荒々しく扉が押し開かれたのは、殆ど同時のことだった。
く、く、ぴすー。ぷっ、くくっ、ぴすぅーっ、と本物の寝息で幸せそうにくぴくぴ眠っているソキを見下ろし、ロゼアはなんともいえない呻きで頭を抱え、寝台の傍に座り込んだ。ナリアンとメーシャの報告によると、ソキはお茶会を終えたあと機嫌よく部屋に戻ったのだという。ソキの奮闘を物語るように、くしゃくしゃに畳まれたローブが、衣装棚に不自然に詰め込まれていた。
寝台にはちいさな紙袋が転がっていた。空かと思いきや、ひとつだけ、形がいびつなマシュマロが底に転がっている。ソキの口元を指で拭い、アスルと共に寝台にきちんと戻し終えた後、ロゼアは無言でそれを取り出した。淡い黄色のマシュマロ。『お屋敷』でその甘味が持つ意味を、『傍付き』であった少年ははっきりと理解していた。
ため息をつく。眠るソキの頬を指先で撫でながら、ロゼアはそれをぽんと口に放り込んだ。甘く柔らかなそれを歯でやんわりと噛み、舌先でじゅわりと溶かし、飲み込む。ほの甘い、背徳感が背を抜けていく。んん、とソキがちいさく声をあげて瞼を震わせた。
「……ろぜあちゃ……?」
ふあふあ、あくびをする。眠たそうに呼ぶ声に喉の奥で静かに笑って、ロゼアは身を屈め、己の『花嫁』にそっと額を重ね合わせた。
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