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 春のにおい



 檸檬の匂いのする石鹸は、ロゼアが洗濯に使っているものだ。部屋の隅に転がっていたそれにぱちくり瞬きをして、たいへんですっ、とソキは声をあげた。忘れ物である。きゅむっとばかり手に持って、ソキはとてとてと早足に廊下へ向かった。ロゼアは、ほんの今出て行ったばかりである。急げばまだ間に合う筈だった。
「ロゼアちゃぁ……ん……?」
 お忘れ物ですよぉー、とも告げず。ほよほよと語尾が消えて行ったのには理由があった。廊下に落とし物があったからである。淡い薄緑の生地に花の刺繍のされたそれは、ロゼアのハンカチである。洗濯物に行って来る、とロゼアが持って出た筈の。ソキはそれを二秒程見つめ、ぱぱっとばかり口に両手を押し当てて、反射的に出かかった悲鳴をなんとか押し殺した。
 ゆっくり右を見る。寮の廊下には誰もいない。そーっと、左を見る。あっソキちゃんだおはようー、と手を振ってくる先輩にしーっ、しぃーですよぉっ、と言い聞かせる。もういっかい右を見る。左を見る。ん、と不思議そうに先輩が見守っているのを、意識から遠ざけてなかったことにして、ソキはとててててっ、と落ちた洗濯物へ駆け寄った。
 はっしっ、と拾い上げる。やはり、ロゼアのハンカチである。歪な花の刺繍がしてあるので、間違いないだろう。それにしてもこの刺繍は、ちょっぴり失敗してしまったものなので、やんやんしてぽいっとしてもらう筈だったのに。どうしてまだこんな所にあるのだろう。捨てて欲しがるたび、毎回誤魔化されてロゼアが取り上げている事実にちっとも気が付かず、ソキは満足げにこっくりと頷いた。
 やんやんな刺繍であるし、ソキが拾ったのだし、誰も見ていなかった、ことにしたので、これはもうつまりソキのものである。ふんすっ、と気合を入れてハンカチを胸に押し抱き、ソキはそう決意した。つまりこれはソキのなのである。ソキが好きにしていいものである。右を見て、左を見て先輩と視線があったので、しーぃですよおおおお、と言い聞かせる。
 ハンカチに鼻先をうずめて、ふすふすすすんと匂いをかぐ。ロゼアの良い匂いがした。緑と、蓮と、紅茶の匂い。普段つけている香水と、それだけではなくて、ロゼアの良い匂い。きゃぁん、とソキは身を捩った。これはもうソキのものである。なんとしてもソキのものなのである。
「……あっ! そうと決まればぁ、隠しに行かなくっちゃです!」
 きゃぁんやんやんたからものが増えちゃったですうううう、あっ先輩これをロゼアちゃんに届けてくださいお洗濯のお部屋にいてきっと困ってるですソキはぁちょっとぉ用事ができたんでぇもう行かなくっちゃいけないんですぅいーい先輩、しー、しーですよぉ、ないしょということです、それにこれはもうソキが拾ったからソキのです、と言って、ソキは早足にとててててっ、と廊下を歩きだし。
 ぴたんっ、と音を立てて三歩目で転んだ。



 転んで打って赤くなった鼻を手で擦りつつ、ソキがやってきたのは談話室だった。休日の朝であるから、流れる空気はどこかぼんやりとしている。夜更かしをしていたのかあくびをかみ殺す者、遊びの計画を話し合う者、教本を前になぜか祈りを捧げている者たちに、おはようございますーですー、と挨拶しながら、ソキはきょときょと挙動不審にしきりと周囲を確認しつつ、定位置たる窓辺の一角へ歩んでいく。
 とて、とて、てちっ、と相変わらず危なっかしいつたない歩みに、大丈夫かなぁ、と見守る視線がいくつか。挙動不審さに、なにしているのか、と訝しむ視線もいくつか。そのどれもにちょっとくちびるを尖らせ、見ちゃだめぇっ、と癇癪気味に言い返して。ソキはもう一度きょろきょろ周囲を見回したのち、普段座っているソファの、後ろへ、ずぼっとばかりに体を突っ込んだ。
「……はぃ?」
 誰かが虚を突いたような声をあげる。あああぁあ、と見かねた声をあげて駆け寄って来たのはルルクだった。ルルクはソファに乗り上げるようにして壁との間を覗き込むと、もう、と困った顔をして溜息をつく。
「こら、ソキちゃん。巣はもっと清潔な所に作ろうねって言ったでしょう?」
「巣じゃないもん! ひみつきちー! ですぅー! ……あっ、覗いちゃだめぇ!」
 だめぇだめぇと言いながらもぞもぞするソキは、自分で狭い所に体を突っ込んでおいて、なにやら引っかかっているらしい。あれ、あっ、あれっ、と声が上がるのに溜息をついて、ルルクはソキの声に涙がにじむより早く、無言でソファの位置をずらしてやった。壁との間が、たっぷり一メートル程になる。これでいいんです、とばかりふんすと鼻を鳴らされるのに苦笑して、ルルクは再度、ソファに乗りあがって、その背後を覗き込んだ。
 ふんふんふー、とご機嫌なソキの下には、いつの間に用意して運び込まれたのだか、薄い綿の入ったキルトケットが敷かれている。植物模様の可愛らしいそれを数秒凝視して、ルルクは無言で首を傾げた。どうも、ロゼアが紛失したと困っていた柄に、よく似ている気がする。ソキちゃん、と手を伸ばし、ルルクはソキの頭を数度突きながら問いかけた。
「それ、どうしたの?」
「ルルク先輩?」
 隙間が広くなって嬉しいのだろう。ちょこりと座り込んだソキは大変機嫌の良い笑顔で、ぺちぺちてしん、とキルトケットを叩きながら告げた。
「これはぁ、ソキの。ソキのなんですよぉ、ソキの!」
「……ねえ、それ、ロゼアくんが洗濯しようと思って置いておいたら、風に飛ばされたみたいで……って言って探してたのじゃないの? 違う?」
「ちがうもん。ソキのだもん」
 ぷーっと頬を膨らませて、ソキはすましがおで主張した。
「……あっ、でも、でも、でもぉ? ロゼアちゃんには、しー。しー、ですよ。内緒なの。分かった?」
「うーん怪しさしかない」
「淑女たるものぉ、秘密を持つです。たしなみ、というやつです」
 それは違うんじゃないかなぁ、と微笑むルルクを無視して、ソキはちがわないもん、と主張した。なんといっても、ソキはもう一年もすれば十五になるのである。立派な淑女である。秘密のひとつやふたつ、持っていた方が魅力的というものなのだ。談話室に置いてある雑誌にもそう書いてあった。自信満々にそう言えば、ルルクは無言で首を左右に振った。
「ソキちゃんは……ほんとすぐそういうのに影響されちゃうから……。禁止図書を増やすべきなのかも……?」
「でもでもでもでもソキが読みたかった、小悪魔系ぼでぃーたっちで彼を射止めちゃう! 今日からできる十のすてっぷー、は袋とじにされてたですううううう! よくないですうううう!」
 魔術的な、呪いによる簡易検閲である。もはや雑誌系統を禁止にするしかないのでは、と遠い目をするルルクにぷぷっと頬を膨らませながら、ソキはソファの背側、隠し収納になっている引き出しを開け、そこから小箱を取り出した。ちんまりとした、ソキの膝に乗り切る大きさの箱である。きょろ、きょろ、とこの期に及んで周囲を警戒するソキに、ルルクは義務感で問いかけた。
「ソキちゃん。その見覚えのない箱なーに?」
「あのね。リトリアちゃんと一緒にお出かけした時に買って来たです。ひみつものいれです」
「あぁー……ろくなことしないー……」
 リトリアは、別にソキをそそのかして悪い道へ進ませている訳ではないのだが。同年代の女の子のお友達、に憧れていたリトリアが、夢見がちにあれこれ色々やらかすので、結果的にロゼアの教育の理想からそれるのが常なのである。その箱、ロゼアくんは知ってるのかなー、と胃の痛みを堪えながらルルクが問えば、ソキは目をぱちくりさせ、あどけなく首を傾げて呟いた。
「これは、女の子の秘密だもん。ロゼアちゃんには内緒なの」
「お許しくださいとしか言いようがない」
 思わず両手を組んで祈ったルルクに不思議そうな視線を向けたのち、いつもの奇行だと判断したのだろう。ふふふんふふふん、と機嫌の良い鼻歌を響かせて、ソキはルルクの灰色のまなざしの先、箱のふたをぱかりと持ち上げた。
「こ、れ、はー! ロゼアちゃんのくれたお花で作ったしおりー! これはー! ロゼアちゃんが書いてくれたのお昼のめにぅめもー! そしてこれはー! ロゼアちゃんの靴紐の切れちゃったやつぅー!」
「あっよかった思ったより平和……あれ……平和かな……? 平和とは……? う、ううぅうん、ソキちゃん? その靴紐はロゼアくんがくれたの?」
「ソキが代わりのをロゼアちゃんに作ってあげたです。物々交換、というやつです」
 ぜぇったい見せてあげないです、だめです、とささっと箱を抱え込むソキのくちびるが、いつになく尖っている。正当な手段でまっとうに手に入れたとは、中々考えにくいものがあった。めぅちゃんにないしょのないしょの、ちょうだいちょうだいを、ソキはけんめーに頑張ったです、と主張している所からも、合法的に許されているとは思い難かった。
「そしてこれがー! こっそり拾ったロゼアちゃんはんかちー!」
「ソキちゃんいいこだから返してきなさい」
「いーい? ルルク先輩。これはソキのなの。ソ、キ、の!」
 ささっとハンカチを箱にしまってふたをしめ、隠し収納の中へしまい込む。そしてよじよじと隙間から出て来たソキは、頭を抱えるルルクの腕にじゃれつくように手を添えた。にこ、と笑いかける。
「内緒にしてね、お願いね」
「……ちょ……え……むり……」
「ふたりのひみつにしてね。ね? お願い、お願い。……ね?」
 至近距離で『花嫁』に触れられ、甘くふわふわとした声で懇願され言い含められ、陥落しないものは専用の訓練を受けて十分な耐性を付けた者。すなわち『世話役』と『傍付き』に限られる。おねがい、おねがい、ね、ね、と柔らかい手できゅっと指を握られ頬をこすり付けられ上目遣いでうるりと見上げられて、ルルクは真顔で頷いた。かわいいが殴りかかってくる。無理。
「きゃぁあん! ありがとうですー。さすがはルルク先輩です。……ありがとうなんでぇ、ソキを、撫でてくれても、いいんですよ?」
「えっ撫でて良いのやったー! ……よっしロゼアくんいない!」
 数秒で知覚範囲内にロゼアがいないことを確かめ、ルルクはえへんっとするソキにそっと手を伸ばした。指先で髪に触れる。ふわんふわんのサラサラの艶々である。ふにゃ、と照れくさそうにソキが鳴いた。えへへ、と嬉しそうに指になつかれて、ルルクは無言でソファの座面に突っ伏した。頑張って生きよう。
 突っ伏したまま動かないルルクに、ソキは不思議そうに首を傾げた。
「……もういいんです? 撫でないの?」
「うん……。二秒以上は過剰摂取で理性を失いそうだから……」
「むぅ……。ルルク先輩は誘惑できるのに、ロゼアちゃんはなんで駄目なんですかぁ……!」
 不満そうにしながらうぅん、とソファを押してソキの巣、もといひみつきちを隠そうとするのを手伝い、ルルクは深々と溜息をついた。
「まあ、あんまり悪いことしちゃ駄目よ、ソキちゃん」
「ソキねぇ、愛されらぶりー小悪魔系じょしを目指しているです。だからちょっぴり悪いこともしちゃうです」
「ソキちゃんはもうなにを目指さなくても傾国系だから安心してそのままでいてお願いだから」
 今一つ腑に落ちない顔をして、ソキがくちびるを尖らせる。でもでもだってぇ、とごねられる声で告げられるのは、ロゼアちゃんがちぃともなびかないんだもん、と要約すればそういうことである。なびききってもうなびく所残ってないだけだから、と真剣な顔で言い聞かせ、ルルクはさてどうしたものかと溜息を付いた。約束を取り付けられてしまったので、ロゼアに報告ができない。
「……まあ、なんとかなるか」
 なにせ現在位置は談話室。目撃者はたくさんいる。ふんふふん、と機嫌よくロゼアを探して談話室を出ていくソキは、ルルクさえ口留めすればどうにかなる、と思っているらしい。そんなことはないんだけどね、と思いつつ、ルルクは転ばないようにね、とご機嫌なソキの背に声を投げかけた。



 とはいえ、ハンカチが一枚ない、というのは大変なことである。何年も大事に使っていたものであるなら、なおさらのこと。洗濯を終えて部屋に戻って来たロゼアがやや落ち込んで行方の心当たりを訪ねて来たので、ソキは張り切ってこくりと頷いた。
「ソキ、新しい刺繍をしてあげるです。これでもう大丈夫です」
「……うん?」
「んっとぉー、どれがいいです? 同じ色にするです? 違う色にするです?」
 反物ならばたくさんある。『お屋敷』が送ってくるからである。そうでなくとも手芸部貯蔵の数々の布が『学園』にはあり、申請さえすれば自由に使っていいことになっているので、布は楽に手に入る環境なのだった。どれがいいかなぁ、と手芸の箱をぱかりと開き、あれかなこれかな、と端切れを前に考えるソキに、ロゼアは声にならない様子で天井を仰いでいる。
 しまった、やってしまった、と言わんばかりである。
「……ソキ」
「ロゼアちゃん? ソキ、ちゃぁんと! 綺麗に! お花の刺繍ができるです。綺麗なのです。ばっちりです」
 あのハンカチの刺繍は、まだまだソキが練習途中の時のものである。その時はまだ上手にできたと思えたのだが、今見ると花弁は歪んでいるし、糸はひきつっているし、とてもではないがロゼアの手元に置いてはおきたくない。ソキが知る限り、残るはロゼアの上着一枚である。もしかしたら他にもあるかも知れないが、ソキの失敗刺繍シリーズは、それを回収してしまえばおしまいの筈だった。
 もうちょっと、もうちょっとですううう、と気合を入れるソキに、ロゼアは事と次第を悟ったのだろう。額に手を押し当てながら、ゆっくり、窘めるように囁いた。
「どこにやったの……? 俺のだよ、ソキ」
「ロゼアちゃんのー、いいにおいがす、る、で、す、か、らぁー、あれは、ソキのー。ソキのーでーすぅー」
 あっでもなんのことだか分からないです、と胸を張って言い切り、ソキは落ち込むロゼアに手を伸ばし、てしてしてし、と頭を撫でた。



 いってらっしゃいロゼアちゃーんっ、と授業に送り出したあと、ソキはメーシャとナリアンに頼み込んで、ソファの位置を前にずらしてもらった。なになに、どうしたの、と覗き込んでくる二人に、淑女の秘密を見るだなんてはれんちですいけないです、と言い聞かせ、ソキはもそそそそっ、と隙間に潜り込んだ。ロゼアの良い匂いがすこし薄くなってきたキルトケットにふにゃふにゃごろごろすり寄ったのち、隠し収納を引っ張って小箱を取り出す。
 ぱか、とふたを取って、ソキはぱちくり瞬きをした。
「……んん?」
 なんだかすこし、様子が違っている気がした。ハンカチを取り出し、靴紐と紙片としおりを並べて確認する。一通り観察してから顔を引っ込めてくれたメーシャとナリアンの、俺も秘密基地作ったなぁ、としみじみとした声を漂わせながら、ソキはむむむっと眉を寄せて首を傾げた。おんなじである。ちゃんとそろっている。気のせいだったのかなぁ、と思いながら、ソキはロゼアのハンカチをきゅっと抱きしめた。
 最近、新しくしたばかりの、ロゼアの香水の匂いがする。瑞々しい柑橘と、石鹸と、緑の匂い。太陽のかおり。いいにおーいー、ですぅー、とひとしきり堪能して、ソキはまた丁寧にハンカチを箱に入れなおして蓋をした。そのハンカチの刺繍が、非の打ちどころもなく整った、精緻な花模様であることには。終ぞ気が付かないままだった。

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