書架の高い位置へ手を伸ばす為の梯子、その一番上に腰を下ろしたまま、リトリアは何度目とも分からない溜息を付いた。膝の上に乗せた冊子に視線を落として首を傾げるが、どうも今一つ、納得のできない気持ちで瞬きをする。
「……ストルさん。これで本当に喜んでくださるかしら……?」
目に痛い程にきらびやかに装飾された冊子の題名は『マンネリ気味の恋人たちへ! 貴方からのアプローチでどきどきさせちゃう百の方法!』である。雑誌の付録についていた小冊子なのだという。リトリアは気のない様子でそれを最初からまたぱらぱらと巡り、ひとつのページに指を押し当てて、つんとくちびるを尖らせた。
「それに、これはこの間、とても怒られたし……」
お疲れ気味の恋人を元気にする方法、胸を揉むか聞いてみる、である。ソキと相談していたらやってきた女性の先輩の助言であったので、これはいいのでは、と思ったのだが。怒られたのである。額に手を押し当てて声もなく呻いて、怖い目でリトリアを見て名を呼んで来たので、あれはきっとそう、怒っていたに違いない。怒らなくったっていいのに、とリトリアはくちびるを尖らせて我が身に目をやった。
それはその、服の上からでは膨らみがあるような、ないような、どちらかと言えば直線のような、気がとてもするが、服を脱いで下着になれば、最近はそこそこ、まるんとしているのである。最近はかわいい下着もつけているのだし。だから大丈夫、と言ったのに。それに、ストルが忙しくしていたり、疲れている理由には結構な割合でリトリアの家出が関わっている。
結局、家出、ということで、どうにかこうにか片付けられた件の逃亡劇ではあるのだが。ストルはそれをきっかけに、今度こそ、リトリアの守護役の座をフィオーレから奪還すべく、日夜あれこれと動き回っている。それを告げられた時の熱っぽい囁きを思い出し、リトリアはひとり、そっと頬を染めて俯いた。
「……うん。やっぱり、私が癒してあげなくちゃ……!」
リトリアのせいで疲れているのだから、それは正当な理由であるように思えたし、権利であるようにも感じられた。そうと決まれば、やはり勉強である。眉を寄せながら読書へ戻るリトリアの耳に、それまで聞かないことにしていたふわふわした涙声が響いてきたのは、その時だった。やぅー、やにゃーっ、いやぁあああっ、と訴える、蜂蜜みたいなとろけた泣き声は、梯子の下から響いてきている。
いじわるううぅう、だめぇええやだやんやっ、やにゃあああうにゃああっ、リトリアちゃんがいじわるぅをするぅーっ、これはひどいことですううふんにゃにゃーっ、と延々響き続ける訴えの中に、ロゼアを呼ぶ声がないのは、それが悪いことだとソキがしっかり分かっているからだ。なにせ、ソキはその手の本の閲覧を、ロゼアから禁止されている。
それなのに談話室で読んでいたら膝の上にそしらぬ顔で乗ってこようとしたので、リトリアは移動して移動して、ついに図書館の梯子の上なぞに腰を下ろしているのである。なにせソキは梯子を上れない。うぃしょ、と登って来ようとはしたのだが、自分の体を持ち上げる、という動きがどうしてもどうしてもできなかったらしく、もちゃもちゃやんやんもちゃもちゃちゃっ、とした末に諦めたのだった。
以来、ずっと梯子の下で、いやいや泣き声をあげてリトリアに訴えかけているのである。ぐずっ、ぐすんっ、と鼻をすする音が聞こえて来たので、リトリアはそっと視線で確認した。目元を手で覆い、肩を震わせるソキの姿が見えた。ぎゅぅ、と胸が締め付けられる。ごめんね、と言って願いを全部叶えてあげたくなる。しかし、である。数秒そのまま見ていると、ソキはぱっと手を離して、ちらちらっ、とリトリアを伺って来た。
視線が合うと、泣きまねがバレたことに気が付いたのだろう。あっと声をあげたソキは、どうするべきなのか、という難しい顔をして考えた後、両腕を上に伸ばしていじわるだめぇええっ、とまた訴えだした。ふふ、と笑ってリトリアは首を振る。
「ごめんね……ごめんね、ソキちゃん。あのね、ロゼアくんがね、怖いの……」
「ロゼアちゃん怖いことないですぅ! ロゼアちゃん優しいもん! ねえねえ、みせてー! 見せてくださいですぅー! その御本が駄目だったらぁ、そっち! そっちの、その、『政略結婚かと思ったら旦那様が溺愛して来ます!』かぁ、そっちの『極甘初恋婚。幼馴染が旦那様』がいいですぅう! 新刊! 新刊なんですううう!」
「ああぁあごめんねソキちゃん! ごめんね! 音読しないで! ごめんねっ!」
なんでですかぁああっ、と怒り切った声が響いてくるが、なんでもなにもないのである。頭を抱えて顔を真っ赤にしながら、リトリアはちらりと書架を見つめて瞬きをした。ソキ閲覧禁止図書は、当然、ソキが手の届かない位置に置かれている。そうであるから現在のリトリアの目の高さにそれらの本が勢ぞろいしている状態だった。うぅ、と弱り切った声をあげて、リトリアはその一冊に指先を伸ばし、背表紙を意味もなく突っついた。
「だ、だめ……だめだもの……。だめ! ソキちゃん、これ、えっちな本でしょう!」
「ちぁうもんちぁうもん! ロゼアちゃんをめろめろきゅんっ、にする為の参考書にするですぅうう!」
「駄目ったらだめ! もっと大人、に……大きくなってからにしなさい!」
ソキは大きくなるし来年には成人にもなる淑女なんですうううっ、と足元から立ちのぼる猛抗議を、リトリアは耳を手で塞ぐことでなんとか耐えきった。それにしてもどうして新刊の題名まで把握しているのか。またロゼアくんに叱られちゃうよ、とリトリアが声をかけようとした時だった。足音もなく忍び寄って来ていたロゼアが、興奮して暴れるソキを、ひょい、と抱き上げて微笑んでいる。
「ソキ。図書館で騒いだらいけないだろ。……リトリアさん、困らせてすみません」
「う、うぅん! 気にしないで! そっそれより私、その、まだなにも見せたりしていないから……!」
「……うん?」
あっだっこだからもしかしたら手が届くかも知れないです、ううぅうんっ、と一生懸命手を伸ばしているソキを宥めながら、ロゼアが見かけだけ和やかに笑みを深める。ロゼアは微笑みのままにふくふくとしたソキの頬を指先で突っつき、こーら、と響きだけ柔らかに『花嫁』を窘める。
「ソキ。ああいう本は読んだらいけないって言っただろ」
「ロゼアちゃんもリトリアちゃんも勘違いをしているです! あれはぁ、参考書! 参考書なんですよぉ?」
「うん、そうだな。参考書だな。でも駄目」
ぴしっと言い放ったロゼアの腕の中で、ソキがこの上なく悲しそうな顔でいやぁああんっと身をよじる。ロゼアは慣れ切った態度で、図書館で大きな声あげたらだめだろー、と言い、リトリアに目礼をしてから立ち去って行く。リトリアはそっと手を振ってロゼアとソキを見送り、ほっと胸を撫でおろしてから無意識に書架を見た。
「……ええと」
ソキが『お屋敷』にはなかったという理由でこの手の本に興味津々なのと同じで、リトリアも手には取ったことのない本である。リトリアが『学園』に在籍していた頃にはすでにあったと聞くが、なぜか見たこともないし、聞いたことのないものだったのである。今持っている小冊子だって、最近になって楽音の同僚や、『学園』の先輩たちが貸してくれるようになったくらいでリトリアの私物ではないのだった。
つまり。興味がない訳ではない。読んだことがないだけで。
「……で、でも、えっちなのは、いけない……いけな……あぅ……」
興味がない訳ではない。ちら、ちらっ、と書架を見て、リトリアは唐突に気が付いた。リトリアはとっくに『学園』を卒業した魔術師であり、つまり大人であり、ソキとは違うのである。そろっとリトリアはあたりを確認した。右を見て、左を見て、誰もリトリアに注意を払っていないことを確認する。
「……えっと、その……そう、一冊、一冊だけなら……」
「リトリア?」
「きゃぁああっ!」
無実を訴えて両手をあげるリトリアを訝しげに見上げながら、チェチェリアがロゼアを見なかったか問いかける。リトリアは頬を両手で押さえながらあっち、とふたりが消えた方向を指さし、ちがうの、と涙ぐみながら訴えた。
「私そんな……えっちなこじゃないの……。き、気の迷いなの……」
すい、とチェチェリアの視線が書架へ向く。ああ、と浮かべられた微笑みと頷きは、達観しているようで、諦めてもいるようで、胃の痛みを堪えているようでもあった。
「……程々にな、リトリア。ストルとツフィアに見つかったら事だぞ」
「ま……まだ読んでないの……。ほんとう、ほんとうよ……?」
「そうか。……まあ、降りておいで、リトリア。お茶にでもしよう」
手招くチェチェリアにほっと胸を撫でおろし、リトリアはするりと梯子を下りた。並んで歩き出すリトリアの手には、冊子が持たれたままである。当然のごとく気が付いて、チェチェリアは頭の痛そうな声で問いかけた。
「その冊子は、誰から?」
「これ? これはね、エノーラさん」
「……そうか」
ストルさんがお疲れのようだからね、元気になって欲しくて、それで、とうっすら頬を染めて訴えるリトリアに、チェチェリアは心から、止めておきなさい、と囁いた。リトリアがなにもしないで大人しくしているのが一番である。えぇ、と不満そうに声をあげるリトリアに、チェチェリアはいいから、と言い聞かせて。午後の陽光に目を細めながら、図書館の扉を押し開いた。
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