いつか、どこかの世界で。あったかも知れない欠片のお話。没原稿ともいう。
おんなのこのひみつのおはなし あたりの ぼつげんこ
没の理由:たぶんこれバットエンドルートなんですよね。
体調が悪くなったらすぐに横になって眠れるようにだろう。談話室でソキが座っていたソファは三人がけで、右端にはたたまれた毛布と枕、アスルがちょんと置かれていた。座った場所から動かなくても手を伸ばせば取れる絶妙な距離感覚の配置は、訪れたウィッシュにさすがロゼア傍付き、と感心させるものだった。ソファの左端にはいくつかの教本が置かれていて、これも座った位置から手を伸ばすだけで引き寄せられる為、左右の空間には一人くらいならこじんまりと腰かけられる余りがあった。
ウィッシュはぷぷーっと頬をふくらませて不満げにしているソキに歩み寄りながら、ソファの前に置かれた机を見る。室温にぬるまった水の入れられたグラスと、温かなお茶が入っているであろう保温瓶、空の陶杯がおかれ、小瓶に詰められた飴玉と焼き菓子も見つけられた。ゆったりとした足取りでソキの前に辿りつき、担当教員はうん、と頷く。
これは屋敷でよく見た『花嫁』の、『傍付き』が傍からどうしても離れなければいけない時の用意である。絵本や物語をつづった本が教本に入れ替わっているだけで、たいした差などない。ソキは敷布代わりに置かれて行ったロゼアのローブに包まって座り込みながら、んんんっ、とむずがるような声をあげてウィッシュに訴える。
「おにいちゃん聞いてくださいです! ろぜあちゃんひどいですかほごです!」
「ソキ、おにいちゃんじゃなくて、先生なー? んー? ……どしたの? 動いちゃだめだって?」
「やぁんソキひとりで歩けるですよぉっ……けふっ、んっ……んんーっ!」
やぁんやぁんお咳出ちゃだめだめやぁあんっ、とじたばたじたばたしながら嫌がるソキの体調は、悪いとも言い難いが決して良くはないらしい。パーティーが終わってからというものの安定せず、回復もしきらない体調は、そろそろ白魔法使いを呼ばないとだめかもしれない、と囁かれる程だった。ウィッシュも当然聞いていたので、パーティー前から数えて、かれこれ一月は実技授業を行っていない状態だ。今日だってウィッシュは授業をしたのではなく、仕事の合間にソキの顔を見に来ただけである。
ううん、と難しげに眉を寄せながら、ウィッシュはソキに手を伸ばす。額に触れ、熱がないことを確かめながら、意識を集中させて魔力を探る。きらめく砂粒のような、虹色に揺らめく陽炎のような、形のないそれは風に吹かれているかのよう、ゆらゆらと落ち着かずふるえている。だめか、と息を吐き、ウィッシュはソキから手を引いた。
「これじゃ、回復しないだろうなぁ……ソキ、魔術使って回復しようとはしないでな。それだけは絶対、だめ」
「ろぜあちゃんとおやくそくしたです。しなぁいですぅー」
何回も何回もみっちり言い聞かせられたのだろう。普段よりもほにゃほにゃした響きの拗ねきった声で、ソキはこころから嫌そうにむくれてみせた。この様子では、寝台から起き上がることさえロゼアは良い顔をしなかったに違いない。起きても良い、けど談話室で動かないでじっとしていること、が譲れる最後の線だったのだろう。正しいな、とウィッシュはしみじみと思った。在学時代の己と照らし合わせて考えても、この状態では座学ですら、体がついて行かない。
なんとか熱を出さないでいる状態だから、そんなことをしたら一気に崩れるだろう。ソキが己の状態をいまひとつ正確に把握していないのは、屋敷時代からゆるくゆるく巡っていた恒常魔術のせいだった。今は恐らく、ロゼアの願いもあって発動が切られている状態なのだろうが、それがあったが為に、ソキはもうすこし自分の体が丈夫なのだと思ってしまっている。
うつくしい外見の代償のように、『花嫁』『花婿』の体のつくりは脆く、弱い。それは生まれつきそうであるし、成長していくにつれ意図してそう整えられるものだが、ソキはその中でも群を抜いて弱く、甘く、脆かった。ウィッシュはそれを覚えているし、ロゼアはそれを知りぬいている。ロゼアの献身的な、ソキの体を知りぬいているが故の慎重な対処が、なんとか踏みとどまらせているだけなのだ。それでも、ロゼアは未だ未熟な魔術師だ。
魔力に触れそれを落ち着かせることなどできないし、その術を知りはしないだろう。分かっていたとしても、こうも砕けて形を無くしたそれに、手を出すことのできる魔術師は存在しない。魔法使いですら難しいだろう。旅の初期。白雪の国でウィッシュはすでに、ソキの魔力に一定の対処をしていた。その時は担当教員になるとは思ってもみなかったが、無事に学園へ辿りつけるお守りを渡すような気持ちで、ソキの魔力に己のそれを溶け込ませ、安定する、留まるかたちというのはこうだよ、という見本にさせたのだ。
それは上手く行った筈だった。旅を終えて入学し、担当教員と生徒として再会する頃には、魔力が落ち着いていたからだ。深く探らなければ砕けている、ということすら分からせない程に。落ち着いて、おぼろげであっても形らしきものを成していた筈だった。けれども、今は完全に砕けてしまっている。パーティーの夜、ソキは回復魔術を使ったのだという。妖精がそれを担当教員へと告げた。使えた、ということは、その時までは保てていたということだ。
さもなければ発動すらせず、渦巻く魔力が即座にソキの体調を悪化させただろう。流星の夜のすこし前、意識すら保てず寝込んでしまっていた時のように。だから、砕けたのはその後だ。ソキはツフィアに会ったのだという。ひどく怯えて、怖がっていたと妖精は言った。痛い、と訴えたとも。今、ソキが痛みを訴えていないのは、砕かれた事実を認識していないせいだった。
思い出すたび、ソキは繰り返しそれを忘れて行く。砕かれた恐怖と痛みはたやすく暴走を引き起こす。だから、それは魔術師としての自己防衛だった。口唇を噛んで、どうすればいいのか、ウィッシュは考える。このままにしておくことは出来ない。体調を崩していても、日ごと、魔術師としてのソキは成長を続けている。流星の夜を終えた魔術師の卵が、皆そうであるように。湧きいずる魔力はいずれかりそめの器を壊し、外側へ溢れだしてしまうだろう。
守りが必要だった。指輪の他にもうひとつ。ふたつでも、みっつでも。助けになるものがどうしても必要だった。砕けてしまった器が元に戻ることはない。魔術師として目覚め、十数年が経過したのちであったのなら別だっただろう。己の内側にあまりに馴染んだ形を、思い出し、形作ることが出来たかも知れない。ソキの器は、ウィッシュが触れた時にはもうすでに砕けてしまっていた。
ソキが知らないものを、思い出せもしないものを、形成すことは不可能だった。いくら予知魔術師であろうとも。せめて助けになるように、ウィッシュはむくれるソキの手を取り、そこからごく慎重に魔力を流しこんでやった。風に煽られ、砂が舞いあがるように。魔力がふわり、輝きを増して散らばった。
***
祝福の子よ、歌え 没ルート メモ原稿 でした
没の理由:つまりラーヴェさんに会わずに楽音組に捕まって国に戻されてるんですよね。あと一部設定の食い違いもあります。
ツフィアの手を両手で包みこむようにもったまま、かたかたと震えるリトリアの顔色はひどく悪い。極度の混乱状態にもあるのだろう。え、あれ、と意味のない呟きが幾度となくこぼれ、そのたび、涙が零れ落ちて行く。
「ごめ……ごめんな、さい。ごめんなさ、つふぃあ。すぐ、すぐだか、ら……すぐ、ですから。すぐ、終わらせますから……」
もうすこしだけ、我慢していてくださいますか、と。そっと囁く声の響きを、ストルは知らず。恐らく、ツフィアも己に向けられたものとして直に聞くのは初めてだろう。リトリアは常に敬語か、丁寧な口調で話しているが、それは二人を除いてのこと。これまでリトリアがそう話しかけることは、決してなかった。
「……リトリア?」
訝しく思い、そしてまた落ち着かせようと名を呼んだストルに、リトリアの体がびくっと跳ねる。驚きではなく、明らかな、怯えに。くっとくちびるに弱く力を込め、向けられた瞳には涙が滲んでいた。まばたきと共に、頬を伝い流れて行く。はい、とちいさく返事したのち、震える声がかすれて告げた。
「ストルさん……ごめんなさい、ごめんなさい。もうすこしだけ、待っていてください。すぐに……」
「リトリア。なにを」
言っているんだ、と眉を寄せるストルに、リトリアはいやいやとむずがるように首を振った。涙を零しながらしゃくりあげ、辛そうに息を吸い込む。
「……だ、だいじょうぶです、から。わたし、わかっていますから……」
「なにを?」
まっすぐに向けられるツフィアからの問いに、それでもほんのりと、話しかけてくれて嬉しいだいすき、と告げるような淡い微笑みを浮かべてはにかみながら。リトリアは目を伏せ、それを告げた。
「ストルさんが、好きなのは……ツフィアで、ツフィアが好きなのは、ストルさん、でしょう? それなのにわたし、わたしが……魅了して、歪め、て……ふぇ」
好きになってもらっていたんでしょう。だからごめんなさい。いますぐもとにもどすから。泣きじゃくりながらなんとかそれを告げるリトリアに、ふたりの笑みが深まっていく。
今なにかこの世で一番聞きたくなかったような誤解がこの子から告げられた気がするのだけれど気のせいかしらストル、すまない本気でリトリアがなにを言っているのか分からない、と視線を交わし合う二人に、リトリアは目元をごしごしと拳でぬぐい、すこしばかり落ち着いた様子で息を吸い込んだ。
「すみません。……もう一度見せてもらっていいですか?」
「その前に」
すこしいいかな、と戸口から笑いに満ちた声がかかる。いつの間にか扉が開かれ、戸口に背を預けるようにして、ひとりの男が立っていた。海色の髪に青い瞳のうつくしい男。楽音の陛下、と声を重ねる二人の傍で、リトリアがふわ、と花咲かせるような笑みを浮かべた。
「スティ兄様……!」
「おや。……ふふ、本当に戻ったんですね、記憶。ひさしぶりでした、リィ。ああ、そこの二人は他言無用でお願いします」
あ、とばかりくちびるを手で押さえるリトリアに歩み寄り、くすくすと笑って、楽音の王は少女の瞳を覗き込んだ。
「まったく。心配ばかりかけて」
「ごめんなさい……スティ兄さ、陛下は、どうしてここに?」
「君が起きたと聞いたから。エルもそのうち来ますよ」
エル、というのは花舞の女王の呼び名である。リトリアはさらにぱぁっと顔を輝かせて、エル姉様にお会いしたい、と囁いた。喜びますよと囁きながら、楽音の王の視線が、ストルとツフィアへ向けられる。
「一応説明しておきますと、私はリトリアの父方。そして、花舞のが母方ですので間違ってはいませんよ? ……まあ、でも、今のリィは王宮魔術師ですからね。公の場で呼ばないように気をつけなさい」
「うん」
こくん、と頷いたリトリアに、ストルの目がすぅっと細められる。自分に対しての返事が『はい』であったのに、楽音の王に対してのそれが『うん』であったのが気に食わないらしい。よしよし、とリトリアを撫でながら、楽音の王が肩を震わせて笑う。
「さて、リトリア? さっきから聞いていましたが、また面白い勘違いをしているようですので、訂正しましょうね」
「……かんちがいじゃないもん」
リトリアが返事をするたび、隣の気配が冷えて行くのをどうしてこの男はこうも心が狭いのかしらと思いながら、ツフィアは寛容にそれを放置してやった。
「まったく。……まあ、実証した方がはやいでしょう。リトリア」
「はい?」
「王命です。宣誓だと思い、嘘偽りなく告げなさい。この二人を……どう思っているのかどうか」
ストルとツフィアを手で示され、リトリアは息を吸い込む。申し訳なさそうにしながらも。告げる声が甘く緩んでいた。
「ツフィアは、私の……美しい歌。どこまでも響く、きよらかな、なににも代えがたい旋律。どんな場所でも、どんな時でも、途絶えず、そっと響き続ける。旋律、歌、私の……しあわせ。幸せは耳に触れ染み行く歌の形をしている。彼女こそ、私の、美しい歌」
「では、彼は?」
「ストルさんは……私の、透明な水。それがなければ枯れてしまう花の、命を繋ぐ水。雪解けの、きよく冷たい水。痛みに震える喉を癒して行くもの。乾いた大地に降り注ぐ幾億の雨粒。私はそれがなくては生きていけない。彼が、私の……透明な水」
その言葉は王家の暗黙の秘密であるが、知る者が文書に残すことを禁じてまではいない。ただ、口外はしないことであるので、残っているとしてもごく僅かだろう。それでも読書家であるならあるいは、知っているかも知れないが。意味ありげな視線をツフィアに向けて微笑んだのち、楽音の王は恥ずかしげにするリトリアに囁きかけた。
「二つとも、正常に祝福を帯びているのは分かったね?」
「……うん」
今はじめて告げられた言葉ではない。本人を前にして言ったのがはじめてであるだけで。暗にそう教えながら確認した楽音の王は、やわらかく目を細めてリトリアを見た。
「言葉を教えた時に、一緒に言いませんでしたか? これは魔術を伴わない、血統による祝福の言葉であると」
「言われました……けど、えっと?」
「これは魔術師にも手出し出来ない、世界そのものからの祝福を与える誓言。望まぬものを退け、魔術による災いや呪い、一切を無効とする。その言葉が告げられたその時、その瞬間から、その命つきる時まで。……リトリア」
ぽんぽん、と少女の頭を撫で、立ち上がりながら、楽音の王は告げる。
「つまり、君の魅了はこの二人にかかっていないよ。他ならぬ君の聖なる言葉【ホーリワード】が彼と、彼女を守っている」
「……あれ?」
「あれ、じゃないの。はい、愉快な誤解はお終いにすること。……さて、私は行くから、君たちはこのこを無理させない程度に留めて、休ませるようにね」
それじゃあまた後日、と言って部屋を出て行った楽音の王が、ぱたん、と扉を閉じる音がした。リトリアはまだ硬直しながら、目を瞬かせ、首を傾げている。ぱちぱち、涙をまだ頬に流しながらまばたきをしたリトリアの瞳が、そろそろと持ちあがってストルと、ツフィアを、みた。
「……あれ?」
なんで、と言わんばかりである。こちらの台詞だ、と二人は思った。
***
あなたが赤い糸:37 没原稿 1
没の理由:シークの視点からの書き始めだったのですが、上手く馴染まず。最終的にウィッシュ視点になるまで相当迷走しました、という記録。
同僚がその腕に我が子を取り戻す瞬間というのは、中々に感動的な光景だった。そうは思いつつもシークは口から溜息を零し、眉を寄せながら室内にぐるりと視線を巡らせる。思い浮かべるのは資料に記された名と簡易的な役職説明、当てはめながら数を数えて行く。悪いことに、ジェイドが指名した十五人の全てが、室内に集まっているようだった。
ソキやロゼア、他にも数人、該当しない者もいるようだったが、こうなれば些細な誤差だろう。ソキは室内の緊張に眉を寄せておどおどしながらも、隠しきれない好奇心をちらつかせる、きらきらとした目でジェイドを見つめていた。ジェイドの、無意識の『花嫁』『花婿』誘引体質は衰えていないらしい。ロゼアが眉を寄せ、ソキの目を手で覆っているのが見えた。
やぁんや、とふわふわした声が静まり返った部屋に響いていく。だぁれ、ねえ、あのひと、だぁれ、と甘く蕩けるような声で『花嫁』が『傍付き』に問いかける。むっとした顔を隠そうともせず、ロゼアが視線を向けたのは当主そのひとだった。リディオはその視線を受け止めもせず、一心に、ウィッシュとジェイドのことを見つめている。瞬きと呼吸だけをしている。
シークは天を仰ぎたい気持ちになりながらも、すい、と立ち位置を変えて、彼らの視線を遮るよう、魔術師と『花婿』の前へと立った。『お屋敷』の者たちに背を向けることはせず。視線だけをすこし、背後へ流して問いかける。
「始末書だよ、ジェイド。分かってる?」
「分かってるよ。……ウィッシュ、おいで。ここにいたらいけないよ」
「……ぱぱ?」
あどけない問いに微笑んで、ジェイドはウィッシュを両腕で抱え上げた。
「……大きくなったね、ウィッシュ。重たくなった」
うん、と呟いて『花婿』が魔術師に甘えて腕を回す。目を閉じてすり寄るぬくもりに、ジェイドはしあわせそうに目を細め、喉の奥で静かに笑った。あーあ、と首を横に振り、シークはもう一度、その叱責を繰り返す。
「魔術の無断使用は始末書だよ、ジェイド」
「一枚だって二枚だって書くさ。……目を閉じておいで、ウィッシュ。もう大丈夫。大丈夫だから……」
穏やかに。囁く声は『傍付き』のものだった。
***
あなたが赤い糸:37 没原稿 2
没の理由:迷走の記録、そのに。なんで最初からウィッシュ視点にしていなかったのかというと、書くのが一番しんどかったからです……(笑) どうにかならないものかー! と思って迷走して、どうにもならなかった、という。
花妖精がその魔術師を目にしたのは、殆ど初めてのことだった。先日『学園』で少しだけ遠目に見たが、声をかけることはせず、ただ甲斐甲斐しく世話をする四枚羽根の鉱石妖精の姿を眺めていた。だから、『花婿』と呼ばれた魔術師の卵を、初めて見るかのように感じて総毛だった。恐ろしい、と、はじめて、その感情を魔術師に対して思う。なんて純粋な魔力の吹き溜まりだろう。
どろどろとした感情に食い荒らされた魔力が、人の形をしたその器の中に留められている。人は誰もそれに気が付かないでいる。言葉魔術師はごく僅かに眉を寄せて何度か瞬きし、問うような視線を『花婿』を抱きとめるジェイドに向けたが、意思は戻されないままだった。ジェイドは泣きじゃくる『花婿』を宥めるのに心を傾けていて、その存在を世界から隠すよう抱き留めているだけで、室内の意思や向けられる言葉のなにもかもを無視していた。
ため息をついて、言葉魔術師の視線が花妖精に向けられる。花妖精は震えて頷くだけで、声を響かせることはしなかった。ほんの些細な振動が、なにもかもを壊してしまう気がした。鉱石妖精が思い切り顔をしかめて花妖精の腕を引く。ソキさんを、遠ざけましょう。声なく、ゆっくり、ゆっくり、くちびるを動かして捧げられた意思に、花妖精は慎重に頷いた。
どうして『学園』で目にした時に、気が付かなかったのだろう。気が付いてあげられなかったのだろう。悔いる意思は眩暈となって花妖精を襲ったが、それに答えられる者はいなかった。そろそろとソキに向かって降下していく妖精たちの耳に、『花婿』の淡い、甘い泣き声交じりの声が届いていく。ジェイドのことを幾度も呼び、会いたかったと繰り返す。俺もだよ、と男は包み込むような愛に満ちた声で囁いた。ひび割れるような音が、した。
離れて、と誰か女が叫ぶ。声の大きさと、そこにある怒りに、ソキが怯えて体を震わせる。しふぃあさん、とソキが女の名を呟き落とす。女は傍らに立つ男に宥められながら、射殺しそうな目をジェイドに向けていた。離れて、離して、誰なの、ウィッシュを返して。ジェイド、と困惑した様子でリディオが名を呼んでも。ジェイドは『花婿』の耳を手で塞ぎ、世界から切り離すように、その腕の中へ抱き寄せたままでいた。
あ、あぅ、うゅ、と困り切った顔をして室内を見回すソキの元へ、花妖精は柔らかく降り立った。
『ソキ。ソキ、いい子だから、もう帰りましょう?』
「よ、ようせいちゃ……。みんな、なにか、おこてるです……? どう、したの? ねえ、ねえ、どうしたの……?」
『ソキさん。いい子ですから、戻りましょう。……ロゼア。ロゼア、ああ、どうか……!』
この言葉を聞いて欲しい。この声を聞き届けて欲しい。それが叶わぬ願いだと知ってなお、鉱石妖精はロゼアに強く願う眼差しを向けて囁きかけた。離れましょう、この部屋から。一刻も早く。切迫した妖精たちの声色に、ソキはきょときょととあたりを見回し、怯えてロゼアにひっついた。ロゼアは穏やかに微笑んでソキを抱きなおし、ラーヴェにそっと歩み寄る。
言葉が、いくつも。ソキの上を滑って行く。ロゼアとラーヴェがジェイドとウィッシュのことについて、言葉短く、早口で情報を交わし合うのを焦れた気持ちで待ちながら、花妖精はむずがりながらもじっとして、一つの所へ視線を向けたままでいるソキを、見つめていた。ソキが見ていたのはリディオだった。当主の、父親の、見たことのない横顔を、『花嫁』は不思議そうに眺めていた。
夢見るように。うっとりと、柔らかな表情で、リディオは『花婿』と魔術師のことを見つめていた。怒れる世話役たちに苦慮しながらも、その瞳には隠しきれない陶酔があった。この時をずっと、待っていたのだと。この光景をずっと、目にしたかったのだと。夢見ていたのだと。思い描いていたのだと。その瞳が、横顔が、告げている。ソキはそれを見ていた。不思議そうに。
ひび割れる音がした。
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