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とある輝石の回顧録:リゼ





 彼は夜のようだった。
 星明り降る、ひかりに満ちた、きらきら輝きわたしに笑う。
 さびしくないよと囁きかける。
 夜のような、ひとだった。



 こふ、と乾いた咳をする脆い喉はもう生まれた時からの付き合いで、いまさら煩わしく思うようなものではない。けれどもそうするたび、青年の微笑みがふっと心配そうに陰ってしまうので、どうしてもうすこしばかり強くつくられなかったのかと思う。もうすこし。ほんのすこし。すぐに咳をしてしまう脆さでさえなければ。
 ずっとずっと、笑ってくれていたに違いないのに。
「アレイス……そんな顔をするものではないよ。わたしは、へいき……。知っているだろう? なにもなくとも、ときどき、咳をしてしまうだけなのだから」
「……リゼ。もう眠ったほうがいい」
 てのひらがそっと、撫でて行く。頬に触れ、首筋に滑り落ちたてのひらが、とくとくと脈打つ鼓動を探っている。夜のような瞳が私を覗き、たしなめるように囁きかける。リゼ。もう眠ったほうがいい。何回も、何十回も、何千回も囁かれた言葉。いつもと同じ。優しく響き、消えて行く言葉。
 それに従っても良いのだけれど。私は笑って首を振った。
「嫌だよ、起きている」
「リゼ。……リゼ、もし、熱を出したら」
「うん。そうしたら、明日の出発は延期になるかも知れないね、アレイス。……しんぱい、しなくて、いいんだよ。私はそんな、へまをしない。……明日、ちゃんと、嫁ぐよ」
 アレイス。だから。もうすこしだけ。できれば今日はもう眠りたくないのだけれど、そんなことは許してはくれないだろう。でも、だから、どうか、もうすこしだけ。起きていたい。傍にいたい。明日にはもうこの存在を、失わなければいけないのだから。
 額に触れていた手が離れ、仕方がないな、と告げるように背が撫でられる。とん、とん、と触れるのは眠りに導く穏やかさで。くす、と笑いながら、抱き寄せてもらった腕の中でん、と手足を伸ばした。真新しい白い服は、今日になって与えられたもの。青年とまったくお揃いの、大きさだけが違う上下は、もう明日になれば取りあげられてしまうのに。
 たった一日。いつだったか、お揃いが着たい、とねだった言葉を覚えていてくれたのだとしたら。それをどうにか叶えてくれたことが嬉しかった。嬉しかった。同じ『花嫁』の中にはズボンを禁じられた者もいるから。いくら願ったとて叶えられなかっただろう。
 うれしかった。アレイスがそう育ててくれたから、私たちは同じものを着ることができる。
「……ふふ」
 思い至って笑みが零れる。リゼ、と問う声に、ちゃんと笑えていたかは分からないけれど。
「私の花嫁衣装は……どちらなんだろうかと……。スカートは、嫌だな……いまさら、似合うとも、思えないよ」
「リゼなら、どんな服でも似合うよ」
「うん。……アレイスがそう言うなら、そうなんだろう」
 でも嫌だな、と思った。ひらひらの愛らしいドレスを着て行くのは嫌だな、と。だってそういう風には育てられなかった。リゼは『異性装の花嫁』というのが売りだ。少女めいた軽やかな声ではなく、低く落ち着いた響きと、凛々しい顔立ち。砂金のような髪に赤い瞳は気の強い印象で、そういう方向性が似合うと、そのように整えられたのだ。
 スカートに脚をとおしたことは、これまで一度か、二度くらいしかない。あんまり慣れなくて、いたたまれない気持ちで、似合うとも思えなくて。だから。そんなものではないといい。最後の瞬間までうまく笑っていられるように。似合うと言ってもらえるズボンがいい。
「リゼ」
 揺り籠のような腕が私を抱く。
「……しあわせになれるよ、リゼ」
「アレイス。ああ……」
 きみのもとで。きみと一緒に。きみと、わたしは。
「……アレイス、きみがそういうなら……」
 しあわせになりたかったよ。



 ふうん、と尖った唇は花のくれない。拗ねた風に瞬きをする瞳は夜の漆黒。長く伸ばされた黒髪をくるくると巻く指先の、艶やかな爪も淡い花の色をしていた。
「それで……それであなた、私を見た時におどろいたの」
「……驚いただろうか」
「そうよ! 泣くほど驚いたじゃない! ……分かったわ、分かってしまったわよ……なに? 私はそんなに似ているの? その、あ、あ……」
 もごもごと口ごもるのに、ふ、と笑みが零れる。
「アレイス?」
「それよ! その、男に……私が似ているのでしょう! そうなんでしょう! なによなによ! 色だけじゃない!」
 失礼しちゃうわっ、とぷりぷり怒りながら、ほっそりとした指先が砂糖菓子を摘みあげてくちびるに運ぶ。ちょっと、私にばかり食べさせていないであなたも食べなさいよ、と怒られた。苦笑しながらひとつ食むと、ほっと肩の力が抜けたのが見える。
「そうよ。素直に食べればいいのよ……まったく、食が細いったら……」
「……心配をかけてすまない。君には申し訳ないと思っているんだ。君の多忙を、私は手伝ってやることもできないし……」
「私は一度だってあなたに手伝ってほしいと言ったことはないわ。私の忙しさは私の戦いであって、あなたに手を出してほしいものじゃない。……ねえ、あなたはそれを悔しいとか、申し訳ないとか、思うかも知れないけど……」
 怖々、机越しに伸ばされた手が頬に触れる。私があまり触れられることを好きではないと知ってから、ずっとこんな風に、恐る恐る、触れてくる手に、胸の奥がせつなくざわめいた。好きではない、ともう知っているのに。受け入れて欲しいと、諦めないでいてくれることが、嬉しいと思えるようになったのはいつからだろう。
 触れる手をそのままにしておいたからだろう。ほ、と笑った瞳が、私を覗き込んでくる。
「……家に灯りがともっているのよ、リゼ。ただいま、と言ったら、おかえり、と出迎えてくれる。それが……どれだけ嬉しいか」
「でも、それしかできない。わたしはもっと、もっと……きみに……」
 頬に触れる手に、はじめて、指先をあてる。目を伏せて息を吐きだす。
「よろこんでもらいたいよ……」
「……あああぅ……」
 なにかを呪うような呻きだった。ん、と視線をあげると睨まれる。こわい。
「リゼ。そういうことは……初恋をふっ切ってからおっしゃい……!」
「それは、その……すまない……」
「いいわよ。今に見てなさい。私がちゃんとリゼをしあわせにしてみせるし、リゼにちゃんと恋してもらえるようにも努力するんだから……!」
 ふん、と鼻を鳴らして席を立ち、乱れたスカートの裾を整える指先は今日もあいらしくうつくしい。これからまた出かけて行くのだろう。帰りは遅くなるから眠っていていいわよ、と告げるのに頷いて、私はいってらっしゃい、と囁いた。
「お気をつけて……旦那さま」
「ありがとう。行ってくるわ、私の新妻さん」
 頬を包む手が顔を引き寄せる。くちびるが掠めたのは私の前髪だけ。颯爽と歩いて行く背を見送って、ひらり、揺れたスカートになんとなく思った。帰ってきたら、お揃いが着てみたい、というのも良いかもしれない。私が旦那さまとお揃いでも、旦那様が私とお揃いでも、あまりおかしいと言う者もいないだろうし。
 夕方の空を見上げながら、私は灯篭に火をいれる。夜に、まっすぐここを目指して帰って来てくれるように。さびしくないよ、ひとりじゃないよ。そう告げる明りになるように、祈りながら。夜を見上げる。夜空に微笑む。彼は夜のようだった。星明り降る、ひかりに満ちた、きらきら輝きわたしに笑う。さびしくないよと囁きかける。
 夜のような、ひとだった。

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