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 歩み寄る足音はなく、衣ずれの音だけが耳の奥までやさしく染みて行く。息を吸う音は濡れた歓喜に色めいていた。
「……ようやっと見つけた」
 こんなところにいたんだな、と。囁く声を知っていた。やわらかに満ちるひかりを遮って、屈みこんだ姿が影を落とす。眠る頬を撫でる指先。まどろみを深くするように甘く、暖かな。名前を、呼ばれる。今は失われた名。弔われた名。亡くなった名。
 それに返事をしたくて、でも、していいのか迷ううちに夢から覚める。いつも、いつも。



馨しき花よ、歌え




*** 迎え



 にわか雨はちょうど中庭の一角だけを避けて通り過ぎて行ったらしい。くっきりと色を違えた煉瓦を見下ろしながら、昼寝の為の寝椅子から身を起こし、少女はくしくしと目をこすった。欠伸が零れて行くのは、まだ寝足りないからだ。昨夜、遅くまで起きすぎた為だった。
 やはり、なんと言われてももうすこし早く夜会を切り上げてしまうべきだったのだ。
「眠たそうだね、お姫さま」
「おとうさま……だって、昨夜は嘘をつかれたのだもの……」
「どんな風に?」
 執務の途中だったのだろう。きっちりを着こんだ制服に一部の乱れもなかったから、少女はとろりと翠の瞳を和ませ、中庭に面した窓から身を乗り出している青年に訴えた。
「昔、会ったことがあるのですって……お話をしていれば、もうすこし思い出せるかも知れないのですって……」
「嘘だったんだね?」
「……うん」
 だってね、全然違ったの。そう呟いたきり多くを語ろうとしない少女に手を伸ばし、男は寝乱れた髪をさらさらと撫でてやる。ひっく、と泣きそうにひきつった息が吸い込まれる。
「一目でいいのに……」
「そうだね。居場所さえ分かれば、どんな手を使ってでも君の為に婿に引っ張ってくるんだけど」
「結婚、を……しているかも、しれないの……」
 わたしがここへ来たでしょう、と少女は言った。それを、話半分に流すように、男は頷いて聞いた。数年前。少女は男の『花嫁』として、この家へ連れて来られた。それは長らく、男の家の悲願でもあった。少女は『砂漠の花嫁』と呼ばれる見目麗しい至宝であり、男の家は数代に一度、そう呼ばれる少女、あるいは少年を迎えては栄える『花園』と呼ばれる一族であった。数年前、男の祖父であった『花婿』が死んだ。それから家は光を失ってしまったかのように沈みかえり、誰もかれもが新しい花を望み、待ち焦がれ、希った。
 そうであるから『花嫁』を迎えることは、悲願と言って良いことだった。ただし。それが本当なら、男の次代で、という前提あってのことである。望んでいたのは確かだ。十数年後に、できれば、後継となる者がある程度育ち、落ち着いたらその時に『花嫁』を番わせたいのだと。そう『お屋敷』に要請していたのは確かなことで。そうであるからこそ少女が連れて来られたのは完全なる事故であり。それは、連れて来られた、とするのに全く正しい状況だった。
 前触れはあった。到着の二日前に。もうどうすることもできない距離まで辿りついてから、『花嫁』をお迎えくださいと、一方的に。呆然とし、差し出した質問状の回答を待っているうちに、『花嫁』は連れて来られた。ひどく泣いたのだろう。目元を真っ赤にし、俯き、震え、ぐしゃぐしゃにひび割れた声で己の名を呟き。一瞬、持ち上げられた視線で男のことを確認した瞳は、その年齢の差にも感情の色を薄くした。少なく見積もって十五、二十くらいは離れている。
 雨に打たれ続けていたように震える『花嫁』に、それでは、と言って立ち去ろうとした『お屋敷』の者を、男は覚えていろと怒鳴りつけた。その声にも怯えて耳をふさぎ、体をかたくした『花嫁』はいかにも幼かった。幼く、いとけなく、あまりにうつくしかった。ぼろぼろと泣いて震えながら、誰とも知らぬ名を呼んで助けを求め続ける『花嫁』に、男は跪いて名を名乗り、驚かせたことを詫び。
『娘にならないかな』
 そう提案した。泣きながら、ぱちくり目を瞬かせて首を傾げ、でも、でも、と言い淀む『花嫁』は、おやくめ、とよわよわしい声で言った。嫁いだからには役目を果たさなければいけないのだと。頑なに繰り返す少女に、男は辛抱強く言い聞かせた。きみは幸せになる為にここへ来たのだから、無理をしていやなことをしなくてもいいのだと。その為に、お嫁さんになろうとしなくていい。好きなことをしていい。
『それにね、妻との間には子がいない。だから、君がなってくれると、とても嬉しいんだよ』
 そうして『花嫁』は、男の娘として家に迎え入れられた。
「……それに、わたしを見ても分からないかもしれないでしょう……?」
「マグノリア」
 震えて。ころころと涙を零してなく娘の、髪はうつくしい金と、白が入り混じる。男の元へ現れた時にはすでに色彩はまだらに抜け落ちていて、無理に嫁がされる心痛が、少女の髪をそうしてしまったのだと、あとから聞いた。だから置き去りにされたのだと。戻っても価値が失われているから、もうどこに行くこともできないのだと。泣いて、泣いて、泣き暮らした少女は、ある時男に名前が欲しいと強張った。初めての願いだった。
 こんなに変わってしまったから、『花嫁』としてもう枯れてしまったから。あのひとが読んでくれた名前には、もう似合わなくなってしまったから。よばれたくない。新しい名前を、と泣く少女に男は花の名を与えて呼んだ。マグノリア。
 少女がこの家に訪れた日に、咲いたばかりの花だった。
「そう悲観するものではないよ。すこし変わってるけどかわいい、と褒められているのを私は知っているのだけれどね?」
「……ユーニャは、だって」
 ぷぅ、と頬を膨らませて。マグノリアはここにいない、男の弟にいじけた声を出した。
「私がなにをしてもかわいいというもの」
「そうだよ。君はなにをしていてもかわいい。……さ、家の中へおはいり、お姫さま」
「うん……」
 髪の房の、白くなっている所を指先でいじり、不満げに少女が寝椅子から立つ。その時だった。少女の目の前でぱっと光がはじける。悲鳴をあげるより早く、声が響いた。
『アンタが、マグノリア?』
「え……え?」
『よしよし、見えてるわね? こんにちは、マグノリア。アタシはアンタの案内妖精。アンタはこれから、アタシと一緒に旅を……ってここユーニャん家じゃないの。え? なに? アンタ、ユーニャの……ユーニャのまさか……』
 お花さん、なんじゃないの、とひきつった顔で呻く妖精に、少女はぱちくり目を瞬かせながら、ものすごく不思議そうに胸元に手を押し当て、一度しっかりと頷いた。
「ユーニャは、わたしをそう呼びますけど……えっと……?」
『……ちょっと今すぐユーニャを呼びなさいよおおおおお嫌よアタシ! 勝手に連れてってあとでユーニャに火あぶりにされるの!』
 あんなにひがないちにちでれでれしてる『おにいさんのお花さん』を旅立たせたら死ぬ、アタシはしぬっ、と叫ぶ妖精に、少女はこてん、と首を傾げて。一体なんなんですか、と息を吐き出した。



*** 『学園』にて



「まぐの、りあ、です。よろしく、おねがい、いたします……」
 つっかえながらの響かない声での自己紹介は、全体に行き届くものではなかったのだろう。寮長が名を大きな声で繰り返してようやく、談話室がほっとした雰囲気を取り戻す。顔を覆う薄布の向こうから、少女はこわごわと視線を持ち上げた。
 そのひとのことを、もちろん、ひとめで、わかったのだけれど。声はきっと届かないもので、そしてそのひとは、たくさんの友人に囲まれていたから。ひとみしりの『マグノリア』はどうしても、傍に行くことができずに。俯いてもじもじ、指を擦り合せただけだった。
 話しかけても、緊張で上手く応じられないマグノリアには、中々親しい友人ができなかった。顔を覆っているのは『家』の言いつけで、あまり素顔を見せてはいけない、からなのだが。そのことがさらに遠巻きにされている原因だと知って、マグノリアは落ち込んだ。
 もしかして、あのひとが話しかけてくれなかったり、するのは。気がついてないからとか、忘れちゃってるから、とかじゃなくて。なんかへん、だと思われているから、とかだったら、どうしよう、と思って。マグノリアは咄嗟に、髪に手をやった。
 もし。もしも。リボンを。あの赤いリボンひとつを、嫁ぐ時になんとか、持って行くことさえ叶っていたら。もしかしてそれで、思い出してもらえたかも知れないのに。眠っている間に準備をされて、起きた時には送りだされていたから、それはもう、手元に残らなかったのだ。
 名前も、変わってしまったから。だから、分かられなくなってしまった。最後に読んでもらった響きをずっと覚えていたくて、そのひと以外に読んで欲しくなくて、忘れたくなくて、わがままを言ったから。それとも、もしかして。恋人ができて、いて。それで、もう。
 ぽて、ぽて、ぽて、と歩いて談話室を離れて、鼻をすする。たくさんの友人たちに囲まれて、あのひとはとても楽しそうにしていた。それを、邪魔するのは、よくないことだ。けふ、と咳をする。けふ、こふ、咳をしながら、部屋に戻ろうと階段をのぼりかけて。
「待って」
 腕をひかれた。談話室にいた筈なのに。しゃがみこみ、すぐ傍で顔を覗きこんでいたのは、赤褐色の瞳。じわ、と涙を浮かべて口元を押さえて、マグノリアは息を飲み込んだ。布には隠蔽の魔術がかかっているという。だから、こちらからは顔が分かっても、向こうには分からない。しばらく、なにも、言葉がなかった。
「……喉、痛い?」
 迷いながら。こくん、と頷く。そっか、と囁かれるのは、心配してくれているのだろう。優しいひとだ。それを誰よりマグノリアは知っている。
「熱っぽい?」
 首を横にふる。
「足は?」
 首を傾げる。
「……痛くない? 歩ける?」
 すこしだけ迷って、こくん、と頷く。泣き声をあげないでいるのに精一杯で、だからマグノリアは、気がつかなかった。青年の指先に魔力が編まれていたことも。指のひとふりで、布に染み込んだ隠蔽が退けられたことも。ふ、と笑った青年が、てのひらでその布を取りはらって。マグノリアの頬に触れるまで。
「……かくれんぼはもうおしまいにしような」
 え、と声をあげるよりはやく。伸びてきた両腕がマグノリアの体を床から攫いあげる。ぎゅ、と両腕に強く抱かれて。
「ソキ」
 誰も知らない筈の名前を、呼ばれた。



***



 ロゼアくんが『学園』に呼ばれた隙をついてソキがお嫁さんに出されちゃったよマグノリアさんルート。お嫁さんに出されたのですが養子として迎えられて「うちの娘!!!!! かわいい!!!」と育てられましたっていうルートの小話でした。



*** そのあと



 ずっと、ずっと、会いたかったの。でもね、お手紙を出しても、ロゼアちゃんはもう辞めたって言われて。ソキはお戻りになるのをずぅっと待ってたかったのに、お嫁さんにね、行かされてしまったですからね、ロゼアちゃんはもうソキが、会いたかったのに、しらないひとが、ろぜあちゃん。
 どうしてソキを置いて行ったの。ソキはもういらなかったの。だからお手紙も受け取ってくれなかったの、と泣くマグノリアを抱き寄せて、ロゼアは丁寧にそれを否定していく。違うよ。置いて行ったんじゃない。『魔術師』として呼ばれて、辞めたくなんてなかった。手紙、くれたんだな。ありがとう。
 屋敷をただ辞めた者ならばともかく、ただ外部からの手紙ならともかく。嫁がされた『花嫁』からの便りを、辞職者に届けることは、あってはならない。だからこそ、届かなかったのだろう。
「ロゼアちゃん……」
「うん?」
「もう、ご結婚、されたの……? こいびとさんが、いるの……?」
 ふ、と笑み崩れて額が重ねられる。
「してないよ。いないよ」
「ほんと?」
「本当」
「……なら、まぐのりあじゃ、だめ……? や……?」
「うん?」
「かのじょさん、に、して……?」
「いいよ」
「ずぅっと好きだったの……」
 伸びあがって、腕を回して、ぎゅっとすがりつく。俺もだよ。囁かれて、マグノリアは泣きながら、微笑む口唇に口付けた。



***



 マグノリアさんは本編ちゃんよりずっと手が早い(語弊があります)(入学4日目くらいでロゼアくんの彼女になる&同時にちゅーする) 本編にもこのスピード感が! あったら! バットエンドルートですね!!! あれ!?

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