風に乗って、数種類のハーブの香りがした。ローズマリー、カモミール、レモンバーベナにレモングラス。バジルにセージ、コマンモロー。詩歌を紡ぎあげるように言い当ててしまったリヒテンに、バッシュは呆れと感心の入り混じった視線を向けた。足取りも軽く楚々として歩むリヒテンは、特別なことをしたという自覚もないらしい。手に小さなブーケを持ったまま、視線に気がつくと不思議そうに小首を傾げて瞬きをする。
なんでもないと言う代わりに手を伸ばして髪をくしゃくしゃに撫でれば、リヒテンは立ち止まり、頭に手を当てて恥ずかしげに微笑んだ。もう、と怒ったような呟きを落とすのは、髪が乱れてしまったからだろう。すまぬ、と呟きながら手櫛で整えてやれば、リヒテンの瞳がきゅぅ、と細められる。眩しげなものを見つめる、表情。熱に触れたようにバッシュが手を離せば、リヒテンは肩を震わせて笑い、視線を道の先にやる。
二人が目指すドイツ宅は、もうすぐそこまで見えていた。風が運んできた香りは、前庭にあつらえられたギルベルトのハーブ園のものだろう。主にハーブティーとして飲用できるものが多いその薬園は、純粋にギルベルトの趣味の産物だった。二人が立つ場所からでも、風に揺れる緑が見える。レモンの爽やかで甘い香りが、鼻先をくすぐった。胸が切なくて、すこしだけ苦しい。リヒテンはす、とバッシュの前に出た。
お兄様、と呼びかけるとエメラルド・ブルーの瞳が向けられて、すぐに柔らかくほどけていく。愛しい者に対する、慈しみのまなざし。どうした、と落ち着き払った声が温かく問いかけるのを最後まで聞かず、リヒテンはあの、と声をあげた。
「わ、私……! 先に、行っております。あの、その……お兄様は、どうぞごゆっくりっ」
そのままぱっと身をひるがえしてかけだしたリヒテンの、手首が掴まれなかったのは奇跡に近かった。一瞬のわずかなぶれが、バッシュの手のひらに空を切らせる。慌てて呼び止める声が背に響いても、リヒテンは真っ赤な顔を両手で押さえたまま、短い距離を駆け抜けた。恥ずかしい、恥ずかしい。恥ずかしくて、でも幸せで、でもドキドキしすぎてどうにかなってしまいそうだった。短い距離を走りぬけて、立ち止まる。
鉄製の繊細なアーチをくぐり、母屋に軽く一礼をしてからそちらには向かわず、ハーブ園に足を向けた。ひょこひょこ動く銀髪と、その上に乗る黄色いことりが見えたからだ。おとぎ話の国に続いているような、どこか可愛らしい色合いの煉瓦道を駆け抜ける。両脇に植えられているのは、先程風に嗅ぎとったハーブたちだった。こまめに、きちんと手入れがなされている証拠だろう。雑草などひとつも見当たらなかった。
きれいな色合いの花も、風に揺れている。すっと胸をすく爽やかな香りの中でも、リヒテンの気持ちは落ち着かなかった。やや息を弾ませながら早足に歩み寄り、リヒテンはギルベルトさん、とハーブ園の主に声をかけた。お、と嬉しそうな声をあげて立ち上がり、ギルベルトはリヒテンの姿を認めると柔らかく目を細めて笑う。優しい表情に、けれど心は弾まなかった。
「よく来たな、リヒテン。Liebe(リーベ)……どうした、リーベ。なんかあったか?」
国として存在することを義務付けられた場所以外では、ギルベルトはリヒテンシュタインを『リーベ』と呼ぶ。ドイツ語の『Liebe(リーベ)』。愛を意味するその単語は、常に深い親愛がリヒテンに向けられている証拠だった。最近は他国にも広がってきたその呼び名は、もう違和感なくリヒテンの耳になじんでいる。心配そうな顔つきになってリヒテンの顔と、その背後にバッシュの姿を探したギルベルトは、軽く眉を寄せる。
どこでも発砲を厭わない少女の保護者、あるいは庇護者の姿が見つけられなかったからだ。まさか、はぐれたのだろうか。ローデリヒじゃあるまいし、と思いながらもリヒテンの前にしゃがみこみ、ギルベルトは少女の顔を見上げながら問いかける。小柄なリヒテンとドイツ人の平均的身長よりすこし高めのギルベルトでは、こうしなければ見上げる首が痛くなってしまうからだ。そっと視線を合わせて、ほら、と言葉を促す。
「リーベ、黙ってたら分かんねぇぞ? それとも俺じゃなくて、エリザの方がいいか?」
アイツももう来てるから呼べばすぐくんだろ、と言うギルベルトの言葉に、リヒテンはふるふると首を振った。けれどそれだけで、言葉が出ていかない。なにか言わなければいけないことは分かっているのに、声が喉に詰まってしまって、どうしても発することができなかった。ぎゅぅ、と手を握り締めて立ちつくす姿は、外見相応の少女のものでしかなく。苦笑したギルベルトは頭の上に手をやり、小鳥とをころん、と落とす。
顔の前で手のひらの中に閉じ込めるようにキャッチして、ギルベルトはほら、と言ってリヒテンに小鳥を差し出した。ふあふあの羽根をぱたぱた動かして、ことりは愛想よく少女に挨拶をする。震える程に握られていたこぶしが、ゆっくり開かれた。おずおずとギルベルトからことりを受け取ったリヒテンは、いきもののぬくもりに顔をほころばせて笑う。可愛らしい、ともれる呟きにお前がな、と返して、ギルベルトは言った。
「バッシュと、なんかあったか」
はっとして顔をあげたリヒテンに、ギルベルトはどこか気まずそうな表情で視線を反らし、頬をかく。あー、と言葉に迷う呟きが空気を揺らすさまは、無垢な驚きの視線から逃れたがるようでもあった。どうして、と容赦なく言葉は問いかけてくる。ごく当たり前の疑問から逃げるのもかわいそうで、ギルベルトはきゅぅ、と眉を寄せながら告げた。さっきリーベの怖い兄ちゃんが、俺のこと殺しそうな目で家に入ってった、と。
考えてみれば、それは当たり前のことだった。途中で追いつかれなかったとはいえ、短い距離で目的地は同じ。そしてバッシュは生え抜きの軍人である。そうやすやすとリヒテンに後れを取るわけでもなく、ハーブ園に来なかったのは、さすがに声をかけずらかったに過ぎないからだろう。大体今日の訪問は、ドイツ宅で行われるお茶会に招かれた為なのだ。家主に挨拶もないリヒテンは、さぞ無作法に思われるだろう。
なんてことを、と顔色を悪くするリヒテンの頭にぽん、と手を置いて。ギルベルトは慣れた仕草で、よしよし、と少女を慰めてやった。家の窓辺りから標準を合わせたような一直線の殺気を感じなくもないが、とりあえず無視だ。目の前にいる少女を慰めない選択肢など、ギルベルトの中にはないのである。大丈夫、と言い聞かせて再び目を覗きこむように視線を合わせれば、不安げな様子で、それでもこくりと頷かれた。
「ギルベルトさまが、そう仰るのであれば……」
「だーいじょうぶだって。ルートはそんなこと気にしねぇし、バッシュの態度でローデリヒもなんか察するだろうしよ。それよりリーベ? バッシュなのか?」
頭を撫でていた手が頬をやわらかく撫でで降り、包み込むようにして顎が上向かされる。きゅぅ、と困り切ったように細められたリヒテンの目を逃がさないようにしっかりと捉え、ギルベルトは答えの拒否も許さない静かな声で問いを重ねた。バッシュなのか、と。怒ってはいない、事実確認の声だった。ゆらゆらと視線を定めないまま、リヒテンはギルベルトの手の中でちいさく頷く。ほんのかすかな、身動き程度の頷き。
それでも確かな、意思表示だった。そっか、と苦笑したギルベルトは、そのまま身を屈めてリヒテンの頬に唇を触れさせる。よく言えました、と褒める囁きが肌の近くに落とされて、リヒテンはただ純粋に嬉しくて頬を赤く染めた。
「ギルベルトさま、でも……お兄様がなにかなさったと、そういうわけではございませんの」
「あんな切羽詰まった顔して駆けてきて?」
「ちょ、ばか、ギル、顔が近いっ!」
やや慌てた声がハーブ園の入り口付近から響き、二人は揃って視線を移動させた。そこには頬を手で押さえたエリザベータが立っていて、ギルベルトをやや睨むように見つめている。数秒考えて気がついたリヒテンは、指先で控えめにギルベルトの腕を突っついた。どした、と視線が向けられるのはあくまで『親戚の親しい兄』の域を超えない親愛なのだが、恐らく、そうは見えにくいのだろう。お離しくださいな、と言う。
「姉さまに勘違いされてしまいますわ」
「うん? あー、まあいいや。エリザ、ちょうどよかった。リーベが困ってんだよ」
「……リーベちゃんは分かってるのに、アンタは分かってない。苛つくのに可愛いと思える私は末期」
どうしてかしら、急に死にたく、とどんよりした声でため息交じりに呟いて、エリザベータはふるふると顔を振った。なにかを振り払いたがるような仕草にも、ギルベルトは苦笑を向けただけでなにも声をかけない。本当は分かっているのではないですか、と問いかけるリヒテンの視線に、ギルベルトは気障な仕草で唇に人差し指を押し当てて微笑する。ないしょだ、と告げられて、リヒテンは肩を震わせてくすくすと笑った。
「ひどいひと」
「たまにはいいんだよ、たまには。言うなよ?」
「深刻な喧嘩になりそうなら、仰ってくださいな。私が説明に参ります」
それまでは言わないでいます、と言外に告げてしとやかに微笑むリヒテンに、ギルベルトは誇らしそうな笑みを向けてくしゃくしゃと髪を撫でまわす。リヒテンは、手のひらの中で大人しくしていることりを落とさないように胸元に抱き寄せながら、バッシュよりもいささか乱暴な慈しみに楽しげに笑うばかりだ。触れられている事実は同じなのに、ギルベルトのそれは温かく胸を満たすだけで。切なさも痛みも、運んでこない。
ふと静かになってしまったリヒテンにお手上げ気味の笑みを浮かべ、ギルベルトは不満げに眉を寄せて立ったままのエリザベータを手招いた。ちょいちょい、と手の先だけを動かして招く気安い仕草に、エリザベータは大股で歩き寄ってギルベルトの額を手ではたく。ぺちん、と痛そうでもない音が間抜けに響く。なに、と笑いながら問いかけて来たギルベルトを睨みつけ、エリザベータは仲がよろしいですこと、と言った。
別に邪推しているわけではなく、純粋に気に食わない乙女心が発させた呟きだった。珍しいこともあるもんだ、と甘やかに目を細め、ギルベルトはなんだよ、と問いかける。
「嫉妬か? エリザ」
「嫉妬よ。分かってるなら聞かないで」
テンポ良い会話の後すぐに、リヒテンの目が大きな手で塞がれる。それがギルベルトの手だと分かって、リヒテンは恥ずかしさに身を強張らせた。すぐに、まぶたの上から塞いでいた指先は離れていく。ぱちぱちと瞬きをするリヒテンが見たのは、やや顔を赤らめて唇を手で押さえるエリザベータと、ケセ、と機嫌良く笑って前髪をかきあげるギルベルトの姿だった。それがなにを意味するか分からない程、うぶでもない。
だけれども、恥ずかしいものは恥ずかしい。見せなかったのは気遣いなのだろうけれど、なんの軽減にもならなかった。だが、好都合なのかも知れない。リヒテンが思い悩んでいることは、まさしく『それ』なのだから。とりあえずエリザ、お前から話聞いてやってくれないか、とギルベルトの手を、リヒテンはぎゅっと握りしめた。は、と意外そうに呟いて目を大きく開くギルベルトを、リヒテンはごく真剣な目で見上げる。
「ギルベルトさま……! ギルベルトさまは、姉さまと、その、お付き合いを……!」
「してるけど?」
「き、きっかけを、教えて頂きたいのですっ」
好奇心からの言葉にしては、切実に悲しくも響く声だった。からかってはいけないな、とすぐに判断してしゃがみこみ、ギルベルトは相手を落ち着かせる為に肩に手を置く。ぽん、と撫でてやればリヒテンはすぐに体の力を抜き、意図をくんだ素直さでぎこちなく笑った。笑わないでいいと囁いてやれば、明るい瞳がくしゃりと歪む。泣かなかったのは、その前にエリザベータがリヒテンをゆるく引き寄せ、抱きしめたからだ。
そっか、とエリザベータはなにもかも分かってしまった、大人の女性の声で言う。
「リーベちゃん、苦しくなっちゃったのね。……バッシュのことが好き?」
薄々気が付いていながらも、ギルベルトはなんとも言えず複雑そうな顔つきになった。リヒテンが声もなく頷けば、ますます視線が泳いでしまう。エリザベータはリヒテンの髪を優しく撫でながら、なんて顔してるのよ、とギルベルトをからかう。
「妹さんが、ついに恋しちゃったの。寂しいですか? 親戚のお兄さん」
「やー、えー……あー、バッシュか。そうかバッシュか……うん、そうか、バッシュかぁ」
「な、何回も何回も、お兄様の名前を出さないでくださいまし」
お名前を聞くだけで最近ダメなのです、とエリザベータの胸にぎゅぅっと抱きつきながら言うリヒテンの顔が赤い。可愛いんだけどなぁ、と残念そうに見守って、ギルベルトは腕組みしながら大きく息を吐き出した。寂しい、と素直に声に出すと、エリザベータも同意する苦笑いでひそかに頷いた。いつの間にこんなに成長してしまったのかと、育てたわけでもないのに身勝手に悔しくなる。嬉しく、温かい気持ちにもなる。
今日も一緒に来たのよね、と尋ねるエリザベータに、リヒテンはことりに頬を寄せながらこくんと頷いた。ことりはすっかりリヒテンの手のひらで落ち着いてしまって眠たげで、ギルベルトの頭の上に戻ってくる気配はなさそうだった。すこし落ち着かない様子で己の頭上に手をかざし、可愛い妹分に問いかけられた言葉を探す。記憶に潜って考えれば、ひっかかるものがあって眉を寄せた。あれ、と呟きが口からもれる。
「エリザ」
「なに」
交わされる言葉がごく短くとも、不愉快に思わないのは相手が相手だからだろう。必要な時に長く語ればいいのであって、事実確認は端的であるべきなのだ。そこはかとない軍人思考を通じ合わせ、ギルベルトはエリザベータと視線を合わせ、うん、と頷いて問いかける。
「俺、エリザに『付き合って』とか言ってねぇよな……?」
「……そういえば」
今世紀最大の発見をしてしまったような大げさな表情で二人は目を交わし合い、きょとん、とするリヒテンを間に挟んで向かい合った。
「私も、ギルに『付き合って』とは言ってないわ」
「だよな。俺はお前のもん、とは言ったけど」
「そうね。アンタは私のよ、とは言ったわね」
お互いに、大事なプロセスを二、三個飛ばしてしまっていたことに、いまさら気がつく。若干気まずいのは、それを分かっても別にやりなおそうだとか、不満だとかいう気持ちをお互いに抱いていないと理解しているからだ。そこは気まずくなるべきところだろう、恋人として、とは思うのだが。しばらく微妙な沈黙を挟み、エリザベータがぼそ、と言う。
「おいしいケーキ屋さん見つけたから行く予定があったじゃない? その時言うわ」
「了解。楽しみに待ってる。俺からはいつ聞きたい?」
「その時でもいいし、その前でもいいし、言ってくれるならそれでいいわ」
視線を交わして真剣に頷きあい、二人の視線がリヒテンに戻ってくる。ごめんなんの参考にもならねぇわ俺ら、と申し訳なさそうなギルベルトに、リヒテンはぶんぶんと首を振って告げた。
「いえ、大丈夫ですわ。それに……言わずとも、お傍には居られますもの」
「……言わないで傍に居んのは辛いぞ、リーベ」
「良いのです。それに……口付けだけなら、兄弟でもできますから」
ふふ、と静かに笑ったその顔が、あまりにも痛みに耐えて傷つく者のそれだったから、気がつくことがあって。ギルベルトは思い切り眉を寄せ、リヒテンに問いかけた。したのか、と。主語を抜かした問いかけの意味を、間違える者などその場にはいない。はい、としっかり頷いたリヒテンは己の唇に指先を押し当て、すっと目を伏せる。幸せな気持ちを思い返しているようにも、苦い想いを飲みこんでいるようにも見えた。
「……お兄様は、どう思われたのでしょう」
「リーベが、したのか?」
「はい。触れたいと思いました。……深く眠っているとばかり思ったのですが、さすがお兄様です」
起きて、と。言葉の続きを告げようとした唇が不自然に震え、きゅっと閉じられる。ふっと喉から息がもれ、瞬きは堪えていた涙を伝わせてしまう。嘘です、とリヒテンはむずがるように首を振った。泣かないで居ればごまかせてしまった心が、零れてもう止まらなかった。嘘です、と呟き、リヒテンは手のひらで顔を覆う。ころん、と足元に転がったことりを気遣う余裕もなくしてしまっていた。ぴ、とことりは悲しげになく。
ひょいとことりを回収して頭の上に乗せ、ギルベルトはエリザベータに視線をやった。うん、と頷いたエリザベータは顔に押し付けられている手を片方外させて、かたく強く握り締めてから問いかける。手のひらから伝わる熱は、打ちひしがれた心にやさしく寄り添うと、知っていた。
「それは、いつものこと? リーベちゃん」
「昨夜の……」
「そう。それで、今朝起きて来たバッシュはいつも通りの態度だったの?」
幼くしゃくりあげながら、リヒテンはこくりと頷いた。その素直な反応が、なんともいじらしい。まったくもう、と溜息をつくエリザベータは、草を踏みながら近づいて来る足音を聞いていた。振り向けば、リヒテンにも気がつかれる。視線だけでギルベルトに問えば、声を出さずに唇を動かして『エーデルワイス』と告げられた。ローデリヒとバッシュが来た、と言わない所が、じつにギルベルトらしい嫌味の表し方だった。
やれやれと頭をかいて、ギルベルトが場に二人を残して母屋の方へと歩く。すれ違いざまに五分、と告げられたのに頷いて、エリザベータはリヒテンを抱きしめた。すぐに合わせるのは、少女には酷だ。だからこその五分。姉さま、と戸惑いながらも甘えてくるリヒテンを愛おしく抱きしめて、エリザベータは息を吸い込んだ。
「大丈夫よ。バッシュは、リーベちゃんを好きだわ」
「そう、でしょうか」
「うん。姉さんとギルが付いてるからね」
一人じゃないから怖くないわよ、と囁かれて、リヒテンは思わずくすくすと笑った。遠い昔、怖い話を聞いて眠れなくなった夜に、エリザベータはよくそう言いながらリヒテンと一緒に寝てくれたものだ。懐かしくなってこっそりと、今日は一緒に寝てくださいまし、とねだると、エリザベータは満面の笑みでリヒテンの頬にキスを送る。
「もちろん。……その時は、笑顔でたくさんお話しようね」
大丈夫よ。家の中で待ってるからね、と言い残してエリザベータは立ち上がり、戸惑うリヒテンの背を撫でた。それから身をひるがえして歩き出すと、リヒテンの位置からも苦々しい表情で立つバッシュが見えたのだろう。背中越しにはっと緊張した気配を感じ取り、エリザベータは人を射殺せそうな目つきになっているバッシュに、口元だけで笑った。立ち止まらない。先程されたように、すれ違いざまに言葉を落とす。
「言ったことないんじゃ、伝わらないわよ?」
「……なんのことである」
「分かりやすく言葉にしてあげなきゃ、リーベちゃんには分からないわ。……よかったわね」
くすくすと笑みを残して立ち去れば、感謝する、とだけ言葉が返される。エリザベータは肩越しにひらりと手を振るだけで、振り向きはしなかった。足元に生える雑草を慈しむようにゆっくりと歩き、庭に出られるテラスから直接室内を覗きこむ。するとすぐにこら、と言わんばかりの視線が椅子に座っていたローデリヒから向けられて、エリザベータは肩をすくめて微笑した。土を払って上がってしまうと、諦めたのだろう。
ため息交じりに濡れタオルを差し出してきたのはギルベルトで、エリザベータは遠慮なく男の肩につかまりながら靴の裏をぬぐった。室内には、キッチンで忙しく動きまわるルートヴィヒの作業音だけが響いている。もうすこししたら手伝いに行こうと思いながら、エリザベータはタオルを汚れものいれのボックスに投げ込み、よかったわね、と微笑んだ。
「バッシュも、分かりにくいから……ローデリヒさん、ちゃんとアドバイスしてくれました?」
「しましたよ。素直に聞いてくれる相手ではないと思いますけれど、大体は察しましたので叱っておきました」
「アイツもむっつりだよなぁ……。態度変えないのはヒドイと思うけど、それって普段からそう思って接してただけだろうし」
でも普通分からんし、翌朝の反応がそれだったら泣くよな、と溜息をつくギルベルトに、エリザベータとローデリヒは深々と頷いた。両想いであることなど、とっくに知っていた。バッシュがそれを口に出さなかったのは、言わなくても通じていると思い込んでいた為。リヒテンが気が付かなかったのは、淡い憧れが恋に代わり、それを自覚するのに時間がかかってしまった為。肩の荷が下りました、とローデリヒは息を吐く。
「さて、そろそろ紅茶の準備でもしましょう。ギルベルト、銘柄を選びなさい」
「あのな、ローデリヒ。聞くようになったのはどえらい進歩だと思うが、いい加減紅茶から離れろ。コーヒー飲みたい」
「珈琲には洒落心がないでしょう」
にこ、と珍しくも悪戯っぽく唇を歪めて、ローデリヒは戸棚から数種類の紅茶缶を持っていた。トン、と机に並べられていくそれらを見やって、ギルベルトは口に手を押し当てて笑いをこらえる。ラベルは歌うような筆記体で書かれていた。『セレモニー』に『ウエディング』、『ショコラ』『シャンパン』『パラダイス』。どれも甘い香りが特徴の、お祝い事の時などによく飲まれるものだった。ぶ、とエリザベータも笑う。
「ろ、ローデリヒさん……! やっちゃうんですか……っ?」
「ええ、やってしまいますとも。さ、ギルベルト。お選びなさい」
「『ウエディング』にしようぜ!」
ちいさな缶を手にとってけせせせせっ、と笑うギルベルトの顔つきは、悪だくみをする者のそれだった。普段なら止めるべき所を、今回のみ首謀者の片割れであるからこそ満足げに頷き、ローデリヒは紅茶缶を受け取ってにっこりと笑う。年長組の騒ぎに、ようやく気が付いたのだろう。黒いシンプルなエプロンを外しながらキッチンから出て来たルートヴィヒが、首を傾げて兄を呼ぶ。
「兄さん? なにを」
「おー、ルート! お前もいつか、好きなヤツが出来たら俺様に教えろよ。俺も男だ。邪魔などしない。ただ、ルートと付き合いたかったら俺の屍を越えていく覚悟をしてもらおうかとそう言うだけで」
「アンタ無駄に軍国の本気とか出しそうよね……」
つまり遠回しの『お兄ちゃんは許しませんよ!』である。じゃれついてくるギルベルトをほとほと呆れた目で眺めやり、ルートヴィヒは柔らかく溜息をついた。やがて騒がしい居間に向かって、二人分の足音がかけてくる。さて、彼らをどう出迎えようか。茶会の主催者らしく思考を切り替えたルートヴィヒを、三人分の温かなまなざしが見守った。