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 水恋

 考えれば、異変はいくつもあったのだ。ただいま、という声に反応がなく、扉が閉まる音が響いても出迎えに近づく足音がなかった。それだけなら、そうおかしいことでもない。テレビの音が邪魔をして気が付いていないだとか、読書に没頭しているだとか、あるいは眠ってしまっているか。どの場合でも気配に敏く、また弟の出迎えを心からの楽しみの一つにしているらしいギルベルトは、大体顔くらいは見せるのだが。
 玄関の鍵を閉めて居間に向かって廊下を進んで行っても、家の中はしんと静まり返っている。さすがに妙だと思って振り返れば、買い物袋を全部ルートヴィヒに持たせて悠然としていたローデリヒの眉間にも、かすかにしわが寄っていた。これがギルベルトの体調が悪い時であり、一人で留守番させているというのならば不思議なことではないのだが。今日のギルベルトは、そこまで体調が悪いわけでもなさそうだった。
 おかしいですね、とかすかなローデリヒの呟きしか、しんとした空気を揺らす音はない。二人は視線を交わし合って早足に廊下を進み、いささか慌てた仕草で居間の扉を開け放つ。二人の口が紡ごうとしたのは、帰宅を告げる言葉なのか、誰かの人名であるのか。それを確かめる機会を永遠に喪失した沈黙が、ふよふよと二人の目の前を横切って行く。とさ、と軽い音を立てて、食材の入った買い物袋が足元に落ちる。
 その音で、ようやく気が付いたのだろう。大きな揺り椅子に座り、ひたすら集中した表情でスケッチブックになにかを描き込んでいるフェリシアーノの膝の間に、横向きに座っていたベルンハルトが顔をあげた。ベルンハルト・バイルシュミット。復活した神聖ローマであり、現在の自称EUでもあるバイルシュミット家長男は、茫然と口を半開きにする二人を一瞥すると、やけに落ち着いた口調でおかえり、とだけ囁いた。
 ぱさりと音を立てて手元で閉じられたのは、カラフルな色が飛び交うファッション誌。古文学が似合いそうな青年に、やけに似合わないものだった。楽しんで読んでいるものでもなかったのだろう。興味を失ったように膝の上に置かれた雑誌は、恐らくフェリシアーノの所有物だ。そっと表紙を撫でる指先は優しく、この分では雑誌には読み癖すらついていないだろう。ひとりきり兄の仕草を観察し、ルートヴィヒが口を開く。
「……ベルン兄さん」
 うん、と問いかけで告げられる言葉はふんわりと響いて耳に優しく、向けられるまなざしは温かかった。ドイツを背負って立つルートヴィヒ、家名の上では自分の弟であり末っ子である存在を、ベルンハルトは周囲がすこし驚くくらいに可愛がっている。ギルベルトがするような接触の多い過保護ではなく、フェリシアーノが送るような花に満ちた親愛でもなく。そっと頭を撫でて、大切に包み込んで、慈しむようなそれ。
 外見上はいくつか年下である筈の『兄』から向けられる愛情に満ちたまなざしに、慣れないからこそルートヴィヒは言葉に迷ってしまった。いや、その、と口ごもるばかりで言葉を紡げないルートヴィヒの頭をごく軽くはたいて、ローデリヒが代わりに問いかける。お馬鹿さんが、とため息交じりに告げられた対象は、ルートヴィヒでありベルンハルトである。むしろ室内に存在する、己以外の全て対してかも知れなかった。
 スケッチブックから目もあげず、一時も手も止めないフェリシアーノが奏でる作業音だけがかすかに響く。居間の入り口に腕を組んで立ったままで、ローデリヒはすこし買い物に出ていただけで理解不能になってしまった光景を問いかけた。
「なにを、しているのですか?」
「どこから説明すればいい。この体勢か、それともギルベルトたちか」
「どちらでも構いはしませんが、そうですね。では、ベルンハルト? 貴方、どうしてその体勢なのですか」
 大きな揺り椅子のちょうど真正面。ふかふかのソファになるべく視線を向けないようにしながら問いかけたローデリヒに、ベルンハルトはやけに真剣な表情で頷いた。そうすると未成熟の若い顔立ちが際立ち、外見だけは最年少であるが故の可愛らしさが降りてくる。スーツでも着ていれば十八くらいに見えるのだが、上下にゆったりとした普通の服を着ている状態では、どうひいきめに見ても十六くらいにしか思えない。
 しなやかに鍛えられた体を持っているにしても、ベルンハルトはやや細身だ。長身ではあるので、その体をフェリシアーノの膝の中に納めて足をふらつかせている姿は、どう頑張っても可愛らしかった。やや視線を彷徨わせる二人を不審そうに見ながら、ベルンハルトは悪戯に降りてくるフェリシアーノの左手に指をからませる。口元に引き寄せて愛でながら、どうしてこの体勢なのか、という問いに考えながら答えた。
「順序立てた説明が必要だと思う。だから、二人が買い物に出かけた後くらいから話そうと思うのだが」
「……好きにしてください。ああ、ルートヴィヒ、食材はしまってしまいましょうね」
 せっかく買ってきたのだから傷ませてはいけません、と買い物袋を拾い上げてルートヴィヒに持たせ、背を押してキッチンに向かわせたのは半ば逃がす為だろう。恐らくはそう意識もせずにいちゃつく二人を、見せておくのも忍びない。むしろ教育に悪い。ゆっくりしまっておいでなさい、と言いながらルートヴィヒを送り出して、ローデリヒは腕組みをしたままで扉に背を持たれた。室内に、これ以上入るつもりなどない。
 砂糖色の空気の中になど、なぜ踏みこまなければいけないのか。軽く息を吐くローデリヒの視線の先、ベルンハルトはフェリシアーノに前髪を撫でられてくすぐったそうに笑いながらも、好きに遊ばせているようだった。その間、一度もフェリシアーノの視線はスケッチブックから離れず、右手は筆記具を持ったままで止まらない。なすがままになっているベルンハルトも無意識なら、フェリシアーノも無意識なのだろう。
 それだけでなんとなく、作業中のフェリシアーノにべったりくっつく体勢で座っている理由が知れるというものだ。聞いてしまったから最後まで話をさせてあげるのも責任でしょう、と嘆息し、ローデリヒは視線だけで言葉の続きを促した。ふにふに頬をいじってくる指先にくすぐったそうに苦笑しながら、ベルンハルトはああ、と気を持ち直して口を開く。
「お前たちが連れ立って買い物に出かけて、十五分もしなかった頃だ。ソファに座っていたギルベルトが、ぱた、と横になった。どうしたのかと思ったら眠っていてな……昼食を食べて眠くなったのか、それとも体調が思わしくなく、意識が保っていられなかったのかは分からない。が、前者だろう。エリザベータが動揺しなかったからな。それでなにを思ったか、しっかり寝ているのを確かめた上で、エリザベータもソファに」
「隣に座って、膝枕をして……撫でているうちに眠くなって寝てしまった、と」
 大体の流れは、ソファを視界に収めた瞬間に分かっていた。呆れながらも先を告げたローデリヒに、ベルンハルトはこくりと真面目な仕草で頷いた。やや斜めに体を傾けてソファに腰かけて眠るエリザベータの背には、たくさんのクッションが積み上げられている。倒れこまないように、と恐らくはフェリシアーノが重ねたのだろう。エリザベータの手はギルベルトの額の上で止まっていて、薄ピンクのマニキュアが光る。
 整えられた爪先の女性らしさにふと口元を緩ませると、ベルンハルトが難しそうな顔つきで呟いた。
「すまない、ローデリヒ。すこし訂正を」
「なんです?」
「エリザベータは眠そうではあったのだが、眠るつもりはないようだった。寝かしつけたのはフェリシアーノだ。どうも寝ている二人の絵を描きたかったらしく、しぶるエリザベータに可愛らしい微笑みを向けながら『おやすみのうた』を」
 フェリシアーノは、しっかりした保護者が傍についていないと、実際問題ろくでもないことばかりする。最近は水際で止められていたからこそ明るみに出ていなかった事実を久しぶりに目の当たりにして、ローデリヒは額に手を押し当てて眩暈を耐えた。なんで止めなかったんですか、という言葉は発するだけ無駄である。ギルベルトは眠っていて、エリザベータもうつらうつらとしていて、残るのはベルンハルトだけ。
 その状況であるなら、フェリシアーノのたくらみを全て見抜いていたにしても、ベルンハルトが止める訳もないのである。過去に戻って教育しなおせたらもう少しマシだったでしょうか、と遠い目をしながら想いを馳せ、ローデリヒは分かりました、と頷いた。本当はそのままピアノでも弾きに立ち去りたかったのだが、ルートヴィヒを置き去りに居間を去ることはできない。頭の片隅で新作の楽譜を思い出しながら、尋ねる。
「それで、ベルンハルト? 貴方はなぜ、フェリシアーノの膝の間になど座っているのです」
 狭いでしょう、と問いかけられてベルンハルトは素直に頷いた。フェリシアーノも、体つきががっちりしている訳ではないのだ。東洋人に比べれば背も高いし肩幅も広いが、それはしなやかな芸術性故であって、鍛え上げた強さとはやや遠い。腕の中に抱くのが年頃の少女であればすっぽり包み込めることもあろうが、ベルンハルトではどうしても余ってしまう。足を椅子の外に逃がすことで、窮屈にはならないようだが。
 ベルンハルトは服をきゅぅっと握っているフェリシアーノの手をやわらかく解かせ、自分の手をそこにあてがいながら、こともなげに言い放つ。フェリシアーノがそれを望んだから、と。水面で反射する光のきらめきのような、極上の喜びが深く眠る声だった。そんなことだろうとは思っていたローデリヒが言葉を失ったのは、ベルンハルトの表情が仕方ないと甘い受容を持ちながら、泣きだしそうに切なく見えたからだった。
 すりすり、と手の甲を確かめるように動くフェリシアーノの指先を見つめながら、ベルンハルトは告げる。
「知っていると思うが、フェリシアーノはここまで集中すると周りが見えなくなる。集中が途切れるか、満足して作業が終わるまでは疲れも眠さも感じないし、暑さも寒さも同じことだ。家が倒壊するような轟音でも立てば気が付くかも知れないが、すこしくらいの物音は遮断される」
 それは絵を描くことに魂を奪われている、とするにはすこし違うのだと言う。フェリシアーノ自身が主張するには、奪われているとか没頭するとかそういうことではなく、強いて言うなら紙とそこに引かれて行く線とか、絵具とか、そういうものらしい。己があって絵があるのではなく、意識が絵そのものになっている、らしい。意識には描きだすことしか残っておらず、ひたすら、ただひたすらにスケッチブックに絵をのせていく。
 その感覚は、ローデリヒにも覚えがあった。フェリシアーノのそれを絵とするなら、ローデリヒはそっくり音楽、ジャンルを限定するならピアノになるだろう。どの楽器であっても等しくその状態になることはあるのだが、ピアノが一番そうなりやすい。寝食を忘れてのめり込む状態は、本人からしてみれば『忘れている』のではなく、必要ないかあるいは認識できていないだけなのだ。時々なりますね、と頷くローデリヒがフェリシアーノと同じ感覚を共有していることをしっかりと確かめた上で、ベルンハルトはごく柔らかに微笑んだ。口元だけ、力が緩められる。
「その状態でも、君を感じられないのは嫌なんだよ、だそうだ」
「……無感覚に近い状態ですので、そもそも感じ取れる状態ではないのですけれど」
「ああ、そうも言っていた。だから純粋に、ワガママなんだそうだ。意識の全てが自分の手から離れている状態で、それでも体温と、鼓動と、吐息と……時々は、声。それらが傍にあって欲しいし、できればくっついていて欲しいし、できれば触っていたいし、感じ取りたいから、と」
 フェリシアーノの、真夏の日差しに照らされたオニキスの瞳が嬉しげにきゅぅ、と細まる。視線が落とされているのはスケッチブックだけでも、意識の欠片がベルンハルトの声を拾い上げたらしい。唯一自由な左手が甘えるように手を握り締めてくるのに、ベルンハルトは身を屈めて指先に口付けを落とした。
「本当は、俺が抱きしめてやりたいのだが……難しいから、この体勢になっている」
 二人の体は、ベルンハルトと比べてフェリシアーノの方がふたまわり程大きい。その状態でフェリシアーノがベルンハルトを抱きしめるならともかく、逆はどう頑張っても難しいだろう。素直に事実を認めた上で、ベルンハルトはフェリシアーノの脚の間に横向きに座り、体を預けて静かにしているらしかった。本人はもうすこし成長しないものかと悩んでいる体格差を、フェリシアーノは『ちっちゃくて可愛い』と思っている。
 もちろんベルンハルトは知らないので、聞いたら落ち込むことは必至だった。伝えないで居るのも優しさだろう。成長するといいですね、とのローデリヒにベルンハルトが真面目な顔でこくりと頷くと、ちょうどルートヴィヒがキッチンから居間に戻ってきた。なるべく、ソファも揺り椅子にも向かないように視線が彷徨っている。兄二人が恋人とべったり仲良くしている所を、直視するのはどうにも恥ずかしすぎるらしかった。
 あなたの羞恥心を兄二人にわけて差し上げなさいと溜息をつきながら、ローデリヒは身の置き所がない末っ子を手招いた。すぐに寄ってくるルートヴィヒに口元を和ませながら、ローデリヒはすでに身を半分ひるがえしながら問いかける。
「それでは、ベルンハルト。私はピアノを弾きに行きます。貴方たちを放っておきますが、よろしいですね?」
「かまわない。ルートヴィヒも、ローデリヒと一緒に行くと良い。ピアノを聴かせてもらえ」
 居心地が悪いとはいえ、ルートヴィヒがギルベルトから離れることに単純な抵抗を感じていることを知っている長男は、そっと助け船を出して障害を取り払ってやった。案の定、ほっとした表情で頷いたルートヴィヒの背を押し、ローデリヒが居間を出ていく。ぱたん、とかすかな音を立ててしまった扉から視線を外し、ベルンハルトは眠る弟とその恋人に見向きもせず、一心に絵を描き続けるフェリシアーノに目をやった。
「フェリシ、アーノ」
 そっと、名を呼ぶ。聞こえているのか聞こえていないのかも判断が付かないが、それでもすこし、フェリシアーノが身にまとう空気が柔らかくなったような気がした。大丈夫だからな、と手を握り締めてささやく。
「怖くないぞ。俺は、ここに居るからな」
 だから、絵が終わったら戻っておいで、と。優しく囁いて、ベルンハルトはファッション雑誌を机の上に置き、その隣に置いてあった本を手に取った。まだまだ、終わる気配は見られない。ベルンハルトは身動きをするくらいで、フェリシアーノの脚の間から出てこようとはしなかった。例え十時間でも、一日でも、一週間でも待っただろう。時折、ベルンハルトはフェリシアーノの名を呼ぶ。ふわ、と嬉しげに空気が緩んだ。



 目覚めたのは恐らく、強い西日が顔にあたったせいだった。手で影を作りながらゆっくり目をあけて、エリザベータはふぁ、と軽くあくびをする。うーん、と腕をと一緒に体中を伸ばしていると、さらに大きなあくびを一つ。やけに頭がすっきりしているので、きっかけはどうあれ良い目覚めだったらしい。寝ちゃった、と思いながら視線をすとんと落とすと、むずがるように顔をしかめたギルベルトが見えた。顔色は、良い。
 そのことになんだかすごく安心して息を吐き、エリザベータは眠り続けたがるギルベルトの頭を撫でてやった。大丈夫、大丈夫。お眠りなさいな、と母親がこどもにするような気持ちで撫でてやると、ギルベルトの顔がふーっと安らいでいく。眠りの幸福をゆるい微笑みに乗せて、ギルベルトは健やかな寝息をたてはじめた。ああもう腹立つくらい可愛いなぁ、と思いながら胸に指先を当てて、エリザベータは沈黙する。
 それからようやく思い立って視線を持ち上げると、居間はどこかがらんとしていた。二人以外は誰も居ないのだった。ソファの正面に置かれた揺り椅子にはスケッチブックが置かれているだけで、それを描いていた主の姿がない。当然、傍にあるベルンハルトの姿も見えないので、二人でどこかに行ったのだろう。耳を澄ませばかすかにピアノの音が聞こえてくるので、ローデリヒの在宅は確認することができた。
 ピアノ弾きを一人で放置しておくわけにもいかないので、ルートヴィヒも傍にいるのだろうか。もしかしたらフェリシアーノとベルンハルトは、幼いころよくそうしていたように、ローデリヒの演奏を聴きに行ったのかも知れなかった。自分の想像に納得して頷き、エリザベータはゆるゆると息を吐き出し、力を抜く。居間中が、西日で鮮やかなオレンジに染まっていた。眩しいくらいに明るいのに、ぬくもりと光が、どこか遠い。
 全ての音が部屋と壁を隔てて、一枚向こう側の、遠くの世界のもののようだった。つまるところ、音があるのに、奇妙なくらい静かに感じるのだった。感じる気持ちは、寂しさよりも頼りなさだった。一人きり、取り残されてしまったような寂寥感が胸に降りてくる。不愉快げにきゅっと唇を合わせ、エリザベータはすよすよと眠るギルベルトに手を伸ばす。今日はことりは一緒ではないので、向ける手に遠慮はいらなかった。
「起きて」
 とんとん、と指先で額をノックすると、思い切り嫌がられて眉が寄る。それでも、そうする前よりは気分が上向いていく。とたんに楽しくなってくすくす笑いながら、エリザベータは指先をつつ、と動かして手のひらをぺたりと頬にくっつけた。
「起きて、ギル。ギルベルト・バイルシュミット……起きて、プロイセン。ねえ起きて、マリア」
 呼べる限りの、その存在の名を。口付けより甘く、雨のように降り注がせて。慈しむように頬を撫でれば、うっすらとまぶたが持ちあがって行く。完全に寝ぼけきっている瞳が真っ先に捕えたのが、己であるということが嬉しくて。エリザベータは、にこ、と微笑んだ。
「……エ、リぁ?」
 なに、どした、わからん、と。たどたどしく、名前さえ呼べずに。ふぁ、とあくびをするさまは、まだ意識が夢の中に居ることを示していた。こしこしと幼い仕草で目を擦るのをじっと見つめていると、眠そうに寄せられた眉のまま、せわしなくまばたきがされる。目覚めようと、努力はしてくれているのだろう。ねむい、とほけほけした声で呟かれるのに思わず微笑んでしまいながら、エリザベータはゆるく息を吐き出した。
 夕陽の中、未だ音は遠く、遠くに存在していた。光はさざめく硝子の欠片にも似て、目に鋭く輝いている。儚くも、ひたすらに美しい光はひどく切なく胸を刺した。もう、夜が怖いこどもでもないのに。エリザ、とやや心配そうな声を向けられて、衝動的に体が動く。身を屈めて口付ければ、宥めるように頭が撫でられた。唇を離すと、優しく微笑むギルベルトと目が合って。どした、と問われるのに首を左右に振っていた。
「……どうもしないのに、寝起きで人にキスすんのかお前は」
 理由は、聞かれても答えられなかっただろう。言葉になおせる想いだけが、存在している訳でもないのだ。長く生きたからこそ察して、ギルベルトは苦笑しながら身を起こす。おいで、とばかり指先で招かれて、エリザベータは目を閉じながら唇を寄せた。すぐに頬が手で包まれ、指先が耳に触れてくすぐったい。ふ、と唇から息が漏れると同時に柔らかく重ね合わせられた。軽いリップ音が響き、頬に唇が押し当てられる。
 顔のかたちを確かめるように、点々とキスが落とされて行く。くすぐったい、と文句を言えば我慢しろ、と笑われて唇に戻った。舌先が唇を舐めて離れるのを感じて、エリザベータはうっすらと目を開く。するとすぐに額が重ねられて、瞳が近くで向き合った。ケセ、と楽しげに笑うギルベルトの瞳は甘く揺れていて、完熟苺を連想させた。ちょっと食べたい。思考に忠実に、エリザベータはギルベルトの服に手を伸ばした。
 ワイシャツならボタンを外せばいいのだが、あいにく今日のギルベルトの上着は普通のシャツである。首元に指を引っ掛けてくいくいと引き、エリザベータは嫌な予感を覚えて口元を引きつらせるギルベルトにきっぱりとした口調で告げた。
「脱げ」
「……エリザ、ここ居間なんだけど」
「上着を脱げって言ってるのよ?」
 全部脱げとは言ってない、とにこやかに笑うエリザベータの瞳は、狩人のそれに近かった。俺はなんでいつも女性の恋人に襲われる気持ちにならなきゃいけないんだ、と全力で溜息をつきながら、ギルベルトは従順にシャツを脱いでやった。ぱさりと布が落ちる音が、やけに大きく響く。上半身をさらしたくらいで、今更羞恥心がわく相手でもない。これでいいか、と溜息をつけば、エリザベータは嬉しげに目を細めた。
「よろしい。良いコね、ギル」
「……前々から思ってたけど、お前、結構Sだよな」
 ため息交じりに言うギルベルトの鼻を指先で突っついて、エリザベータは男の首に顔をうずめた。戯れに舌先で舐めてから、肩に近い位置に移動して口を開く。あーん、とばかり可愛らしく開かれた唇で察したのだろう。ギルベルトが肩を押しのけようとしてくるが、それより早く、エリザベータは男の肌に歯を立てていた。痛みを与えるつもりは、とりあえずない。はむはむ甘く噛めば、脱力した様子で肩に手が置かれる。
「美味くないと思うぜ?」
「んー……。いいや、噛んじゃえ」
 よくねぇよっ、と裏返った声で叫ばれるのをさらりと無視して、エリザベータは食む歯にわずかに力を込めた。さすがに嫌なのだろう。びく、と体が緊張したのを感じ取り、エリザベータは視線だけでギルベルトの顔を見た。
「ギル」
「はいはい、なんだー?」
 ギルベルトは、もう相手を子犬かなにかと思うことにしたらしい。若干の諦めが透けて見える表情で、エリザベータの頭をよしよしと撫でてくる。明らかに恋人に半裸で向き合っているとは思えないが、エリザベータはよしとしてやった。にこ、と笑い、ちいさく首を傾げる。
「ね、跡付けていいわよね?」
「お前それ俺がダメっつったらやんないで諦めんの?」
「どうして私がギルの言うこと聞いてあげなくちゃいけないの?」
 見た目だけはとてつもなく可愛らしくおねだり口調で言い放ったエリザベータに、ギルベルトはなんだか泣きそうになった。泣かなかったが。ぐず、と鼻を鳴らしてすすりあげ、もう好きにしろよ、と体を明け渡してやる。なにをしたいのか分からないが、それで気が済むなら良い気がした。エリザベータはわーい、と声をあげて喜び、再びギルベルトの首に唇を寄せた。かすかな痛みが走り、エリザベータが身を起こす。
「よし。綺麗についたわよ」
「……はい、もう終わりな。キスすんならこっち。もう体はダメだ」
 じゃないと襲いたくなる、と言ってキスしてきたギルベルトにいくじなし、と返せばむっとしたのか眉が寄る。そういう問題じゃない、と言いたいらしい。仕方がないと諦めて口付けだけに専念すれば、いつの間にかエリザベータはギルベルトの脚に腰かけていた。自覚すれば、それだけで甘く息が乱れる。首に腕を回して抱きつけば、キスもその分深くなった。行き場のなくなった唾液を飲み込んで、うすく目を開く。
 愛おしく、甘く揺れていたルビーの瞳に、熱が灯っていた。ぐい、と引き寄せられる。開いた唇が奪われ、がしょ、と妙な音がした。ふごっ、と変な咳き込み方をしながらギルベルトはエリザベータの肩を掴んで身を離し、勢いよく居間の入り口に視線を向ける。すぐに、視線が出会ってしまった。顔を真っ赤にして沈黙するルートヴィヒの隣には、はしたないですよ、とばかり眉を寄せるローデリヒの姿があって。
 キラキラ輝く目で情熱的ーっ、とはしゃぐフェリシアーノは、なぜかベルンハルトの目を手で覆い隠していた。教育に悪いからベルンハルトはみーちゃだめー、と歌うように告げられて、バイルシュミット長兄の気配はなんだか泣きそうだった。教育云々を言われる年齢でもないし、恋人に告げられればそれは泣きたくもなるだろう。フェリちゃん、兄上にダメージ与えないでと溜息をつき、ギルベルトは違うから、と言った。
「これはだな、その……お、お医者さんごっこ的なあれこれであってやましいわけでは」
 どうしましょう元病院が病気です、というような視線がローデリヒから送られた。考え得る発言の中でも、最悪の部類に入る言いわけであるのは確かだ。冷静に見えて、ギルベルトは結構混乱している。そんな目で見んなよっ、と涙目で噛みつく叫びをあげるギルベルトに、溜息をつきながらエリザベータはシャツを押しつけた。着ていいわよ、と言えばギルベルトはもそもそと動き、シャツを着てばったりとソファに倒れる。
 動きたくないらしい。説明はまかせた、と責任を投げられるのを仕方がないと受け取って、エリザベータは身を屈め、ギルベルトの頬に口付けを落とす。お前えぇ、と泣きそうな声で呻かれるのに説明料、と言い渡し、エリザベータはご機嫌で立ちあがった。

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