幸せの匂いがする。小麦粉の香ばしさに、バターのふくよかなミルクの匂い。温かく煮詰められて溶けていく、砂糖と卵の甘いあまい香り。いつもなら、ギルベルトがキッチンに居る時だけする匂い。それがオーブンから漂ってくることが嬉しくて、面白くて、ルートヴィヒはその前から動けないでいた。分厚いガラスの向こう側で、ゆらゆらと炎が揺れている。焼き型の中で熱に柔らかくなった生地が、膨れてきていた。
生地をオーブンに入れてから、焼き上がりまでは一時間。それまで決して開けてはいけないと言われていたから、ルートヴィヒはわくわくする気持ちを胸に抱えたまま、オーブンの中をじーっと覗きこんでいる。頭上で溜息が響くと共に、視界が手のひらで塞がれた。お馬鹿さん、と優しくも響く叱咤が耳を打ち、ルートヴィヒは立ち上がりながらだって、と言った。まだ手は筈されない。ピアノ弾きの、意外に大きな手だ。
指先は硬くなっていて、武骨さのない繊細な印象の手が剣を持つさまを、ルートヴィヒは想像さえできないのだが。それでもつい先日、戦い終えて帰って来た兄の怪我の一因を担うのは、この存在である。なんとも納得できない気持ちのまま、ルートヴィヒは視界を塞いでいる手を外すべく、手探りで男の腕を押しのける。抵抗はせず、されるがままに腕がのけられた。視線をすこし上に持ち上げて、視線を合わせる。
咲いたばかりの菫色の瞳が、ごく穏やかに微笑んだ。薄藤色の芸術、とまで称えられる瞳は確かに美しくそこにあり、『国』の幼子を見つめている。そこにあるのは温かな好意ばかりで、だからこそ落ち着かず、ルートヴィヒは身じろぎをした。まだ、慣れない。兄以外の『国』と会うことも、戦争状態と平時の名前の呼び分けも。存在意識の切り替えも。まだ正式な『国』として存在していないからこそ、理解しきれない。
だって戦いに行ったプロイセンは、寝込むくらいの怪我をして帰って来たのだ。幸い、骨が折れたり内臓が痛むような重症ではなかったが、打ち身や切り傷は数え切れない程多かった。埃と汗と血の匂い。消毒液と薬草の、清潔さを装った痛みの匂いをまとわりつかせて帰って来た兄は、一日のほんのわずかな間だけしか目覚めず、後は全てベットの中に居る。食事もすこし取るだけで、ただ、ただ眠っているのだ。
あれ野生の獣だから怪我は寝て治すのよ、と言ったのはピアノ弾きと共に屋敷に現れた草原の女性で。その名を、どう呼んでいいのかすらルートヴィヒにはよく分からない。『ハンガリー』だろうか、あるいは『エリザベータ』で良いのだろうか。呼ぶ為の名前は知っている。けれど口に出そうとすると喉でひっかかり、ためらいが舌を鈍らせて動かなくさせるのだ。だってプロイセンと戦い、ギルベルトに怪我をさせたのは。
ぎこちなく視線を外す。きゅ、と握りしめられた少年の手のひらに、ピアノ弾きはなにを思っただろう。複雑そうに微笑む口元も、伏せられる瞳も、ルートヴィヒにその意思を伝えはしなかった。楽しかった気持ちが、波のように引いて行く。どうして、と聞けば教えてくれるのだろうか。貴方たちはどうして、つい先日まで敵として相対していた者の屋敷に来ることができるのか。どうして、その者の為にお菓子など作るのか。
優しい人たちだと知っているのに、どうして兄と争ったのか。どうして、なにも言ってはくれないのか。この大きな屋敷には普段、ルートヴィヒだけが住んでいる。食事の世話をする女性は日に三度通ってくるだけで、身の回りのことは全てルートヴィヒ自身が行うのだ。『プロイセン王国』が他国と交戦中はいつもそうで、ギルベルトが屋敷に帰宅すると同時に、この場所は動き出す。それまでは、巨大な揺り篭でしかない。
眠る為の場所でしかない屋敷は、今回に限ってギルベルトが戻ってきてもその役目を延長するのみだった。静かに人を遠ざける、守護と安らぎの揺り篭。俗世の害意を遠ざける代わり、ひっそりとした静寂と孤独が根付いている。それをルートヴィヒは寂しいとも思わないし、不安だとも感じない。気持ちが揺れれば、兄の部屋に忍び込めばいいだけだ。大きな寝台はおひさまの匂いで、いつも優しく出迎えてくれる。
今はその優しさも、遠い。ぱたぱた、と軽やかな足音が駆けてきて、違うと分かっていながらもルートヴィヒは期待して視線を向けてしまった。現れたのはやはり、髪に花を飾ったエプロン姿の女性で。水仕事で濡れた手をエプロンでぬぐいながら、女性は場に漂う重苦しい空気に、勤めて明るい笑顔で首を傾げた。
「どうしたの? ルートヴィヒ。ローデリヒさん、もしかしてなにか意地悪、しました?」
「そんな訳ないでしょう、お馬鹿さんが。……オーブンをずっと覗きこんでいたので、止めさせた所ですよ。見ていても出来上がるわけではありませんし、あまり見ていると、目を悪くするかも知れないでしょう」
「焦げちゃうわよ、ルートヴィヒ」
くすくす、親しげな笑いを響かせた女性の手が伸びてきて、ルートヴィヒの頬を包み込む。菓子作りの為に使った道具を洗っていた手のひらは、水と同じ温度で指先まで冷やりとしていた。オーブンの熱が移った体に、それはとても心地よかったのだけれど。その手のひらも皮が堅く、剣を持つ戦士のものでしかない。水仕事の優しい手のひらと全く違う感触に、ルートヴィヒは意味の分からない悔しさで胸を熱くした。
洗ってくれてありがとう、と言うべきなのに。この手が剣を取り、兄を傷付けたのだと思うだけで振り払いたくなる。ふ、と涙の気配を漂わせた熱っぽい息を漏らし、ルートヴィヒは目をつむってしまった。胸を荒らす感情を、どうしても処理できない。例えばこれが、偽物の優しさならすげなく拒絶してしまえるのに。年上の兄や姉のような親愛を向けてくれる二人の中に、嘘や偽りなどなくて。そのことが分からず、苦しい。
どうして、と問うことも出来ず結ばれた唇に、大体のことを悟ったエリザベータが溜息をつく。ルートヴィヒが目をつむっているのを良いことに視線をローデリヒに向ければ、ただ難しいとだけ答えが返された。『国』と『個』の間で揺れる感情を、処理することはローデリヒでさえ簡単ではない。戦争が終われば『国』としての意識の強制固定が外れるだけで、それまでの感情や記憶が別保存されるわけでもないのだから。
敵国を仇とみなして争う民衆の意識が遠くなるだけで、その意思こそ己の全てであった『国』は、結局は己自身であるのだ。『国』と『個』は表裏一体であり、鏡合わせであり、光と影であり、また同一のものである。言葉で説明しきれるものではなく、ただ経験だけが理解をもたらすものだ。未だ『国』として民意を背負う経験のないルートヴィヒが二人を分かれないのは当然のことで、そしてどうしようもないことだった。
なにより、少年の絶対的な世界はギルベルトだ。未だ眠りから覚めない者の言葉でなくては、心まで決して届かない。ましてや、眠りの理由たる二人の言葉では、絶対に。やっぱり背中から踏みにじって背骨軋ませたのはマズかったかしら、と遠い目をして思うエリザベータの内心を読み、ローデリヒは深々と頷いた。戦争中の荒っぽさだ、仕方ない。仕方ないが、冷静になればそれはダメだろう、ということもある。
両手でもちょっと足りないくらいエリザベータもローデリヒも心当たりがあるが、一つでもルートヴィヒに知れたら、この先口を聞いてもらえなくなる危険性が高い。一応、ギルベルトとてお互い様なのだがこちらは軽傷、あちらは重傷一歩手前だ。そしてなんといっても、二対一だった。それだけで、混乱する少年の心が遠ざかるには十分だろう。そーっと視線を戻し、エリザベータはルートヴィヒの前にしゃがみ込む。
ねえ、と呼びかけると鈍い動きで瞳が動いた。敵意ではなく、純粋な警戒の光がそこには灯っている。なんだ、と返される声は硬質で、二人の間には透明な壁が立ちはだかっていた。手が触れていても距離は遠く、声が聞こえても決して届かない。溜息をつきたい気持ちになりながら、エリザベータは口を開く。謝るなんていう、愚かなことはしなかった。『国』としても『個』としても、それだけは絶対にしてはならない。
「ギルベルトに怪我させたの、私よ」
ぎく、とルートヴィヒの体が強張った。それは薄々分かっていた現実を突き付けられた痛みなのか、それともただ警戒反応なのかは分からない。向けられる瞳はエリザベータに対する想いを選びきれずに揺れていて、泣きそうにも見えた。エリザベータ姉さん、と甘く慕う響きを告げたこともある唇が、震えながら薄く開き、閉じる。ルートヴィヒ、とひどく落ち着いた響きで名を呼びかけ、エリザベータはハッキリと言った。
だからね、と。荒れ狂う感情の逃げ道を、少年に与えてやる為に。
「文句を言いなさい」
大真面目な言葉に、ローデリヒも頷く。それからローデリヒも少年のすぐ傍にしゃがみ込み、不公平な視線の高さを水平にして笑う。瞳をすぅ、と柔らかに細めて称えられる微笑は優しくて、ルートヴィヒの心を切なくさせた。言葉にならない気持ちが、口から零れていく。は、な、え、と断続的に漏れた声は、やがて一つの言葉を拾い上げて形にした。どうして、と。ずっと聞きたかった事を一言に乗せて、空気を揺らす。
問われた二人は、そっくりな表情で笑った。
「あなたは、私に文句を言う権利があるからよ。ギルベルトはあなたの大切なお兄さんで、私はそれを知っていて傷つけたのだし、その上で今ここに居るのですもの。ね、ローデリヒさん」
「そうです。エリザベータの言う通りですよ。さ、ルートヴィヒ。お好きになさい」
誇り高く罵倒でもなんでも聞きましょう、とおごそかに宣言するローデリヒに、エリザベータはさすがです、と賞賛するような眼差しを送る。二人は大真面目だ。だからこそ上手く飲み込めず、ルートヴィヒはええと、と首を傾げる。大人がしゃがみこんでなお、頭の位置がすこし低い背丈。くるりと巻いたつむじが頭の上に見えて、エリザベータは勢いよく口元を手で覆った。ちっちゃいこのつむじ可愛い、の気持ちを抑える。
ここで心のままに行動したら台無しだ。それくらいできなければ『国』ではない。だから頑張れ私、と今一理論性のない励ましを己に送るエリザベータをやや呆れた目で眺め、ローデリヒはルートヴィヒの顔の前で指をくるくると回した。む、とちいさな呟きと共にルートヴィヒの注意が向いたので、ローデリヒはにっこりと笑う。指先をそのまま伸ばし、滑らかな頬に触れた。傷一つない肌のぬくもりが、指先を戸惑わせた。
「……いいのですよ、ルートヴィヒ。たくさん、怒っていいのです。なじって、怒鳴って、泣いてしまいなさい」
「そ、んな……ことは」
「あなたには、その理由がある。……気持ちを、胸の中で閉ざしてしまうのはお止めなさい」
生まれたのであれば、この世界に落としてあげなくてはいけませんよ、と。音を響かせることこそ幸福だとする音楽家の囁きに、ルートヴィヒの瞳が揺れる。許可を得てさえ躊躇うのは、二人を本当には嫌いではないからだ。嫌いなら、どれほど良かっただろう。憎いと思ってしまえれば、どれほど楽だったのか。ローデリヒもエリザベータも、ルートヴィヒに取って大切な存在で、そしてギルベルトにもそうである筈だった。
『ハンガリー』と『オーストリア』との開戦を告げた日の、ギルベルトの瞳を覚えている。硬質なルビーのような瞳は、まるで凍った湖面のようだった。痛いとも、怖いとも告げられず。ただ大きな亀裂を抱き、ひび割れて砕けてしまう寸前の氷のようだった。大切なのだと告げていた。『国』として抱く民衆の意思も、上司の願いも、国として抱く国土も、その上に芽吹く幸せも。なにもかも大切で、同じくらいに、二人のことも。
未だ幼いルートヴィヒの『世界』はギルベルトそのひとであり、そして全てがイコールだった。ギルベルトが大切なものを、同じように大切と思うことこそ幸福だった。満たされていた。幸せだった。二人のことが、大好きだった。今でも大好きで、だからこそルートヴィヒは口を手で押さえ、ぶんぶんと首を横に振る。代わりに拳に握った手のひらを、ぽこ、とローデリヒの肩に落とす。泣きたいけれど、涙はこぼさない。
二人も、それを我慢しているからだ。ぽこぽこ、絶対に痛くないような力加減で叩いてくるルートヴィヒに、ローデリヒの表情がくしゃくしゃに歪む。たまらず腕を伸ばして強く抱きしめれば、肩から背中に拳が移動する。トン、と背が叩かれた。トン、トン、トン、と震える拳が背中を叩く。痛くないから、痛かった。ぎゅぅ、と唇をひきしめて嗚咽が漏れるのを堪える。
「……ルートヴィヒ」
むずがるような声が胸の中で響き、ぽこぽこと背が叩かれる。抱きつぶしてしまいたいくらいの愛おしさで、ローデリヒはそっと、少年の額に唇を落とした。振り払いもせず、睨まれもせず、仕草は受け入れられる。そっと唇を離したローデリヒを、間近で見上げるのは澄んだアイス・ブルーの瞳。受け入れて許す、王の目だった。
「あなたは……優しいひとですね、ルートヴィヒ」
「そんなことはない。俺は……貴方たちにも、ちゃんと言いたかったのに」
背から離れた手のひらが、体の前でぎゅぅ、と握りしめられる。あまり力を入れるのではありませんよ、とその手を取って撫でながら、ローデリヒはなにをですか、と問いかける。言いたいことがあるのなら、なんでも全て聞いてやりたかった。どんなささいな願いですら、叶えてあげたかった。告げることを、戸惑わせたくなかった。教えてください、と願うように言葉を紡ぐローデリヒに、ルートヴィヒは悲しげに眉を寄せる。
「……かえ……なさ、って」
「え?」
「だからっ! 俺は兄さんだけじゃなくてっ。本当は、貴方たちもおかえりなさいって言って、出迎えたかったのに!」
大好きな二人だからそうしたかったのに、でも顔を見たらやっぱり複雑でどうしても言えなくて、悔しくてもどかしくて。二人はそんなこと気がつきもしないし、気にしてもくれないからさらに言えなくなって。ルートヴィヒにしては珍しいくらい聞きとりにくい声で紡がれた言葉を、しかしローデリヒもエリザベータも聞きもらしはしなかった。ルートヴィヒの頬に手が伸ばされ、ぐき、と嫌な音を立ててエリザベータの方を向かされる。
うぐっ、と喉の奥でほとばしった叫びにも茫然として反応できないようすで、エリザベータはルートヴィヒを凝視した。
「……私たち、にも、そう言ってくれるの?」
エリザベータもローデリヒも、時折この屋敷を訪れる程度の存在だ。頻繁に通ったことはないし、近くに住んでいる訳でもない。ルートヴィヒが二人の住処に来たこともないし、兄という名の過保護な保護者は、少年をまだ社交界にも出していなかった。多くて月に一回、その程度。もちろん可愛がったし、愛情を注いではいたのだけれど。おかえりなさい、と出迎えられたことはなく、そうされることを望んだこともなくて。
あまりに驚いて目を丸くするエリザベータに、ルートヴィヒは当たり前だっ、とぽこぽこ怒りながら言い放つ。
「エリザベータも、ローデリヒも、兄さんの知り合いで兄さんの友人だけどっ、俺の大切なひとたちなんだっ」
「……名前、を、呼んでくれるのですか」
「終わったんだろうっ! 戦争、終わったなら、呼んでいいって兄さんは言ったっ! 兄さんが言ったんだっ!」
屋敷に立ち入ってから初めて紡がれた名に、ローデリヒが戸惑いさえしながら呟くとルートヴィヒは地団太を踏むようにして叫ぶ。ぐしゃぐしゃに絡まった感情が、一気に出ているようだった。
「終わったなら、戦いが終わったなら……『エリザベータ』と『ローデリヒ』は、おかえりなさいなんだっ!」
「……ルート」
「おかえりなさい! いらっしゃいませ! 二人が来てくれて、嬉っ……し、い」
怪我は、と高ぶった感情についていけず、引きつった声が問いかける。エリザベータは苦笑して緩やかに首を振り、ローデリヒは動き回れる程度のものですよ、と囁いた。そのどちらにも頷きを返して、ルートヴィヒは涙のない目を何度かこすり、大きく深呼吸をする。うろうろと彷徨う視線は、反省しているようだった。しょんぼり、小さな体をさらにちいさくさせながら、ルートヴィヒはすまない、と落ち込んだ声を響かせる。
「取り乱してしまった……常に、冷静であろうとしているのだが」
「いえ、かまいませんよ。言いなさい、とこちらが求めたのです。ねえ、エリザベータ?」
「はい! ローデリヒさんっ。ね、だからね、ルートヴィヒ。可愛いルート、ギルの王。そんな風に落ち込まないの」
元気を出してね、と頭を撫でる手に、ルートヴィヒはしょんぼり目を伏せた。うん、と頷きはするものの、気分が上向かない。暗く落ち込みそうになる気分をすくいあげたのは、ぴよよよよ、と鳴きながらふよふよ飛んできたことりだった。低空飛行、というよりは体力がなくて空中からずり落ちているようにしか思えない導線を描き、一羽のことりがルートヴィヒの方に向かって来て、差し出された少年の手のひらに落ちる。
手のひらの中でふよふよ弾んだことりは、見つめてくるルートヴィヒにぴょ、と鳴く。誇らしげな鳴き声だった。ぴょよよよよ、と聞いた者を全力で脱力の海に叩きこむ鳴き声をあげたことりは、ルートヴィヒの手の中でふごぉ、と鼻の穴をまんまるくして息をする。もこもこ動いて居心地のいい場所を探し、ことりはすっかり落ち着いてしまったようだ。ひさしぶりに飛んだから疲れた、と言わんばかりに動かなくなってしまう。
軽くてふわふわの体を手の中におさめ、ルートヴィヒはぎこちなく顔をあげていく。ことりが起きて来たなら、それは、目覚めの合図に他ならないからだ。まるで使い物にならないブリキ人形のように、ぎしぎしと顔を向ける。人の気配が増えたことに、どうして気が付けなかったのか。キッチンの入り口に背を預けて腕を組み、にやにや笑いながら立っているギルベルトがそこに居た。腕にも脚にも、包帯が巻かれている。
申し訳程度に着ている服は上下ともにぶかぶかで白く、あまり健康そうにも見えなかった。しかし表情は勝気で楽しげで、なにより瞳には強い光があった。硬質な輝きではない。柔軟で温かい色合いは、空を彩る夕陽にも似ていた。溜息と共に、名がこぼれ落ちる。兄さん。呼びかけに、甘い光が瞳に差し込んだ。嬉しくてならない、という風に笑ってギルベルトは動き、ルートヴィヒの前に片膝を折って腕を広げる。
その瞬間だけ相手の痛みも負担も忘れ、ルートヴィヒは兄の腕の中に飛び込んで行った。転がり落ちたことりをローデリヒが拾い上げ、ギルベルトの頭の上に戻す。悪いな、とローデリヒに笑ってから、ギルベルトは弟の体をしっかりと抱きしめて立ち上がる。
「よっ、と。良い匂いがして起きちまったぜ。なに作ってくれてたんだ? 可愛いルート」
「クーヘンだ。エリザベータとローデリヒが殆ど作って、俺は生地を型に入れたくらいだが……」
「キャラメルジンジャーパウンドケーキ、よ。ジンジャーたっぷりだから、それならアンタも好きでしょ?」
幼子がクマの人形を腕いっぱいに抱くように、ギルベルトはルートヴィヒを抱きしめていた。腕に巻かれた包帯の下は、まだ傷口がふさがっていない個所もあるだろうに。傷や痛みに配慮した風もなくぎゅうぎゅう抱きしめて、幸せそうな顔で弟の声とぬくもりを堪能している。アンタ本当ルートヴィヒ好きね、と呆れるエリザベータに、ギルベルトは笑って頷いた。
「だってコイツ、神様の贈り物だぜ? 俺の大切な可愛い愛しい弟。俺の王。もう、俺が帰って来た時のルート見せてやりたかったぜ……! ヴァルガス兄弟は天使だけど、俺のルートは妖精さんかなにかに違いないと思った。衝撃的な可愛らしさのあまり眩暈がしたぜっ!」
帰ってきてルートヴィヒの顔を見た途端、ギルベルトはその場に崩れ落ちるように気を失ったのだという。体についた傷は浅くとも、精神的な疲労が濃かったに違いない。錯乱して泣き騒いだルートヴィヒの羞恥心と罪悪感を薄れさせる優しい嘘に、エリザベータは苦笑してギルベルトの額を小突いた。くすぐったく目を細めてそれを受け止め、ギルベルトはケセ、と笑ってエリザベータとローデリヒを見る。
「よう。久しぶりだな、エリザベータにローデリヒ。クーヘンは俺様に任せて、もう帰って良いぞ」
「焼きあがったら食べて帰りますよお馬鹿。それより着替えておいでなさい。いつまでも寝間着で、だらしのない」
「そうよ。ほっといたらアンタ、そのまま食べて、またそのまま着替えもせずに寝るつもりでしょう。それは脱いで洗濯に回しなさい。アンタ、どうせ着てた軍服もその辺に投げてあるんでしょう。それも一緒にまとめて、洗濯場に出しておいてくれる? 洗ってほしたら帰るから」
取り込みだけはお願いね、と微笑まれて、ルートヴィヒはこくんと頷いた。もうギルベルトが帰って何日にもなるが、自分と相手を心配するのが精いっぱいで、当たり前の生活に目が向いていなかったことを思い知らされる。もぞもぞ、ギルベルトの腕の中で身動きをすれば、兄も自分もわずかに汗臭い。む、と眉を寄せて時計を見上げれば、焼き上がりまでにはまだ二十分あった。よし、と頷いてルートヴィヒは言う。
「兄さん、着替えを持ってきてくれ。それで一緒にシャワーを浴びよう」
「え……いい。食べたら浴びるぜー」
恐らくは、傷に染みて痛いからだろう。あからさまに嫌そうな顔をして逃げようとするギルベルトに、エリザベータとローデリヒはうわぁ、という顔になる。不潔なものを見る眼差しに、しかしギルベルトはめげなかった。後でなー、と言ってルートヴィヒを下ろし、そそくさと居なくなってしまおうとする足に、がしりとしがみつく。低身長でしか許されない拘束法だった。う、と足を止めるギルベルトを見上げて、口を開く。
逃げられなくする口上の一つや二つは、持っていた。
「一緒に入ってくれたら、髪を洗わせてやっても良い」
「うぐっ……で、でもよ、それもまた今度に」
「今だ。今なら、髪を拭くのも乾かすのも兄さんに任せる。なんなら兄さんの髪を俺が洗ってやっても良い」
ギルベルトは弟を溺愛し、その世話を焼くのが大好きである。最近はさすがにさせて居なかった最終手段をどんどん投じると、ううぅ、とギルベルトは目に見えてひるむ。弟にべたべたされるのも、大好きだからだ。拭くのも乾かすのもやってもいい、と言ってくるルートヴィヒに、ついにギルベルトが折れる。分かった、と痛みを弟への愛で耐えることにしたギルベルトは、ぽんぽん、とルートヴィヒの頭を撫でて息を吐き。
口に手を押し当てて思い切り爆笑を堪えている二重帝国を、本当に嫌そうな目で睨みつけた。
「……忘れろ。んで、俺とルートが帰ってきたらティータイムだからな」
「りょ……了解し、まし……っ」
肩をものすごく小刻みに震わせながら言うローデリヒは、恥ずかしそうなルートヴィヒにも手を振って見送った。文句を言うことを諦めた兄弟が出て行くまでは我慢して、二人は思い切り、気が済むまで笑う。しばらくして肩で息をしながら顔をあげ、ローデリヒは目に浮かんだ涙を指でぬぐう。笑い過ぎて苦しい。エリザベータも同じようにして深呼吸し、それからようやく、本当に落ち着いたように胸に手をあてて微笑んだ。
クーヘンが焼きあがるまで、もうすこしだった。