ぴんとシワ一つなく張られたシーツとは、違う感触がした。あれ、と思いながら寝返りを打って腕を伸ばし、手首から先だけを動かす。ぱすぱす、と音を立てながら打つそれは、やはりシーツが張られたベットではなかった。ソファに転がされているとしたら、とりあえずギルベルトを殴ろう。そう思いながらゆるゆるまぶたを持ち上げ、横になったまま、エリザベータは大きくあくびをした。光に満ちた明るい部屋だった。
ぼんやりまどろむ視線が、柔らかな光を四角く区切る障子を捕え、若草のまま枯れたような色合いの畳を映し出す。はっと息を飲んで起き上がれば、肩まで掛けられていた薄いタオルケットが落下する。大慌てでタオルケットを抱き寄せて裸の胸を隠し、エリザベータはそうだった、と苦笑した。昨日から、日本に遊びに来ていたのだ。ここは『日本』の化身である菊の家である。当然、寝具はベットではなく布団だ。
どうりで違うと思った、と苦笑しながらぱたりと体を倒し、エリザベータは部屋の隅を軽く睨みつける。ギルベルトは、一足も、二足も先に起きたに違いない。きちんとたたまれた布団の上に使った様子もないまくらがちょこん、と置かれていてエリザベータは思い切り息を吐く。起こされないのは、いつものことだった。それでも普段は起きるまで、何が楽しいのか横で見ているのだが。姿がないのは菊の家だからだろう。
朝の正常な空気の中に、温かな食べ物の匂いが混じる。時計に目をやればもう遅くもないが、早いとも言えない時間で。今日くらい起こせ、と内心でギルベルトを呪いながら、エリザベータは枕元に置いてある旅行鞄に腕を伸ばした。着替えを取る為だが、その手は途中で落下する。下着を含めた着替え一式が、すでに用意されていたからだ。もちろん、エリザベータが出したものではない。犯人は一人だった。
あのヤロウどうやって私のスーツケースの鍵開けた、と呟きながら布団から出て、着替えに目を落とす。清潔に整えられた服の上に、和紙と一輪の花が乗っていた。花は恐らく中庭に咲いていた野の花で、摘まれたばかりの瑞々しさがある。犯人は一人だ。恥ずかしい。意味もなく枕を叩くくらいには恥ずかしい。あのお馬鹿っ、と敬愛するローデリヒの口癖を赤い顔で吐き捨て、エリザベータは野の花を手に取る。
そーっと、痛めないように。小さな、小さな青い花を壊してしまわないように。ちいさなコップでも菊に借りて、水をあげよう。そう思いながらとりあえず花を退けたエリザベータは、乗っていた和紙に視線を向けて、そのまま布団に突っ伏した。間違いない。犯人はヤツだ。和紙には、癖がありながらも読みやすいドイツ語が書かれていた。何回か目にしたことがあるので読まなくとも分かったが、あえてもう一度目を向ける。
『Guten Morgen. Meine Liebe(おはよ。俺の愛しいひと)』
ついうっかり、いつか戯れに耳元で直に囁かれた声で脳内再生してしまった。朝から死ぬかもしれない、とエリザベータは本気で思う。つい忘れがちだが、あれでもギルベルトは中世の時代を生きた騎士なのである。騎士だった、でも良いが。その名残で時々、こういう恥ずかしいことを平気でするのだった。エリザベータの反応を面白がっている、というのもあるだろうが。布団をばすばす叩いて、勢いよく顔をあげる。
居なくて良かった。本当に、ギルベルトが早起きでよかった。一人で目覚める朝バンザイ。円周率を思いつく限りまで早口で暗唱して心を落ち着かせたエリザベータは、もう一度大きく息を吐き出して着替えに手を伸ばした。手早く身につけて立ち上がり、布団をたたんでギルベルトのものの横に置く。それから贈られた一輪の花を大切に手の中に持ち、エリザベータは客間を抜け出して、居間へと歩いて行く。
ちゃぶ台のある居間をひょいと覗きこむが、家主の姿はないようだった。代理だと言わんばかり、菊のいつも使っている座布団の上にぽち君が丸くなっていて、ぴくぴく耳を動かしてエリザベータを見る。なんとも言えず愛らしい声できゃん、と鳴いたぽち君は丸まったままでぱたぱたとしっぽを動かし、異国の客人を歓迎した。思わず口元を綻ばせれば、ぽち君はしっぽをぱたぱた、ぱたぱた忙しなく動かして奥を見る。
居間の奥は台所へと続いていて、耳を澄ませばくつくつとなにかが煮える音がした。家主の居場所を教えてくれたに違いない。ぽち君は賢い犬なのである。ありがとうね、と笑うときゃうんと嬉しげに鳴き、ぽち君は丸まってしまった。朝だろうが昼だろうが、ぽち君は好きな時に眠るのである。いいなぁ、とくすくす笑いながら通り過ぎ、エリザベータは台所を覗きこんで息を吸い込む。そして、脱力の息を吐き出した。
「……なにしてるの?」
問う声は小さく響かないものだったので、台所に居た者たちには聞こえなかったらしい。にやにや笑いながら味噌のプラスチックパックを頭の上に掲げているギルベルトも、ぷるぷると震えながら背伸びして両手を伸ばしている菊も、エリザベータを振り向かなかったからだ。お互いに、相当集中しているのだろう。さもなければ、気配に敏い二人が気がつかないわけがないからだ。ちょっとっ、と菊の怒った声が響く。
「い・い・か・げ・ん・にっ! お味噌返してくださいお師匠さまっ!」
「だぁから。取り返せたらやるっつってんだろ? 取ってみろよ。ほれほれ」
「ちくしょう陣痛でも起こせこの馬鹿師匠がっ……!」
菊の八橋装備はオフらしい。ぎいいいっ、とかなり頭に来ている様子で歯ぎしりしながら叫んだ菊は、つま先立ちするようにして両手をさらに伸ばしたのだが。見てとったギルベルトがひょい、とかかとをあげてしまったので、差は全く変わらなかった。菊とギルベルトの身長差を利用した、実に見事な嫌がらせである。朝からなにをしているのか。ぽち君は眠いのではなく、二人のやり取りに呆れていたのかも知れない。
再び声をかける勇気もなくエリザベータが見守る先で、師弟は味噌を奪い合っている。すぅっと目を細めた菊は強く床を踏みしめ、バスケットボールをゴールに運ぶがごとく綺麗な動きでジャンプした。手が味噌に迫る。おお、とやけに楽しげな声をあげ、ギルベルトは逆に前に出た。体がぶつかりあうすれすれまで接近し、ギルベルトは菊の後ろに足を出して、くるりと立ち位置を入れ替えた。無駄に鮮やかな動きだ。
着地した菊が、獲物を取られたライオンのような瞳でギルベルトを睨みつける。ギルベルトは喉の奥でくつくつ笑い、すぅと目を細めた。顔の横に味噌パックがなければ、実に緊迫した対峙であることだろう。遅いんだよ、と笑うギルベルトに対し、菊の唇が笑みを吐く。自嘲の笑みではない。相手の油断をせせら笑う、強者の笑みだった。うん、とおかしそうに語尾をあげて呟くギルベルトに、菊がまた先手を打って動いた。
一瞬で、菊はギルベルトの視界から消え去る。反射的に体を強張らせる反応が、すでに遅い。下から逆巻いて吹く風に視線を下げれば、菊はギルベルトと目を合わせてにぃ、と笑った。ごく低く、低く、菊は体を横に倒していた。とっさに飛び退こうとする足に、踵から、床すれすれに繰り出される回し蹴りが食いついた。がつんっ、と骨のあたる音が響く。耐えきれずに姿勢を崩すギルベルトの体に、菊の体重がかかる。
体にのしかかるようにしてギルベルトを床に倒し、肩で息をしながら菊は味噌を回収した。床に叩きつけられる前に手でキャッチしていたので、なんの損傷もなく、汚れもない。やれやれ、と味噌を胸に抱いて息を吐く菊の髪を、ギルベルトの手がくしゃりと撫でた。くすぐったいというより、恥ずかしい手の温かさ。肩をすくめてくすくす笑う菊は、俺の負け、と素直に認めたギルベルト言葉にさらに嬉しそうに目を細めた。
「合格点ですか? お師匠様」
「おう。まさか下から来るとは思わなかったぜ。動きも確かに速かった。よくやったな、菊」
くしゃくしゃ、ギルベルトの大きな手が菊の髪を撫で乱していく。やめてくださいと笑いながらも、菊は見ている方が恥ずかしくなる程に誇らしげな微笑を浮かべ、ギルベルトをじっと見つめていた。
「お味噌汁でよろしいですか? お嫌であるなら、味付けはしょうゆでするか……コンソメでスープにします」
「美味しく作ってくれるだろ? お前の好きにつくれ。なんでも食べてやるぜ」
良いとも嫌ともつかない回答に、菊の目が不満そうに歩染まる。ずい、と身を乗り出した菊はギルベルトに顔を寄せ、ごち、と音を立てて額をくっつけてしまった。そのまま額に力をこめてぐりぐり懐いてくる菊の後頭部を、ギルベルトは対して力の入っていない平手でぺちりと叩く。なんだよ、と笑う赤の瞳と、もの言いたげな漆黒の瞳が間近で見つめ合う。べぇつになんでもありませんけどね、と菊はむくれて呟いた。
「お師匠さまの好みにそうものを作りたいという、わたくしめの気持ちをくみ取ってくださらないのかと思いまして」
「だぁから、なんでも良いっつーの。お前の作る料理が好きだって言ってんだろ?」
「おや? そういう意味でしたか」
くすくす、と機嫌を回復させた笑みがもれる。猫の目のように瞳を細めて菊を見て、ギルベルトは思わず苦笑した。
「機嫌直ったかよ、この拗ねっこが」
「こどもじゃないです、じいさんですよ。お師匠さまよりずぅーっと年上なのですからね」
全く欧州の方々と来たらすぐそうして私たちを年下扱いなさるのだから、と溜息をつく菊に、ギルベルトは懸命にも沈黙をまとった。いい加減、背中が痛くなってきたからだ。よっと腹筋の要領で身を起こせば、菊は素直にギルベルトから下りた。味噌をまな板の横に置いた所で、ようやく菊はエリザベータに気がついたらしい。つい先程まで騒いでいたことをみじんも感じさせない笑顔で、おはようございます、と告げられた。
「お、おはようございます、菊さん……あの、ギルベルトとなにをして?」
「おや見られてしまいましたか、お恥ずかしい。ちょっとした朝の運動代わりですよ。ですよね?」
「ああ、本当はランニングしたかったんだけど。菊が、良いから朝食の用意手伝えって言うからよ。じゃあやりながら運動でもするかっていう流れになったんだよな。……思ったより台所がせまかったわけだが」
やっぱ台所は組み手には向かないな、と聞く者に正気を疑わせるような発言を平然と響かせて、ギルベルトは体についた汚れを手で払う。その上でエリザベータと目を合わせ、手の中にある花に気がついたギルベルトは、ふにゃ、と柔らかく溶けてしまいそうな笑みを浮かべた。
「おはよ、エリザ。……よく寝れたか?」
「ええ。誰かさんのおかげで衝撃の目覚めではあったけど」
ふぅん、と気のない呟きを発しながらエリザベータに近寄り、ギルベルトはごく自然な仕草で身を屈めた。耳元に唇を寄せる。そしてナイショ話を囁くように潜めた声で、ギルベルトは笑いながら呟いた。
「……Guten Morgen. Meine Liebe」
その言葉の破壊力に、いつまで経ってもエリザベータは慣れることができない。顔を真っ赤にして睨みつければ、ギルベルトは普段とは違う本当に嬉しそうな顔で笑うだけで、からかおうとはしていなかった。だからこそ、なお恥ずかしくて息を吸うエリザベータの目の前で、呆れ顔の菊がギルベルトの頭をぽこりと叩く。あ、さりげなく背伸びした、と全く関係ないことを思うエリザベータの耳に、菊の声が聞こえてくる。
「ぼっとしてないで、手伝ってください。エリザベータさんは、どうぞぽち君と一緒にお待ちくださいね。もう出来上がりましたので、すぐですよ。……お客様なのですから、もてなされてください。お気づかいなく、ですよ」
「菊。俺も客だと思うんだけどよー」
「あなたはお客様である以前の問題で私のお師匠さまで、日本には古くから立っているなら親でも使え、という格言が御座います。お箸と箸置き、それから取り皿を出してくださいね」
流れる水のようにすらすらと言い放ち、菊は笑顔でギルベルトにお願いした。形としては完璧にお願いなのだが、逃げ道がどこにも見つけられない。溜息をついたギルベルトはエリザベータの背をそっと押して座っているように促し、菊の求めに従って台所へ戻って行く。なんとなく、面白くない気持ちでぽち君の所に戻り、エリザベータはそーっと台所を覗きこんだ。ギルベルトは迷う様子もなく、食器を出したりしている。
菊とギルベルトは師弟関係で、互いに遠慮などしない関係であるという。お師匠さまに日常生活で遠慮するとか面白くて笑いが止まらなくなります、と笑顔で言い切った菊を、ギルベルトが全力疾走でとっちめていたのは先日のことだ。亜細亜の底力なのか忍者の本領発揮なのか、菊はギルベルトから延々逃げ続けていたのだが。可愛くないことを言いながら、菊は本当に大切な時、ギルベルトの傍に居るのである。
いつかも、そうだった。極めつけにくだらない兄弟喧嘩でギルベルトとルートヴィヒが会議室を占拠した時も、菊は年若い盟友ではなく、迷わず師の傍に歩み寄ったのである。恭しく誇りと喜びに満ちていた一礼も、交わされた視線と笑顔も、エリザベータはハッキリと思い出せた。仲良しなのだ。それは知っている。けれど、台所の食器の位置で迷わないくらいの仲良しであるとは知らなかった。すごく、面白くない。
面白くないという気持ちを認めたくないくらいに、面白くなかった。ぽち君を抱き上げて撫でていると、お箸と箸置きと取り皿、ナイフとフォークとスプーンを持ってギルベルトが現れる。ちゃかちゃかと手際よく並べたギルベルトは、カトラリーをそっと脇によけて置いた。なにも言わずに台所に戻ったギルベルトは、手に料理を持って再度現れ、菊も白米のよそられた茶碗と、奪い取った味噌で作った味噌汁を運んで来る。
白米に味噌汁。白身の焼き魚に、焼のりが数枚。卵焼きからは出汁の良いにおいが漂い、薄くしょうゆ色に染まった煮物からは湯気が立っている。菊の前にはたくあんが置かれていて、ギルベルトに無言で中央に移動させられていた。あああっ、と非難でいっぱいの叫びをさらりと無視して、ギルベルトは菊に笑いかけた。菊は半ば死んだ目でたくあんがないと生きていけないと呟いていたが、隠されたわけではない。
せめて半分こですよ、と念を押すようにギルベルトに言って、菊はぱん、と音を立てて手を合わせた。
「それでは、いただきます」
エリザベータとギルベルトもそれに続き、同じように手を合わせて目の前の食事に対してお辞儀をする。ギルベルトはそのまま、口の中でちいさく食前の祈りも捧げてから顔をあげた。ひょい、と箸を持ち上げて、持つ。魚の身を崩し、白米の上に乗せてから口に運ぶ仕草はごく自然なものだった。もぐもぐと口を動かしてから飲み込み、ギルベルトは同じように一口食べて、さて、としょうゆに手を伸ばした菊の手を掴む。
「なんでお前はそんなに塩分が好きなんだっ! 高血圧と脳梗塞とマブダチにでもなるつもりかー!」
「ワインとチョコレートのマリアージュが許されるなら、魚としょうゆのマリアージュも認めさせてみせる……! ちょっと、ほんのちょっとですからっ! ほんの数滴かけて、しょうゆの香ばしさを魚に加えるだけですからっ!」
「お前そんなこと言って、こないだも結局だーってかけたじゃねぇかっ!」
俺は覚えてるんだからなっ、と叫ぶギルベルトに、菊は清々しいまでにきっぱりとした態度で言い放つ。
「そのような事実、記憶にございません!」
「こないだって言ったのが悪かったなら言いなおす! 昨日だ昨日っ!」
「あーあーあー! 電波障害ですかねどうしましょうお師匠さまの声が聞こえません困りました!」
ガラス張りにしても分かりやす過ぎる嘘をつくなーっ、と叫ばれても菊はめげなかった。どうしましょう聞こえませんねえとあくまで白を切りとおし、ギルベルトの腕が一瞬脱力した瞬間に振り払ってしょうゆさしを手に取る。そして菊はしょうゆを、だー、とさかなにかけた。お前ええええっ、となんだか泣きそうなギルベルトの叫びが、平和な朝の食卓を揺らす。
「お、おま、おまえ、言ったよなっ? 数滴だけとか言ったよなぁっ!」
「ははは。手が滑りました。なんという事故でしょう。恐ろしい……!」
「俺の目を見て言えるなら言ってみろ……! ちくしょう、ルートに写メしてやるからなっ! 怒られろっ!」
ものすごく幸せそうにしょうゆをかけた魚をもぐもぐ食べる菊は、後で怒られようとも今の幸せを優先するつもりらしかった。おいしいですねぇ、とほのぼのしながら箸を進め、ギルベルトが写メしている間にたくわんも一枚口に含んでいる。思い切り睨みながら携帯を食卓に置き、ギルベルトはあっけに取られて動けないエリザベータに目をやり、あ、と言った。それはあまりに素直な呟きとして、エリザベータに向けられる。
だからこそ文句も言わず、エリザベータは大きく息を吐くだけで留めてやった。一緒に居るのを忘れてたのね、と思うが、菊の塩分過剰摂取を目の当たりにしては仕方がないとも思えてくる。口うるさい師の意識がエリザベータに向いているのを良いことに、ひょいひょいたくあんを取っては幸せそうにほおばる菊の頭をぺちんっ、と叩き、ギルベルトは心の底から深々と溜息をついて諦めた。菊の粘り勝ち、である。
しょうがねぇなあ、と言いながら煮物を口に運ぶギルベルトを見ながら、エリザベータは問いかけた。
「ね、ギル。そういえば、ルートとフェリちゃんは?」
今回の日本滞在は、その四人で行ったのである。仕事の名目もあるが、半ば休暇で観光なのだ。復活した神聖ローマ、ことバイルシュミット家長男が留守番役なのは、フェリシアーノの手綱を任せられないからである。自他共に認めるフェリシアーノ溺愛症候群末期であるので、あっちに行きたいこっちに行く、というままに行動して、二人で迷子で戻れなくなる可能性が高いからだ。ルートヴィヒが適任なのである。
かなりぎこちなく箸を操るエリザベータをじぃ、と見ながらギルベルトは言う。
「日本の外食でモーニング食べる! ってフェリちゃんが言いだして、そのまま観光にも行くってルートもついてった。戻るのは早くて夕方。それ以上遅くなるようであれば、早めに連絡して夕食も外で食べてくることにするそうだ……エリザ」
箸に苦戦するエリザベータの朝食は、騒いでいた菊やギルベルトのものより減っていない。ぐぐ、と妙な力が入ってしまっている腕に手を伸ばし、ギルベルトは強張る手から箸を取り上げる。それから腕の内側、柔らかい皮膚の上を指でそっと撫で、仕方なさそうに息を吐く。
「力入れ過ぎだ。筋痛めたらどうすんだよ……ほら、こっち」
「すみません。せめて滑り止めのついたお箸を用意しておけばよかったですね」
問答無用でカトラリーを持たされ、菊にも謝られてエリザベータはぎこちなく笑い返すことしか出来なかった。恥ずかしいというか、情けない気持ちになってくる。日本食、というより純粋にお箸を使って食べるような和食に慣れていないのが原因だが、それでもギルベルトは普通に使えているのだ。しゅんとしてしまったエリザベータに、菊はなにも言わなかった。代わりにぱぱっと食べ終え、食器を持って立ち上がる。
「お先に失礼致します。では、お師匠さま」
「おう、任せとけ」
ぱたぱた、早足で去って行く音が響き、ぽち君も呼ばれて出て行ってしまう。良い天気だからすこしお庭で遊んであげましょうね、と声が響くので、菊はボールでも持って外に出たのだろう。しばらく戻りませんよ、という合図だ。ありがたく受け入れて、ギルベルトはエリザベータの前髪に口付ける。無言で押しのけられた。若干傷つきながらもギルベルトは勤めて優しく響くよう、エリザベータの名を呼んだ。
「どうしたよ、エリザ。いつもならそんな、落ち込むことでもねぇだろ?」
「それは……そうだけど。でも、なんか」
「菊は別に、お前を退けものにして俺と騒いでたわけじゃねぇぞ?」
分かっている。そんなことは、知っている。だからこそ確認するように問われ、かぁ、と胸が怒りで熱くなった。反射的に強く睨みつけると、ギルベルトはエリザベータの手首を引き寄せて顔をうずめる。ちゅ、と音がして唇が落とされた。びく、と反射的に跳ねた手を愛しむように眺めて、ギルベルトはごめんな、と告げる。
「だよな、怒るよな。ごめん。……ごめんな、エリザ。悪かった」
「……アンタ、なにも悪いことないじゃない」
「でも、ごめん。そういう気持ちにさせて、落ち込ませるまで気が付けなくてごめん。ごめんな、エリザベータ」
一瞬の怒りが、嘘のように消えていく。ああもう、と脱力してしまったエリザベータを引き寄せてぎゅっと抱きしめながら、ギルベルトは本当に嬉しそうにちいさく笑う。なによ、と恥ずかしまぎれに眉をつりあげて睨めば、ギルベルトは柔らかく溶けた果実色の瞳を甘やかに細める。
「嫉妬することあるんだな、と思ってよ」
「それ以上言うと絶滅させるわよ」
かなり本気の呟きだと分かったのだろう。青ざめた顔で体を離したギルベルトは、ご飯食べちゃおうぜっ、と大慌てで箸と茶碗を手に持った。異論はないので受け入れてやり、食事が再開される。ややぎこちない沈黙が漂うが、気まずくなる程でもない。時折ぽつりぽつりと言葉を交わしながら食べ終えて、エリザベータはナイフとフォークを皿の上に置いた。ギルベルトは茶碗の上に箸を置き、手を合わせて一礼する。
ごちそうさまでした美味しかったです、と言って食器を持って立ち上がったギルベルトに、エリザベータは声をかけた。
「あのね、ギル」
「ん?」
「……あとで、お箸の使い方教えなさい」
意外そうに軽く目を見開いた後、ギルベルトはくしゃっと顔を崩して笑う。いくらでも、と笑いながら伸ばされた手が頭を撫でるのは、正直こども扱いだと思いながらも悪い気はしない。片づけを手伝おうかと申し出れば、ギルベルトは真面目な顔で菊に怒られたらどうするんだ、と言い放った。あくまでギルベルトの位置は家主の近くにあり、本人の意識も客側にはないらしい。そこはもう諦め、エリザベータも頷いてやる。
バイルシュミット家でも家事は分担制だから、ギルベルトの片づけは手際がよかった。さすがに洗うまではめんどうくさいのだろう。シンクに水をため、水道を締める音だけが響く。すぐに居間に戻ることなく、ギルベルトは台所のさらに奥にある勝手口に向かったようだった。扉の開く音と菊を呼ぶ声が遠くに聞こえ、エリザベータはぼんやりと朝日の中でまどろむ。すこしだけ眠い。ぽかぽかの日差しが気持ち良かった。
しばらくして戻ってきたギルベルトは、そんなエリザベータにこら、と怒った風な声をかけて手を差し出す。なにかと思いながら握って立ちあがったエリザベータに、ギルベルトは弾む笑顔でよし、と言った。
「デート行こうぜ、デート! 目的地、スーパーマーケットな」
菊を呼んでいたのは、おつかいを聞く為だったらしい。ズボンのポケットから紙片がはみ出していて、そうと知れる。それお使いじゃないの、と苦笑するエリザベータに、ギルベルトはケセセ、と笑った。
「いいんだよ。俺様がそう思って、エリザが一緒に行ってくれればデートだ」
「そういうもの?」
「そういうもの! で、行くか?」
きゅぅ、と繋いだ手は離すつもりなどないのに、ギルベルトはそんな風に尋ねてくる。ばか、と笑ってギルベルトの額を指で突き、エリザベータはくすくすと笑う。
「デートなんでしょ? 行くに決まってるじゃない」
「……おう」
嬉しい、と。気持ちがじわりと滲んでくるような呟きで、ギルベルトはこくりと頷いた。はにかむような笑みをギルベルトは浮かべていて、それを間近で見つめながらエリザベータはずるいなぁ、と思う。そんな声を出すだなんて、そんな顔で笑うだなんて、本当にずるい。そんな風にされたら、もう何があっても怒れなくなってしまう。じゃあ身支度整えてくるから待ってなさいね、と手を離して居間を出て行きかけて。
くる、と振り返り、エリザベータは意地悪くギルベルトを睨みつけた。
「ちゃんと歯磨きするのよ? あと、浮気しないで待ってなさいね」
「しねぇよ! 歯は磨くけどっ」
お前俺のことなんだと思ってんだ、とぐったりされるのには簡素にギル、とだけ返してエリザベータは居間を出て歩いて行く。スーパーマーケットなら服はこのままでも良いかな、と思う心がおかしかった。くすくす笑って、大きく伸びをする。今日も良い日になりそうだった。