温かな熱が、イヴァンの全身を包み込んでいた。心地よくもどこか切ないのは、心の置き場所がないからだった。寂しい。なによりも強くそう感じてまぶたを持ち上げれば、見慣れた天井が飛び込んでくる。ぼんやりと細かい傷跡を数えて、イヴァンはゆっくりと視線を下ろしていく。重厚な柱時計の針が、午後をすこし回ったくらいだと教えてくれた。朝、ではない。昼過ぎだ。あれ、と焦る気持ちで瞬きをして、息を吐きだす。
体中が重たくてびりびりと痛みを発していて、満足に動くことができない。思考もゆっくりとしか働かず、イヴァンは無言で眉を寄せた。国内になにか異変だろうか。動けなくなる程のなにかが起きたというのだろうか。だとすれば何より情報が欲しいが、おかしなことにちっとも心が焦らなかった。そう言う時はたいがい、体の不調を押しのけても心が走り出すのに。おかしいなぁ、と熱い息を吐きだせば、話し声に気が付いた。
誰かが、どこか近くで会話をしている。聞き覚えのある声だな、と思いながら顔を横向きにすれば、視界が移動して正体はすぐに知れた。普段の軍服の上から長い白衣を着こんでいたが、後ろ姿でも特徴的な艶のない短い銀髪でギルベルトだと分かる。部屋の扉をすこしだけ開けているのは、中に冷気が入るのを最小限に留める為だろうか。まるで部屋の外の世界から内側を守るようにして、ギルベルトは立っていた。
「薬はなんとか効いたみてぇだ……熱は一応落ち着いたけど、まあ、それでも高いな」
「そう……あと、なにか必要なものは? 今、ライナさんが国内のことはしてくれてるけど」
「姉ちゃんが動いてくれてるなら、なんも心配することねぇな。……ん、大丈夫だ。物は揃ってる」
秘める為の会話ではないのだろう。耳を澄まさずとも言葉は正確に聞こえてきて、イヴァンはなぁんだ、と思って目を閉じる。ギルベルトが会話しているのは、エリザベータらしい。姿は隠れて見えなかったが、声ですぐにそうと分かる。柔らかな萌黄のような、光に満ちた明るい声。強い張りを持って凛と響きながらもあくまで女性的なその声は、どこか心配そうにも響いていた。対するギルベルトの声は、すこし掠れている。
水分取りなさいよ、と怒られるのに恥ずかしそうな笑い声が響いていた。二つの声は信じられないくらいに穏やかで優しくて、イヴァンの意識をとろとろと溶かして行く。眠くはないのに、夢を見そうだった。手のひらが、やけに温かい。このまま眠れたら、きっと幸せな夢が見られるだろうと思うのに、意識は中々沈まなかった。ただ穏やかに、穏やかに漂っているだけで落ち着いてしまっている。もったいないな、と息を吐いた。
ぱたん、と扉の閉まる音がして、遠ざかって行く足音が廊下の向こうに消えて行く。部屋にはしんとした静寂が折り、やがてコツ、と足音が響いた。近づいてくる。ギルベルトは、行かなかったのだ。ふと目を開けば嬉しそうな表情と出会って、イヴァンはごく自然に問いかけていた。
「ギル君、なにしてるの……?」
「起きたのか」
問いかけに答えず、ギルベルトは優しい声で呟いて椅子に腰を下ろした。身を乗り出すように座り、ギルベルトはイヴァンの額に指先を伸ばす。撫でるように触れた指の背はひんやりとしていて、イヴァンはその心地よさに目を細めた。冷たい、と呟けばかすかに笑われる。
「お前が熱いんだよ。……安心しろ、ただの風邪だ。国内になんか起きた訳じゃねぇよ」
「か……ぜ? ……かぜって、風邪?」
「『国』も風邪引くんだな」
ぶふっ、と耐えきれない笑いに吹き出す様子を見る分に、相当珍しいことではあるらしい。確かにイヴァンは普通に風邪をひいた『国』など見たことはなかったし、これまで生きて来た中で経験したこともない。風邪、と言葉の意味を確認するように呟けば、ギルベルトは無言で頷いてイヴァンの頭をそっと撫でてくれた。よしよし、と幼子を慰めるような、あやすような手つきに反発心は生まれない。ただ、すこし、嬉しかった。
ふふ、と笑えばギルベルトは優しい表情で微笑み返し、乱れた前髪をそっと整えて指先を離す。ぬくもりが遠ざかってしまって寂しくなると同時に、イヴァンはあることに気が付いてやや首を傾げた。
「ねえねえ、ギル君」
「ん?」
「手が温かいよ。ぽかぽかする。僕、手袋したままで寝てるかなぁ」
いつのまに着替えさせられたのか、イヴァンは日常服ではなくパジャマを着ていた。それならば、手袋をしているのはすこしおかしい。鈍った感覚ではよく分からなくて不思議がれば、ギルベルトは呆れかえった表情で、イヴァンの手の辺りを指差した。見ろ、と無言で示す姿に、イヴァンはぎこちなく視線を動かして行く。体がだるくて動かすのも嫌だから聞いたというのに、教えてくれないなんて、なんてイジワルなんだろう。
むくれた気持ちで視線を下ろして行けば、銀の艶を持つごく薄いオリーブ色の髪と、幅広の白いサテンリボンが目に入った。ぎく、と体が硬直したのは、誰だかすぐ分かったからだ。ぎゅぅ、と手に力を入れれば確かに、華奢で柔らかな女の子の手が、己のそれを包み込んでくれていることが分かる。
「ナターリヤ……! え、えっ、なんでナターリヤが?」
「……大変だったんだからな、コイツ落ち着かせんの」
深々と息を吐きだして、ギルベルトはイヴァンの手を握ったまま、ベットに倒れ込むようにして動かないナターリヤを見つめた。ぴくりとも動かない所を見ると、眠っている可能性が高かった。慌てているイヴァンに視線を戻し、ギルベルトは冷静な声で問いかけた。
「その前に。お前、どこまで状況の認識ができてる。ここがどこだか、分かるか?」
「僕の部屋、だよね……? うん。僕の部屋だ。寝てて、起きたトコ」
「そこまでか? 寝る前になにしてたとか、そもそも寝てなかっただろ、とか分からねぇか?」
ギルベルトとナターリヤは、ベットを挟んでそれぞれ左右に椅子を置いて腰かけていた。右に居るのがナターリヤで、左に居るのがギルベルトだ。どちらかを向けば、どちらかを見ることができなくなる。イヴァンは迷った挙句、ぴくりとも動かないナターリヤの、いつもは綺麗な形に整えてあるサテンのリボンを見つめていた。形が崩れてくたっと垂れてしまっているリボンを、直して上げられれば、本当は良いのだけれど。
人が話している時は相手の方を向けよ、と普段はうるさいくらいに言うギルベルトは、イヴァンがナターリヤを見ていてもなにも言わなかった。ただ、問いかけの答えが返って来なさそうだと分かると、呆れが三割増した溜息を響かせる。
「書類仕事の最中に、倒れてそのまま寝込んでたんだよ……ちなみに、それ昨日の夕方の出来事な。今は次の日の昼過ぎ。お前が床に書類をぶちまけて、倒れて動けなくなってんのを最初に発見したのはナターリヤだ。すぐに俺とライナ姉ちゃんとエリザのトコに連絡が来て、私邸に移動してからこっちの大騒ぎをホントお前に見せてやりてぇ……」
「……なにがあったの?」
「……一番簡単に言うと、叩き起こして仕事させろと言い放ったお前の上司にナターリヤが切れた」
コイツが切れなかったら俺かライナ姉ちゃんが怒ってただろうけど、と呟いたギルベルトの声は、やや引きつっていた。恐らく、ナターリヤは相当怒ったのだろう。普段でも手がつけられない所のあるイヴァンの妹は、こと『兄』が絡むとさらにやっかいになる。それは上司も気の毒に、と思わず呟いてしまったイヴァンに、ギルベルトが深々と頷く気配がした。
「でも、ナターリヤに感謝しろよ? この吹雪の中、医者を連れて来たのはナターリヤだ。お前を官邸からここに無理矢理連れて帰って来たのも、俺たちを呼び出したのも、やったのは全部ナターリヤだ。……医者を呼んで帰ってきて、風呂に入れんのもライナ姉ちゃんが説得してやっとだったんだぜ? 兄さんの傍に居る、兄さんの傍が良いって離れたがらねぇし、医者が診察してる時もべったり張り付いて監視してたし」
まあ医者がなにかおかしなことしないか見張ってたんだろうけどな、と呟いて、ギルベルトはベットに手をついて身を乗り出した。イヴァンに覆いかぶさるようにして体を傾け、ナターリヤの頭を一度だけ撫でる。
「疲れてんだろ。ほんの五分前まで起きてた」
もぞもぞと動いたナターリヤは、しかし起きる気配を見せなかった。代わりに、そこに居ることを確かめたがるように、手にきゅっと力が込められる。相手に決して痛みを与えない力加減で、しかし絶対に手のひらが外れてしまわないように、包み込んでいた。名前を呼ぼうとして吸い込んだ息は、乾いた咳になって出て行ってしまう。きゅぅ、と唇を噛んで視線を動かし、イヴァンはギルベルトを見てハッキリと告げた。
「ギル君、ナターリヤを連れて行って……早く」
「……オイ」
ナターリヤが兄を偏愛しているからなのか、兄妹の仲はそこまで良好とは言い難い。ギルベルトも、もちろんそれを知っている。それでも、そこまでした相手に対して酷い言葉ではないのか、と眉を寄せるギルベルトに、イヴァンはしかし譲らない様子で首を振った。
「ダメだよ。僕でも倒れるような風邪でしょう? 今も結構辛いんだ。こんな思い、ナターリヤにはさせられないよ」
「……イヴァン」
「風邪ってうつるんでしょう? 僕の風邪がナターリヤに感染するだなんて……」
そんなこと考えたくもない、と言うイヴァンをじっと見つめて、ギルベルトは息を吐きだした。
「分かった。連れだしてやる……けど、もうすこししたらな。もうちょっとで、ライナ姉ちゃんが一回こっち来る筈だから。そうしたら連れてってもらう。俺も、病人残してナターリヤ連れて行く訳にはいかねぇからな」
「そういうえばギル君、白衣着てなにしてるの」
「見て分かれ。というか思い出せ。俺様は元病院だ」
いざという時の看護にこの上なく適切な俺、とポーズまで決めて悦るギルベルトを、イヴァンは正直殴りたいと思ったがやらないでおいてやった。体が動かなかったし、看病してくれることに関して感謝の気持ちがないわけでもないからだ。感染しても知らないよ、と言うとギルベルトはケセセ、と独特の笑いを響かせて、優しい手でイヴァンの頭をぽんぽん、と撫でた。それだけで、心がほろりと崩れて行く。温かかった。
意識を尖らせておくことや、警戒しておくことがとても馬鹿馬鹿しいことのように思えてきて、ゆっくりと目を閉じて息を吐きだす。窓の外は、確かに吹雪いているらしかった。強い風にがたつく窓枠の音や、硝子に叩きつけられた雪が雨のように鳴っている。それなのに室内は温かで、穏やかで、そして静かだった。部屋の外の騒ぎや冷たさ、困難や苦しいことや難しいことは全部遠ざけられていて、守られているようだった。
盾になってくれているのが、恐らくギルベルト。届かないように包み込んでいてくれるのが、ナターリヤだろう。二人を抱きしめたいのに、上手く動かない体が本当に嫌だった。人間ってすぐ風邪引いて、そのたびにこんな思いしてるんだねぇ、とぼやくとギルベルトの笑い声が響き、お前こどもみてぇ、とからかわれる。くすぐったくて恥ずかしい言葉は、それでも嫌ではなかった。こどもでいいよ、と呟いてまぶたを持ち上げる。
「ねえ、ギル君。そういえば、姉さんは……」
「……俺はこの先、なにがあってもお前のことで怒った姉妹を敵に回すものかと心に決めたぜ」
問いかけに遠回しな答えを返しつつ、ギルベルトは椅子に座りなおした。
「ライナ姉ちゃんは、ちょっと用足しに行ってる。まあ、すぐ戻んだろ。お前の休暇取りに行っただけだし」
「僕の、休暇? ……そんなサービス、ロシアにないよ?」
「ないものをもぎ取ってくる為に、官邸まで出向いたんだろ。……安心しろ、イヴァン。姉ちゃんは絶対に、お前の休暇をもぎ取ってくる。ついでに国内の状態も一応確認してくるとは言ってたから、そっちで時間かかってんだろ。広いからな」
なんも起こってないとは思うけどな、との言葉は同じ『国』として発されたものだろう。『国』同士の感覚はある意味共通している所もあって、化身が倒れる程の状況であれば、連鎖的になにか感じ取ることが多いのだった。イヴァン自身も、己の内側でなにかが起きているとは思わない。つまりは純粋な風邪で、体調不良なだけである。人間みたい、と笑うイヴァンにそうだな、と告げギルベルトはまぶたの上に手を当てる。
軽く覆われて、薄い闇が視界に広がった。眠くないよ、とだだっこのように口を尖らせるイヴァンに、ギルベルトはじゃあ目を閉じてるだけでもいいから、と囁く。声は、撫でる手と同じくらいに優しい。ギル君はひきょうだなぁ、としみじみ思いながらまぶたを閉じれば、精神よりも体はずっと素直だった。ふわりと浮かびあがるような眠気がやってきて、意思は瞬く間にまどろんでしまう。温かくて、幸せで、心地よかった。
ギルベルトの手が退けられても、イヴァンはまぶたを持ち上げなかった。ん、とちいさな声をあげてまどろむだけで、眠りはしないものの積極的に起きもしない。休んでるならいいか、と妥協して、ギルベルトは手の届く棚の上に置いてあった医学書を手に取って開いた。風邪引き中の病人を前にして今更過ぎると分かってはいる。それでも知識を頭に入れずにはいられないのは、ギルベルトなりに心配しているからだった。
頭に知識を詰め込めば、すこしばかり、心が落ち着いて行く。紙をめくる音に意識を引っ掛けたように、目を開けないままでイヴァンが呟く。
「ね、ギル君」
「んー?」
「エリザベータと、仲良いの?」
さっきお話してた、と呟くイヴァンに、ギルベルトはくすりと笑った。どこから起きてたんだ、と怒るでもなく響く声が、穏やかに耳に染み込んで行く。お話聞こうと思ってた訳じゃないよ、と呟けば頭が撫でられて、そういうつもりの言葉ではないと教えてくれた。ずっと、ずっと、こんな風に優しくしてくれていたらいいのに。そう思いながら意識をまどろませるイヴァンに、ギルベルトはそんなでもない、と告げた。
「仲が良い、とか。わざわざ言う程でもねぇよ」
「……そう、かな」
幼子を寝かしつけるように、ゆっくり、ゆっくり、頭が撫でられて行く。涙が胸にひたひたと溜まって行くようで、嬉しいのに無性に切なかった。誰かに、こんな優しさを貰ったのはいつのことだっただろう。気が付けば誰もが距離を取っていて、ぬくもりすらイヴァンからはひどく遠かった。頭を撫でる指先は優しく、手のひらは包まれていて温かい。ふ、と涙の気配を漂わせて息を吸い込み、イヴァンは自然に言葉を告げた。
「僕には、愛してるように見えたよ」
「そうか?」
肯定するでもなく、否定するでもなく。理由を問いかけるでもなく、ただ問い返す言葉はどこか切なかった。苦しさは感じない。ひたすらに、切なかった。うすく目を開けば、声と同じ表情をした顔と出会う。ぼんやりと見つめてしないながら、イヴァンは問いを肯定した。
「そうだよ」
「……そうか」
「うん。……うん、そうだよ」
そうだよ、そうだよ。そうなんだよ。そういう風に、見えたんだよ。言葉にしない言葉たちを拾い上げてくれたかのように、ギルベルトの表情が優しく和んだ。うん、とイヴァンも笑う。そっちの方が、ずっと良い。悲しいより、切ないより、ずっとよかった。もう一度うん、と呟けばギルベルトの唇が開く。その動きを見てようやく、噛み締められていたことを知った。痛いよ、と告げるには意識がまどろみ過ぎていて、上手く動かない。
ぼぅっとするイヴァンに、ギルベルトは笑った。
「実は、久しぶりに普通に話した。……普通に話せるってこと、忘れてた」
それは、この北の大国に来たからだ。急に心が冷え込んで体を起こそうとしたイヴァンの肩を押すことで動きを封じ、ギルベルトは静かな表情で首を振った。
「動くな、寝てろ。……いい。違う。そういうことじゃないんだ。……そういうことじゃない、謝るな、イヴァン」
「ギル、君。でも」
「悪いのはお前の国であって、その制度であって、つきまとうたくさんのことであって、でもそれはお前じゃない。お前であって、お前じゃないんだ。……お前はロシアで、そしてイヴァン・ブランギスキ。俺がプロイセンであり、東ドイツであり、そしてギルベルト・バイルシュミットであるのと同様に、お前もそうなんだ。……だから、謝るな、イヴァン。謝るなよ」
その責はお前が背負うものじゃない、と呟くギルベルトに、イヴァンは上手く言葉を返せなかった。普段でも難しいであろう言葉だから、ぼんやりとしてしまった思考では紡ぐことすら出来ないでいる。
「ギル君……」
だから、名前を呼ぶだけ。その一言に全てを託して告げた意思を、ギルベルトは大切に受け取ってくれた。分かってるよ、という風に笑い、ギルベルトは身を屈めてイヴァンの額にそっと唇を落とす。さあもう寝ろ病人、と笑われて、イヴァンは素直に頷いた。今度こそ、瞼を下ろす。意識が波にさらわれる瞬間、ふと気が付いて言葉を発した。
「……ギル君、目の色、青かった、っけ」
「……昔は、な」
「違うよ、いま。いま……ギル君の、目の……青いの……は」
触れて、離れて行く時に覗きこんだ瞳は晴れ渡った空の色だった。もう一度見て確かめたいと思うものの、ぽんぽん、とあやしてくる手が心地よすぎて起きられない。やがて、体から力が抜けて行く。呼吸も安定したので、ギルベルトはイヴァンが眠ったと思ったのだろう。触れていた手は離れて行き、そっと微笑む気配だけが残る。イヴァンは起きてはいなかった。頭の半分だけが目覚めていて、音だけが聞こえてくる。
しばらくは、ギルベルトが医学書をめくる音だけが響いていた。やがて扉を叩く音が響き、ギルベルトが椅子から立ち上がる。いつも規則正しく響く足音が、慌ただしく扉に駆け寄った。解錠の音は無く、扉が開かれる。
「……っ、マジャル」
「あぁ、もう……やっぱり、アンタも体調悪かったんじゃないの」
イヴァンが知る何者でもない名に、答えたのはエリザベータの声だった。ため息交じりに言葉が告げられ、衣擦れの音がかすかに響く。
「イヴァンは? 眠ってるの? マリア」
「だと思う……。ずいぶん落ち着いてたから、峠は越してる」
「……じゃあ、もう人の心配する前に、自分の心配すること」
アンタってば本当、昔から自分を後回しにして他にばっかり注意が向くんだから、と呆れるエリザベータが言葉を向けるのは、ギルベルトの筈だった。気配は増えていないし、減っても居ない。それなのにエリザベータは、ギルベルトをその名で呼ばなかった。口調も、声の響きも、イヴァンが知るそれより硬質だ。
「看病、代わろうか? もう難しいこともないだろうし、それくらいなら出来る」
「……ん、いい。マジャルにも風邪うつる」
「基礎免疫力は俺の方があると思うんだけどな、マリア」
くすくす、とからかうような笑いが響き、むっとした気配がふりまかれる。恐らくは、ぷぅっと頬でも膨らませたのだろう。即座にべしょりとつぶされる音が響き、仲良くじゃれあいながら抵抗している音が聞こえて来た。
「なんで、なんでいっつもそうやって、頬潰すんだよ!」
「ぷくってなってるのが可愛いから」
「可愛いと思うのに潰すとか、お前本当ドエスだな……っ!」
しれっとした声の響きに、むきになって返す言葉はしかし楽しげで、本気で怒っている訳ではなさそうだった。くすくす、くすり、耐えきれない笑いが会話の合間に二人分忍び込んでいる。
「無理すんなよ?」
「おう」
それが、なにかの終わりの合図だったのだろう。笑い声が途切れ、低く潜められた声が揺れた。
「……おいで、マリア」
イヴァンが、意識を保っていられたのはそこまでで。揺れる波にさらわれるように、意識は夢によって塗りつぶされた。
意識がスッキリしているのは、体調不良から回復したというより思い切り寝たからだろう。まだなんとなく熱っぽくてだるい体を持て余しながらベットの上に上半身を起こし、イヴァンは軽く溜息をついた。昨日と違い、体はずいぶん自分の意思で動かせるようになっているのだが、昨日とは違う意味で動けない。彼方に向けていた視線を真下に戻せば、きちんと結び直してやったサテンのリボンがふわふわと揺れた。
「あ……あのね、ナターリヤ」
「いや」
ぎゅうぅ、とさらに抱きつく力が強くなって、イヴァンは思い切り天井を仰ぐ。目覚めた瞬間から、すでに二時間が経過したがナターリヤに離れる気配は全く見られない。イヴァンの首に腕を回し、体をぴったりとくっつけて顔を伏せてしまっている。動かれないことを良いことに気になっていたリボンを直せたのは良いのだが、そんなものは十秒あれば事足りるのである。指からすぐこぼれ落ちて行く髪を、さらさらと撫でる。
子猫のようにすり寄られるのは可愛いのだが、それとは別問題としてイヴァンは息を吐きだした。
「大丈夫だから、すこし離れて。ね? ほら、ギル君とエリザが笑ってるよ?」
「離れたら結婚」
「しません!」
半ば悲鳴のように告げれば、ナターリヤがむっとしたことは顔を見ずとも明白だった。あ、と思わず呟けば、ますますぎゅぅーと抱きつかれてしまう。多少息苦しいくらいで痛くはないのだが、全く身動きが取れなかった。着替えもしたいし、顔も洗いたいし、食事もしたいのだが、これでは立ち上がることさえできない。ちょっと笑ってないで助けたらどう、と睨みを聞かせれば、部屋の隅で肩を震わせていた二人が振り向いた。
「な、仲が良くていいんじゃないかしら」
「心配したんだもんな、ナターリヤ? くっついてたいんだもんな」
あと離れたら逃げるしな、と言ったギルベルトに、ナターリヤはこくこくと頷いた。ゆらゆらリボンが揺れる様は可愛らしい。確かに可愛らしいのだけれど、それとこれとは本当に別問題なのだ。無理に引きはがすのも可哀想で、イヴァンはなすがまま、抱きつかれるしかできない。頼りになるかも知れなかった姉は、今はイヴァンの為に食事を作っている最中なので、まだしばらく戻って来ないだろう。味方は、いない。
いいじゃねえか妹可愛いだろ、と笑うギルベルトは、壁の向こうに置いてきた弟を思い出しているに違いない。ゆるく細められた瞳は切なげで、それでいて甘い光を灯していた。赤い、ルビーのような瞳。思い出して、イヴァンは首を傾げた。
「ね、ギル君?」
「あ? 食事の内容なら知らねぇぞ。ライナ姉ちゃんがはりきってたから、お前の好物だとは思うけど」
「全然違うよ。あのさ、ギル君って、目の色ずーっと赤かった?」
きょとん、とギルベルトの目が見開かれる。ぱちぱちと瞬きをして、ギルベルトはくすりと笑った。
「なんだそれ」
「なんだって……えっと、あれ。なんでだっけ?」
聞かれれば、もうよく思い出せないことだった。起きた時は鮮明に覚えていた夢のように、もう遠くにおぼろげにあるだけで、形を成しはしない。どうしてかそう思ったんだよ、と呟くイヴァンに、ギルベルトは静かな微笑みを浮かべた。
「……『俺』の目の色はずっと赤だぜ」
「そ、っか。そうだよね」
「ああ」
だよな、とギルベルトが確認を取ったのはエリザベータだった。エリザベータはほんのすこし困ったような、複雑な表情で苦笑しながらも、やがて頷いて同意を示す。
「そうね。『ギルベルトの目の色』は、ずっと赤いわ」
「……ふぅん? まあいいや。そんなことより、ちょっとギル君もエリザも。本当にナターリヤどうにかして……!」
「私は兄さんから離れません離れて欲しかったら兄さんは私と結婚するべき」
幸いなことにエンゲージリングの用意があります、と言い放ったナターリヤの目は本気だった。本気すぎた。どこまでも本気しかなかった。ひぃっ、と本能的な叫びをあげ、イヴァンはナターリヤから目を反らす。外の吹雪は止んでいて、空はどこまでも吹き抜けて行くような青だった。