あなたが落としたのはこのギルベルトですか、それともこちらのギルベルトですかと通り一遍の言葉を並べたてられたエリザベータは、つまりこれは夢なのだと判断した。眠りに落ちるまでの記憶が残っているので、森の泉のほとりになど立って居ないと断言できるからである。神話に登場する女神のような服を着た泉の精霊はどう考えてもローデリヒの顔をしていたが、まあ夢なのだからとエリザベータは納得した。音楽家が泉から引きずりあげたギルベルトはどちらも水に濡れそぼってぐったりしていたが、落ちた衝撃で気絶しているだけなのだろう。どっちも同じに見えますが、どちらも同じですから、とやる気のない会話を響かせて、どうせ夢なのだからとエリザベータは泉の精霊ローデリヒにひとつ頼んでみることにした。
原因があるとしたら、恐らくつまり、全てそのせいである。
これは夢だ絶対に夢だという言葉を三十五回繰り返して、ギルベルトはすん、と鼻をすすりあげた。窓から差し込む朝日が恨めしい。深夜であったならもう絶対に悪夢だとして片づけてしまえたのに、朝の明るい光の中では意識をだましておけないのだった。いやでもこれ絶対夢だけど、と諦めの悪い三十六回目の呟きを発し、ギルベルトは己の胸に手を押しあててみた。ふに、と心地よい感触がある。女の胸だ。死にたくなった。あああああ、とベッドの中でごろごろしながら呻くギルベルトは、その時、背筋を貫く壮大な悪寒にシーツを跳ねあげた。
とっさに窓からの逃亡を考えるが、間に合いはしないだろう。第六感の導きのままに扉に駆け寄り、内鍵をかけた所で、がちんと音を立ててドアノブが振動する。危なかった。本当に危なかった。扉の前で俺だのなんだの騒ぐ声に絶妙に聞き覚えがある気がするが、そんな筈はない、絶対にない。耳を両手で塞ぎながらあーあー声を出して聞こえないふりをしていると、肺活量の限界が来た所で叫ばれた。
「マリア、俺だ! 結婚しよう!」
神様俺なんかしましたか。
まあいいんじゃないかお前たち昔は性別取り替えた方が良いんじゃないかと思っていたくらいだから、と視線を反らした長兄に言われて、ギルベルトは泣きたい気持ちでソファに突っ伏した。頭をよしよしと撫でてくる仕草はエリザベータのものなのに、すんと鼻をすすって視線を持ちあげればそこに居るのはなんとなく見覚えがある見知らぬ青年でギルベルトは死にたくなった。なにが一番死にたいって自分が女だということだ。マリアマリアとうきうきうきうきした声で呼びやってくるのに、ギルベルトは渾身の力で耳を手で塞いだ。嫌だ呼ぶな万一定着したらどうするつもりなんだと睨んでやれば、どこで調達してきたのか男物の服を着こなした『マジャル』は、うっとりと目を細めてどうしようねと囁いて来る。顔は微笑していても目の奥がなんだかギラギラしていた。
そうかそれが望みかコノヤロウ。意地でもコイツの言葉なんか聞いてやらないと手に力を込めれば、手首を掴んであっけなく剥がされて眩暈がした。
「マーリーア」
「……っ!」
「ん?」
全力で腕に力を込めても、相手も全力で剥がしているので震えるばかりで動かせもしない。にこにことニヤニヤの中間くらいの笑みで促されるのに唇を噛めば、草原色の瞳に嗜虐的な色が灯ったのでさらに死にたくなった。ちくしょうこれだから狩猟民族は。
写真撮って良いかと聞かれた瞬間にデジカメを床に叩き落として粉砕させた己の判断と反射神経はここ数年を遡ってもトップクラスに良いものだった、とマリアは思った。すでにマリアと呼ばれることに違和感がなくなっているだなんてそんな馬鹿な、と嘆きながらもマジャルの手から携帯電話をもぎ取り、お前はなにをしに来たんだと叫んだ所で気がついた。そういえばコイツ目的叫んでた。すみません兄上、そして愛しの弟よ家出します探さないでくださいと叫んで走って行こうとした所で腕を掴まれ、マリアはマジャルの膝の上に腰かけさせられた。嫌だ馬鹿やめろとじたばたじたばた抵抗しても、痛くもかゆくもないのだろう。はいはいと頭を撫でられて、気持ちがだんだんと落ち着いて行ってしまう。落ち着いた自分に絶望した死にたい。すんすんと鼻をならして泣いていると、マジャルが花柄のハンカチを差し出してきた。
「……ありがとう」
「ん」
なんだコイツ良いトコもあるじゃないかと思ってハンカチを握り締め、マリアはきっかり二秒後にその思考を後悔した。落ち着いたのか、とひょこりと顔を出した敬愛する長兄と愛しの弟に向かって、マジャルは真剣な顔をして妹さん、もしくはお姉さんを嫁にくださいと言っている。なんなのコイツ馬鹿なの死ぬの俺もう死にたい。
という夢を見たんだあああああ夢でよかったマジ夢でよかった本当によかったああああああ、と叫んだきり床に倒れて動かなくなったギルベルトを眺め、ベルンハルトはふむ、と首を傾げてみせた。大方、安堵のあまり体に力が入らなくなっただけだろうから心配しなくてもいいと思いつつ、視線を床から向かいのソファへと移動させる。たった十分前に全く同じ内容を口走りながら飛びこんでソファに倒れたきり動かなくなっていたエリザベータがよろよろと体を起こしたところだった。きっかり十分経過すれば、ギルベルトも立ち上がるに違いない。ふむ、と首を傾げ直し、ベルンハルトはごく常識的に問うてやった。
「結婚したいのか?」
「……たぶん」
「指輪でも買いに行け」
欲求不満だからそういう夢を見たんじゃないのか、と苦笑するベルンハルトに、エリザベータはギルベルトが元気になったら買い物にでも行くわ、と返事をした。