震える体を持て余しながら、背を伸ばして深呼吸を一回。目を閉じてなにも緊張することはない、と己に十回言い聞かせた所で、ようやく気持ちは落ち着いた。屋敷の主、『国』が執務をしている部屋の、扉の前。ようやく着慣れ始めた漆黒のスーツを身に纏い、青年はそれでも所在なく視線を彷徨わせ、ほとりと力なく足元に落下させた。青年の祖父は屋敷の執事であった。青年は幼い頃からこの屋敷に、遊びに来ていた存在だ。
だからこそ成人した今でも、この屋敷は第二の『家』であると思っていた。屋敷の働き手や住み人、通う者や『主』たちも顔見知りで、緊張しきった青年を遠巻きに眺めては、くすくすと好意的な笑いを響かせている。なにも、緊張することなどないのだ。青年は屋敷の主、『国』であり『祖国』である年若い青年のことをよく知っていた。そして青年が知る以上に、相手は、こちらをよく知っているだろう。なにせ彼は『祖国』なのだから。
本当の意味で、英国民に取って第二の家となるのがこの屋敷だ。彼は国民全ての父であり母であり、兄であり、そしてもう一人の主君である。だから青年の行いは、ある意味、家に帰って来て両親にただいま、を告げるようなものなのだった。恐れることなど、なにもない。肺の奥にまで空気を通すつもりで息を吸い込めば、華やかな香りがそっと忍びこむ。ふと視線を廊下の窓辺に向ければ、そこには朝採りの薔薇が活けてあった。
硝子の向こう。精緻に整えられた庭に、同じものが咲いている。屋敷の主自ら足を運んで剪定し、花瓶に挿したものだろう。瑞々しさを失わない緑の葉は、未だ朝露に濡れているかのごとく艶やかで、青年の視線を穏やかに受け止めた。青年に妖精は見えない。国民でも、それが視認できる者は稀だ。けれど屋敷に携わる者全てが、程度は違えど妖精の存在を『信じ』、そして『確信』しているのと同様、青年もそれを知っていた。
ありがとう、と唇で言葉を綴る。風もないのにゆらりと花弁を揺らした薔薇こそ、不可視の存在がそこにある証拠だった。祝福より甘い、守護の意思。くすぐったい気持ちに笑みを浮かべながら、青年はそっと腕を持ち上げて手を握りこぶしの形にし、重厚な扉を数度ノックした。青年が生まれるずっと前から、祖父の代よりさらに前から、変わらずそこにあるような飴色の扉。音は重たくも軽やかに響き、涼しげな声が入室を許可した。
失礼致します、という言葉は青年の意思に反してなめらかに口から出て行く。同僚に、苦笑いを通り越して憐みの目で見られるまで入室の練習をした成果だと思いながら、青年はドアノブに手をかけ、ぐるりと回してそれを押し開いた。明るい部屋だった。前庭から門を一望できるように作られた全面ガラス張りの窓は、天気が良い日は眩いほどの光を室内に呼びこんでくれる。今日は英国らしい曇り空であるので、明るい程度だ。
三面の壁を天井まで埋め尽くすのは、がっちりとした本棚。その棚のどれにも開きはなく、年代物の貴重な資料や文献、今月の新雑誌から屋敷の執事が代々記し残して行った日記などに埋め尽くされている。一応、大まかな年代分けだけはされているようだが、扉に一番近い本棚は時間がない時に元の場所に戻す手間を省く為の一時避難場所である為、この国の歴史を細かく切り刻み、ごちゃ混ぜにしたような混乱具合だ。
青年はそっと目を細め、部屋の奥に視線を送る。窓から差し込んだ光が、そのひとの手元を明るく照らし出していた。光はちょうど手元でまっすぐな線を引いて止まっていて、そのひとの体は、薄い闇の中に置かれている。背もたれのしっかりしたワーキングチェアに腰かけて、手元の書類に目を伏せていた視線が、持ちあがる。薄闇の向こうから見つめてくる、森色の瞳。この国の、一番美しい緑を封じ込めた瞳。柔らかに、笑う。
「……遅かったな。リトル・クリス」
「リトルじゃありません……! 俺っ……いえ、私は、クリストファです。クリストファ」
「三十分も扉の前で緊張してるようなら、まだまだリトルで十分だよ」
そうだろう、といかにもおかしげに笑うイギリスの声は穏やかで、それでいて逆らえない程に魅惑的な響きを持っていた。昔から青年は、居間や自分より年若く見えるこの『祖国』に、言葉で勝てた試しがないのだ。口を噤んで悔しげにしつつ、青年は息を吸い込んで意を決し、おいでおいで、と手をひらつかせるイギリスの前に歩んでいく。背筋を、ぴんと伸ばして。視線は足元に向けず、ぶしつけでない程度に相手へと向けて。
腕はそのまま自然に下に垂らし、手にだけは神経を払って。指先にまでぴんと糸を張るように、まっすぐに整えた手の形になるように。早くもなく、遅くもない足取りで進み、ガツ、と音を立てて『国』の執務机の前で立ち止まる。踵は揃えて、靴先はすこしだけ開いて。立ち止まった時の足音だけ失敗してしまったが、それを気にしている余裕は、もう何処にもなかった。頭ごと沸騰しそうな緊張で、顔が強張る。なんとか口を開いた。
「このたび、政府から国家殿との連絡官に任命されました。クリストファ・メイソンと申します。どうぞ、お見知りおきを」
「……立派になったな、クリストファ・ロビン」
「メイソン、です……! お願いですから、着任の挨拶くらいちゃんとさせてください……っ!」
半泣きで訴える青年に、イギリスはどうにも気が乗らない様子で、顔の前で手を組んでいた。だって、とごく軽く拗ねた意思が透けて見える表情だった。青年とイギリスの付き合いは長い。祖父が執事をしていた関係で産まれてすぐ抱き上げられ、おしめを取り替えられ、離乳食を食べさせられ、『お兄ちゃん』という呼び方を吹き込まれ、勉強を教わり、入学式には盗撮まがいのことを、卒業式には号泣されたくらいの仲なのだ。
イギリスはてっきり、大学を卒業した青年が屋敷に就職してくれると思いこんでいたらしい。いえ、俺政府の中枢で働きたいので、と言った瞬間の裏切られた感たっぷりの表情は、実は青年の密かなトラウマである。誰が好き好んで敬愛する祖国であり、育ての親代わりのひとにそんな悲しい顔をさせたかったものか。祖父とイギリスは、生まれて早くに両親を亡くした青年を、本当に可愛がって育ててくれた。祖父も、今は無い。
だからこそイギリスは、可愛い青年を屋敷の次期執事として大切に囲い込みたかったらしいのだが。それを嫌だと拒否してさっさと政界入りしてしまった為に、未だ拗ねているらしかった。十代のこどもですかあなた、と痛む胃を服の上からそっと撫でて息を吐き、青年はむっつりとした表情で黙りこんでしまったイギリスに、呆れ果てた目を向ける。根回しして根回しして『連絡係』にしてしまったくせに、これ以上なにが不満なのか。
「いいじゃないですか……! 俺にも職業の自由をくださいよ!」
「選択の自由ならちゃんとやっただろ? 執事候補か俺の秘書か、さもなくば屋敷の料理人。どれがいい? って」
「職・業・選・択・の・自・由・で・す!」
全然違います、と胃が痛そうな絶叫を響かせる青年に、イギリスは本当に聞き分けのないこどもなのだから、と言いたげな視線を向けて溜息をついた。それは全く、青年の台詞である。この先やっていけるかさっそく不安になる青年をちらりと長め、イギリスはまあいい、と気を取り直した表情で手を差し出す。反射的にぽん、と手を乗せた青年にお手じゃねぇよ、と苦笑して、イギリスは顔を真っ赤にして硬直した連絡官を眺めやる。
「書類、持って来たのあるだろ?」
「は、はい。メイド長に渡しました!」
「……からかって遊ぶなよ、と言っておいた筈なんだけどな」
アイツ本当ろくなことしやがらねぇ、と額に指先を押し当てて呻き、イギリスは机の端に置いてあった陶器の呼び鈴に手を伸ばす。繊細な持ち柄をつまみあげてリン、と一度鳴らす、その音が消えるより早く扉が開いた。まるで扉の外で聴き耳を立てて待機していたかのようなタイミングで、女性が書類の入った茶封筒を手に持ち、しずしずと入室してくる。しれっとした表情のメイド長に溜息をつきながら、呼び鈴が机に置かれる。
コトリ、と音が響くと同時、茶封筒が差し出された。御所望のものはこちらでしょうか、と告げられるのに脱力しながら頷き、イギリスはそれをしっかりと受け取った。
「あのな、トリシア。俺は、クリスが来てもからかうな、遊ぶな、とお前たちに厳命しておいた筈だが?」
「からかってなどおりません。ちょっとした危機管理テストです」
「いっそ接触するなって言った方がよかったのか? ……あのな、クリス。お前が政府から俺あてに託された書類は、たとえ中身が死ぬほどくだらないものであっても、その全てが国家機密扱いだ。誰がなんと言っても、俺以外の者に手渡してはいけない。お前の役目は書類の遵守と運搬であり、それを他の者に渡すことではないんだ。分かるな? それはそのまま、国家機密の横流しになりかねない。スパイ行為、ってことだ」
今回は初回ということと、屋敷の者のミスということで不問にするが、次回から死ぬほど気をつけろ、と溜息をついたイギリスに、青年は真っ青な顔でぎこちなく頷く。その上で恨めしげな視線をメイド長に向ければ、中年の女性は口元を穏やかに緩めた淑女の笑みで、ゆるりと首を傾げながら言う。
「もっとしっかりなさい。リトル・クリス」
イエス、以外に告げられる言葉もなく、青年は素直にそれを口にした。全く、とメイド長をたしなめる呟きを落として、イギリスが封筒から書類を取り出して眺めはじめる。真剣に読む、といった風ではないので、特に重要なものでもないのだろう。ほっと胸を撫で下ろす青年に、イギリスから叱責するべきか迷う視線が向けられたが、結局のところ国民に激甘な『祖国』は、溜息ひとつで諦めてやった。後々、出来れば良いだけだ。
執事のクリスも着任したばっかは本当ひっどかったしなぁ、と遠い目をして呟くイギリスに、メイド長が肩を震わせて笑う。
「屋敷の語り草。紅茶を淹れろ、と言ったらインスタントで出してきたというアレですね……」
「……リトル・クリス。お前の祖父は偉大だったぞ……?」
爆笑を堪えながら言われても、嬉しくも誇らしくも無い。恥ずかしさを堪えながらありがとうございます、とだけ返せば、耐えきれなかったのだろう。ぶは、と吹き出したイギリスは机に突っ伏し、肩を震わせて笑いだす。そのままイギリスの気がすむまで行われる筈だったであろう爆笑を停止させたのは、穏やかに響いたノックの音だった。コンコン、と軽やかに室内の空気が揺れ動く。ぱっと顔を上げたイギリスは、瞬きをした。
扉の前に立つのが誰かを、見なくとも分かってしまったが故の不思議さで首を傾げ、イギリスは口を開く。
「入室していい。……どうした?」
ふわ、と空気が和んだのを青年は感じとる。はっとしてイギリスに目を向ければ、慈しみ溢れた表情で扉の先を向いていた。軽く軋んだ音を立て、扉が閉められる。その音に導かれたように、青年は振り返った。息を、飲む。
「……カナダ、さま?」
「え……ええと。もしかして、クリス君? クリストファ・メイソン? ……わぁ、おおきく、なったねぇ」
感嘆の囁きに、ふわふわの金髪が微かに動く。ごく細い毛質なのだろう。僅かな身動きにもさらりと揺れる金の糸は、黄金よりもごく上質なはちみつの色を思わせた。懐かしげに細められた瞳は、東洋の笹の葉や、あるいは芽吹いたばかりの若葉を思わせる優しい緑。英連邦の中で唯一、英国の色彩を受け継いだとされる瞳だった。カナダは青年やイギリスのようなスーツ姿ではなく、ごくラフな服を身に纏っていた。私服だろう。
体つきよりすこし大きめなフライトジャケットをはおり、中にはごく普通の白いワイシャツを着ている。無地のネクタイは結んでいるものの緩めで、フォーマルな場に出るのであれば締め直さなければいけないだろう。ズボンは細身の黒いジーンズで、左身頃の太ももから足首のあたりまで、藍色の色で蔓と薔薇の刺繍がされていた。靴は、やはりデザインを優先させた洒落っ気のある革靴だが、よく磨かれて清潔に保たれていた。
常に腕に抱いている白クマは、今日に限って不在のようである。それ故か、カナダの動きは軽やかなそよ風のようだった。ごく僅かにしか、空気を揺らさない。注視していなければ、そこに存在があることすら失念してしまう程、極小まで消された穏やかさ。それが何故なのか、青年はカナダがイギリスの前に立った時にこそ理解する。私服である、ということは『国』がらみの用件で訪れたのではなく、完全な私用なのだろう。
それなのにごく自然に、差し出されたイギリスの手を取って甲に口付けたカナダは、あくまで『英連邦の長女』としてそこに在った。彼らの関係は、すでに属国と支配国ではない。それなのに、カナダの気配はどこまでもイギリスの為のそれだった。強大な気配をそっと包み込むような、それでいて傍らにあっても決して邪魔しない存在感。ともすれば同一だとみなされてしまうそれこそ、イギリスを主として引き立てるカナダのもの。
己の存在すら、主君の前にあっては不要だと、切り捨てられるのだろう。いつでも、どんな時であっても。唇を手から離して穏やかに微笑むカナダの瞳には、溢れるような敬愛と忠誠が見てとれた。それを間近で覗きこむイギリスの笑みは満足げで満ち足りており、差し出された手が頬をくすぐるようにして撫で、離れて行く様を青年は思わず見つめてしまう。彼らの仲は知っていた。それなのに、不思議と艶を感じさせない仕草だ。
彼らはあくまで主従であり、仕草は君主が寵愛する臣下を愛でるだけのそれだったからだ。全く同じ仕草を見たことがあるのに、印象がまるで違う。彼らは『国』といういきものであり、清らかで神聖で、そしてひとが立ち入れないものだった。
「申し訳ありません、イギリスさん。お一人だと思っていたので」
「気にしなくて良い。彼に会うのも久しぶりだったろう? ……新しい連絡官だ」
「ああ、そうなんですか。よろしくね、クリストファ」
新しい英国の連絡官なら、僕とも顔を会わせることが多いだろうから、と。振り返って微笑むカナダに、青年は慌てて頭を下げて挨拶をした。青年に取ってカナダは、歳の離れた兄のような存在だった。しかしこれからは、立場が『国』とひとを隔てるのだろう。それを感じ取ってすこしばかり寂しげな笑みを浮かべ、カナダはイギリスの前から青年の元へ、すいと歩み寄ってくる。清涼な、春風のような気配が青年の前で吹き溜まる。
「君の……選んだ道行きに、幸福がありますように」
「あ、ありがとうございます……!」
「コラ、カナダ。あんまり応援するんじゃない」
俺はソイツを執事にしたかったんだ、とふくれっ面で文句を言ってくるイギリスに肩を震わせて笑って、カナダはそっと、青年にだけ聞こえる声で囁いた。
「イギリスさんは、ああ仰るけどね。本気でそうしようとしてたら、君は今の立場ではないと思うよ」
「……そう、ですよね」
「連絡官にしたのも、いきなり不慣れな政界に行って、君が体を壊したりしないか心配だったから、なんだ。不満はあるかも知れないけど、そういうことだから堪えてやってね。……今のうちに、色々見ておくと良いよ。政治のことも、この国のことも。……『国』のことも、ね」
会議にも一緒に来ることあるんだろう、と穏やかな問いに、青年は緊張しながら頷いた。必ずではなく、強制でもなく義務でもないが、会議に随行することは、連絡官の仕事のひとつとして定められている。カナダは笑って、歓迎するよ、と囁いた。
「ようこそ、世界へ」
「……はい!」
「コラ、カナダ。あんまりうちの国民をたらしこむんじゃない」
あと距離が近いから離れるように、と指を動かして指示するイギリスにクスリと笑って、カナダは青年から数歩の距離を取る。その上で優美な印象を与える一礼を捧げ、カナダは退出の挨拶を口にした。仕事中にお邪魔しました、と笑うのになにやら考え込む仕草を見せ、イギリスはぴし、と折り目正しい仕草で、カナダが入ってきた扉を指差した。
「廊下で待ってろ。終わったら呼ぶ」
「はい」
「……また、あとで」
マシュー、と声を出さずにイギリスの唇がカナダの『名』を紡ぐ。カナダはそれにくすぐったそうに肩をすくめ、くすくす、と甘やかに忍び笑って一礼した。ふわ、と春風が退室していくカナダの背を追う。ぱたりと扉が閉じられて、イギリスの視線が書類へと戻ってくる。重要ではなく、急ぎではなくとも、イギリスはその一枚を終わらせてしまいたいらしい。メイド長には退室を命じながらも青年にはすこし待て、と告げ、手がペンを取る。
瞳が伏せられる。森色の瞳。英国の神秘を、時を止めた英知を、そのままに宿した誉れ高き瞳。それを青年は、ぼんやりと見つめていた。
「あの」
思わず、声が出る。問いかけようと思った訳ではなく、それは反射的な喉と唇の動きだった。きゅ、と即座に唇を閉じても、出てしまった言葉は戻らない。ペン先が紙の上で踊るかすかな音だけを響かせながら、イギリスがすい、と視線を持ち上げて青年を見る。どうした、と問いかけの意思を宿しているのに近い、それでいて無感情な瞳。集中しているのだ。問答くらいでは乱れもしない程、イギリスは書類に対して集中している。
言葉が、それを乱すことがなければ良い。不意に乱れそうになる呼吸と鼓動に落ち着けと言い聞かせ、青年は開いたままの手に力を込めて拭った。乾いたてのひら。指先だけが冷たく、奇妙に汗ばんでいる。
「別に……外でお待ち頂かなくとも、よろしかったのでは?」
「……普段なら室内で待機させることが多いな」
普段なら、と。その言葉がさも重要だと言うように繰り返して、イギリスはしたたかな意思を瞳に灯らせた。にぃ、と唇が勝気に、いたずらっぽく笑みを吐き出す。
「カナダ、普段着だったろ?」
「え、ええ」
「しかも今日はクマ次郎も連れてなかった……。とすると、だ」
ぴっ、とペン先が紙から持ち上げられる。記入が必要な個所に必要な分だけかけているかどうかを視線が確かめた後、それは再び青年に向けられた。
「デートしてください、ってことだ」
とりあえずこんなもんでいいだろ、と書類を封筒に戻しながら呟く声のトーンと、全く変わりない宣言だった。もそもそと封をし直しているのを脱力加減に眺め、青年は心の底から息を吐く。別に、知らなかった訳ではない。『カナダ』と『イギリス』が恋仲であることも、『マシュー』と『アーサー』が恋人同士であることも。知らなかった訳ではないし、また青年は、己の『祖国』の高慢で自信に溢れ、わりとどうしようもない性格も知っていた。
それを実証する台詞を聴いたのが、初めてというだけである。恋人の挙動について、こんなにも自然に断言する存在を、青年は他に知らない。違うかも知れないでしょう、と呆れ交じりの控えめさで囁きながら、青年は差し出された封筒を受け取った。薔薇の文様が刻まれた、『イギリス』専用の封筒。来る時には分からなかった花の香が染み込んでいるという事実に、ようやく気がつく。緩くゆるく、緊張が解けていたのだ。
青年の体に残っているのは、仕事という物事に対してのみ感じる、責任感から来る当たり前の緊張だけだ。精神と肉体を痛めつけてしまうような、過度にして無為なそれはもうどこかに消え去っている。そして、もう感じることはないのだろう。ここは青年ら国民にとっての『第二の家』であり、そして彼は敬愛すべき『祖国』なのだから。ろくでもない性格をした、愛すべき『国』。青年の様子を見てとって、イギリスはゆるく微笑んだ。
「カナダに関して、俺が間違える理由がない」
「……一国民として、コメントを差し控えさせていただきます、我が祖国」
「可愛いクリス。さ、お前の仕事をして来い。……上司に、現時刻から二十四時間、俺が連絡を拒否していたと伝えておけ。理由を聞かれたら『マシューが来てるのに空気読めないお前の指示なんて聞きたくねえよ』ということを遠回しに表現しておくように」
椅子から立ち上がりかけながら腕時計を外し、イギリスはそれを未処理の書類束の上に置いた。ペーパーウエイト代わりなのだろう。本物のそれはどこに行ったのだろう、と視線で探す青年に、イギリスは椅子の横で大きく伸びをしながら言い放つ。
「あー……投げたら見つからなくなったんだよ」
「……どなたに?」
「フランス。誰にって聞く当たり、お前も分かってんな」
なにに、ではなく、そもそも対人を想定した質問に、イギリスは肩を震わせて笑う。それは貴方が真実、私の親のようなものでしたからね、と呆れながらに呟き、青年は空の彼方に視線を送った。なにをしたかは分からないが、とりあえず隣国にはペーパーウエイトの返却を申請しておこう。血が付着しているようなら清拭してご返却ください、と言うのも忘れないようにしなければ。
「……そういえば、祖国。ですから、なぜ、その理由でカナダ様を外に?」
「仕事が手につかない」
きっぱりとした、あまりに堂々とした断言と宣言だった。そうですか、としか言うことのできない青年に、イギリスは扉に歩み寄りながらさらりと告げる。
「まあ、冗談だけどな。アイツがカナダとして俺の傍にある限り、そうそうおかしなことには……ならねぇよ」
「今の間が怖いです」
「リトル・クリス。野暮なことは言うもんじゃない」
たまーに純粋な忠誠とか忠義で穢れないのをどうにかしたいと思うだろ男として、と続けられた言葉を国民として聞かなかったことにして、青年はイギリスの後について扉へと向かう。本当は先に駆け寄って扉を開けなければならなかったのだが、悠然とした見かけに反して、イギリスは歩くのが早い。あっさりと先を越されてしまって、青年は申し訳なく思いながら廊下に体を滑り出させた。それでは、確かにお伝えします、と告げる。
うん、と笑って見送ってから、イギリスは廊下の先へと視線を流した。その表情が、ふと愛しさに緩む。
「……マシュー。終わった」
ぞく、とする程に声の質が違った。普段の響きが硬質な宝石のひかりを思わせるものであるとするなら、マシュー、と呼ぶその囁きは滑らかななめらかなベルベットの手触りを思わせる。数歩、離れた所で思わず立ち止まって振り返り、青年は敬愛する祖国を視界の中に映し出す。その隣を、トン、と軽い靴音を響かせてマシューが駆け抜けて行く。またね、という囁きは微かすぎて一瞬しか響かず、青年の耳にぼんやりと届く。
視線の先で、マシューはゆるく広げられたアーサーの腕の中に、とびこむように身を寄せた。おつかれさまです、とはしゃぎきった声はごく普通の、恋人を前にした年若い青年そのもので、落ち着いて響いた『国』の声とは別物だった。
「アーサー、アーサー! 本当にもう良いんですか?」
「ああ、いいよ。たまには休めって屋敷の奴らにも言われてたトコだ。……どうする?」
「ゆっくり過ごせると評判のティールームを調べて来たんです。お茶を飲みに行きましょう」
軽い抱擁はすぐに解かれ、二人は顔を見合わせて幸福感に笑い合っていた。伸ばされた手をそっと握り、マシューは指先にごく軽い口づけを送る。アーサーはくすぐったげに笑い、その手でマシューの頬をそぅっと撫でやった。くす、くす、と笑って。マシューが恥ずかしげに目を細める。その仕草、その視線ひとつで、愛を告げる。恋を囁く、幸福の表情。遠目に見ていた青年の胸に、不思議だった答えがすとん、と落ちてくる。
同じ仕草だ。先程と同じ仕草。印象が違うのは、彼が『カナダ』で、そして『マシュー・ウィリアムズ』だからだ。彼が『イギリス』で、『アーサー・カークランド』だからだ。『カナダ』は『イギリス』を敬愛し、忠誠を誓い、その守護を己に誓っているのだろう。だからこそ『国』の触れ合いは甘くとも、ほのかな恋の残り香だけを漂わせているのだ。その忠誠は正しく、愛情を超えて在る。けれど今、忠誠を愛情が越えた。ゆるりと、入れ替わる。
『国』であり、ひとである彼らは、そういう風に生きているのだろう。青年は顔を見合わせて笑い合う二人に一度だけしっかりと頭を下げ、くるりと身を翻して歩き出した。手には、しっかりと書類を持っている。青年はこれから『祖国』と国を繋ぐかけ橋として働き、そして彼ら『国』と、関わりを深めて行くことになるのだろう。胸が弾んだ。理由も分からずドキドキして、息を吸うことにさえ涙が出そうだ。廊下を曲がる。窓から外が見えた。
曇り空にすこし、晴れ間が見えている。