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 神様の居場所

 柔らかな体が腕の中にある幸福を、言葉にすることがどうしてもできない。目の眩むような、だろうか。あるいは息が苦しいくらいの、だろうか。それは胸に涙がひたひたと溜まって行く感覚に似て、どうしてかいつも泣きたいくらいの気持ちをアメリカに味あわせる。腕にぐぅっと力を込めて息を吐き出せば、もぞりと身動きをした体も、やはり息を吐きだした。その吐息はちょうど頬をくすぐり、アメリカに幸福なくすぐったさを与えて消える。
 とうとう、腕の中から抜け出すことを諦めたのだろう。まったくもう、とばかり力を抜いた体はアメリカの腕の中で緩く脱力し、頭が胸にもたれかかってくる。視線を落とすと、ちょうどつむじが見えた。なんだかそれすら可愛らしくなってキスを落とすと、驚きすぎて響くことすら忘れてしまった悲鳴と共に、真っ赤に染まった顔がアメリカを見上げてくる。一生懸命見上げてくれるのは嬉しい。けれど首を疲れさせてしまうのは嫌だな、と思った。
 気がつかれないようにそーっと背を曲げ、そーっと足を折って、アメリカはうん、と微笑みながら囁いた。
「どうしたの。顔、真っ赤」
「……ア、アメリカく」
「君のつむじも可愛いけど、やっぱり顔が見えた方がいいね! 照れてる君もうんと可愛いんだぞ、ウクライナ」
 ぎゅうう、と握りしめられた拳が背を叩いて来たので、アメリカは笑いながら痛がってやった。照れすぎて震えている女性の拳に叩かれたとて、鍛えた体にそう堪える訳もないのだが。それはそれ、これはこれだ。くすくすと笑いながら痛いよやめてくれよ、と言うと、ウクライナはきゅぅっと困ったように眉を寄せ、アメリカの背に回した手から力を抜いた。てのひらが、叩いた箇所を撫でてくる。痛くしてごめんね、と言う代わりのようだった。
 もちろんウクライナも、恋人の悪ふざけだというのは十分に分かっている。それでも千にひとつ、万にひとつ、本当に痛かった時のことを考えて、ものも言えずに撫でるのだ。指先が背骨のかたちを辿る。無意識の愛しさに、アメリカはウクライナの眉間にそっと口付けを落とした。
「痛くないよ。大丈夫」
「……でも」
「痛くない。痛くないよ。さっきのは嘘。ごめんよ、ハニー。俺の恋人はなんでこんなに可愛いんだろうね。困った顔もキュートだし、心配してくれてるのも嬉しいけど、俺は君の笑顔が好きだよウクライナ。世界のヒーローを虜にするとびっきりの笑顔がね! だから」
 笑ってよ、と動きかけた唇を、ウクライナの指先が止める。汗ばんで震える指先すら、うっすらと赤い。これは本気で照れてるな、と思いながら、アメリカはひょいと視線をウクライナに向けた。ハニー、と笑いながら呼びかける。この指、なに。呼吸を思い出すことすら大変そうな顔つきで、ウクライナはひどい、と言うようにアメリカを見た。アメリカはにこ、と笑ってその非難を受け流す。恋人の可愛い言葉を聞きたい、と願うのは男として当たり前の心理だ。
 恋人を持つ男なら九割方は賛成してくれるに違いない。そう、アメリカは信じて疑わなかった。残りの一割は育て親のような特殊性嗜好だと思われるので、ヒーローとしてはあまり考えないようにしたい。本当に特殊性嗜好なのかどうかは知らないが、酔うとパブって脱いで時々は天使になる変人で変態が、ごくまともな恋の好みだとする方が信じがたい。
「ウークーラーイーナー。ねえ。なに、この指」
「……アメリカ君は、恥ずかしくならないの?」
「うん」
 君に愛を囁けるのは嬉しいばっかりだよ、ときっぱり言い切ったアメリカに、ウクライナの瞳にじわ、と涙が浮かぶ。ちょっと追い詰め過ぎたようだった。泣かせたい訳じゃないんだけどなぁ、と思いながら唇から指を外させて手を繋ぎ、アメリカはぐりぐりとウクライナの肩に額を押しつける。年下の恋人らしく甘えてみせれば、ウクライナはすこし肩から力を抜き嬉しげにアメリカの頭を撫でて来た。髪を整えるような、ただ慈しむ指の動き方。
 ごく軽く溜息をついて、アメリカは横目にウクライナを見る。
「ねえ、俺は君の恋人だよね?」
「……そうね」
 直接的な物言いはウクライナの好むところではないらしいが、あいまいに言葉を濁して喧嘩になったことがあるので、女性は恥ずかしさを堪える呼吸の後、柔らかな声で肯定を響かせる。本当はそんな簡単なこと、言葉にされなくてもアメリカにはすぐ分かるのだ。抱きしめる腕の中から逃げない意味も、微かに震える声や手指の理由も。瞳を覗きこめば感じ取れる、胸騒ぎがする程の意思を、気持ちを、恋と呼ぶのだということも。
 全部、教えてくれたのはウクライナだ。
「恋人を、弟とおんなじように撫でないでおくれよ」
「だって、可愛くて」
「……犬とか猫とか撫でるのとも違う風にしておくれよ」
 ああもう、とアメリカは溜息をついて、ウクライナに回した腕に力を込めた。こんなにこんなに好きなのに、どうしてか上手く伝わっていない気がしてならない。恋人同士なのに。うーん、誰かに相談でもしてみようかなぁ、と思いながら抱きしめるアメリカの腕の中で、ウクライナはごく微かに眉を寄せて息を吸い、吐き出す。溜息ではなかった。なにかをほんのすこしだけ、堪える吐息だった。なに、とアメリカが問いかける。どうしたの、と。
 それにウクライナはすこしだけ困ったように、なんでもないわ、と囁いた。



 十秒間に平均して八回ほど、『ウクライナ可愛い』というノロケの混じった相談事を『お前その文脈のどこで呼吸してんだしてないだろ? ついに肺呼吸すんのやめたのか? お前がしてるのはエラ呼吸なのかそうなのかそうなんだな? さすが世界のヒーロー人類脱出おめでとうまったく喜ばしくないがエラ呼吸なら海に戻れオススメはドーバー海峡だ日本海溝でもいい。まあつまり俺が言いたいのは一つだ。今すぐ黙れ』という顔つきで聞き、イギリスは深々と溜息をついた。
「終わったか?」
「……あと十分くらいだと思いますけど」
 うんざりしながらイギリスが問いかけたのは、話しているアメリカ本人ではなく、カナダだった。英国式に整えられたガーデンテラスで、二人は机に向かい合わせに紅茶を楽しんでいる。カナダは困った顔つきで話し続けるアメリカを眺め、もうすこし耳栓しておいて良いと思いますよ、とイギリスに囁く。椅子に座る二人と庭に立っているアメリカの間には、物理的にも精神的にもやや距離があるが、興奮している青年の声は大変よく響くので、長時間は耳に優しくないのだった。
 君が座る席もあるんだけどね、と向けられた三つ目の席は主を迎えることがなく、カナダは着席すらすることなく相談事とノロケが半々になった訴えを続けるアメリカに視線を戻した。イギリスは開始十分で席を用意したことを心底悔いる顔つきになっていたが、三十分が経過した今、カナダも似た気持ちになってくる。しかし、まだまだ終わりそうにない。話が先日のデートの待ち合わせに突入したところで、カナダはそーっと手をあげる。これ以上は脱線したまま戻りそうもない。
「あのね、アメリカ」
「うん? なんだい? 彼女が木苺のシャーベットが好きだって話? 女の子っぽくてすごく可愛いよね」
「全然違うよ? ……うん。いいから、とりあえずこっちおいで。それで、座って落ちついて話をしよう?」
 君と来たら、まだジャケットすら脱いでないんだからね。深々と溜息をついたカナダに、アメリカはぱちぱちと瞬きをしてから、ようやくそれに気がついた、という風に笑った。小走りに駆け寄ってくる姿をすでに鬱陶しそうに眺め、イギリスはティーカップに紅茶を注いでやりながら、空席を埋めたアメリカの前にそれを置く。紅茶に視線が向いている間に耳栓を外してしまいこみ、イギリスはさて、と呟いて息を吸い込んだ。
「それにしても……昨日の会議の後で姿が見えないと思ったら、一連の話でよく分かった。お前は会議場でなにやってんだ」
「だって、急にウクライナのこと抱きしめたくなったんだから仕方がないだろう? 会議終了まで我慢したんだから、俺としては褒めてほしいくらいだよ! ……で、彼女はなにが不満なんだと思う?」
「それを君は、どうして僕とイギリスさんに聞くの?」
 他の人じゃダメだったの、とおっとり微笑んで聞くカナダの手から砂糖壺を受け取り、アメリカは不思議そうな顔になる。
「どうしてって、他に誰に聞けばいいんだい? ロシア? それとも、ベラルーシ?」
「本人に、ちゃんと」
 砂糖壺の蓋をぽいっとばかりに取り、アメリカはざー、と音を立ててティーカップにそれを入れて行く。一杯、二杯。三杯目でイギリスの眉間に皺が刻まれる。味が分からなくなるだろう、と言いたげだった。カナダはメイプルの香り漂う紅茶を一口飲みながら、アメリカの言葉を待っている。四杯目を注いでくるりとかき回し、アメリカはそれを一口だけ飲んだ。無言で五杯目を入れてかき混ぜる。
「聞いたよ。聞いたけど、彼女ときたらなんでもないの一点張りさ。教えてくれないんだよ」
「そっか。……。……アメリカ、それ何杯目?」
「八杯目。……あ、ちょうど良くなった。イギリス、君のトコの紅茶苦いよ!」
 イギリスは、いやそれお前の味覚が甘みに対して異常なだけだから、という言葉を飲みこんだ視線で、溜息をつきながら頷いてやった。反論していたら話が進まない、と諦めたようだった。アメリカはにこにこ笑いながら『紅茶だったもの』にミルクを注ぎ入れ、一口を飲んで幸せそうな息を吐く。
「はー……それで、イギリス。彼女はなにが不満なんだと思う? 俺にはまったく分からないよ!」
「なんだろうな……俺にも分からないから帰れ」
「君ねえ! 俺は真剣に相談してるんだぞ!」
 そうか、と深々と溜息をつきながらイギリスが呟く。そうだよっ、と勢いよくアメリカは同意した。二人をにこにこと見比べながら、カナダは悩むように首を傾げた。それから、たんぽぽの色をしたマカロンを指先でつまみあげ、口元に運ぶ。杏のマカロンだった。サクリとした歯触りの生地は舌の上で滑らかに溶け、アーモンドの味わいを広げて行く。間に挟まれた濃厚なクリームは果物そのもののように、濃厚で甘酸っぱくほどけて鼻から香りが抜けて行った。
 あむあむと口を動かしてほっこりと微笑み、カナダはアメリカにもそれを差し出した。
「美味しいよ。フランスさんの手作りマカロン」
「あ、ちゃんとした食べものだった」
 美味しそうに見えたのは変な幻覚じゃなかった。本当によかった、と真剣な顔つきで胸を撫で下ろすアメリカに、イギリスの眉が吊りあがった。
「どういう意味だよ!」
「そのままの意味だよ。……カナダ。これいくつか包んで持って帰ってもいいかい?」
「ウクライナさんに? いいよ。贈り物みたいに包装してくれたのもあるから、持って行きなね」
 イギリスさんとアメリカとお茶をすることになりました、とただそう告げただけでお手製の茶菓子を送ってよこした華の国を思い出しながら、カナダはくすりと肩を震わせて笑った。アメリカは嬉しそうに顔を輝かせて頷き、ティーカップを下ろしてぐっと体を伸ばす。
「どうしようかなー……。どうすれば教えてくれるんだろう」
「なんでそんなに知りたがるんだよ、そもそも」
 言いたがってないなら放っておいてやればいいだろうが、とイギリスは言う。それもそうなんだけど、とアメリカは困った顔つきで唇を尖らせた。過去に何度も、そうして口ごもられたことを無理に聞きだそうとして喧嘩になったことがある。その度に喧嘩の愚痴から仲直りの手順と上手く行った報告のフルコースで付き合わされているイギリスとカナダだから、いい加減うんざりしているのだろう。そろそろ学習しろ、と育て親の眼差しが語っている。
 あえて読みとれなかったふりをして、アメリカはだって、と呟いた。
「抱きしめるのがすごく好きなんだよ。柔らかくてなんかふわふわしてて、良い匂いもするし、なにより彼女が俺の腕の中にすっぽりっていうのがたまらない気持ちになってさ! 出来ればずっと抱きしめてたいんだけど、そういう訳にもいかないだろう? だからなるべく、そうできる時にはそうしてたいし、なにかあるなら聞いておきたいじゃないか」
 アメリカはゆるゆると息を吐き出して、イギリスの手で整えられた庭園に視線を流した。いつ来ても荒れているところなど見たこともない庭は、多忙な生活の中でどう整えているのかすら謎だったが、イギリスのことだ。魔法を使っていたとしてもなんら不思議はない。あの薔薇で花束を作って持って行こうかな、と勝手に思っているアメリカの横顔に、カナダは静かに口を開く。黙っている間、ずっと言葉を考えていたようだった。
 静かに、大地にしみ込んでいく水のように、言葉が語られる。
「あのね、アメリカ。あのね……言わないで居るっていうのが、君への配慮だとして。どんなことでも、聞きだしたら君はそれを怒っちゃいけないよ? 言わないでいた言葉を、望んだのは君だ。忠告を聞かなくて喧嘩になった場合、僕もイギリスさんもそれが愚痴であろうが相談であろうが聞いてあげないよ。……それをちゃんと守れるっていうなら、電話でも手紙でもなく、会って聞いておいでよ。ウクライナさんに。なにを我慢してるのか教えて、って」
「……この間は教えてくれなかったんだぞ」
「一度だけで諦めるの? ヒーロー」
 それはとても君らしくないよ、と囁かれた言葉は責めるものではなく、ただそっと背を押して前に進ませてくれるものだった。もしかしたら、そう言ってもらいたくてカナダにも同席して欲しいと頼んだのかも知れない。アメリカはそう思いながら、うんと頷いて立ち上がった。付き合い当初から、今でもあまり良い顔をしない保護者はしぶい顔をしてアメリカを眺めている。ティーテーブルに肘をつく姿は、機嫌を損ねたことを示していた。普段なら、絶対にしない仕草だからだ。
 イギリス、と苦笑しながらアメリカは言う。
「そろそろ認めてくれないかい? 俺は彼女を愛してるんだ」
「知ってるよ、ばぁか。……お前が俺のトコに問題をなにも持ちこまなくなったら黙認してやるよ。さっさと行け」
「そこは祝福するトコじゃないのかい?」
 しっし、と追い払いにかかっているイギリスに首を傾げながら問いかけ、アメリカはカナダからお土産を受け取って身を翻した。まあ結果はメールするよと言い放ち、来た時と同じく、アメリカは風のように去って行く。まさしく嵐の通り過ぎた後、イギリスは肩の荷が下りたように脱力した。
「……なにしに来たんだアイツは」
「背中を押されに、だと思いますよ。……ところで、なんで認めてあげないんですか?」
「反対されると燃えるだろ?」
 その言葉の意味を正確に理解するのに、カナダには大分時間が必要だった。えーっと、と考え込むその姿を、イギリスは至って楽しげに眺めている。たっぷり五分、時間を消費して、カナダは恐る恐る口を開く。それはつまり、まさか。
「応援、してあげてる……んですか?」
「最初は真剣に気に入らなかったから反対してたんだが。今はまあ、そんな所だ」
「アメリカは絶対分かってないと思いますよ?」
 ちゃんと言ってあげればいいのに、と苦笑するカナダに、イギリスはアメリカが残していった甘すぎるミルクティーを眺めた。口が、反射的に飲み込むことを拒否するような甘さであることは想像に容易かった。溜息が出て行く。
「砂糖が三杯になったらな」
「……あと三百年くらいかかりますね、きっと」
 ふんと鼻を鳴らして笑い、イギリスはよかったな『国』で、と言った。三百年。ひとには過ごせぬ時を待てるのが、『国』の良い所で悪い所だ。そうですね、と苦笑しながらカナダはマカロンを指先でつまみあげ、それをイギリスに差し出した。
「食べますか?」
 イギリスはこくりと頷き、マカロンを口にする。三百年前なら恐らく、口にすることもなかったであろう隣国手作りの菓子。その理由は憎しみであったり、毒殺を恐れてのことだったのだろうけれど。今のイギリスは無防備にそれを食べ、悔しいけど美味いな、と呟いている。カナダは微笑んで頷き、後でお礼の電話をしておきますね、と笑う。頼む、と頷いてもうひとつ手を出すイギリスを見つめながら、カナダは早く三百年経てばいい、と思った。三百年を重ねれば、きっとその時は。
 今日のような茶会を、四人で開くこともあるだろう。



 腕を引いてひたすら廊下を歩いて行く。背中からは戸惑いの気配がするが、それもそうだろう。あと三十分とすこしで開会だ。心配性の彼女だから、もう会議室で椅子に座っていたいに違いなかった。分かっていて引きかえしてやれないのは、アメリカはあの問題を残したまま、会議に集中できると思えなかったからだ。やがて腕を引かれて歩くウクライナが、すこしばかり溜息をついた気配がする。怒ってはいないことだけを感じ取った。そのことになにより、安堵が広がって行く。
「アメリカ君」
「……うん」
「もうすこし、歩く?」
 きゅ、と眉を寄せてアメリカは振り返る。まっすぐな瞳で見返して来るウクライナがそこに居て、視線はすぐに重なった。背筋をまっすぐに伸ばして、ウクライナは怒りも困りもせず、心配そうにアメリカの瞳を覗きこんでくる。なにかあったのだろうか、とその表情が語っていた。そんな風に、心配させたい訳ではないのに。また、上手く行かなかった。僅かに落ち込んで溜息をつけば、ウクライナは表情を崩さぬままで、そっと背伸びをする。
 両腕が持ち上げられて、アメリカの肩と頭に手が乗せられる。戸惑いがちに撫でるのは、先日、アメリカに言われたことを気にしているのだろう。それでもウクライナは、言葉ではない行動で慰める術を、他によくは知らないのだ。ウクライナに取って撫でることが慰めであり、抱きしめることは守護なのだ。その二つで彼女は長く、弟と妹を守ってきた。その手になにも武器を持たぬ時代から、その身ひとつで、そうして生きて来た。
 アメリカは無言で腕を伸ばし、ウクライナの体を引き寄せた。そうすると、無意識にだろう。ウクライナの唇が薄く開き、なにか準備でもするようにすっと息を吸い込む。
「……ウクライナ」
「え?」
「俺に……抱きしめられるのは、嫌……じゃないよね?」
 ゆるく、手を組み合わせて。抱きしめるのではなく、アメリカはそれをウクライナの腰に触れさせた。ごく簡単な輪の抱擁。ウクライナは目を瞬かせ、素直な態度で首を傾げる。
「どうしたの?」
「……君さ、俺が抱きしめたりすると、時々ここにシワ寄ってるんだけど。どうして?」
 眉間に唇を押し当てて拗ねた顔をするアメリカに、ウクライナはしまった、という表情を一瞬だけする。悟らせるつもりなどなかったのだろう。言葉に迷うウクライナの頭に、アメリカは顎を乗っけて溜息をついた。
「そんな顔しないでおくれよ……。怒ってないし、嫌だと思った訳じゃなくて。知りたいだけなんだからさ」
「……怒らない?」
「ちゃんと教えてくれたら絶対怒らない。拗ねたりもしないよ。約束するんだぞ」
 だから教えてよ、と告げるアメリカの胸を、ウクライナの手のひらがそっと押しやる。顔を見てちゃんと話がしたい、と言うことだろう。体を離して視線を合わせ、アメリカはゆっくりと身を屈めた。抱きしめられないなら、それでも、彼女に触れたいと心が騒ぐ。そっと額を重ねれば、ウクライナはくすぐったげに笑っただけで、アメリカを離そうとはしなかった。ほっと息を吐く。
「……あのね」
「うん」
「あの……言わなかったのは、抱きしめてもらえなくなるかなって、思って」
 嫌じゃないのよ、と穏やかな口調でも分かる必死さで、ウクライナは言う。うん、と囁いてアメリカは目を細めた。組んでいた手を離す。そっとウクライナを抱き寄せれば素直にもたれかかってきた体が、アメリカの腕の中にすっぽりと収まった。
「うん。それで?」
「……怒らない?」
「うん」
 怒らない。絶対。約束する、と言葉を重ねれば、ウクライナは恐る恐る唇を開いた。
「……痛くて」
「痛い?」
「う、うん。あのね、アメリカ君は力が強いでしょう? だから、その……ぎゅぅって、いっぱいされると、その」
 息苦しくて、すこしだけ痛くて。でも本当にすこしだから、と言い募るウクライナの言葉を聞きながら、アメリカはそうか、と思い出していた。あれは『痛い』を堪える表情だったのか。抱き寄せた腕に、これ以上力を入れられなくなる。痛い想いをさせたい訳ではないからだ。ごめん、と呟くと、ウクライナは息を吸い込む。その表情に目を奪われた。恥ずかしさでいっぱいになりながら、それでも愛しいと、伝えてくれる表情。あの、と声が響く。
「だ……抱きしめて、いいの」
「でも」
「ちょっと痛いのは本当なのよ。でも、今まで言わなかったのは……言わなかったのはね」
 息を吸い込む音すら、震えさせて。
「それくらい好きなんだって思えて、嬉しかったの……」
 求めてくれてるって、そう思えて幸せだったの、と。その囁きを耳のすぐ傍でアメリカは聞く。衝動的に抱きしめた腕は痛いくらいだろうに、ウクライナは一度だけきゅぅと眉を寄せただけで、その中に収まっている。きゅ、と女性の手がアメリカの背を抱いた。指のかたちが分かるほどに強く、込められた力に心臓が跳ねる。痛いほど、恋しい。
「……っ、へ……変だよね、こんなの。ごめんね……アメリカ君、ごめんね」
「君はっ!」
 ごめんね、と謝ろうとする唇を無理矢理塞ぎ、言葉をさえぎる。はっ、と短く息を吸い込んだウクライナの瞳が、幸福感で泣きそうに歪んでいた。目尻にキスを送って、アメリカはウクライナをさらに抱きしめる。泣きそうだった。どれだけ深い恋をしても、まだ底のない想いだった。この腕の中にウクライナが居るだけで、アメリカは幸せでいっぱいになる。なにもかもが満ちて行くようだった。
「……神様ってどこに居るんだろう」
「神、さま?」
「今すぐそこに行って、君と出会わせてくれてありがとうって言わなきゃ気が済まないよ!」
 愛してるよ、とアメリカは囁く。ウクライナはくすぐったそうに笑いながら、ゆら、と視線を彷徨わせた。考え込んでいるようだった。どうしたの、とも言わずにアメリカは言葉を待つ。沈黙が苦でなくなったのはきっと、彼女が同じ場に存在するだけの幸せを知ったからだった。やがてそっと、ウクライナは唇を開く。期待しているような、それを必死に否定したがるような、揺れる声だった。
「教会……かしら」
「教会?」
「うん……あの、でも」
 深い意味とかそういうのは無くてね、と言うウクライナの脇の下に手をいれ、アメリカはその体を大きく持ち上げた。くるくるとその場でまわってから肩の上に抱き上げるように、改めて抱きしめ直す。ウクライナの足が床から浮いて、戸惑うようにぱたりと揺れた。うん、と機嫌良く歩き出しながら、アメリカは宣言する。
「分かったよ! 教会に行こう!」
「い……今から?」
「決まってるじゃないか! 指輪は改めて送ることになるけど、良いよね!」
 歩んで行く背を引きとめるように、重々しく会議開始の鐘が鳴る。それを聞こえなかったふりで、アメリカは笑いながら言った。
「結婚しようよウクライナ! 俺はだって、君を愛してるんだ!」
 ダメかな、とアメリカはウクライナの顔を覗きこむ。そしてすこし、困ったように笑った。
「泣かないでよ。駄目かい?」
「……そんなこと、ないわ。でも」
「じゃあ結婚しようよ、ウクライナ。問題はいっぱいあるだろうけど、俺たちは『国』だからひとみたいに、本当に結婚はできないだろうけど、でも、神様にそういうことが結婚になるんだったら、俺は君と結婚したいんだよ。……この考えは君にも気に入ってもらえると思うんだけど、どうかな」
 出会わせてくれてありがとう、幸せですって言いに行くんだ。それだけだよ、と。言うアメリカに、ウクライナは息を吸い込んで。はい、とだけ言った。アメリカは笑いながら、ウクライナを抱きしめる。次の休みは二人で指輪を見に行こう、と思った。俺たち結婚しました、というメールが全世界の『国』に対して送りつけられるのは、これより数日後のことだった。

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