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 恋ぞ巡りて

 跪いて靴紐を結び直す相手を別に何処からか見つけ出して来いと言われたとして、ベラルーシが返せる言葉はたった一つだ。不可能、である。その不可能を可能にする唯一が日本という存在であり、実の所ベラルーシは優しい素敵な恋人を持って幸せね、とよく囁かれるのだが、そのたびに相手の頬を手で打ってやりたい気持ちと戦わなければならない。優しいとか、穏やかだとか、いったい何処をどう見れば勘違いできるのだろう。
「……はい。結べましたよ」
 そっと耳を打つ声は確かに優しい。けれども視線を向けて出会う黒色の瞳は笑っているとするならば鋭利な光を灯していて、ぞっとするほどそれは研ぎ澄まされている。優しい男がこんな目をするものか。ベラルーシはそう思いながら、ブーツの爪先を動かして紐の結ばれ具合を確かめた。動かしやすく、かつ締め付け過ぎてもいない絶妙の力加減で結び直された編み上げブーツの紐は、可愛らしく蝶々結びにされてタン、と音を立てる。
 革紐がブーツを叩くその音は、真夜中の雨音に似ていた。
「気に入りませんか?」
「お前が兄さんではないと言う事実だけで、なにもかも気に入らない」
 兄さんだったら良かったのに、とベラルーシは一人掛けのソファに身を深く沈めながら、溜息と共に吐き捨てて告げる。これが兄さんだったなら、感激と感動と共に飛びついて抱きついて頬にキスを送った後に結婚してくださいと告白できるのに。お前が相手だとそんなことする気にもならない、と向けられた視線を絡め取りながら微笑み、日本は音のない仕草で立ち上がる。床に付けられていた膝の辺りを、パン、と一度だけ手で払う。
 静かすぎて眩暈がした。会議はとうに終わってしまって、議場に残っているのはもう二人だけだろう。時計の長い針がぐるりと三度回るほど、長い時間が経ってしまっているのだから。兄はもう帰ってしまった。姉も、一緒に帰ってしまった。それなのに一体ここでなにをしているのだろう。音のない眩暈の中で問うものの、本当は、ベラルーシはその答えを知っていた。ふと、体に影が差す。目を開ければ日本が、目を細めて笑っている。
 西日を遮った体は、一人掛けのソファに人の形をした影を落としていた。その中に、閉じ込められる。
「跪いて靴紐を結べ、なんて。ロシアさんには言わないくせに?」
 この男のなにが優しいと思われているのか、心底ベラルーシには理解できない。体から落ちる影の中に閉じ込められる、そのことを、幸福だとして植え付けた酷い男の。なにが優しいというのか。
「……嫌ならやらなきゃよかったんだ」
「まさか」
 ゆるりと目を細めて愛おしげに笑う表情からは、言葉の意味が読み取れない。まさか、嫌だと思う訳がないということなのか。まさか、言われたことを実行しないということがあると思うのか、という問いを含んだ言葉であるのか。ベラルーシには分からない。手を伸ばして、ネクタイを掴む。引っ張って顔を近付けさせれば、目の距離が寄った分、心の内側が読める気がした。気がするだけだ。ふん、と鼻を鳴らしてベラルーシは言う。
「なにか言うことは?」
「『遊んでないで帰りますよ?』」
 ほら、もうそろそろ日暮れではないですか。視線で時計を指し示しながら言う日本に、ベラルーシは溜息をつく。
「いくじなし」
「どうとでも仰い。……ほら」
 帰りますよ、と囁きながら日本はベラルーシから身を離す。当たり前だ。いつまでも影を落とされていたら、ベラルーシは立ち上がることが出来ない。ソファの肘あてに手を置き、ぐっと力を込めて立ち上がる。音を立ててブーツを床に下ろせば、耳が痛い程の静寂にやけに響いて消えて行く。数歩距離を置いて立ち止まり、日本はベラルーシに向かって手を差し出していた。意味する所は明白だ。ベラルーシは眉を寄せて歩き出す。
 立ち止まることなく、攫うように手を握った。
「お前の」
「はい」
「私に、絶対無視されないと思ってる。その態度が大嫌いだ」
 当たり前のように、手が繋がれると思っている。ごく自然に、同じ場所まで歩いてきてくれると信じている。その無邪気なまでの信頼感情が、ベラルーシには未だ理解できずに受け入れられない。手を繋ぐ。爪が食い込むほど強く力を込めても、日本はなにも言わなかった。ただ、そっと手が引き寄せられ、唇が落とされても。ベラルーシもなにも言わなかった。二人は手を繋いだまま扉を開き、歩いて行く。道に落ちる長い影は一つだった。



 ぽんと財布を渡して来る辺り、警戒しなさすぎではないのか。このまま持ち逃げしたらどうするんだと思いながら、ベラルーシは日本の財布を握り締めた。ベラルーシは左手を、日本は右手を相手と繋いでいるから利き手が動かせなくて不自由だというのは分かるが、それならば会計の時に手を離せばいいのに。逃げるとでも思っているのか。馬鹿め。聞こえるように溜息をつくと日本は人混みとざわめきの中振り返り、ゆるく手を引いた。
「ほら、選んでください。なに食べます?」
「……勝手に選べばいいだろう」
「好きなものを頼みなさい、と言ってるんですよ。ほら」
 ね、と苦笑交じりに囁きながら、日本はベラルーシの手を引いて人混みの中、己の体とショーケースの僅かな隙間に少女の体をねじ込んでしまう。手を繋いだままだから、くるん、とターンのように体が回った。後頭部が日本の胸にあたって止まる。ぐ、と頭に力を入れて押しやりながら、ベラルーシは眉をつりあげた。
「恥ずかしいヤツ」
「誰も見てませんよ」
 夕食前、買い物時のデリはとにかくごった返している。少年少女青年女性紳士婦人、ありとあらゆる年齢層の、ありとあらゆる国籍を持った現地人と観光客でいっぱいだった。その中で、誰が日本人の青年とベラルーシ人の少女に目を留めると言うのか。日本は暗にそう言いながら、まあでも、とショーケースの硝子越し、ベラルーシと視線を合わせてゆるりと微笑む。
「貴女ぐらい可愛ければ、誰かに声をかけられることもあるかも知れませんが」
 店内には陽気なジャズが流れている。周囲のざわめきは耳に痛く煩わしいくらいであるというのに、日本の声はまっすぐにベラルーシの耳に届いた。日本もそうなのだろう。だからベラルーシは平時と声の大きさを変えることなく、馬鹿、とだけ言ってショーケースに視線を落とした。目を引いたのは瑞々しいレタスに砕いたクルミを散らしたサラダだった。他には特に食べようと思えない。あれ、と指差すと数秒待って、日本は溜息をつく。
「ダイエットはしないでください、とお願いしませんでしたか?」
「ダイエットじゃない。食欲がない」
「……チョコレートとヨーグルトとマフィンならどれが良いですか?」
 食べられない、と言っているのに。全く本当に誰だコイツが優しいとかいうデマを流したのは。さりげなく日本の足を踏みつけながら、答えなければ開放される気がしなかったので、ベラルーシは仕方がなくチョコレート、と言った。日本は溜息をつきながら甘そうなチョコレートバーを二本取り、カウンターに差し出しながら注文する。
「このチョコレートと、クルミのサラダ……プレーンマフィンと、オレンジマフィン、チョコレートマフィン。あと……ベーグルにハムとチーズを。トマトとチキンのサンドイッチに、グリーンサラダは二つ。シリアル付きのヨーグルトと、オレンジジュースとホットコーヒー。ミルク。以上で」
「……お前の食欲はおかしい」
「残念。いくつかは貴女の朝食です」
 私の朝食も入っています、と言う日本は、つまり四食分買ったらしい。眩暈がした。倒れなかったのは背中を日本に預けっぱなしにしていたからだった。促されるままに財布からユーロ札を無造作に出してカウンターの内側で忙しなく働く少女に渡しながら、ベラルーシは呆れかえった声で言う。
「朝に買いにくれば良いのに」
「めんどくさいじゃないですか。大丈夫です。私が全部持ちますから」
「そういう問題じゃない……」
 恥ずかしいって言ってるんだ、と眉を寄せるベラルーシは、お釣りのコインを受け取った時、カウンターに置かれた簡素な木箱に気がついた。『こどもたちに温かな支援を!』何処の団体が何処の国のこどもに対してなにを支援するのか定かではないその木箱に、ベラルーシは無造作にコインを放りこむ。本当は少女は『国』として、そんな怪しい寄付にも、どこかに肩入れしてしまうような支援も行ってはいけないと知っていたのだが。
 財布の持ち主である日本はなにも言わず、ベラルーシの頭を褒めるように撫でた。
「正しく、使われるといいですね」
「全くだ」
 二人はそれぞれ、国を動かす力を持っている。人のように直接政治を動かすことは出来ないものの、本気で望めば願いは叶えられるだろう。彼らは『国』である。国民の総意を唯一身の内から知ることができる存在であり、だからこそ、施政者はそれを無視しきれない。見向きをされなくなった時こそ、国の終わり。ベラルーシは四食分の食べ物が入った紙袋を重そうに受け取る日本を見つめ、繋いだままの手をぐい、と引いた。
 それでも、この手を引いたのは少女自身の意思だった。
「……ん? なんです?」
 日本は不思議そうに問いかけてくる。それは確かに青年の心が発したもので、日本という国に住む国民の意思ではない筈だった。なんとなくほっと息を吐きながら、ベラルーシは首を振る。なんでもない、と呟いた言葉を信じない日本は、苦笑しながら少女の前髪に口付けた。恋を宿すその仕草も、青年自身の持つものだ。ベラルーシはちゃんと、知っていた。



 二人でホテルまで戻り、一つの鍵を受け取って、一つの扉の前で二つの影が動きを止める。はい、と鍵を手渡したのが日本。溜息をつきながら受け取ったのがベラルーシだった。少女はとうとう一時も離されなかった手を横目にしながら、右手で鍵を鍵穴に差し込み、捻って扉を内側に開く。
「……やっぱり不自然だと思う」
「気のせいですよ」
「どう考えても不自然だばか! なんで一緒の部屋なんだ!」
 日本は片手を少女に預けたまま、もう片方の手で紙袋をゆるく抱き上げ、困ったように微笑んだ。それを今更言ってしまうのが可愛い、と思っている表情だ。ベラルーシには分かる。何度か、なんでそこで笑うんだと問い詰めたらそう言われたからだ。全くろくでもないことしか言わないので、最近、ベラルーシはこういう表情の日本になにを考えているのか聞かないことにしている。本当に本当に、ろくなことを言わないからだった。
 ベラルーシは片手を青年に委ねたまま、もう片方の手で鍵を握っている。扉は中途半端に開いたまま、閉まってしまうことも、それ以上空間を開けることもなかった。ベラルーシは日本の手に爪が食い込む程、指先に力を込める。
「……なんで、なにも言わないんだ」
「先日、なにもかも言ったからですが」
「一回言えば良いと思うな! ばかばかばかっ!」
 誰だお前が優しいとか頼りになるとか穏やかだとか空気読めると言ったのはコルホーズへ行けっ、までヒステリックな声でベラルーシが叫んだ所で、日本はようやく、ようやく少女の不機嫌の理由に辿りついたらしい。貴女すこしばかり可愛らしすぎやしませんか、と生温い笑みを向けられて、ベラルーシは頭の中でなにかが引きちぎられる音を聞いた。眩暈がする。誰だ日本が空気読めるとか言ったの。前へ出ろばっきばきにしてやる。
「お前っ……!」
「分かりました、もう一度と言わず何度でも言いましょう。結婚してください」
「……眩暈がする」
 真剣に、本当に、心の底から眩暈がする。ぐら、と身を揺らしたベラルーシの頭を引き寄せ、日本は己の胸へ押さえ付けた。紙袋が落ちる音がする。食べものを床に置くのが嫌いな男が、よくやる、とベラルーシはなんだか笑いたくなった。
「結婚しましょう」
「してください、じゃなくなってる」
「会議の時だけ成立する週末婚だと思ってくださればそれで良いですから。同じ部屋に……帰りましょう、と言って、帰って来たいんです。行ってきますと、行ってらっしゃいと、おかえりなさいとただいまを……貴女に言う存在になりたいんです。貴女の未来が欲しいんです」
 その代わり、私の未来を全て差し上げます。個人的な面のみになりますが。冷静にそう言い添える日本が、ベラルーシはすこし悔しい。分かっている。日本もベラルーシも『国』だ。ひとではない。『国』である以上、結婚は恐らく誰にも認められない。ままごとよりも成立しない口約束。それになんの意味があるのか、ベラルーシには分からない。分からなくて、苦しい。そんなものでは満足できない。
「私の」
「はい」
「左手の薬指に指輪をはめる権利をやるって言ったら、指輪くらい買ってくるんだろうな」
 日本の動きが数秒だけ止まった。ものすごく珍しい。しげしげと眺めてしまうベラルーシは、しかし手を強く握られて痛みに眉を寄せる。日本は、柔らかく微笑んだ。
「部屋に入りましょうか」
「……は?」
「指輪、スーツケースの中なもので」
 ぐい、と腕が引かれる。扉を足で蹴って開ける日本、という尋常ではなく珍しいものを目撃してしまったベラルーシは、その時ハッキリと己の失敗を悟った。これはまずい。もう逃げられない。紙袋を拾い上げた手が、扉に鍵をかけてしまう。ふふ、と幸せそうに笑われて、ベラルーシは困りながら溜息をついた。この存在から、もうどうしても逃げられる気がしない。そのことを、幸せだと思ってしまう日が来るなんて。思わなかった。困る。捕まってしまった。捕まえられてしまった。
 幸せすぎて眩暈がした。

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