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 日がベラのストッキング脱がすだけ

 衣擦れの音が、やけに耳に響いた。
「……っ」
 爪先がびくんと反り返る。日本の指先がそれを追うように、つと動かされてなぞって行った。そんなに動いてはいけませんよ。声にならぬ意思が耳の奥で響き、ベラルーシはふるりと頭を振った。どうかしている。毒に、犯されてしまったようだった。部屋はとても明るい。カチカチと音を立てて進む時計は十二時にもなっていない。真昼だ。鍵の掛かっていない扉の向こうで、ひとのざわめきと足音がした。
「や……っぱり」
 良い。あるいは、嫌だ。そう告げようとした唇の動きを厭うように、日本の眉がしかめられた。すっとスカートの中に侵入した手に太ももを撫でられて、びくりと大きく体が震える。怯えだと言い聞かせたかった。けれど自尊心が、この相手に怯える事を許しはしなかった。指が肌を撫でて行く。どこか冷たい光を宿した日本の目が、下からベラルーシの瞳を射抜いた。日本の爪がガーターベルトを引っ掛けて、戯れに弾かれる。
 くす、と甘く笑みがこぼれるのを聞いた。
「……駄目ですよ。脱がなくては」
 自分で脱ぐのが嫌だと言い張るから、脱がして差し上げましょうと、そう言ったでしょう。柔らかに響く声は全く事実を指摘していたが、だからと言ってこれはない、とベラルーシは熱に浮かされた頭を持て余しながら思う。大体その最初の選択肢だって、日本の見ている前で電線したストッキングを脱ぐのが嫌だ、と言っただけなのだ。そもそもの意味が違う。反論しようと唇を開きかけると、カリ、と爪が肌を引っ掻いて行く。
 びく、と体が震えた。
「ぁ……!」
 怜悧に輝く瞳が、あさましい反応を見つめている。ぞくぞくするような興奮は上手に奥に隠されてしまっていて、ベラルーシの望むような表面には決して浮かび上がって来なかった。くす、くすくす。囁くように笑いながら指先が留め具を外し、ストッキングに引っ掛けられ、ゆっくりと脱がされて行く。太ももから、爪先へ。肌を、指が辿って行く。ゆっくり、ゆっくりと。情事と全く、同じ動きで。
「へ……変っ、態!」
 息を吸い込みながらの罵倒に、日本がゆるりと微笑みを浮かべる。なにをまあ可愛らしいことを、と思っている表情だった。すっと優美な動きで日本の腕が動かされ、ベラルーシの片足からストッキングが抜き去られる。衣擦れの音を立てて、それは床に落とされた。甘く、息が、弾む。
「……スカート」
 押さえなくていいんですか、と。笑いながら日本が囁く。見えますよ、という囁きは声にはならず唇だけで告げられて、ベラルーシの頬にさっと朱が散った。悔しさに唇を噛みながら太ももの間に手をやってスカートを押さえると、日本はまた、喉を震わせてさえずるように笑う。座っている椅子が軋んだ。ベラルーシの手を上から押さえこむように、日本の手が重ねられる。もう片方の手は、脱がされていないストッキングにかけられて。
 すぐ近くで、視線が重ねられる。逃げることも、意識を反らすことも叶わないまま、指がゆっくりと肌を辿って行く。かすかな音を立てて、床に布が落とされる。くすくすくす、と日本は笑った。



 ドレスと指先

 どうして鍵編みの棒など持っていたのか、と聞くのは時間と言葉の無駄だ。どうせ『なにかあった時の為に』としか答えない男は、事前にベラルーシの着るドレスを調べてトラブルに備えて居てくれたのだとしても、それを少女に告げることなど決してしないのだから。そういう所に、悔しい、と思う。きゅうと眉を寄せた気配を、視線を向けずとも察したのだろう。腕を覆う繊細なレース生地に視線を落としたまま、日本が笑った。
「もうすこしですから、ね?」
「……ん」
 動けない、身動きもしにくい、という理由で眉を寄せたのではないのだが、そう理解したのなら誤解は解かないで置く。ベラルーシは長椅子に腰かけたままで片腕を日本に預け、ぼんやりと着ているドレスを見下ろした。袖口と襟元だけが白く、あとは濃淡を変えたレース生地で出来た繊細なドレス。そもそも、しとやかな少女が着るような生地だ、とベラルーシは思う。生地を柱のささくれに引っ掛けて破いてしまわないような。
 日本は長椅子に横に腰かけたまま、慎重に腕と指先を動かしてレースの補修をしてくれていた。よく見れば、ほんの僅か色の違う糸が千切れたレース糸を結びつけながら、新しい目をくくって一枚の布へと戻している。迷いなく、修繕の手は止まらない。ベラルーシの肌に糸を擦れさせもしないまま、服が再生していく。
「……く、て」
 ほどなく、作業が終わった。余り糸を生地に馴染ませて編み込んでしまいながら、日本は視線をベラルーシの腕から上げないままで呟く。聞き取れなかったと問い返す前に、伸びてきた腕が少女の腰を強引に抱き寄せた。そのまま、力が込められる。柔らかく骨が軋んだ。
「ちょ……っ、にほ」
「怪我が、なくて。……本当によかった」
 腕に。そう呟いてベラルーシの肩に顔を伏せて息を吐く日本は、少女の体を開放してやる意図などないらしい。嫌そうに身じろぎする仕草を上手く封じて、温かな手がぽんぽん、と背を撫でてくる。良いからここで落ち着いてしまいなさい、と囁くようだ。がっちりと腰を捕らえ、背にも回った腕から逃げる術をベラルーシは持てない。がくっと脱力して体を預ければ、耳元で響くのは満足げな笑み。
「そうだ。よくお似合いですよ、ドレス」
「……思い出したように褒められて、喜ぶと思うか?」
 呆れながら呟くと、それもそうですね、とクスリと笑われるから腹立たしい。背をばしばし平手で叩くと痛いですよ、とくすぐったそうに笑われて、捕らえていた腕がするりと解ける。それを逃さず長椅子から飛び去るベラルーシをゆったりと眺め、日本もまた、立ち上がった。今宵の会は、もうすこしだけ続く。戻らなければ行けないことは、分かっていた。
「ベラルーシ」
 手を差し出す。エスコートを求める仕草に、ベラルーシは警戒と疑念でいっぱいの表情でじりじりと距離をつめて来た。すこしでも恥じらいが混じっていれば、まだ可愛らしかったものを。溜息をつきながら待つ日本のてのひらに、ちょこん、と触れる整えられた爪先。パールのような光沢がある、綺麗な爪のかたち。震えながら、弱く皮膚を引っ掻いて行く。トン、と手を跳ね上げれば、ちょうど爪先が唇の高さまで持ち上げられた。
 ベラルーシが、息を飲んだ。
「にっ……!」
「ん?」
「な……た、食べるな齧るな舐めっ……!」
 日本は案外甘くはないですね、と平然と呟きながら唇で食み、舌で指を押しだす。可哀想なくらいぎこちなく動けなくなってしまった少女を見つめながら、爪と皮膚の間に歯を立てれば押し殺した悲鳴が空気を震わせた。目を細めて、笑う。
「なにもしやしませんよ。戻らなければいけないんですから」
「し……してる! してるだろ、十分!」
「おや」
 くすくす、と笑って日本はベラルーシの手を握り、扉を押し開きながら首を傾げる。
「この程度で」
「……もう絶対に今日お前の傍には行かない。近付かないでどっか行ってろ」
 ぶんぶんと腕を振るのは、握られてしまった手を離したいからだろう。心底嫌そうな顔つきで呟かれるのに、日本はいいですけどね、と溜息をついた。
「日付が変われば良いのでしょうし」
「そんなこと一言も言ってない」
「……あなたが、私の傍に来ればいいのでしょうし」
 楽しみですねえ、とのんびり言って歩き出す日本に茫然とついて行きながら、ベラルーシは綺麗に補修された袖を見る。はっと気が付いて、ベラルーシは楽しくない、と叫んだ。ゆる、と微笑む唇に嫌な予感が背を抜ける。時間を思い出す。どこかで十二回、鐘の音が鳴った。



  日→ベラ 未だ恋にならない二人

 ある程度、予想していたことだった。日本は会議場へ続いて行く回廊の途中で足を止め、視線を通路の中程から壁際へと移動させる。仮面のような緩い笑みは好意的に受け止められることすらなく、叩き返すように睨みが向けられた。音すらしそうな敵意。視線一つで、苛立ちが伝わってくる。少女の透き通るような紫の瞳に、宿っているのは憎悪に似た激情だけだった。それは全て日本に向けられ、日本だけが瞳に映っている。
 大変、満足だ。ゆるりと本物の笑みに綻ぶ口元を自制せず、日本はカツリと靴音を響かせて一歩を踏み出す。少女との距離は互いの姿を認識するには十分で、それでいて会話をするには不向きなものだった。足音を立てて、日本は少女に近付いて行く。少女は拒絶感を瞳に張り巡らせながら、立ち向かうように脚に力を込めて壁に背を預け、立っていた。カン、と踵を叩きつけて足を止める。真正面に体を置いて、微笑んだ。
「どうしました、ベラルーシさん」
「……よくも」
 ベラルーシ。少女の、赤い花弁色の唇がゆっくりと動く。凍りついた美しすぎる人形が、言葉を発することで、憎悪に身を焼くことで命を体内にかけ巡らせていく。そうさせているのは、日本だった。その事実で、ぞくぞくと背が焼ける。
「よくも、私と兄さんの邪魔を」
 瞳に力が籠る。そこに込めた意思で日本を刺し貫きたがるような、明確な敵意が向けられる。ぞく、と背が震えて日本は微笑んだ。怖くはない。否、怖さを感じていない訳ではない。それすら、一種の喜びだと感じてしまうだけなのだ。喜怒哀楽、その全てにおいて感情を浮かべることのすくない少女が、これほどまでに意思を叩きつける相手は他にいないだろう。『兄』ですら、知らぬに違いない。知っていても、分かるかどうか。
 『これ』は、少女のこころだった。混じり気のない純粋な、少女のこころそのものだった。なにがおかしい、と不愉快げに眉を寄せるベラルーシを見つめ、日本はいいえ、とゆるく首を傾げる。花のにおいがした。冬に咲く甘い花の。白く青く透明で清らかな。摘み取ってしまおうか。あるいは、踏み躙って穢してしまおうか。誰も気がつく前に、それを閉じ込めてしまいたい。
「ロシアさんは、そう思われてはいなかったようですが」
 邪魔であれば邪魔、とはきと言うあの方は、私になにも言わなかったではありませんか。そっと囁く日本の目の前で、ベラルーシの頬にさぁっと鮮やかな朱が散って行く。怒りの赤だ。なんとまあ可愛らしい、と日本は目を細めてそれを愛で、頬を張り飛ばそうとした手を、避けもせずに受け止める。頬が鳴った。ベラルーシはぎょっと目を見開き、あ、と一声発し、逃げたがるように壁に背を押しつけた。しかし、逃げられる訳がない。
 背後は壁。前には日本。二人を隔てる空間の距離は、あまりに狭く息苦しい。そうなるように、日本は立ち止まった。そのことにまだ、ベラルーシは気が付かない。気が付かないで居れば、それでいい。じんと痺れて痛みを発する頬をそのままに、日本はゆる、と唇だけで微笑む。怯えればいい。怖がってしまえば良い。指に触れた人の肌は、温かく柔らかかっただろう。ぬくもりを忘れた少女が、そうして思い出せばそれでいい。
 カタカタと震える、少女の視線を絡め取る。
「……無抵抗で受けたことが、そんなに怖いですか」
「っ……!」
 お前、とも。なんで、とも。胸の中では言葉が渦巻いているだろうに、ベラルーシの唇は大きく息を吸い込んだだけで声を生み出しはしなかった。もったいない、と日本は思う。こんなに感情で乱れた状態で、発される声こそ甘露だろうに。
「別に、大した意図などありませんよ。安心なさい」
「お前……なん、て」
 嫌いだ、とベラルーシは吐き捨てる。おやおや、と日本は呆れ交じりの愛しさで、その言葉を受け入れた。
「はいはい、知っておりますよ。貴女に取って、未だに私は『悪』ですものね……ベラルーシさん」
 拒絶されないことが、少女には受け止めきれない。混乱を塗りたくった瞳をぎゅぅと閉じ、首を振ってベラルーシは絶叫する。
「嫌い! ……嫌い、嫌い、大嫌いだ! お前なんかっ、お前なんか……!」
 再び頬を張ろうとして動くのを今度は許さず、日本はベラルーシの手首を掴んでそれを止めさせた。ほ、と安堵に力が緩んだのを、ベラルーシはきっと自覚できないままなのだろう。意思を受け止められないことが、ベラルーシの平常だ。拒絶されることが日常。日本はきゅぅ、と眉を寄せた。息苦しい。少女の全てを、彼の『兄』が支配している。支配されている。この美しい少女は、あの『兄』のものなのだ。いくら否定しようと。
 いくら、本人がそれを受け入れ無かろうと。ベラルーシは『兄』に支配されている。だからこそ、それを求めるのだ。離せ、と眉を寄せて手首の指を外そうとするベラルーシに、日本はゆるく息を吐く。
「すこしは」
 私の気持ちも、知りなさい。囁いて、日本は身を屈める。冬に咲く甘い花。白く青く透明で清らかな。摘みとってしまおうか、踏み躙ってしまおうか、穢してしまおうか、閉じ込めてしまおうか。咲かせて、しまおうか。この手の中で。
「ん……んんっ!」
 触れた薄い皮膚の向こう、びくりと少女の体が跳ねる。呼吸の為に薄く開いた唇を舌先で舐め、日本はゆるく首を傾げた。
「……息、止めてましたか?」
「な……」
「鼻で息すればいいんですよ。……ほら、暴れないで。良い子になさい」
 手首を壁に縫いとめる。見上げる瞳が、揺ら揺らと日本を映し出す。意識の片隅にすら、兄の姿は残っていないだろう。ああ、と日本はゆるく微笑む。少女は今、目の前に居る男のことしか考えられないに違いない。日本のことしか、意識にはないだろう。どんな感情であれ、それでよかった。日本は身を屈め、ベラルーシの唇を吐息で濡らす。
「……かわいいひと」
 満足、だった。



 うそつきつつき

 深く触れ合うだけの時間がないので口付けだけで我慢しますだから抵抗したら押さえ付けてでもしますのでそのおつもりで、と言った『日本』を殴らなかった自分は心底偉い、と『ベラルーシ』は思った。お前久しぶりに恋人に会って第一声がそれか、会いたかったですとかお久しぶりですとか、体調はいかがお過ごしでしたかとかではなくそれか、と思わなくもない。思わなくもないがしかし、それくらい切羽詰まって求められるのも悪い気分ではないのだ。良い気分でもないが。
 カチ、と音を立てて柱時計が針を動かす。それを『ベラルーシ』は薄く開いた瞳に映る、ぼんやりとした世界の隅で見た。会議開始まで、あと十分もない。ふふ、と笑う吐息が唇のすぐ傍で肌を掠める。ちゅ、と音がしてまた唇を盗まれた。
「も……駄目だ、ばか……!」
「大丈夫ですよ。五分前くらいまで」
 いつも十五分前に会議室の椅子に座ってるのはどこの誰だっ、と『ベラルーシ』は心の中で『日本』を罵倒した。そんな、五分前程度の入室で安心できないくらい時間に厳密に動きたがる性格をしているくせに。なんで今日に限ってそんなに頑固なのか分からなかった。頑固な性格をしているのは十分に分かっていたが、それにしても、こんなに離してくれないのも珍しい。
 ぐったりと脱力してしまった『ベラルーシ』の腰をがっちりと抱き寄せながら、『日本』はまた少女に顔を寄せ、そっと重ねるだけの口付けをする。『ベラルーシ』は眩暈がした。甘くしびれた腕を持ち上げて、『日本』の胸を押しやる。会議に行くって言ってるだろう、と吐き捨てれば、おやおやと困ったように『日本』は笑う。まるで聞き分けのないこどもの我がままを聞かされた、親か教師のようだった。
「抵抗したら押さえ付けてでもしますよ、と言ったでしょうに」
「今日のお前は絶対おかしい!」
「理由は貴女にありますから考えてくださいね」
 くすくすと、甘く緩む笑い声を響かせた囁きに、『ベラルーシ』は訝しく眉を寄せた。不機嫌故に強引になっているのではなさそうだった。過去幾度もあった、『日本』の身勝手な嫉妬故の口付けであるなら、こんなにも機嫌が良い訳がない。『ベラルーシ』はカチリと音を立てて進んだ長針を睨みながら、『日本』が口付けしたがり理由を考えてみた。十秒考えて分からなかったので、結論は一つだ。
「吐け。どんな理由だ……!」
「……もっと可愛く言ってくだされば考えたのですが」
 ああでも貴方が教えてお願いとか言い出したら私多分現実逃避しますねえ、と溜息をついて。『日本』は名残惜しそうに『ベラルーシ』の瞼に唇を押し当て、抱きしめていた少女の体を開放してやった。即座に飛び退いて距離をとり、『ベラルーシ』は散々に触れられた唇に手を伸ばす。何回されたか数えられない。覚えてもいられないくらい口付けられた唇は、じんじんと未だ甘く痺れてしまっていた。
「……先に行って座ってろ。私は後から行く」
「おや、歩けないくらい気持ち良かったで……冗談ですから銃はしまいなさい」
 どうやって入口のセキュリティチェックを潜り抜けたんですか、と呆れに目を細める『日本』は、銃口を向けられている危機感がなかった。お前私に撃たれるとか思ってないだろう、と真剣に睨みつけてやれば、『日本』はくすりと肩を震わせて告げる。思っていないこともありませんけれど。
「本気なら、もう撃ってるでしょう?」
 どうして私はこんな性格悪いのが好きなんだろう、と『ベラルーシ』は真剣に考えた。考えてやがてよし兄さんと結婚しようそうすれば全てが解決する、と思った所で、またカチリと時計の針が進む。会議開始五分前。議場に、重く鐘の音が響く。全館放送の音声である。本物の鐘の音ではないものの、それはそれなりに身を引き締め、心を挑ませるだけの力を持っていた。扉の向こうでざわめきが増す。
 各々時間を潰していた『国』たちが、会議場へ向かうざわめきだった。『日本』も『ベラルーシ』も、同じく向かわなければ。連れ込まれた空き部屋からどうやって人目につかないように廊下に出るかを考えつつ、『ベラルーシ』は視線をあげて『日本』を睨む。『日本』はごく穏やかに、楽しげに微笑んだ。
「なにか?」
「お前……今日の会議に出たくないんだな?」
「なぜ?」
 断定系の質問にも、『日本』は楽しげに笑うばかりだった。針の進む音がする。もう開始時刻まで間もないというのに、『日本』に慌てるそぶりが見られない。その態度がなによりの証拠だと思いつつ、『ベラルーシ』はきっぱりと言い切った。
「お前が、私が本当に困ることをする訳がない」
 この部屋は会議場に向かう最後の廊下の途中にある。そんな危ない場所にあるのだから、出る時は必ず誰かに見咎められてしまうだろう。別に二人が付き合っていることを隠している訳ではないが、仕事の前に恋人と二人きりで居たなど、ラテンの国々でもあるまいに、『日本』が歓迎する訳もない。『ベラルーシ』も、基本的にはそういうことは嫌いな部類だ。ならば、『日本』がそれをさせる訳もない。
 そうだろう、と言葉で詰め寄る『ベラルーシ』に、『日本』はゆるく微笑んだ。
「そうですね。でも今回は……すこし、違います」
「どういう……」
『ア・メ・リ・カーっ!』
 怒りで議場が揺れる程の大絶叫は、『イギリス』のものだった。元養い子の横暴に切れることは多々あれど、ここまで怒っていることも珍しい。ぎょっとして耳を傾けてしまう『ベラルーシ』に、『日本』は訳知り顔でくすりと笑うばかりだ。やがて、議場の扉が音高く開く音がする。たくさんの足音が扉の前を通り過ぎ、やがて遠くへ消えて行った。十分もすればしん、と静寂がやってくる。
「……は?」
「三十分前に『アメリカ』さんからメールを頂いていたのですが、ご覧になりますか?」
 『イギリス』さんの怒りと大移動の理由が分かると思いますけれど、と笑いながら、『日本』は茫然とする少女に携帯電話を差し出した。反射的に受け取って画面に視線を下ろし、『ベラルーシ』は思わず額に手を押し当てた。そうせざるを得なかった。
「会議場の……変更の知らせを……三十分前……っ!」
「知らせておいてくれよ! と言われましてもねぇ……さすがに言った私が怒られるようなお願い事は聞きたくありませんので。直前になれば他の誰かにも連絡が飛ぶでしょうし、これは『イギリス』さんにキツく叱りつけて頂こうかな、と」
 つまりはそういうことでした。朗らかに笑った『日本』は部屋を横断し、廊下に続く扉を開け放つ。右を見て左を見て誰もいないことを確認した『日本』は、微笑みながら少女に手を差し出した。
「さ、私たちも行きましょう。今から移動すれば間にますよ」
 到着してもまだお説教されているでしょうし、と笑う『日本』と手を繋いでやりながら、『ベラルーシ』はふと疑問を口に乗せた。
「……お前さっき、私のせいでとかなんとか言ってなかったか?」
「ああ」
 素直に繋ぎあわされた手が、よほど嬉しいのだろう。口元に引き寄せてそっと唇を押し当てながら、日本は悪びれずに言った。
「すみません嘘です」
 銃で撃たずに殴るだけで済ませた自分は本当に偉い、と『ベラルーシ』は思った。

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